第56話 幕間 7 オスカル

「……失敗しちゃいましたねぇ」

 僕の隣を歩く明るい髪の少女は、笑ってはいるものの怒りの混じる声で囁いた。ヴィヴィアン・カルボネラ、凄まじい魔力の持ち主だ。

「そうだね。でも、まだチャンスはあるよ」

「はーい」

 彼女は僕の前に出て、どこか踊るような軽やかな足取りで進む。競技場を降りる前に、僕はそっと辺りを見回した。

 解体される前の競技場。召喚獣が消えた跡には、僕が放った術式の名残が見えた。魔法ではない、呪術の式。おそらく、このグラマンティの人間は誰も知らないだろう呪術というものは、僕の母が生まれた国に残された儀式の一つだ。だから、今回の件も何が起きたのか僕以外は知らないし、異変を感じたとしても証拠は見つからないだろう。それだけ、この呪具は強い。

 僕は左手首についたブレスレットを制服の上からもう片方の手で抑えた。年々、手首の痛みは激しくなっていく。重さも増えていく。最初は恐ろしいと感じたのに、今はもうどうでもいい。

「オスカル様、喉乾きませんか? 行きましょ?」

 ヴィヴィアンがそう言いながら振り返り、笑う。彼女の瞳の色は、赤みがかかった金色。とても綺麗だ。

 僕は彼女の言葉に頷いて、少女の後を追った。


 僕――オスカル・ファルネーゼの最初の記憶は、何歳の時だっただろうか。この世の苦痛も知らず、城の人間に笑顔を振りまいていればそれで幸せだった時期がある。

 正妃の息子という立場であったから、皆に祝福されて生まれたんだろう。

 そんな僕には兄がいた。

 僕と同じ黒い髪と黒い瞳、穏やかな表情と性格のリカルド・ファルネーゼだ。きっと最初は、僕と同じように皆に祝福された存在だっただろう。側妃の息子であり、ファルネーゼ王国の第一王子という立場。僕が生まれなければ、王位についたかもしれない人だ。穏やかな性格、勤勉で優秀な少年。


 その彼に初めて会ったのは、乳母の女性と中庭を歩いていた時だった。

 乳母に「兄上ですよ」と教えてもらって、僕は彼に声をかけた。僕はまだ三歳かそのくらい、兄は十二、三歳くらいだったろう。王子として相応しい服装の彼は、幼い僕ですら綺麗だと思えるほどだった。

「あにうえ」

「やあ、オスカル」

 彼は少年らしい明るい笑顔を僕に向け、屈みこんで頭を撫でてくれた。「兄上なんて堅苦しい言葉はいらないよ。そんな大層な人間じゃないし、兄さんでいいよ」

「にいさん?」

「ああ」

 兄という存在を知って、嬉しかった。一緒に中庭を散歩するのも、花壇の花の名前を教えてもらうのも、空を飛ぶ鳥の名前を教えてもらうのも、何もかもが楽しかった。彼は僕が転ばないように手を引いてくれたし、時々は一緒に走ってくれた。絵本も持ってきてくれたし、隣で読んでもくれた。

 でもそれが許されないことだと知ったのは、それからすぐのことだった。


「あのバイタの息子と仲良くしているの?」

 母がそう言って僕の頬を撫でたのは、雨の日だったと思う。窓の外は暗く、庭に出ることもできないしどことなく憂鬱な気分になっていた。母も機嫌が悪かったのか、それとも体調が悪かったのか、酷い顔色をしていた。それでも、笑顔は絶やさなかった。

「駄目よ、オスカル。あの息子と仲良くしては駄目。ゲセンな存在なのだからね」


 バイタとかゲセンとか、僕にはその言葉の意味が解らなかった。

 でも、僕と兄の血は半分しかつながっていないということは、少しずつだが理解できた。僕の母は今目の前にいる、痩せて枯れ木のような腕をした、四十代の女性。ずっと子供が生まれず、苦しんできたのだと後で知った。

 兄のリカルドの母親は、三十歳になったばかりの若くて綺麗な女性。明るくて穏やかな性格で、父であるファルネーゼ王は彼女を一番に愛しているのだという。


 だから、本当は僕よりも兄のリカルドを王位につかせたいのだという噂もあった。もちろん、それは僕の母が許さなかったことだけれど。


 母は父を恨んでいたのだと思う。

 父は僕から見ても魅力的な男性で、王位に立つのに相応しいと思わせる何かを持っていた。豪胆な性格もそうだけれど、側近たちを従える力が凄かった。

 僕は父を尊敬していたが、愛情の裏返しなのか何なのか、母はずっと父に対して冷たかった。一緒にいれば、母が父のことを好きだったのは解るが、母に冷淡な態度を取られている父は嫌われていると思っていただろう。それほど、母は自分の感情を素直に表に出すのが苦手だったのだ。

