第14話 幕間 2 ダミアノ

 運が良かったのは、追手の連中に魔法を扱える人間がいなかったことだろう。魔法を学園か、それともどこかの魔法使いを師として学んでいれば、少女の強大な魔力を追うことは簡単だったろう。

 だからこそ、ダミアノはあのごろつきたちを雇った客というのが恐れるに足らない人間なのだと判断した。

 後々の懸念を払拭するためには、追手たちの雇い主は誰なのか知っておかねばなるまい。

 ダミアノは服の胸ポケットから、『擬態する羊皮紙』を取り出した。それは聖なる羊皮紙と鱗蟲の羽根を合成して作ったもので、見た目は小さな正方形の真っ白な紙である。それを手の上に置くと、小さな橙色の蜜蜂に姿を変えてダミアノの手のひらの上で小刻みに身体を震わせた。

「追ってくるのじゃ」

 小さく囁くと、ころんとした形の蜜蜂は宙を飛んで標的であるごろつき連中の元に羽ばたいていった。


 少女の身体を横抱きに抱え上げると、見た目以上に軽い体重に驚く。まともな食生活どころか、人間らしい扱いはされてこなかったのだろう。


 ――やはり、アンブロシアなのだろう。これは神具の餌、だ。


 そう心の中で呟きつつ腕の中の少女を見下ろしていると、すっかり胸の傷が塞がったらしく彼女の呼吸も安定していることに気づく。


 その時、少女が目を開いた。


 そして、ダミアノの腕の中で身体をのけ反らせ、獣じみた咆哮を上げた。


 慌ててダミアノが遮音の壁を魔法で張り巡らせ、彼女の声をこの場所に封じ込める。彼の左手の上に、自身の魔法書が現れ、少女の身体を抱え込む力が弱まった。

 すると、その獣は凄まじい勢いで何もない空間を蹴り、ダミアノから一定の距離を取った。


「殺すぞ、ジジイ」


 少女の喉から漏れた声は、軽やかな響きでありながら殺意に満ちたものだった。その双眸には暗い輝きが灯り、淡い色の唇の口角がゆっくりと上がり、刃物のような形を作る。


「てめえも俺の力が欲しいかぁ?」


 少女の喉から小さな笑い声が上がり、それはゆっくりと、狂ったように大きくなっていく。命を持たぬ空気すら怯えさせるような、憎悪の塊。狂気の渦。

「はーはっは! 手に入れた! 俺の身体! 俺の手足!」

 耳障りな笑い声が途切れると、ダミアノが察知する前に彼女の身体が自分の懐にまで飛び込んできていた。

 本能的な恐怖に負けまいと、老人の身体がいつになく背筋を伸ばす。強張った表情を作るまいと、彼は優しく笑う。それがどこまで目の前の獣に通じただろうか。

「力はいらんよ」

 好々爺然とした笑みを作った彼は、生まれてきて一番の優しい声を心掛ける。

 目の前のものは神具であり、モノである。

 しかしそれ以前に、傷ついた獣であり――。


 ――子猫だと思えばよい。


 ダミアノは自分に言い聞かせ、少女を見下ろした。小さく、ひ弱な肉体を持つ子猫なのだ、と頭に叩き込む。


「わしは強いのでな、お主の力などいらん」


「へーえ?」

 少女は少しだけ意外そうに笑い、身体を引いてダミアノの姿を頭の上から足のつま先まで、念入りに観察する。

「わしはもう、人生を引退する年齢じゃからの。散々、若い時には無茶をしでかしてきたし、面白いこともつまらぬことも体験してきた。後は悠々自適、隠居生活じゃ」

「はっ、俺の敵じゃねえならどーでもいいや」

 少女はダミアノに興味を失ったかのように笑みを消し、踵を返す。そして、魔法でできた壁に気づくと舌打ちした。

「どこに行くつもりじゃ?」

 老人のその問いに、少女は片頬だけで笑う。

「さっきの奴らをブチ殺す。生きたまま腹を切り裂いて、大通りに内臓を飾ってやんよ」


 ――ああ、本気じゃな。


 その声の裏に潜んだ暗い感情に気づき、ダミアノは困ったものだ、とため息をつく。


「やめなさい」

「できねーと思ってんのか、このクソジジイ」

 ダミアノの言葉に苛立ったように、少女が声を張り上げると、老人は軽く手を上げてそれを否定した。そのまま言葉を続けようとする老人を遮り、少女は痩せた身体を奇妙に捩じらせ嗤う。

