第71話 呪具は道具だ
完全にオスカル殿下は自我というものが消えているらしい。
黒い剣に操られるように、その小柄な身体が跳躍する。こちらに攻撃が繰り出されるたびに避け続けていると、身体がそれに慣れる。余裕が生まれる。
そして、お互いの剣がぶつかって魔力の火花が散った。
『面白い』
「笑ってる場合じゃありませんよ?」
俺と殿下の顔がすぐ近くにある。
魔力で輝く剣の刃もすぐ目の前でお互いの攻撃を受け止めていた。
『神具だというのに自我がはっきりしているのだな』
「お互い様ですよね? 呪具というものは人格があるのですか?」
俺の剣が力任せに押し返され、それぞれ後方に下がって間合いを測る。オスカル殿下はゆらりと身体を左右に揺らしつつも、剣を握り直す。
俺だって負けていられない。わざと相手を誘うように、剣を少しだけ下げた。隙を作ったと錯覚してもらえるように、笑顔のまま、静かに息を吐く。
だが、相手は俺の誘いには乗らず、唇を歪めるようにして笑った。
すげえわくわくする。
こんな危機感溢れる状況だというのに、久しぶりに超楽しい。
『呪具に人格などない』
彼はそう言いながら、人間離れした速度でまた剣を突き出してくる。その剣先を俺の剣で跳ね上げるも、すぐに次の攻撃。俺の顔の横をかすめた剣が空気を切り裂く音を立てた。
お互いの身体が宙を舞う。
俺は魔法書も左手の上に出し、炎の攻撃魔法を開始させると、呪具は驚いたように声を上げて笑った。
『は、は! お前、本当に面白い!』
俺が放った炎は殿下の上着の裾を焼いた。だが、すぐに炎は呪具の奇妙な力によって『押しつぶされ』た。呪具も奇妙な魔法を使うようだ。
「人格がないのにおしゃべりですね?」
俺の魔法はそれほど効かないのだろうか。足止めくらいにはなるか、と先ほどの攻撃魔法よりも上級魔法を使う。彼の足元の周りに、ぐるりと炎の蛇が描かれる。そして一気に殿下の身体に巻き付いた。
「リヴィア!」
鋭い声が俺の背後から上がる。
声の主はもちろん、リカルド先生だ。
だが、振り返っている余裕はなかった。
また俺の魔法が無効化された。オスカル殿下の身体は服が焦げたくらいで全くの無傷? マジかよ。
『呪具は道具だ』
彼は埃でも払うかのように軽く服を叩く。『道具は主人に使われるものだ』
「では、主人とは? オスカル殿下、あなたですか?」
『何を言うか。これも道具に過ぎん』
「道具?」
『ああ。お前と同じようなものだ。アンブロシアも神具の餌だろう? こいつも呪具の餌なのだ。神具も呪具も、神か人間が作り出したというだけで、本質は変わらん。力を発揮するためには、どちらも生贄が必要なのだ』
「生贄……」
『お前がアンブロシアを喰ったように、呪具も人間を喰うのだよ』
――アンブロシアを?
俺はふと思い出す。アンブロシアと呼ばれているものは、人格を持たない餌のことだ。
リヴィアは神具としての意志を持っていた。多分、元々のアンブロシアである人間は喰われて消えた。
それを――俺が『喰った』のではなかったか。
だから、目の前にいる奴とはちょっと立場が違う。
俺はゆっくりと足を横に滑らせた。位置を移動し、少しずつ彼の左手が見えるように回り込む。やはりそこから凄まじい魔力が流れ出ているようだ。
彼はその左手首をわざわざ俺に見せつけた。
肌の上に文字が蠢き、まるで生き物のように脈打つ腕。どす黒く染まった腕からは、ぷつぷつと赤黒いものが染み出してきていた。
血だ。
オスカル殿下の眼窩からも、血が流れだして涙のように頬を伝い落ちた。それを血で汚れた指先で払い、ため息をこぼす。
『そろそろこれも限界だ』
「何がですか?」
『魔力を奪い尽くせば、こいつは死ぬだろう』
俺は息を呑む。
そして、おそらくリカルド先生も。
重苦しい沈黙が降りた。
『だが、こいつは生まれた場所も、生んだ女も悪かった。ただ運が悪かっただけの子供だ。そういう意味では同情するが』
「同情?」
『それでも、死ねば楽になれる。そういう意味では、これは救済だよ。そう、神の采配、救済なのだ。主よ、憐れみたまえ、と言うべきか?』
「馬鹿を言うな」
そう言ったのはリカルド先生だ。
視線だけをそっと後ろに投げると、ヴィヴィアンを庇うように魔法を展開しながら、苦し気な表情でオスカル殿下を見つめている顔があった。
「弟はファルネーゼ王国を統治するべき立場の人間だ。ここで殺されるわけにはいかない」
『今更何を言う』
そこで、呪具は構えていた剣を下ろし、疲れたように地面に突き立てる。その柄に手を置きながら、斜に構えて続けた。
『お前が見捨てた子供だ。それを私が拾った。つまり、生かすも殺すも私次第。お前は関係ない』
先生の顔が苦痛に歪んだ。
「何なのよ……」
リカルド先生に守られながら、地面に座り込んだままのヴィヴィアンが泣きそうな声を上げた。混乱し、どうしたらいいのか解らないと言いたげに首を振る。
