第20話 一目惚れって信じる?

 背後にジーナの驚いたような声が上がっていたが、振り返らずに軽く手を振って見せる。

 自分でも何故追いかけているのか解らなかった。急に思い出した過去の断片に引きずられるように、機械的に足を動かす。

 それにしても、と考える。

 中庭の外れで他に生徒の姿はなく、『あの二人』が人目を避けてこっそり会うにはちょうどいい場所。だからこそ、ジュリエッタがここにやってきた理由が解らなかった。

 姿の見えない二人を探して、当てもなく簡単に見つけられる場所じゃないと思うんだが。


 と、思ったら、ジュリエッタが手に持っていた何かを地面に落とした。

 それは小さな紙片で、僅かに風に流されて俺の方へ飛んでくる。

 これは呼び止めるためのいい口実、と俺はすぐにそれを拾い上げた。読むつもりはなかったが、手に持った瞬間に短い文面が見えてしまった。


 ――『ロクサーヌと恋人』という舞台はご存知ですか? 今日の放課後、中庭の東の外れで見られるかもしれません。


 何だこれ。

 俺が眉を顰めつつ顔を上げる。


「何かご用かしら」

 そんな俺の気配を察知したらしいジュリエッタが、優雅な仕草で俺を振り返った。

 改めて思うのは、結構きつい顔立ちだが凄い美人だな、ということ。俺はリヴィアとして生活してきて、女らしさというものには無縁だけれど、目の前の彼女はその顔立ちを際立たせるくらいの化粧をしていた。くっきりとした瞳がとても印象的で、俺は少しだけ息を呑んだ。

「いえ、あの」

 俺は何て言ったらいいのか解らず、無言で紙片を差し出した。すると、ジュリエッタが顔色を変えてそれを取り返す。すぐに、くしゃりという紙が握りつぶされる音が聞こえてきて、目の前の金髪美少女が苛立ったように目を細めた。