「この身体は俺のもんだ! やっと見つけたんだ! この身体を犯そうとした奴も! ゴミのように蹴り続けた奴も! ほんの少しでも馬鹿にした奴は全部、全部! 内臓ぶちまけてやるんだよ!」


 ――これはまずい。


 ダミアノは眉根を寄せつつまたため息をこぼす。


「騒げばお主、どこぞの貴族に見つかって、そいつの所有物になるぞい? いいのかのう?」

「望むところだ! かかってきやがれ、全部殺してやんよ!」

「いや、お主は」

「今までもそうだった! 俺は所有者なんて認めねえ! 俺は俺であって、誰かのものになんかなり下がってたまるかってんだ! 俺は俺、唯一の存在であって、この世界で俺だけが俺の主人になれる!」


 むう、とダミアノは口を引き結んで腕を組む。彼の知識に寄れば、神具というのはもう少し――大人しいもののはずだった。人間に扱われるだけの存在であるはずだった。

「お主、名前はあるのかの?」

「ねえよ」

「誰もお主の名前をつけなかった?」

「……狂える剣とは言われたな。……言ったのが誰だったか忘れた」

 ふと、少女が笑みを消して考えこんだ。そうしていると、少しだけ人間らしい表情になる。

「お主の所有者はいないんじゃな? 核は……どこに保管されておったのか……」


 通常、核を保管していた人間のものになるのが神具というものだ。保管されていた場所に魔法陣があり、どこかに生まれたアンブロシアを『喰って』人間の形を取り、主の元に戻る。

 しかし、目の前の『狂える剣』にはそれは当てはまらないようだ、とダミアノはさらに悩んだ。しかし、悩んだのは一瞬で、またお気楽な笑顔を見せて言うのだ。

「まあ、行く当てがないなら、わしのところで飯を食わしてやろう。一日三食、昼寝付き、好きにやってよい。お主、まともなもんを食ってないな? わし、そこそこ偉い人間じゃから、飯も寝床も魔法素材も困らんし、生活は安泰じゃぞ?」

「ああ?」

 少女は胡乱気に顔を顰めたが、その後に続いたダミアノの言葉に口を閉ざすことになる。


「目立てばお主を手に入れようとする馬鹿が多いじゃろ? 主がいないなら、別にそれでよい。わしもお主と主従契約など結びたくもない。面倒じゃし、面白おかしく老後を過ごしたいのでな。わしが住んどるのはグラマンティの魔法学園で、争いごとは禁止じゃし、他国の連中の手が届かん場所よ。血の気の多いお主のことじゃから、たまには暴れたくなるかもしれんがの、学園内には魔蟲も結構出るし、遊ぶにはちょうどよいぞ?」

「変わってんな、ジジイ」

「よく言われるのう」


 そんなやり取りの後、ダミアノは何とか少女を炎の塔の地下に引っ張り込むことに成功した。グラマンティの学園長に報告し、「また問題を起こすのか! 何で面倒なことにばかり手を出すのか! 血圧の薬を所望する!」と叫ばれたがダミアノはそれを聞き流して笑うだけだった。

 正直なところ、その頃から学園長の額が後退し、陰で皆からハゲと呼ばれるのに拍車をかけたような気がするし、彼が自分の息子に学園長の座を明け渡したのが早まったのもダミアノの無茶な行動が心労を与えたのかもしれないとも思っていたが、それを気にすることもなく、平穏な日々に突入した――はずだった。


 案の定と言うべきか、その問題児はただの問題児であり、人間らしさ、思慮深さ、謙虚さなんてものは無縁であった。理性や知性とは無縁の獣。


 ダミアノは少女に仮の名前――リヴィアと名を与え、学園外の人間には姿を見られぬよう匿っていたが、好き勝手に歩き回る少女は幾度も生徒とやり合う羽目になっていた。

 完全に塔の地下に引きこもっているわけではない少女は、時折、男子生徒に声をかけられる。邪な下心を簡単に読み取る『狂える剣』は、そんな少年たちを簡単にねじふせ、魔蟲退治用に与えた短剣で彼らの性器を切り落として学園の正門に並べてやる、と叫ぶ。

