第2話 わたしは、女ですか
「何を言っている」
今度こそ、呆れかえったようにその男性が階段を降りてきて、散らばった本を取り上げてため息をついた。「すぐに授業が始まるんだが……解った、もういい」
「あの」
「いいから」
そこで男性は階段の上に立ったままのコスプレ少女軍団を見上げ、冷ややかに続けた。「君たちも授業に遅れる。早く行きなさい」
「はい、リカルド先生」
金髪美少女はそこで嫣然と微笑み、ふっ、と俺を馬鹿にしたようにもう一度視線を投げてから踵を返した。かつかつ、というブーツが床を叩く音が遠ざかり、その後を二人の少女が小走りに追いかける。まさに取り巻き、といった様子。
この夢、なかなか覚めないもんだな、と現実逃避の考えの中に沈んでいると、リカルド先生とやらがまた深いため息をこぼした。
「立てるか? 階段から……落とされたのか」
そう言えば、この俺の状況は確かに階段から突き落とされたと言ってもおかしくないと気づく。単に俺が誤って階段を踏み外したという可能性もあるけれど、さっきのコスプレ軍団の目つきも口調もどこか怪しかった。
立ち上がろうとして、右足首に鋭い痛みが走る。
黒い靴は足首を覆う形のブーツだから見えないけれど、怪我をしているようだった。さすがに骨折しているような痛みではないから、歩けはするだろう。
恐る恐る立ち上がり、ぎこちなく足元にあったポスターらしきものを拾い上げる。しかし、すぐにそれはリカルド先生に奪われた。
「珍しいな、怪我をしたのか? 貴族連中には気を付けろと言われていなかったのか」
彼が続けてそう言って、俺はやっとそこで今の状況をただの夢と片づけるには難しいと判断した。
「あの、よく解らないのですが……わた、わたしは誰なのでしょうか」
「……ああ?」
そこでリカルド先生が胡乱そうに俺を見つめた。目を細め、何か考え込んだ後にその手を俺に伸ばしてきた。ついその指先を避けて後ずさったものの、足の痛みによって動きが鈍かった。
「足だけじゃなく頭も痛めたのか」
彼の手がいつの間にか俺の額に触れている。そして、一瞬だけぴりりとした痛みが額に弾けた後、彼は舌打ちした。
それと同時にこの建物にカランコロンという鐘の音が響き渡る。
授業とやらが始まったのだろうか、と俺は少しだけ視線を天井へと向けた。
「歩けるか」
「えー……と、多分、歩けます」
俺が首を傾げつつそう返すと、彼は一瞬だけ考えこみ、無言で俺の身体を自分の肩の上にでかい荷物のように担ぎ上げた。
雑!
もうちょっと労わってくれても!
そう思ったけど、本を持ったままの俺を担ぎ上げ、さらにポスターまで持って階段を上がるのは大変そうなのでじっとしておくことにする。
先生は階段を上がり、重い荷物を担いでいるとはとても思えないくらい軽やかに廊下を歩いていく。
重厚そうな大きなドアを一つ通り過ぎた後、次に現れたドアの前で足をとめる。そして俺を床に下ろして、ドアを開けた。
開いた瞬間、部屋の中が見える。広い空間にどこかの大学だろうか、と思えるような教室があった。階段状になったフロアに机と椅子が整然とに並べられ、適度な距離を保って生徒と思われる少年少女が座っている。
さっき見た金髪のお嬢様と同じ制服を着た人たちが、先生が教室に入った瞬間にこちらを見た。
「すまないが、自習だ」
リカルド先生は教壇に立つ前に軽く手を上げた。その途端、教壇の背後にある黒板に青白い文字が浮かび上がる。
「今日の範囲は肉体強化の魔法だ。テキストの三十六ページを読了のこと。前回の課題レポートを委員長、回収して休み時間に届けてくれるか」
「はい」
委員長と呼ばれた少年が椅子から立ち上がり、軽く頭を下げた。
先生はそれから一言二言続けた後、扉を閉めてまた俺を担ぎ上げる。
そして、彼はこのフロアの一番奥にあった小さな部屋――医務室と思われるところへ俺を連れていってくれた。ただ、常駐している先生はいないらしく、無人だった。
医務室はそれほど広くはない。日本で言うところの八畳くらいの広さ。ベッドが二つ、机と椅子、本や怪しげな薬瓶がずらりと並んだ古臭い棚がある程度。しかし、本棚に並んだ背表紙に書かれた文字も、薬瓶に貼られたラベルに書いてある文字も読める。英語ではないし、どこか角ばった感じの文字は……こんなの知らないはずだ。
