第39話 幕間 5 ヴァレンティーノ
「わたし、下町で育ったんです」
ヴィヴィアン嬢が悲しそうに笑うのを、何度見ただろうか。
私は自分でも険しい顔をしていたと思う。彼女の話を聞いていると、少しずつ自分の心の中に澱のようなものが溜まっていくのを感じる。それほど、彼女の話が響いているということなのだろうか。
「食べる物も、着る物もほとんどなくて、本当につらい思いをしてきました。でも、レオーニ王国の下町の人間って、大体がそんな生活をしているんです。それに、王都からもっと離れれば、もっと生活水準は下がるんですよ」
中庭を並んで歩きながら、彼女の話――耳に痛い話に耳を傾ける。
私、ヴァレンティーノ・レオーニはレオーニ王国の次期国王となるために、必要な学問、魔術を習うためにグラマンティに来ている。色々な国の人間と接すること、同じ年頃の人間と話すこと、これは本当に自分のためになった。この学園には貴族も平民もいて、他国の人間からはその国の政策についての話も聞ける。
しかし、話を聞くだけではいけないのだろうと感じさせたのが、このヴィヴィアン・カルボネラとの出会いだ。
私の婚約者はヴィヴィアンの姉のジュリエッタだが、彼女は生まれながらにしての貴族であり、考え方も貴族のそれだ。上に立つことに慣れていて、平民の気持ちが解らないのではないかと思ったことが幾度もある。
それでも、ジュリエッタという少女がこの学園内では勤勉であることは知っていた。勤勉であり、誠実であり、自信家だ。
それを好ましいと感じたことは間違いない。だが、やはり彼女はまだ子供で未熟だった。
「だから、わたしが父に引き取られた時は嬉しかったんです。こんなの、ちょっといけない考え方なのかな、って思ったけど、食べる物に困らない生活に憧れていたから」
ヴィヴィアンの声はとても軽やかで、とても過酷な生活をしてきたようには思えない。その柔らかな微笑も、苦労など知らないのではないかと思えるほど明るい。
だが、苦しんできただけの重みがあった。
だからこそ、妹である彼女の方が、姉のジュリエッタより大人びて見えた。
「でも、お姉さまは平民の血を穢れと呼びます。純血ではないこと、それを嫌います。だから、わたしはカルボネラ家に引き取られてきても、あまり……歓迎されませんでした。もちろん、わたしの母も冷たい扱いを受けています。カルボネラ家の使用人たちは、皆、お姉さまの味方ですし、どんなに頑張っても受け入れてもらえなくて」
「……まさか、ジュリエッタがそういう人間だとは思いたくないが」
最初はどうしても信じられず、ヴィヴィアンを否定するような口調になった。
だが、幾度も彼女から話を聞いているうちに、そして彼女以外の人間から聞こえてくる噂を聞いているうちに、それが正しいのかもしれないと思い始めている。
何しろ、最近、ジュリエッタと一緒に行動していたという女生徒たちと会話したが、彼女たちが笑いながらこう言っていたのだから。
「ジュリエッタ様が平民を蔑んでいるのは事実です。名前は知りませんが、どこかの塔の管理人助手でしょうか、平民の女の子とぶつかって、相手が階段から転げ落ちたことがありました。その時もただ転ばせるつもりだったと焦りながらも、最終的には笑ってましたし」
「そうそう、あれは怖かったですわね。まあ、あの平民の子もジュリエッタ様に暴言を吐いたことがあったからどっちもどっちかもしれませんけど! それでも、ジュリエッタ様は本当に怖いわ。わたしたちも大人しく従ってましたけど、逆らったら何をされるか解らないから何も言えなかっただけで」
それは酷い話だった。平民の女の子に対する、無意味なだけの暴力ではないだろうか。一歩間違えば、その子はどうなっていたか解らないだろうに。
その話を聞いてジュリエッタへの評価が下がってしまったのだろう、私はジュリエッタと顔を合わせることが苦手となった。そして、どうしても消せない彼女への嫌悪感を自分の腹の奥に抱え込んだ。
「見てください、殿下」
ヴィヴィアンが中庭の外れで足をとめ、目の前に広がる花壇の前に立って両手を広げる。無邪気そうな仕草と、明るい笑顔。
彼女は他の貴族たちとは違う、大きな口を開けて笑う仕草を見せてくれる。
そして、そっとその手を花の蕾に伸ばした。
不思議なもので、彼女の手は特別な力を放つことができる。植物を促進させる効果なのだろうか、手の平から緑色の穏やかな光が発せられたかと思えば、まだ白く小さな蕾がゆっくりと膨らみ、色づき、花開いていく。それはとても美しい光景だった。
植物に関わる能力というのは、精霊から受け継いだ血によるものだ、という説がある。特に、彼女のように植物を育てる力は神にも愛された証拠なのだと言う。
それを見てしまうと、彼女が単なる平民ではないと思わせてくれるのだ。
確かに、父親はカルボネラ家の血。由緒ある貴族の血筋である。
しかし、このヴィヴィアンの力を見ても、母親が単なる平民だと思えるだろうか?
本当にまれに、先祖返りして特殊能力を持つ人間が生まれると言われているが、もしかしたら彼女がそうなのではないだろうか。
植物を愛し、愛される。精霊からも、神からも愛される存在。
それがヴィヴィアンなのだとしたら?
