第86話 動けるようになったらきっと
「ケルベロス君の背中に乗っていけば、あっという間だと思うんです」
「駄目だ」
「知らないんですか、先生? 世界には、可愛い子には旅をさせろという名言があるんです」
「ほう、どこに可愛い子がいるんだ?」
「目の前です」
「服が皺になる。放せ」
「厭です」
そんな会話を俺がリカルド先生と向かい合ってやっていると、背後から「ちっ」という舌打ちが聞こえた。
振り返ると淫乱ピンクである。可愛らしい笑顔で、ちょっとだけ小首を傾げるような仕草をしている彼女は、さすがリカルド先生の前だけあってヒロイン然としている。
「舌打ちしました?」
俺が眉を顰めると、彼女は数冊の本を抱きかかえ、近くのテーブルの上に置いて可愛らしい声で言った。
「図書室って静かにする場所ってイメージがありましたが、違うんですねー」
ファルネーゼの王城にある図書室は、確かに広いし静かだ。見上げれば高い――というか、高すぎる天井。その壁一面に本棚があり、ぎっしりと本が並んでいる様子は圧巻だ。三階建てくらいの空間が吹き抜けとなっており、階段を上って二階、三階フロアへと行く感じ。
先生曰く、この図書館には王族しか入れない隠し部屋もあるんだとか。流出が許されない凄い書物がそこには眠っているようで、魔道具制作に関してのヤバいものもあるとか何とか。
こっそり入りたいなあ、とか考えていたら淫乱ピンクが笑顔で言った。
「王族になれば入れるんですよねー? リヴィア、すぐ入れるじゃない?」
「あっ」
そうか、俺はリカルド先生の婚約者だった!
と、急に思い出してニヤリとしたが、あれ、結婚しなきゃ入れないんじゃね? と遠い目をする羽目になる。婚約しているのはいい感じに男避けになるが、そのまま結婚したら駄目だろ。まだ俺は美少女相手に恋仲になるのを諦めきれてはいないんだから。
「お前、考えていることが全部顔に出ているんだが」
リカルド先生が渋い顔をして額に手を置く。
すみませんね、根が正直で!
「それより先生? オスカル殿下のその後はいかがですか?」
本を読む手をいったん止めて、淫乱ピンクが先生に視線を投げた。ヴィヴィアンの表情は素直にオスカル殿下を気遣うようなものが感じられる。
一瞬だけ先生は警戒するようにヴィヴィアンを見つめたものの、ふと彼女から視線を逸らして首を横に振った。
「芳しくはない。あの呪具がどんな作用をしたのか解らないが、一歩間違えば死んでいた可能性もあったんだから仕方ないとも言える」
「体調もですが、精神的には……?」
「それを聞いてどうする?」
そこで、明確な拒否の感情が先生の声に混じった。俺には向けたことのない、完全に冷えた双眸がヴィヴィアンに向かう。それに気づいた彼女が、じわじわと顔色を失っていくのも解った。
「いえ。オスカル殿下は……先生の前では強がってしまうだろうな、と思って」
「あいつの……殿下のことをよく知っているようだ。どれだけ一緒にいた?」
探るような視線を受け止め、ヴィヴィアンは言葉を探しながら続ける。
「よく知ってなどいません。だから、結局わたしには救えなかったんですよ。多分、オスカル殿下を助けられるのは先生だけ」
「は」
明らかに馬鹿にしたような笑い声を上げた先生だが、その目には怒りが混じっている。淫乱ピンクを完全に敵として見ている目。
それでもやっぱり、淫乱ピンクは真剣な表情を崩さなかった。珍しく真面目だ。
「だって、オスカル殿下が欲しかったのは家族の愛情でしょう? 母親……王妃様に苦しめられて、助けを求めていたんです」
「ヴィヴィアン・カルボネラ」
そこで、リカルド先生が彼女の手の中にあった本を取り上げ、乱暴に閉じる。そして、まさに睥睨という言葉が似合う目で椅子に座った彼女を見下ろした。
「君はその殿下を利用しようとした。今更、何を言いたい? 君も弟を苦しめた人間の一人だ」
「否定はしません。でも」
「もういい、黙っていてくれ」
先生は本をテーブルの上に乱暴に置いた。
うん、大人げない。
こういうとこ、リカルド先生がリカちゃんと呼ばれる所以かもしれない。だからじいさんは先生を子ども扱いするんじゃないのかねえ。
先生が苛立ちの表情を隠そうともせず、図書室から出て行こうとする。俺は悩んだものの、淫乱ピンクより先生の傍にいることを選んだ。その背中を追って俺も歩き出すと、背後から淫乱ピンクは静かに声をかけてくる。
「リヴィアと一緒にいるのは楽しいでしょうけど、殿下から目を離すのは今は駄目かもしれませんよ? わたしだったら、動けるようになったらきっと……」
動けるようになったらきっと?
