第78話 幕間 11 オスカル
――失敗した。
僕はベッドに横になり、天井を見上げながらぼんやりと考える。
今、自分の中は酷く空虚だ。絶望を感じるとかでもなく、何もかもが曖昧なのだ。
兄を陥れようと思った。どうせ兄は僕を憎んでいるし、そんな相手を殺すことには躊躇いなどない。
ヴィヴィアンもただの道具であり、呪具の餌にしてもいいほど醜い人間だ。その利己的な考え方は僕を見ているようで吐き気すらした。
しかし、こうしてみるとどうして自分があれほど兄を憎んでいたのか不思議だとも思う。憎む理由はどこにあったのだろうか。あの憎悪も呪具に無理やり引きずり出されたもので、本当は違ったんだろうか。
――兄は城の人間から慕われている。
――兄は僕より優秀で、グラマンティ学園でも名前が知られている。
それは嫉妬であり、憧れでもあった。彼のようになりたかった。
――あの売女の息子に負けては駄目よ。
――あなたの方がずっと優秀なのよ。
それは母の言葉。何度も繰り返し言われることで、毒のように僕を侵食していった呪いの言葉だ。
兄は幼い頃、彼の母親とよく談笑しているのが見られた。兄によく似た美しくて優しそうな女性。その声も美しかった。僕の母とは違って、誰からも好かれる笑顔を持っていた。
何で僕は、彼女から生まれなかったのだろう。
僕の母親があの化け物でなければ、今頃は仲の良い兄弟としていられたのかもしれない。兄と笑いあう現在があったのかもしれない。
そんなことは考えても無駄なのだけれど。
どんなに願っても、僕の母親はあの狂人であって変えられないのだ。兄の母をあの女が毒殺したことも、事実なのだから。
のろのろと左手を上げると、そこには呪具のない細い腕があった。いつも重いと感じていた左腕は、とても軽い。そこから生まれていたはずの力はもうなくて、無力な自分だけが残った。
あれほど欲しかった力。母に言われるままに王位を継いで、母の望む世界を作りたいと思った過去。母の願いを叶えれば、あの狂人も少しは落ち着いて僕も楽に生きられる。もっと自由に呼吸ができるはずだった。
自分の部屋の中には、召使が二人控えている。だから、勝手に動き回ることはできないだろう。それ以上に、体力的に歩けそうにない。
あれほどあった膨大な魔力も、今は僕の身体のどこを探しても感じられない。呪具が壊れた瞬間に、魔力ごと持っていかれたのだろう。
どちらにせよ、魔力のない僕は王家の人間として何の価値もない。
ベッドの脇にあるサイドテーブルには、薬湯が置いてある。それを飲んで体力は回復しても、きっと失ってしまった魔力は戻らない。
さっきまで部屋にいた医者は、優しい表情で色々言っていたが、その内容はほとんど頭の中を素通りしていた。兄も僕を気遣うように話しかけてくれたが、その顔を見ることはできなかった。
久しぶりに感じた、後ろめたいという感情。
兄に謝罪をしなくてはいけないという胸の痛み。
大丈夫だ、タイミングはある。召使が部屋から消えて、僕が少しでも歩けるようであれば、バルコニーの柵を飛び越えるくらいの勇気は持ち合わせている。
僕が死ねば、否応もなく兄はこの国に戻されるだろう。
兄の手には、新しく手に入れたのだろう神具がある。父の持っている神具、『沈黙の盾』と合わせればこの国の軍事力は高まるのは間違いない。
だから、大丈夫だ。
僕がいなくても、この国は回っていく。
ふと、部屋の空気が乱れたのを感じた。耳をすませば、この寝室の隣の部屋、ドアの辺りで誰かが話をしているらしい気配があった。
そして、慌てるような召使の声。
その直後。
「大丈夫よ、あなたたちは下がりなさい」
という、聞きたくもない声が続いて、見たくもない顔が僕の寝室のドアを開けて入ってきた。
痩せて歩くこともままならない彼女は、今は杖をついて必死に身体を支えている。
召使が彼女――母の身体を支えようとしたが、それを振り払って少しずつ僕に近寄った。
「……母上」
掠れた僕の声に、母は珍しく力のない笑みを返した。
彼女はどうしてもこの場に残りたい様子を見せている召使を手で追いやって、ドアを閉めさせる。それから、ベッドの近くの椅子に腰を下ろして、深いため息をついた。
すっかり白髪になってしまった長い髪を綺麗にまとめ、化粧もきちんとしているが、年齢よりもずっと老けてみえる。顔に刻まれた皺は深く、彼女の気難し気な顔立ちを際立たせていた。
「失敗したみたいね?」
「……申し訳ありません」
