第58話 思い出した前世での死

 ――思い出しては駄目だ。


 ――いや、思い出せ。


 俺は自分の腹をしばらくの間見下ろしていたようだった。

 今の俺はリヴィアじゃなく、昔の俺。昔の自分の記憶。忘れたかったから忘れていた光景。


 そうだ、俺は。

 忘れていたんじゃない。思い出したくなかったんだ。


 痛みより熱さがあった。シャツの上から腹に刺さったナイフの周りには、じわじわと血が広がっていく。抜いたらヤバい、と直感で知った。

 俺、多分……死ぬ。


 辺りは真っ暗だった。

 近くに俺が乗ってきた自転車が倒れている。そう、確か俺は部活帰りだった。自転車で家に帰る途中だった。

 俺が住んでいる家は、まさに田舎を絵に描いたような場所にある。

 周りが田圃で、辺り一面の稲穂。田圃道は舗装されているものの、その両脇には田圃に水を引き入れるための用水路がある。もちろん、その用水路の上に蓋なんてないから、冬になって雪が降ったら車が脱輪して動けなくなるのもよく見られる光景だ。

 車は広い道だけを選んで通るから、こういった車二台がすれ違うのが難しい道は嫌われる。だからこそ、自転車で走るには都合がよかった。

 暗闇の中、稲穂の隙間に小さな光が見えるのは、もしかしたら蛍なんだろうか、と思っていた。自然が多い場所。俺が好きな土地だ。


 大きな川が近くにあった。田圃道から大きな道へと出る途中に、橋がかかっている。辺り一面に広がった田圃が広すぎて、こういった橋は定間隔でいくつもかけられている。ただ、夜は人が通らない場所だから、女の子は通らないように言われている場所だ。たとえ回り道になったとしても、明かりのある広い道を使って帰れと言われるような場所。

 というのも、橋の脇には畦道のようなところがあり、手入れがされていない雑草、木が生えている。時折、そこにエンジンのとまった車が隠れていたりするのだ。いわゆる変質者。

 でも俺は男だったし、特に気にしたこともない。

 確かに車がとまっていることもあるが、自転車で鍛えた脚力は並ではない。たとえ車から飛び出してきた変質者に追われたとしても、逃げ切る自信があった。


 逃げられなかったのは、暗闇の中に現れたのが、何年も会っていない弟だと気づいて自転車をとめたから。


「三日、張ってたんだ。兄貴、帰り道が気まぐれで変わるからな、今夜は運が良かった。周りに誰もいないし」

 弟――和義はそう言った。久しぶりに会う弟の顔は、暗くてはっきり見えなかった。どうやら和義も、自転車に乗ってここにきているようで、少し離れた場所に自転車がとめてあるのが見えた。

 ほんの少しだけ、月明かりがあったから、和義の憎悪に満ちた歪んだ笑みも見えた。

「兄貴、お気楽に高校に通ってるんだろ? いいよなあ、恵まれてる人間は、さ?」

 そう言った後、和義は手を突き出したのだ。最初は握手でもするのかと俺も手を伸ばしかけた。

 でも、違ったのだ。


 別に、弟のことは嫌いじゃなかった。普通の関係だったと思う。一緒にゲームをやったり、漫画の貸し借りをしたり。喧嘩ももちろんあったけど、せいぜい小競り合いくらいで済んでいた。

 なのに今は、どうしてこうなったのか。


「俺は苦労してるんだよ、兄貴と違ってさ。せっかく高校に入れたのに、バイト三昧で遊べないし。バイト代は母さんに生活費として取り上げられるし。何でだよ。何で、父さんは俺たちを捨てたんだ?」

「違う」

 俺は掠れた声を上げたが、腹に刺さったナイフのせいなのか、流れ出た血と一緒に力が抜けていくようで、声すらまともに出せない。

 油断していたというか、考えてもいなかったことだ。

 まさか、弟に襲われるなんて、誰が予想するんだ?

 俺は、俺だけじゃなく父さんだって、何も悪いことなどしてなかったと思うから。

「……違うんだ」

 俺が言いたいことは。


 ――捨てたのは、母さんだ。


 父さんが言った。

 母さんが浮気をしたって。和義は、浮気相手の子供なんだって。父さんの血は引いていないって。


 ――母さんが浮気したんだ。もう……帰ってこないって言ってる。


 そう言った父さんの背中を覚えている。とても小さく感じた背中。俺はただ、その背中を撫でることしかできなかった。

 母さんは和義を連れて家を出て行った。和義の本当の父親のところで暮らすから、と。本当に愛している男性の元に向かうから、と。

 俺は母さんに捨てられた。一応、母さんと血はつながっているのに、父さんの血を引いた俺は邪魔だったのかもしれない。


 別に、それでよかった。

 父さんにはもう、俺しか家族がいないから。俺がいなくなったら父さんが壊れてしまうのも解っていたから、父さんの傍にいたかった。

 そして、真面目な父さんを裏切った母さんを、許せないし。

 伴侶がいるのに裏切る母さんなんて、いらないから。


 母さんを汚いと感じた。別にそれに罪悪感はない。父さんを裏切った。俺を裏切った。それがあの女が背負った罪だ。

 でも、弟は――悪い奴じゃないんだ。ちょっと口は悪くて、寝相も悪くて、食べ物に好き嫌いも多かったけど、そんなのはどうでもいい。それなりに仲が良かったから、こんな理由で離れ離れになるのは悲しかった。