最初から光の魔力属性を持つ彼女は、もしかしたら『聖女』の可能性もあるのだ。聖女は神に愛された存在であり、生きているだけでその国に平和と安寧をもたらすと言われている。普通ならば、幼い時に神殿で神託を受けることにより、聖女と認定されればそこで生きていく。
だが彼女は貧困の中で育ち、その機会に恵まれなかった。
だから、もしかしたら。
神殿に行くことがあれば、もしかしたら。
国王である父に相談すれば、聖女を手に入れろと言われるだろう。どんな手段を使ったとしても、優先すべきは聖女を囲い込むことであり、他国に渡さないこと。だから自分の今の行動は正しいと言えるはずなのだが――。
本当に正しいのだろうか。そんな迷いが芽生えてきているのも事実であり、私は少し自分の心を持て余していて、複雑だった。
「綺麗ですね」
美しく咲いた花を目の前にそう言った彼女の声に我に返り、私は口元に笑み作ってみせたが、どこからか視線を感じた気がした。それとなく辺りを見回しても、誰もいない。
だが、首の後ろに感じたちりちりとした感覚は気のせいではなかったと思う。間違いなく、誰かが私を見ている。
それから数日後。
「英雄、色を好むってな」
そう言ったのは、今年の新入生であるラウール・シャオラだった。「頑張ってるみたいだなあ、ヴァレンティーノ殿下?」
その声に潜む厭な響きを聞き取って、私は眉を顰める。しかし、相手は手を叩きながら私の行動に賛同するのだ。
「正妃にする人間は一人だが、側妃は何人でも持てるだろう? 優秀な血筋を残すためには、正しいと思うぜ。俺は歩けるようになった頃から、ずっと父から言われてた。いい女を抱けるのは、英雄の特権なんだって」
彼は私より年下だが、身長は彼の方が高いくらいだ。戦うために鍛えられた肉体が制服の下にあり、彼の国――シャオラ王国が軍事国家であることを厭と言うほど教えてくれる。
それに、考えていることが低俗――とは言わないまでも、彼の年齢には似つかわしくないほどすれていると思う。年頃だから女性に興味を持つのは当然だと思うが、どうも声音の裏に何かがある。
「学園内で身分は関係ないと言われていますが、さすがに上級生にその言葉遣いはどうでしょうか」
私は今、将来自分の側近になるであろう魔法騎士科の友人のところに足を伸ばしていて、剣の訓練場に立っていた。だから、そう苦言を呈したのもその友人――ダンテ・パルヴィスである。赤毛の痩せた男で、いつも柔和な笑みを崩さないが、今日は様子が違っていた。
明確な敵意を込めてラウールを見つめ、腰に下げている練習用の刃の潰した剣の柄に触れる。手合わせを匂わせた行為だ。
「ああ、失礼しました」
そこで、ラウールは背筋を伸ばし、慇懃に頭を下げた。しかし、顔を上げた彼には揶揄うような色が浮かんだままであったし、どことなく共犯者の笑みのようなものも唇に浮かんでいた。
私はさらに一歩前に出ようとするダンテを手で押しとどめ、できるだけ穏やかに見えるであろう表情を作って見せる。
「君は何のためにこの学園へ? まさか、将来の妃探しだとは言わないよね?」
「ああ、安心してください。殿下の恋人を奪うつもりはありません」
「恋人?」
「ああいうタイプは面白くないので。どちらかと言えば、婚約者殿の方が気が強くて楽しそうですね?」
不快感が顔に出たのか、ラウールが面白そうに目を細めた。そして、軽く頭を下げた後に私の横をすり抜けようとした。
だが。
「あの派手な髪の子、気を付けた方がいいですよ。あなたより一枚上手だ」
そう、すれ違い際に言い残して、ラウールは訓練場の中央へと歩みを進めた。シャオラ王国の第一王子の背中は、妙に大きく感じた。
「失礼な男ですね」
ラウールが随分と遠くに行ってから、ダンテが苦々し気に息を吐く。「ヴィヴィアン様の悪い噂が出ているのは、ああいう輩も関わっているのかもしれません」
「悪い噂?」
聞き捨てならない言葉に私はダンテの横顔を見つめた。彼とは幼い頃からの付き合いだから、真面目な男だということは知っている。冗談もほとんど言わず、融通が利かないところもある。だからこそ裏がない男で、信頼できると言ってもいい。
そんな彼が言うのだ。
「先ほどの言動からして、彼はヴィヴィアン様よりジュリエッタ様がお気に入りのようです。もしかしたら、ジュリエッタ様と通じている可能性もあるのでは? それで共謀し、ヴィヴィアン様の悪い噂を捏造して流している……」
「……まさか」
「今現在、レオーニ王国とシャオラ王国の関係は悪いとはいいませんが、昔は幾度も戦争が起きました。ですから、ラウール殿下のことは信用なりません。そして万が一、ジュリエッタ様とラウール殿下が通じているとすれば、また別の危険性も含みます」
一瞬だけ、沈黙が落ちる。
魔法騎士科と魔法科、ラウールとジュリエッタが接触するタイミングなどないだろうし、考えすぎだろう。私はそっと首を振り、苦笑した。
だが、懸念は払いきれないものだ。
「悪いが、ラウール殿下の今後の様子を見ていてもらえるだろうか」
そう私が言うと、ダンテが穏やかな笑顔を見せた。何もかも承知していると言いたげに右手を胸の上に置いて頭を下げる。
「お任せください」
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