「……平民、何を企んでいるの?」

「え?」

「復讐でもしようとか考えているのかしらね?」

 唇を歪めるようにして笑う彼女は、確かに俺を馬鹿にしているような表情を浮かべているのに、どこかぎこちなかった。

「いえ、わたしは……」

「大体ね、あなたは貴族という立場の人間に対して、失礼な態度を取りすぎだという自覚はあって?」

 彼女はそう言いながら俺に歩み寄り、そのきつい顔立ちで睨みつけてくる。「あなたはね、この学園の生徒でもない、ただの下働きでしょう? わたし、絶対に許さないから」

「え、あの」

 俺は思わず後ずさりつつ、引きつった笑みを浮かべた。ダミアノじいさんに聞いてる厭な事前情報がある。

 ち〇こ切り落とすとか当たり前のように発言していたらしい、残念で痛い美少女がリヴィアである。

 俺、そんなリヴィア時代にジュリエッタさんに何かしでかした、のかもしれない。覚えてないけど。


 ジュリエッタがさらに目尻を吊り上げて叫ぶ。

「あなたが、ヴァレンティーノ殿下を嘲笑ったこと、絶対に!」

 炎のような怒りに燃えた双眸、そして『びしり』という擬音を立てそうなほど、力強く指先を俺に突き出した彼女。

 でも、俺はその言葉の意外性に首を傾げた。


「しかし、婚約者がいながら他の女性と逢引きしている男性なんて、馬鹿にしてもい」

「逢引きじゃないわよ!」

 ジュリエッタが泣きそうな顔で叫び、俺の手首を掴んで近くの木の裏に引きずり込んだ。「逢引きじゃないもの、殿下は真面目な方ですもの、あれは違うのよ!」

 俺の手首を掴んだままの彼女の手が震えていた。

 俺を咎めているような声音であったが、明らかに自分に言い聞かせている言葉だった。色を失った顔色が、彼女の混乱を教えてくれている。


「……あの子は、全部奪っていくんだわ。いいえ、違う。わたしは最初から……何も持っていなかった」

 ぽつりと呟いたその声が、あまりにも弱々しすぎてこっちが不安になる。


「……あの」

 俺が何とか言葉を探そうとしていると、我に返ったらしい彼女が慌てて俺から飛びのいた。

「下がりなさいよ、平民。何よ、あなたは何を考えてるのよ」

 逃げながらそう続けた彼女の声はさらに焦りが混じっていた。そして俺も、ちょっとどうしたらいいのか解らず焦っていた。

「いえ、何も考えていません」

「はあ?」

「いえ! その、どうやらわたしは、階段から落ちたショックで記憶がないというか、ほとんど覚えていないのです」

「え?」

 見開かれた彼女の目に、ある種の疑念が浮かび、その後に後悔の感情が入り混じる。彼女は両手で自分の口を押えながら、小さく言った。

「記憶喪失、ということかしら」

「ええ、まあ、それに似たような感じでしょうか。だから、わたしがジュリエッタ様に何をしたのか、全く覚えていなくて申し訳ありません」

「わたしが……突き落としたショックで?」

「やっぱり突き落とされたんですか、わたし」

「あ」

 ジュリエッタの視線が宙を泳ぐ。貴族令嬢、語るに落ちる。

「打ち所が悪ければ、死ぬかもしれないとは思ったりしませんでしたか?」

「……悪かったわ」

 意外と素直にジュリエッタはそう言った。ただ、その目は俺を見ようとはしなかったし、意外と根に持つタイプのようだった。

「でも、殿下を嗤ったのは許さないから。絶対に、絶対にね」

「……他の女性と浮気疑惑のある殿下ですよね?」

「だから、浮気じゃないわよ!」

 彼女は俺に対する後ろめたさよりも、怒りに駆られたようだ。「何なのよ、平民! あなたなんか、何も殿下のことを知らないくせに! わたしはずっと以前から殿下を見てきた自負があるの! 何も知らない立場だというのに、そうやって殿下のことを馬鹿にし続けるようだったら、こちらにだって考えが」

「もちろん、わたしは殿下がどんな方なのかは知りませんが」

 俺はそう前置きして微笑みかける。「でも、信じた人間に裏切られることの辛さは知っています。わたしの母も、父を裏切って出て行きましたから」


 思い出したばかりの記憶を辿る。

 その記憶はあまりにも鮮烈すぎて、今の俺にとんでもないダメージを与えているような気がした。だから、ジュリエッタを放っておけなかったんだと思う。

 俺は母を恨んだし、無気力化した父を支えてきた。伴侶を裏切るという行為が、どれほどの傷を残すか、そしてあっさりと家庭を壊すのか知っていた。


「だからこそ言いますが、自棄になってはいけません。もしジュリエッタ様があの淫……ピン……いえ、妹君にやり返そうと考えているなら、味方を充分につけて、正攻法で攻めるべきです」


「……何を言っているのか解らないわ」

 ジュリエッタが力なく首を振り、俺から逃げようと踵を返した時だった。


「こんにちは」

 そこへ、新しい声がかかった。ぎょっとしたようにジュリエッタが後ずさり、俺も思わず顔を顰めてしまう。

 一応、木の陰に隠れていたし、誰もこんなところにやってきそうにないはずなのにな。


「どうしてこんなところにいるんだ?」

 そう困惑したように、それでいて興味津津といった様子で俺たちを見下ろしている、背の高い男性には見覚えがある。淫乱ピンクと話をしていた、ラウール殿下。ヴァレンティーノ殿下とは方向性の違う、精悍なイケメンだ。

「凄い魔力の持ち主がいるなあ、と思って覗いてみたんだが……。女の子が二人、人目のないところにいるのは、いくら学園内とはいえ危険だと思うよ」

 と、彼はジュリエッタと俺の顔を交互に見つめてから、何故か俺に視線を固定して微笑む。


「君の名前を訊いていいか? 銀髪の君」

「え?」


 もの凄く厭な予感がしたので、「名乗るほどの者ではありません」と短く言い、逃げ道を探した。しかし、俺が脇に身体を移動した瞬間に、ラウール殿下が俺の手首を掴んだ。

 何だか今日はジュリエッタさんにも掴まれるし、人気あるよな、俺の手首。

 っていうか、そんなことを考えてる場合じゃねえ。


「離してくれませんか」

 俺が彼を睨みつけても、彼の表情は無駄ににこやかなままだ。

「名前を教えてくれたら離す」

「いえ、わたしは生徒でもありませんし……」

 どんどん俺の顔が強張る。助けを求めるように横目でジュリエッタを見たが、彼女は困惑したように俺たちを見つめている。

「生徒ではない? もったいないな、そんなに魔力があるのに」

「いえ」

 俺は必死に腕を引いて、何とか逃げようと足掻く。多分、全力で振り払えば何とかなるだろう。俺の身体、人間離れしてるし。しかし、それをやったらこのイケメンが身体ごと吹っ飛ばされるかもしれないから、万が一怪我でも負わせたら俺の首が飛ぶ。相手は王族なんだから、首が飛ぶのは物理的に、だ。

 そんなことを考えていると、背筋にぞわぞわとしたものが這い上がってきて、マジでヤバいと本能が叫び始めていた。


「なあ、銀色の君」

 その呼び方、やめて欲しいと顔を顰めると、それに気づいたラウール殿下が心底楽しそうに破顔した。

 ジュリエッタさんが視界の隅でこっそり逃げようとしている。

 ずるい。俺も逃げたい。連れていってくれ。


 そして、ラウール殿下が爆弾を投下した。

「君は、一目惚れって信じる?」


 ぎょっとしたようにジュリエッタが振り向く。

 そして俺は、掴まれたままの手首から、ぶわっと鳥肌が立つような感覚に襲われている。

「一目惚れというのは錯覚の類だと思います」

 そう言いながら、俺は目の前の満面笑顔のイケメンを本気で殴ってもいいだろうかと考えていた。

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