僕は身体を起こそうとしたが、どうやっても腹に力が入らなかった。そんな僕を見下ろした彼女は、少しだけ居心地悪そうに辺りを見回した。僕たちの他には誰もいない、空虚な部屋だ。家具だけは立派だが、そこに暮らす僕の価値は限りなく低いだろう。
「この部屋にくるのも久しぶりだわ」
「……何かお話が?」
「そうね」
ふと、彼女はそこで笑みを消した。母の肩に力が入り、それが何かに対する緊張感だと読み取って困惑する。
ほとんど自室から出てこない母が、わざわざここまで足を運んだ理由は何だろうか。僕を心配して、ということはないだろう。
そう考えてみると、彼女のぎこちない手の動きが示しているものは――。
そこに、遠くからドアをノックする音が聞こえてきて、母がびくりと身体を震わせた。椅子から立ち上がろうとした時、寝室のドアが軽く叩かれる。
「殿下。陛下がお見えです」
「解った」
母がのろのろとした動きで立ち上がり、数歩下がってドアの方へ目を向ける。僕はかろうじて身体を横に回転させ、腕に力を入れて少しだけ身体を起こすことに成功した。
「無理はしなくていい」
そう言いながら入ってきたのは、随分と久しぶりの再会となった父、ファルネーゼの国王陛下である。
母より年下とはいえ、実年齢よりずっと若々しく見える美丈夫。細身で長身、黒い髪と黒い瞳。しかしいつも、僕らを見る目は厳しかった。
今も昔と同じ――いや、今の方がずっと厳しい目つきだと言える。僕がやったことが伝わっているのだろうから、当然だろうが。
「申し訳ありません、父上」
何とか両腕で身体を支えつつ、首だけを捻って父を見上げる。「いかようにも処分は受けます」
「当然だ」
ため息交じりにそう言った父の少し後ろには、久しぶりに見た神具の女性がいた。銀髪と赤い瞳の美女、動きやすそうな男物の服に身を包んだ『沈黙の盾』だ。防御に特化した彼女は、あらゆる攻撃も跳ねのける。
沈黙と呼ばれる通り、彼女は全く言葉を発しない。呼吸すらしているのか危ぶむほどに静かだ。兄が手に入れたリヴィアという神具とは全く違う。
主従契約を結んだ父の命令だけを聞く彼女は、いつか王位に就いた人間と契約をし直すだろう。
少し前までは、自分が遠くない未来にもらい受けるのだと思っていた。
だが、もうそれはない。
父はやがて言った。
「お前の客人は客室に案内してある。この様子だと、お前は接待などできないだろう。リカルドに任せるがいいな?」
「もちろんです」
父は低い声で僕にそう言った後、ベッドの脇に静かに立っている母へ目をやった。それから、おもむろに彼女に近づいて、杖を突いた手を捻り上げる。
「何を!」
痛みに悲鳴を上げた彼女の足元に、どこに隠していたのか、ごとりと鈍い音を立てて煌びやかな彫刻の施された短剣が転がった。母のぎこちない手の動きからして、そんなことだろうと思っていた。
呪具を失った僕を、口封じに殺すつもりだった。
僕という存在は、やはり母にとっても大した価値はなかったということだ。
「これは何だ?」
父は母の腕を解放し、短剣を拾い上げて眉根を寄せた。母はバランスを崩して床に倒れ込み、父に対して小さく悪態を呟いている。いつもながら醜悪な姿だ。
「仕方あるまい。我が妃とはいえ、そのような身体だからまともに動けないだろうと考えていた私の不手際だ。療養のために、今後は離宮へと行ってもらうことにしよう。国の外れの田舎だが、平穏な場所だ」
「何ですって?」
母はそこで顔を上げ、憎しみに満ちた目で嘲笑する。「邪魔者は隔離して、好きなことをやろうというのかしら? 次はどこから売女を引き入れるつもり?」
「もういい。お前も離宮の中でだけなら、好きなことをしていい。その方がお互い、心安らかに暮らせるだろう」
「はあ?」
知っていた。父は母を愛していない。本当に愛していたのは兄の母だけだ。
だからこそ、目の前の狂人は父の憎しみの対象だ。
それを認められない母も哀れだと思うが、父ももう少し、やりようがあったのではないかと思う。
それでも――。
「オスカル」
父は、怒りのあまり過呼吸になりつつある母を放置して、僕を見た。「夏休みの間に、お前の処分も考えたい。そのためには、早くベッドから起きられるように努力しなさい」
「はい」
僕はそう応えながら、僕の最期の役目を決めたのだ。
どうせ僕は死ぬつもりなのだから、母を道連れにしていった方が父も安心だろう。醜聞は父が上手く隠してくれるだろうし、兄が王位を継いだ方が父も喜ぶ。
そうすれば、全て丸く収まるのだ。
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