 

 いつか、会えたらな、とも思ってたんだ。

 でも、こんなのは……考えてもいなかった。


「こいよ」

 立っていられず、その場にしゃがみこんだ俺を靴の裏で押しやるようにして、立つように促す弟。

 立てないんだ、無理なんだ、と態度で示そうとしつつ、俺は必死に顔を上げて相手を見つめた。

 助けて欲しい、死にたくない、怖い。

 色々な感情が俺の中を渦巻き始める。

「違う……。父さんはお前を捨ててない」

「うるせえよ」

 和義は俺の腕を掴み、ずるずると引きずろうとして舌打ちした。悪態をつく弟の様子には、僅かな焦りが見える。ほんの一キロ先にある大きな道には、たまに車のライトが走っている。田舎の田圃の中にある道は、警察なんてほとんど通らないから、誰だって凄いスピードで先を急いでいる。だからきっと、どんなに視力が良かったとしても暗闇の中にいる俺たちの姿なんて見えないだろう。

 それでも、万が一にでも見つかったら終わりなのだ。和義は必死の形相で俺を見下ろした。

「兄貴にかける金が必要なくなったら、父さんだって俺たちを援助してくれるんだろ? 生活費だってくれるだろ? 金さえあれば、俺だって大学とか行ける可能性があるんだ。俺だって、まともな生活がしたいんだ。あんたが邪魔なんだよ、兄貴。塾にだって行ってんだって? いいよな、金に困ってなくてさ」

「違う」

「何が違うんだよ」

 腕の骨が軋むほど強く掴まれ、無理やり立ち上がらされる。腹が熱いのは同じだが、足に力が入らない。立つのがつらい。

「……お前の本当の父親はどうしたんだ」

 生活費が欲しいからこんなことをしたのか? と働かない頭を何とか動かそうとする。

「はあ? 何だよそれ」

 和義が馬鹿にしたように鼻を鳴らす。その様子だと、きっと弟は何も知らないのだ。母の裏切りも、何故、父さんが二人に生活費など渡していないのかも。

 でも、一体どうして?

 和義の父親と一緒に暮らすために出て行ったはずなのに。どうしてこうなった?

 生活費を出すのはそいつのはずなのに。

「お前は父さんの子じゃない」


 その数瞬後、俺は弟に蹴られて倒れこんだ。


「じゃあな、兄貴」

 そんな声が聞こえた、ような気がする。少しだけ、泣きそうな声だと感じたのは気のせいだろうか。

 最後に見たのは、和義の強張った笑顔だ。恐怖のあまり笑いだしてしまった、という感じの顔。


 母さんはやっぱり嫌いだ。

 父さんを裏切っただけじゃない。和義に嘘を吹き込んだのだろう。父さんが二人を追い出したのだと嘘をついた。それを単純に信じた弟も……少しだけ嫌いだ。


 でも解ってるんだ。

 人間は信じたいものを信じる。

 つらいから、誰かを恨みたくなる。妬んだりする自分は悪くないのだと言い聞かせたくて、悪者を作り上げる。

 弟も被害者なんだ。


 でもなあ。


 もっと、話すべきだったよ。お前、本当はそんな奴じゃなかった。喧嘩はしたけど、相手を傷つける方法なんてとったことなかっただろ?

 俺を刺したのも後悔してるんだろ? だからそんな顔をするんだ。

 俺は頼りないかもしれないけど、それでもやっぱり。


 お前の兄貴だったんだよ。


 沈んでいく。

 力の入らない俺の身体を、和義は必死になって持ち上げて、橋の欄干の上から突き落とした。多分、変な格好で落ちたんだろう。俺は最初、どっちが上でどっちが下なのか、解らなかった。

 夏場なのに、水は冷たかった。そして、変な味がした。

 手も足も力が入らなくて、沈むしかなかった。

 怖かった。

 死にたくなかった。

 俺、まだ高校生だよ? やりたいことたくさんあったよ?

 助かるよな? 俺、大丈夫だよな?

 死にたくない。


 誰か。


 必死に藻掻こうとする。水が重い。身体に纏わりつく。

 一瞬だけ、水面の方向が見えたような気がした。その向こう側に、月の明かりが見えたような気がした。でも、すぐに暗くなる。


 沈んで沈んで沈んで。

 痛みとか苦しみとか消えて。

 意識が途切れる。


 ふと、俺、何をしていたんだっけ、と意識がぼやけたような、いや覚醒したような奇妙な感覚が生まれた。

 何かに足を引っ張られた気もする。足だけじゃない、腕も、そこら中が何かの力によって引きずられる。何かに呼ばれている?


 ――餌だ餌だ餌だ。


 何かが叫んでいる。俺を喰おうとしているんだろうか、と怖くなる。

 これは夢だろうか。そういえば、落ちる夢ってよく見るよな、と思って。

 暗闇の中で必死に目を凝らす。

 唐突に途切れる落下の感覚と、急に目の前に現れた光。巨大な球体。その球体の中で、何かが蠢いている。

 生き物じゃないような、生きているような。何だろう、これは――と、近づこうとして。


 そして奇妙な声が頭上から降ってきた。


『喰い尽くせ』

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