 ダミアノはそれを必死に阻止しながら、自分の寿命が間違いなく縮んでいると頭を抱えた。


 しかし、彼がそんな問題児に同情し、手のかかる獣を手懐ける工程を楽しんでいるのも事実であった。

 少しずつではあったが、狂犬のような少女もダミアノにだけは言葉で噛みつくことが減っていったし、まともに会話することが少ないとはいえ、警戒心を緩めることが増えていった。

 少女を守るためという理由で、暴言を無意識に吐かぬよう魔法をかけることも、同年齢の少年少女より発達の遅れている肉体を改善するための薬を飲ませることも同意させた。それは、少しでも少女に安全な生活を送らせるための手段だった。


 長い時間をかけ、時には魔法を使い、ダミアノは少女――餌となったアンブロシアに何があったのかを探って、過酷な過去の片鱗を見た、と思う。

 裕福ではない平民の家に生まれたアンブロシアは、人格を持たない気狂いとして、まともな食事も与えられず、家畜以下の生活を送っていたらしい。その境遇を悲しむことも恨むこともできない、ただの器がアンブロシアである。しかし、他に類を見ないほどの魔力をその細い身体に秘めていたようだ。


 ダミアノが放った蜜蜂は、アンブロシアの両親と、それを狙った人間とその手先となったごろつきの身元を洗い出していた。それは本当に取るに足らぬ、つまらない人間たちだった。


 自分の子供がただの障害児――気狂いだと嫌悪し、物置に監禁した状態でゴミのように扱っていた両親。


 そして、とある貴族がアンブロシアを探していた。自分の一族が持っていた宝物庫の中に、神具の核らしきものを見つけたのが発端だった。


 その貴族は、人殺しだろうと何でもやるという噂のごろつきをやとい、気狂いの少年少女を探させた。もちろん、アンブロシアなどということは説明しない。ただ、奴隷として欲しいと言った。その上で、生きてさえいればいいから、と片っ端から誘拐させたのだ。貴族が気に入れば百万ルド、使えないようならどこかの奴隷商に売り払った金額をそのまま素通しに、という条件で。


 ある時ごろつきは、物置に監禁されているという彼女の噂を聞きつける。そして両親は、邪魔者である子供がいなくなることを諸手で喜び、自分から娘を差し出したのだ。

 その時の娘は一人では何もできない人形のような存在であったから、唯々諾々と男たちに従った。

 痩せ細り、実年齢より遥かに幼い見た目の少女ではあったが、世の中には白痴美という言葉もある。男たちはその美少女に劣情を覚え、強姦してから貴族に突き出そうとした。


 だが、その少女――アンブロシアが貴族の館の方へ近づいた時、『狂える剣』の核が目覚め、餌に食いついたのだろう。

 意味も解らず、目の前で核に食い荒らされる少女を見て、男たちが怖気づく。そして、その隙に一瞬だけ神具として意識を持った少女が逃げ出した、というわけだ。


 どこかの国王が所有している核でなくてよかったと言うべきだ。もしも追っ手がどこかの騎士団連中であれば、逃げ続けることはできないだろう。

 貴族は自分の屋敷から神具の核が消えたことに気づいたことで、何が起きたのか解った。しかし、表立って探し回ることもできない。核を隠し持っていたことが知られたら、王家から何らかの罰が与えられると貴族は考え、下手に動くことはできなかった。


 だからこのまま静かに暮らしていれば、その貴族に見つけられることもない。そう、静かに生きていければ、だが。


 そんな問題を抱えた神具が、唐突に前世を思い出したと言い出し、別人格に乗っ取られて、ダミアノも混乱しなかったと言えば嘘になる。常識を知らない神具を放置しておけば、ろくなことにはならない。

 だが、この状況を楽しんでいるのも事実だった。


 ――リカちゃん、この問題児、引き受けてくれんかのう。


 彼の弟子のような立場にいるリカルド・フォレスは、とある王家の血筋を引く男である。彼の出自にまつわる醜聞が広がるのを避け、この学園の教師となってあらゆる政から逃げてきたのも、その命を守るための手段だ。

 神具を持っても問題ない男なのじゃが、と残念に思うが、師匠に似たのか面倒ごとをとにかく嫌う。腐っても王族の血を引いているのだから、下手な貴族連中よりは立場が強い。問題児を囲い込むのも楽だろう。


「では、一通り、最低限の魔法は教えましたので」

 と言いおいて部屋から出て行く青年の背中を見送りながら、ダミアノは小さく笑って手を振ったのだった。

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