第59話 今でも、会いたいと思う

「リヴィア?」

 僅かに慌てたようなリカルド先生の声が頭上から響いた。

 俺はいつの間にかお腹を押さえた状態でその場に膝を突いていて、怪我なんてしていない自分の腹を見下ろしていた。痛みなんてない。

 痛みも熱も、もう感じないけど――。


「和義が……」

 目の前が歪む。頬を伝うのが涙だと知っていても、それを拭うこともできず、茫然と顔を上げる。

 リカルド先生が屈みこみ、俺の肩に触れる。それは滅多に見ることのない、リカルド先生の素の表情。気難しさを際立たせる無表情も、一度壊れてしまえばただ俺を気遣うだけの――まるで兄のような雰囲気の先生がいるだけになる。

「和義が……どうしているのか解らないんです。あの後、どうなったのか。真実を知ったのか、それとも」

 そう口を開いたら、もっと涙があふれてとまらなくなった。

 胸が痛い。

 苦しい。

 手が震える。

 激情が俺を飲み込む。

「絶対後悔してるはずなんです。弟は、本当は真面目な人間なんです。あんなこと、する人間じゃなかった……」

「おい」

 先生の眉根が寄せられ、かける言葉を見失ったかのように視線が揺れる。

「元の世界に戻りたいです。わたし、死にたくなかった、です。あんな弟を残して死んだら、絶対……」


 駄目だ。

 俺、何でここにいるんだよ?

 あの後、どうなったんだよ!?

 戻りたい。戻らなきゃ。和義に言わなきゃいけないことがある。


 震える手を伸ばし、リカルド先生のマントを掴む。立てないし苦しい。どうしたらいいのか解らない。

 そんな状態の俺を、先生は思い切ったように横抱きに抱え上げ、何か魔法を使ったようだった。目の前に小さな光が飛び交い、一瞬だけ死んだ時の光景を思い出して身体が強張る。

 目を閉じて、開けたら炎の塔の地下、ダミアノじいさんの部屋だった。

 泣いている俺を気遣ってくれたのか、とぼんやり考えていると、ソファに下ろされてリカルド先生がため息をついた。俺はそこで我に返り、慌てて涙を手の甲で拭う。

 情けない。

 変なところを見せてしまった。

 でも、今日くらいは許して欲しい。今は、思い出してしまった記憶に感情が揺らされてしまっているから。

「カズヨシとは?」

 リカルド先生は、俺の向かい側にあるソファに腰を下ろし、じっと俺を見つめてきた。俺が前世の記憶を取り戻したことを、何となく予想はついているだろう。だから、再確認のようなものだろう。

「わたしの弟です。わたしが死ぬ前の……」


 やっぱり、俺は死んでいるんだよな?

 戻れないんだよな?

 もう和義には会えないんだよな?


 そう思ったらまた目の奥が熱くなる。ヤバい、これはヤバい、と唇を噛み、膝の上に置いた両手に力を入れる。自然と俺の目は下を向き、強く握りすぎて白くなった自分の手が見えた。それに、俺を気遣って情けない顔をしているケルベロス君もそこにいた。

「……わたし、弟に殺されたんです」

 先生が息を呑んだ気配がした。

「弟?」

「はい。色々と……誤解があって。ずっと会えていなかったから、話も全然できなくて。何て言うかその。先生と似ていますね?」

 そこで俺が視線を上げると、困ったような表情をしたリカルド先生がいた。

「……ああ、確かに」

「似てるのは、それだけじゃないんです。わたしと弟、半分しか血がつながっていないんです」

「それは」

「でも、わたしの場合は母親の裏切りでした。父親を裏切って、別の男性と子作りしたんですよ。汚いですよね」


 ……だからきっと、俺は。

 ヴァレンティーノ殿下がジュリエッタを裏切っていたと思った時、厭だったんだ。

 婚約者を裏切るなんて汚いと思ったんだ。


 記憶がなくても、何か感じることがあった。ジュリエッタが階段の上で俺を見下ろしていた時の顔。今考えてみれば、俺は弟の姿をジュリエッタさんに重ねていたのかもしれない。

 俺を突き落としたことに、何か意味があると。言葉を重ねれば、何か届くものがあると……思ったんだ。意識の奥深くで。

 俺は弟を救いたいと思った。

 だから、ジュリエッタさんに惹かれたんだ。


「母は父とわたしを捨て、弟だけ連れて家を出て行きました。父に言ったそうなのですが、本当の愛を見つけたんだそうです。父のことは最初から好きじゃなかったと、捨て台詞を吐いたと聞きました」

 俺ははっきりと思い出してしまった記憶に、頭痛すら覚えた。

 情報量が多すぎて、パンク状態とはこのことだろうか。何から説明したらいいのか解らない。ぽつぽつと話す俺の言葉は、先生にとっては解りにくかったかもしれないが、忍耐強く聞いてくれる。こういうところは、さすが教師だと思う。