 いつしか二人の関係は冷え切っていて、父は兄とその母の方にばかり会うようになる。それに対しての恨み言を、毎日のように聞く。つまらない毎日だった。


 それでも、兄のことは嫌いになれなかった。

 最初に僕に向けてくれた笑顔のことが忘れられなかったから。


 それでも、狂気に触れ続けていれば、自分も狂気に染まる。

 母がゆっくりと狂っていくのを近くで見すぎたんだろう。それが当然のように思えるくらいにまでなっていた。

 狂っていても僕にとっては唯一の母であり、愛すべき対象だった。父よりも僕を愛してくれたのは間違いない。

「あのバイタさえいなければ」

 そう笑いながら、母が呪具を左腕に付けたのを、僕はただ見つめることしかできなかった。


「この呪具はね、生贄が必要なのよ」

 母の笑い声は年々高くなるようだった。あまり食事を取らないせいもあって、元々痩せぎすだった身体はもっと病的なまでに細くなり、今にも折れそうなほどになった。

 僕は随分と身長が伸び、母の言うことも理解できるようになっていた。バイタというのが女性を嘲る言葉であることも、兄がとても危うい立場にいることも解っていた。

 その頃には兄はグラマンティの魔法学園に通うことになり、城から出て行ってしまっていた。宿舎があるから会うこともできず、たまに帰省した時にだけ顔を見ることができる。幼かった兄も随分と大人びて、どこか影を含む表情を見せるようになっている。この環境が兄に悪影響を及ぼしていたのは間違いないだろう。


 兄の姿を見ると、母は何かを恐れ、焦ったかのように僕に詰め寄るのだ。

 彼女の言う、呪具を僕に見せながら。

 一見、銀色の腕輪のように見えるそれは、表面に細かな彫刻が入っている。僕には読めない字のようなものも。

「あなたには教えておいてあげるわね? この呪具はね、付けた人間の血を吸いとるの。そうして力を放ってくれるのよ」

「母上、怖いです」

「大丈夫。最近はこの呪具も力を弱めてしまったけれど、生贄を捧げればすぐに力を取り戻すわ。大丈夫、わたしがあなたを絶対に国王の位に導いてあげる。そのためには、邪魔なものは消してしまわなければね」


 ――怖い。


 母が怖い。


 しかし、そう考えてしまうのは母に対する裏切りだった。

 だから必死に僕は母の手を取った。大好きだと伝えた。そうして、僕の届かないところに行ってしまわないように、恐ろしい世界に足を踏み入れてしまわないように、この世界に留めてあげなければ、と必死になった。


 所詮は無理だったのだけれど。


 ある日、兄の母が毒殺されたと聞いた。

 その日は城内がざわついていて、僕の身の回りの世話をする召使の姿も見えなかった。着替えを一人で何とかして廊下に出ると、廊下の遠くの方で何人かの召使がこそこそと話をしているのが聞こえる。


 ――毒殺とは思えないくらい、酷い状態だったらしいのよ。

 ――お顔がめちゃくちゃだったって本当?

 ――毒でそうなるってことあるの?

 ――伝染病だったらどうするのかしら。


 それを聞いていると何となく怖くなって、こっそり母の部屋を訪れた。抱きしめてもらって、大丈夫だと言って欲しかった。

 人気のない廊下を歩き、父がほとんどやってこない母の広い部屋のドアを叩く。でも、誰も出てこなかった。

 まさか、母も、と慌ててドアを開く。


 すると、カーテンを引いたままで薄暗い寝室の方から声が聞こえてくる。そっと覗き込むと、ベッドの上で座り込んで狂ったように笑い続ける母がいた。

「やったわ、やったのよ、死んだ死んだ死んだ!」

 髪の毛を振り乱し、涙も流しながら笑い続ける母の左手首には、例の呪具があった。母は部屋着のままで、近づくと生臭い匂いがした。右手や部屋着が汚れているのが見えて、一体なんだろうと目を凝らす。

「ああ、オスカル?」

 母が僕に気が付いて手招きする。近づこうとして足をとめる。

 母の右手は、明らかに血で汚れているようだったから。そうやって改めて観察すると、部屋着にも血が飛んでいることに気づかされた。

 僕が寝室の入り口で固まっていると、母はベッドから降りてこちらへやってくる。怖かったのに逃げられず、震えながら母を見上げた。

 狂った笑顔の母は、醜かった。


 彼女は僕に右手を出してきた。


「これが生贄になるの。あのバイタの眼球よ」

 と、血だらけの手のひらの上に転がった、歪なもの。小さな二つの塊。

 がたがたと震えだす僕の手足、あげたくても口が開かず閉じ込められた悲鳴。

「こうやって、呪具に喰わせてしまえば証拠も残らない」

 母は左手首にある呪具に血だらけの眼球を近づけ、何事か呟いた。それは呪詛の言葉の羅列に思える。途端に禍々しい気配が呪具から発せられ、辺りの空気が冷える。黒い気配はゆっくりと形を取り、靄のようになる。

 その靄はまるで生き物のように母の手の平の上を舐め、眼球を『喰った』。取り込んだ、というべきなのか。

 血の一滴も残さず、『生贄』とやらを喰った呪具は、それまでよりも遥かに美しく輝く。狂った美しさ、だ。清廉さの欠片もない、恐ろしいまでの美しさだった。


 しかし、それを身に着けていた母の腕には、黒い模様のようなものが浮かび上がっていた。皮膚の下にあるはずの血管が浮き出てきたかのように、奇妙に脈打ちながら……恐らく、呪具に相応しい呪いの術式を組み込んでいたのだろう。

 しかし、細い腕はびくびくと痙攣してその術式を跳ね返しているようにも思えた。

「駄目ねえ……」

 やがて、その黒い術式の模様を手で撫でながら、母は笑みを消した。「この身体はもう限界なのかしら。そろそろ、次の世代に受け継がれるべきなのね」

「……母上?」

 僕が思わず後ずさると、母は綺麗になった右手を僕の頬に添えた。

「売女は死んだわ。後は、あの女の息子だけね」

 母の唇の両端が、まるでナイフのように反り返る。

 そして、僕は理解してしまった。

 やはり、狂気は伝染するのだと。

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