「こんなの、おかしいわよ。だって、こんなシナリオなかったじゃない? 何なの? 隠しシナリオってやつなの!?」
『ふむ』
ふと、ヴィヴィアンのその声に不思議そうに動きをとめたオスカル殿下は、一歩だけ前に出た。
俺もリカルド先生も戦闘態勢を取り、いつでも攻撃できる姿勢を見せる。
『神に愛されし種族の娘よ、お前は最初から奇妙だった』
「何のことよ!」
『もう少し、頭が良かったらと思う。お前は失敗したのだ』
「だから、何のことよ!」
『もう解っているのではないか? この子供の身体はもう限界だ。だから、私は呪具を回収するつもりで全ての魔力を奪い、逃げるつもりだった。ついでに、美味しそうなお前の魔力もさっき、吸い尽くしてやったのだが……自覚していないのか?』
「魔力……」
ヴィヴィアンがぽかんと口を開け、その言葉を理解しようとした。
そして、のろのろと自分の手を見下ろした。
ぶつぶつと何事か呟き、左手に魔力を集めた――つもりだったのかもしれない。しかし、いつもの彼女とは違って弱々しい魔力が漂い、集まったかと思えば霧散して消えた。
「……魔法書が出てこない……。嘘でしょ? さっきは出てきたのに……」
ヴィヴィアンが慌てて立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らないのか、転びそうになってリカルド先生にしがみつく。
「こんなのおかしい! おかしいよ! だって、わたしはヒロインなんだよ!?」
「落ち着きなさい」
リカルド先生が困ったように彼女の肩に手を置いた。しかし、その手を振り払って、乱れた髪をさらにその白い手で掻き回しつつ叫ぶのだ。
「わたしは! みんなを救うんだよ!? 攻略対象を全員、救ってあげるの! それだけの力があるの! わたしは特別な存在なの!」
『思い上がりだな』
そればかりは、俺も呪具の言葉に頷きそうになった。
そしてつい、言ってしまうのだ。
彼女を追いつめるかもしれないと理解しているのに、どうしても言わずにはいられなかった。
「ヴィヴィアン様。あなただけが特別な人間ではないのです。この世界では、誰だって特別なんです」
「馬鹿にしないでよ、モブのくせに!」
噛みつくように言い返してくる彼女の顔は、とても可愛いとは思えなかった。演技の仮面が剥がれてしまっている。
「だって、あなたの思い通りになりましたか? あなたが願う通りにこの世界の人間は動いてくれましたか? あなたを好きになってくれたんですか?」
「うるさい!」
「あなたの考えた通りに事が運ばなかった時、疑ったりしなかったんですか? ここは、あなたが主人公の世界ではないのだと」
「え?」
ヴィヴィアンは酷く幼さの残る顔で俺を見た。
「誰だって、努力しなければ幸せになれないんです。誰かを罠に嵌めて陥れようとすれば、いつかそれが自分に返ってくるかもしれない世界なんです。何故ならここは、あなたのために作られた世界じゃないから」
「違うわ……」
ヴィヴィアンは虚ろな笑みを浮かべながら首を振る。「この世界は、ゲームの世界なの。シナリオは決まってるの」
「では、今起きていることの結末を言えますか?」
そう俺は訊いたけれど。
返事はなかった。
『未来でも予知していたのか?』
呪具は呆れたようにヴィヴィアンを見つめ、肩を竦める。そして、また剣を地面から引き抜き、俺に顔を向けて笑う。
『どちらにせよ、結末はもう決まっている。私はお前を――神具を喰い、さらに力を得る』
「お断りします」
俺も剣を握り直す。敵を殺せとわめき続けているその剣。
目の前の呪具は、この剣の血と肉を分けた存在。あの幽霊少女の身体の一部でできている、はずだ。
だから、俺が何とかしてやりたい。
「あなたはわたしのことをただの神具だと思っているようですが、わたしはちょっと違うんですよ?」
『どう違う?』
前触れなど感じさせなかった。オスカル殿下の身体が、急に俺の目の前に現れた。俺は突き出される剣を避けたものの、俺の黒いシャツの一部が引き裂かれた。
何だこれ、十八禁展開か?
攻撃を受けるたびに服が少しずつ――なんて展開だったら面白いぞ?
そんなバカなことを考えたのは、少しでも緊張感を和らげたいから。
目の前の敵に怯えたくないからだ。
「ケルベロス君!」
俺は剣を握り直すと、そう叫んだ。近くの木の傍で俺の命令をじっと待っていたのであろう巨大なハスキー犬は、地面を蹴って俺の横をすり抜ける。
もちろん、俺はその背中に飛び乗った。
オスカル殿下よりも遥か上の視点から見下ろし、せいぜい嫌味ったらしく見えるであろう笑みを作りながら。
「最近の神具は、使役獣を使うんです。知ってました?」
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