アンブロシアは魔法学園に潜伏中

こま猫

第1話 落ちて、気が付いたら

 よく、目が覚める直前に落下するような感覚を覚えることがある。

 今もそうだった。気づけば俺は真っ暗な空間で目を開けた――ような気がして、がくんと足を踏み外す感覚に襲われた。

 でも、いつもだったらそれは一瞬で終わり、すぐに自分のベッドで目を覚ます流れだ。

 しかし今は、落ちて落ちて落ちて、目の前がちかちかと光が舞っていた。不安定な浮遊感の中で、俺は「変な夢だな」と冷静に考えていた。

 だって夢だし。

 だから、目の前に唐突に現れた巨大な物体にも驚きはしなかった。


 暗闇の中、その物体だけが圧倒的な存在感としてある。

 とげとげとした形、まるで何かの宝石の原石のよう。こういうの、売ってる店があるだろう?

 磨かれていない水晶の集合体。そんな形状をしたものが、俺が落ちた先の暗闇で強烈な光を放ちながら『身じろぎ』した。


 生きてる。


 俺がそう感じた時、遥か頭上から誰か――何かが言った。


『喰い尽くせ』


 何を?


 俺がぼんやりとそう頭の中で考えると、まるで俺の考えていることが解っているかのように『何か』が重ねて言う。


『喰われる前に喰い尽くせ』


 何だそりゃ、と眉を顰めた瞬間。

 目の前の物体がぴきぴきと音を立てて変形しだした。

 巨大な水晶の塊は、まるで武器のように形を変えていくのだ。鋭い剣でも作るかのようにさらに伸びて、そして『咆哮』する。怪物か何かのように、剣のように姿を変えたその根元には、牙を備えた巨大な口が――。


 やべえ、マジきもいんですけど!


 唐突に背中を襲ってきたぞわぞわとした危機感に、俺は身体を引いて後ずさろうとする。でも俺の身体は奇妙にふわふわと動き、まるで水の中にいるかのように動きが鈍い。

 がちがちと空気を噛む巨大な口。

 逃げたい逃げたい逃げたいと俺の心が叫ぶ。

『喰い尽くせ、喰い尽くせ、喰い尽くせ』

 そう俺の身体を取り囲むように声が粘度を増した。何だこの声、何が喋ってるんだ?

 淡い疑問が俺の意識を侵食する前に、目の前の怪物が明確に俺への殺意を剥き出しにした。

 この怪物は何なのか、俺に聞こえる声は何なのか、それを考えている暇もなく。


『喰い尽くせ』


 怪物が巨大な牙を剥いて俺に覆いかぶさろうとしたので、俺は声に命じられるままに自分の口を大きく開く。


 がぶり。


 唯一、緊張感のないのは俺の口だったかもしれない。怪物を噛んだ、ような気がした。俺の歯が怪物に食い込んだ、と思ったその瞬間だった。 


 ――痛い。


 俺は遠すぎる天井をぼんやりと見上げながら、遅れてやってきた痛みに顔を顰めた。後頭部と背中、腕に鈍痛。恐る恐る身体を起こすと、無意識に俺の口から呻き声が漏れる。

「くうう……」

 右手で頭を押さえると、自分の髪の毛に違和感を感じた。

 細い髪質。どうやら頭の後ろで長い髪の毛をまとめているらしく、指が髪の毛の中に埋もれたまま動きをとめられた。

 俺、髪の毛伸ばしてないのに。

 あれ?

 っていうか、ここはどこだろうか。

 変な夢を見たのは覚えている。

 でも。

 俺は辺りを見回そうとして困惑する。そこが全く見覚えのない場所であるのがすぐに解ったからだ。

 俺が座り込んでいるのは石畳の床。目の前にある白い階段は、大理石のような美しい模様があって、どう考えても俺の家ではないし家の近所でもない。見上げた階段の上には、とても日本とは思えない空間があった。

 とにかく、天井が高い。壁は石造りで、レンガとは違う高級感のある石が積み上げられている。壁には炎が揺らめくランタンのようなものがつけられていて、窓がなくて薄暗い廊下を照らし出している。