一瞬だけ先生の足が止まった気がするが、やっぱり足早に扉を開けて出て行ってしまう。まさか、淫乱ピンクを前に逃げるかのように。
大きな窓が並ぶ廊下に出ると、さっきまでの剣呑な空気が消えて平和な時間が戻ってきた気がした。先生はそのまままっすぐ歩き、唐突に足をとめて窓の外を見てため息をつく。
「何だ、あれは」
俺に言っているのか、それとも自問自答か?
とりあえず、俺は先生の横に立って窓の外、平和な中庭を見下ろした。グラマンティ学園の中庭よりずっと、整備された花壇、植木。
「開き直ってますね、ヴィヴィアン様」
俺は言葉を探す。何だか今までとヴィヴィアンの様子が違うのも気にかかる。
「でも、確かにオスカル殿下の様子は気になりますよ。ちゃんと殿下とお話しできてます?」
「……拒否されている。これでも努力はしているんだが、あいつは頑なだ」
認めたくはないが、と言いたげに苦笑する先生の横顔は、珍しく弱々しさを感じさせた。
「でも、そこで引いたら負けじゃないですか? あの緑色の兄妹が来てしまったら、オスカル殿下どころじゃなくなるでしょうし、今のうちに当たって砕けてきてください」
「砕けてどうする」
「わたしは前世でぶつかることすらできないまま砕け散って、後悔しか残ってないですし。ここで放置して、世を儚んだ殿下が自殺しちゃったらどうするつもりですか?」
「お前……」
そこで先生が呆れた顔で俺を見た。
でも、あり得るんじゃないのかな、と思うけど。
王族であるという立場で魔力を失って、もしかしたら――王位継承者でい続けることも難しいんじゃないのかなって考えると。
「でも、自殺はしないと思うが。あいつは今、必死に歩けるように努力している。医者の言われるままに薬もきちんと飲むし、食欲も少しずつ戻ってきている。死のうと思っている奴が、そんな努力はしないだろう」
「でも、先生とは仲良くなれていないんですよね? もうちょっと頑張りましょうよ」
「軽く言うがな、お前」
「問題児のヴィヴィアン様はわたしが見張っておきますから、心置きなく弟さんと夕日をバックに殴り合いの喧嘩をして、最終的には『お前もやるな』って言えばいいじゃないですか」
そこで先生の眉間に皺が寄る。
で、すげえ残念なものを見るような目で見られた。
失敬な!
でも、ヴィヴィアンが危惧していることも理解できるからなあ。
俺は先生の肩をばしばし叩いて発破をかけた後、また図書室に戻ったのだ。淫乱ピンクもあれで目を離すと何をするか解らないし。
とりあえず、森たちが帰ってくるまでの間、何も起きませんように、と祈ることにした。
それと、アイテム回収できる場所をもっと確認しておかねば!
グラマンティへ帰る途中で、寄り道できそうな場所をチェックである。
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