 俺があの暗闇でどんな目に遭ったのか、どうやって殺されたのか、弟とまともに会話ができず終わってしまったこと、全部聞いてくれて、俺が話し終わるとただ小さく、「そうか」と言ってくれた。


 その後に続いた沈黙は、結構長かったと思う。

 でも、吐き出したことで随分と腹の奥にたまっていたものが軽くなったのを感じていた。

 そして、呼吸が楽にできること、そのことに感謝すらした。


「……こんな自分が言っていいことなのか、解りませんが」

 やがて、俺は思い切ってこう言ってみる。「わたしは失敗してしまいましたが、先生はまだ間に合うんじゃないですか? 先生も、わたしと同じで弟さんと会話できていなかったのでしょう? どちらかが死ぬ前に、ぶつかっておくのもいいかもしれませんよ」

「死ぬ前に、か」

 先生は苦笑し、少しの間考えこんだ。

 余計なことを言っている気もした。言われて困ることだろう。簡単に言うな、と苛立っているかも。

 穏便に、争いごとを避けて生きていくのなら、他人に余計な口出しはしない方がいい。それでも、言いたくなるのが人情ってもんだ。自分が最悪な結果を迎えているからこそ、まだそんな結末を見ていない誰かを助けたくなる。

「道を誤りそうになっているのが身内だったら、その前に一度は叱ったり、殴っておいても許されるんじゃないかって思います。他人はそんなこと、できないですから。わたしは失敗してしまいましたが、先生はわたしより大人だし、上手くやれるんじゃないですか?」


 先生はそれきり黙り込んでしまったし、じっとテーブルの上を見つめたまま固まっているようだった。

「すみません、余計なことを言って」

 俺はそう言ってからソファから立ち上がり、多分酷いことになっているだろう自分の顔を洗うために、洗面所へと向かった。


 小さな盥に魔法を使って水をため、乱暴に顔を洗って顔を上げる。畳んでおいたタオル代わりの布を一枚とって、やっぱり乱暴に顔を拭う。壁に取り付けられた鏡を見ると、目元が赤くなった自分の顔が映っていた。

 何だか、不思議な気分だった。

 記憶を取り戻したからなのか、目に映るものが全部今、初めて見たような感覚だ。記憶がなくて、ただ漫然と暮らしていたこれまでは、どこか浮ついていたかもしれない。現実味がなくて、ただアイテム回収とか料理とか、やることが全部楽しかった。まるで、毎日が他人事のようだったんだ。それこそ、ゲームの中で遊んでいるような感じだ。

 ジュリエッタさんが好きだと思ったことも、ジーナとのやり取りが楽しかったことも、今の俺ならもっと違う反応だったかもしれないな、とすら思う。

 記憶がないってああいうことだったんだ。

 積み重ねてきた過去がない分、楽だった。

 薄っぺらい自分のまま接すること、上辺だけの付き合い、深く付き合わないということ。多分、そうだ。


 でも今は、自分の足でちゃんと立って、自分の言葉で会話できるような気がする。

 リヴィアとしてじゃなくて。

 俺――木島真司として。


 真司。

 そう言えば、父さんに訊いたことがあった。小学校の宿題だっただろうか。自分の名前の意味を両親に訊いてきなさい、ってやつ。

 何で真司って名前をつけたのか訊いた。

「まことをつかさどる、って書く」

 父さんは教えてくれた。

 真実のシン。嘘をつかないこと。まことの姿であること。それを実行すること。

 正しいことを行い、悪事を働かないこと。

 それを約束して欲しい、と父さんは言った。


 嘘はつかなかった。そのことだけは、褒めてくれるだろうか。父さんよりずっと早く死んでしまったけれど。でも、法律に背くような悪いことは何一つしなかった。それだけは褒めて欲しい。

 ……今でも、会いたいと思う。

 せめて、もう一度。


 またあふれそうになる涙を何とか押しとどめ、先生の元に戻る。ちょうど、先生は剣術大会の片づけのため、部屋を出て行こうとしているところだった。

「大丈夫か?」

 気遣うようにそう声をかけてきた先生に、俺は笑って頷いて見せる。すると、彼は少しだけ安堵したように笑うと、「弟のことは何とかしてみる」と短く言葉を続け、そのまま出て行った。

 俺はそれを見送った後、ソファに座ってゆっくりと息を吐く。

 そして、自分に言い聞かせる。


 今度はリヴィアとして、動けるようにしないと駄目だ、と。今の俺は、真司じゃなくてリヴィアなんだから、と。


 まあ、その翌日、リカルド先生にお姫様だっこをされて運ばれた俺を見た生徒たちに、やっぱり婚約は確定してたんだ、とかいう噂がまことしやかに流されているのを知って、やっぱり女の子ってつらい、と実感したわけだけれども。

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