 定間隔に存在する柱には細やかな彫刻、どこかのゲームの世界に置かれているような大きな彫像もある。

 そして、明確な違和感そのものが階段の上に立っていた。


 金髪の美少女が俺を見下ろしている。年齢は恐らく、十代半ばだろう。流線型を描く長い金髪は、艶々に輝いていていかにも『高級そう』な雰囲気を醸し出している。

 それに、奇妙な衣装を着ていた。

 そう、まるでコスプレだ。

 紺色の――制服、だろうか。ブレザーとベスト、膝上丈のスカート。見え――残念ながらスカートの中は見えなかった。

 ブレザーの上に、さらに制服と同じ色のマントのようなもの。胸の上で金色に輝く留め金のようなものでとめていて、マントには白い糸で刺繍が施されている。

 痩せていて、気の強そうな吊り上がった青い瞳。俺を見下ろしているその目は、一瞬だけびっくりしたような、心配したような色がチラついたように見えた。でも、俺が首を傾げて見せると安堵の色と共に嘲りに似た光を瞳に灯した。

「あら、邪魔なところに立っていらしたのね? 気づかなかったわ」

 彼女がそう嘲笑しながら首を傾げて見せると、彼女の両脇にいた少女たち――金髪美少女がインパクト強すぎて君たちいたの? 状態である――も追随するかのように笑った。

「そうよ! ジュリエッタ様の歩く先にぼんやりと立っているなんて!」

「そうよ! 階段から落ちるなんて何て間抜けなのかしらね! 大体あなた、こんなところで何をしているの!? 我々生徒の授業の時間に、あなたのような使用人ごときが教室のフロアに上がってくるなんて――」


 うん?

 どういう状況だこれ。

 俺は思わず自分の頬を手でつねってみた。夢の続きかと思ったからだ。しかし、痛い。そういえば、まだ後頭部やら腕やら背中が痛いのだった。

 何だかよく解らない状況に俺はいて、気が付けば――。


 俺は自分の手のひらをまじまじと見つめた。

 白い指。っていうか、手首も指も細い。着ているのは見覚えのない服だ。黒いブラウス、黒いズボン、黒い革靴。ってか、全体的に細っこいけど……これって女物じゃね?

 細い身体と明らかに女の子と解る自分の肉体に、俺は思考能力が完全に停止した。


「何をしている」

 そこに、三人の少女たちの背後から男性の声が響いた。

 コスプレ少女軍団の背後から、背の高い男性が姿を見せた。長めの黒い髪の毛と灰色の瞳、白い服と黒いマント。マントの胸元に当たる部分には、大きな刺繍で複雑な紋章のようなものが入れてある。

 それより気になるのは、洋画にでも出てきそうなほど、彫りが深くて整った顔立ちだ。気難しい感じでこちらを見ているけれど、きっと笑ったら女の一人や二人、あっさり落とせそうな二十代前半と思われる青年。

 何だこのイケメン、とムカつきつつも彼を見上げていると、その男性が階段の下で座り込んでいる俺に気づいて眉を顰めた。

「……何をしている」

「何って」

 俺はそう言いかけて、自分の声が高いことに気づいてぎょっとした。俺、やっぱり女の身体になってる?


 そうか、これは夢だ。

 色々なところが痛いけど……痛覚は確かにあるけど夢だ。


 だって俺は。


「……」

 俺は、と言いかけて喉の奥が詰まる。声が出ない。いや、確かにさっきは声が出た。

「……」

 俺は。

 そう言おうとしているのに、唇は動いても声となって出てこない。そうしているうちに、喉の周りをぐるりと円を描くようにちりちりとした痛みが走った。まるで、ロープか何かに締め付けられているかのような息苦しさ。

 俺は誰なのか、と問いかけることを断念し、あんたは誰だと男性に声をかけようとして、やっぱり上手く言葉が出てこなかった。

 何だろう、何がいけないのか、と首を傾げようとすると、唐突に頭の中にぼんやりとした命令のようなものが広がった気がした。


 ――女性らしい言葉遣いを心掛けよ。


 それは誰の命令なのか解らない。それに、これは夢なんだから意味不明なことがあってもおかしくはない。

 おかしくはない、んだが。

 夢だと信じていいんだろうか。

「あなたは誰ですか?」

 あんたは誰だ、と訊きたかったけれど、どうやら乱暴な口調で話すことができないらしい。俺は、とか、あんたは、とか口に出そうとすると喉が苦しくなる。

 だから、丁寧な口調を心掛け、女の子らしい声音に困惑しつつ首を傾げてそう言うと、階段の上から俺以上に困惑しているだろう男性の声が返ってきた。

「何を言っている? 早く教材を教室へ運んでくれ」

「え?」

 俺が視線を床に落とすと、そこには何冊かの本が乱雑に散らばり、何かのポスターみたいに丸まった紙も数本転がっていた。俺がこれを運んでいたということだろうか。

「あの」

 俺はもう一度視線を階段の上に向けて問いかけた。「わたしは……誰でしょうか」

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