あまりにも異世界すぎて俺の理解力がついていけてないが、どうやらここは魔法を教えている学校らしいということだけは解る。映画か漫画の世界である。
ってことは俺も魔法を使えるのだろうか。
いや、さっきの残念な金髪美少女が俺のことを何て言ってた? 使用人? ってことは、魔法を習いに来ている生徒の立場ではない。
うーむ、と唸っていると先生は俺をいつの間にか医務室のベッドの上に放り出していた。
雑。
乱暴。
俺が顔を顰めて彼を見上げると、リカルド先生は無表情のまま俺の前に跪いた。その手で俺が怪我した足首に触れ、何事か囁く。
俺が驚いて身体を強張らせている間に、何もかもが終わっていた。
彼が触れた場所に赤みを帯びた光が弾け、まるでこたつの中にでもいるかのような温かさがじんわりと足首に広がる。その温かさはやがて体全体へと伝わって、さっきまであったはずの痛みは完全に消えてしまう。
「それで、自分の名前は言えるか?」
リカルド先生は立ち上がり、俺を見下ろして静かに訊く。
「えーと」
彼を見上げながら、痛みのない足首をぐるぐると回して確認する。さっきの光は俺の怪我を治療する魔法だったらしい。
そして俺の名前は――と言おうとして。
おいおいおい、ちょっと待とうか。
俺は日本人だ。そのはずだ。男で、学生だったような気がする。
でも、名前が思い出せない。年齢は? 親は? 恋人は?
恋人はいなかった。それは何となく覚えてる。
でもそれ以外は――。
「……解りません」
俺は観念してそう言った。
そこで俺、唐突に本を抱えたままだったことを思い出してベッドの上に置いた。表紙には見覚えのない文字が書かれているのに、何故か『炎属性の魔獣と召喚術』と頭の中に入ってくる。
窓があったけれど、そっちに視線を投げても明るい空が見えるだけで、他に視界に入ってくるものがない。ここは何階なんだろうか。
「名前が解らない? 他はどうだ?」
「わ、わたしは日本人で、学生だった、はずです」
俺はそこで我に返り、視線を先生に戻す。とりあえず自分の状況を説明するのが先だろうと思うけれど、やっぱり丁寧語しか俺の口は喋ってくれず、どこかぎこちなくなってしまった。
「ニホンジン?」
先生は眉間に皺を寄せ、俺を睨むように見つめる。「ニホンジンというのが何なのか解らんが、学生ではないだろう? 頭を打って記憶が混乱しているのか?」
「え? 混乱、してます。間違いなくしてます。あの、わたしの名前は何でしょうか?」
「……リヴィア。しかし、その名前も解らん、と」
彼は疲れたように息を吐き、近くにあった椅子に腰を下ろした。持っていたままだったポスターを机の上に転がして、少しだけ考えこむ様子を見せた。
「リヴィアというのが……わたしの名前ですか?」
「ああ」
「わたしは……女ですか」
「それすらも解らんのか」
リカルド先生は茫然と目を見開き、やれやれといった様子で肩を竦める。高身長でイケメンがやるとむかつくくらいに様になる。
「いえ、再確認です。そして」
「そして?」
「わたしはどうしたらいいんでしょうか?」
「それは自分で考えろ」
そりゃそうか。
とにかく俺は頭が働いていなかったし、間抜けな顔をしていたんだろう。呆れたを通り越して同情に満ちた目で見られたのは居心地悪かったが、リカルド先生は先生なりに優しさを示してくれた。根気強く俺から何を知っているのか、何を知らないのか聞き出そうとしてくれた。
まあ結局、俺が何一つこの世界のことを知らないこと、世界どころか自分のことも知らないと再認識するだけだった。
で、言葉での説明は無意味だと気づいたのか、それとももう俺と関わるのは面倒だと思ったのか、彼は立ち上がってこう言った。
「とにかく、お前はこの炎の塔の管理人、いや管理人助手だ。お前の保護者である男の名前も思い出せないだろうし、管理人室の場所すら解らないとみた。案内してやるから、詳しい話はそこで聞くといい」
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