第22話 ショパンを弾く男たち (コルトー、フランソワ、ルービンシュタイン)


 ショパン弾きと呼ばれる男性ピアニストに、「無視できない個性、そして魅力」を感じるのは僕だけではあるまい。若い「ショパン弾き」にはブーニン或いはキーシンやポゴレリッチとかもいるのだけど、ここでは、全て故人となってしまった「おじさん三人組」を挙げてみたい。コルトー、フランソワ、そしてルービンシュタイン。

 無論、彼らはショパンだけを弾いているわけでは無い。コルトーはロマン派を、フランソワはラベルやドビュッシーを始めとしたフランス音楽やプロコフィエフを得意とし(本当はベートーベンなども演奏してはいるのだけど、その演奏に関しては様々な議論がある)、ルービンシュタインはもう少し幅広い領域(古典派から現代音楽、例えばシマノフスキ)をカバーしている。

 だが、彼らはその名前を聞いただけで「ショパンを想起させる」ピアニストたちである。そう、そして・・・まるでショパンという名の華やかな香水を身に纏っているかのように女性を惹き付けるような男たちであり、まさにショパン弾きという名称に、或いは称号に値するピアニストたちなのだ。

 そのうち二人はショパンが壮年期を暮らし、そして最期を迎えたフランスの人間(どちらもフランス生れでは無いけど)、もう一人はショパンが産まれたポーランド出身のピアニストである。


アルフレッド コルトー Alfred Cortot

 コルトーはフランス人の父親、スイス生れの母親を持つ。コルトーが生を享けたのは母の母国であるスイス、その上父の家系はカタルーニャにさかのぼるので純粋なフランス人とは言えない。しかしその個人主義的な生き方といい明確な主張・個性の強さといい、間違えなく彼は「フランス人」の特質を強く兼ね備えたピアニストである。

 しばしば、コルトーの演奏はピアニストの技量として「いかがなものか?」というような批評に晒され、中には「今なら音大のピアノ学科に合格さえ出来ない」などとも評されるが、もしそうだとしたら不合格なのはコルトーの方では無く、そんな「音楽大学」の方である、と僕は考えている。下らない批判は、往々にしてつまらない権威をかさにして行われるものだ。

 実際、コルトーが育てた弟子には、リパッティとかハスキルとか、ハイドシェックら錚々そうそうたるピアニストたちが居る。その音楽的個性を誰よりも鋭く見出したのは彼であり、世の権威が否定的だった弟子たちを見出し、育て上げた彼こそが本来「権威」であるべきなのだ。もっともコルトーは権威を振りかざすようなしょぼい人間では無かったようではあるが。


 とはいえ、その評は日本に特有なものではなくフランクのバイオリンソナタのライナーノーツを書いているDenis Matthews(彼自身もピアニストである)は"It is true that he was sometimes criticised for technical roughness and excessive rubato"(彼が技巧的な粗さと過剰なルバートで時折批判されたのは事実である) と書いている。注目したいのはこのステートメントが現在完了では無く、過去形で書かれていることで、この時点では(少なくとも著者の観点では)そんな批評は「過去のもの」であったと言うことである。僕は僅か三枚の演奏しか持っていないけど、この批評家に完全に同意する。とりわけシューマンのピアノ協奏曲を聞いた後でなお、そういう主張を平気で行う人間がいたとしたら・・・誠に残念なことである。


 確かにショパンの演奏を集めたCDを聴くと、現代のピアニスト・・・いや後述するルービンシュタインに比較するとかなり「自由」「奔放」なテンポ設定に驚かされる。「前奏曲集」の最初のハ長調から、ポリーニやアルゲリッチの弾くショパンとはまるで別物のよう。思わず「楽譜、一緒のものですか?」と言いたくなるような違いが発生しているのだ。それはテンポルバートの問題だけでは無い。

 今の世の中であれば技術的に「音」の方から「楽譜」に作り直す事も可能だと思うけど、コルトーの演奏を「楽譜」に作り直すと様々な部分が微妙に元譜と異なってくるだろう。

 でも、11番のB-durをこんなに素敵に弾けるピアニストっているだろうか?12番のエンディングをあんなに素っ気なく、でも実は優しく弾き終える人はいるのだろうか?この演奏には確かにショパンの斑気むらきに共通する何かが存在し呼応しているのだ。楽譜通りに弾くというのは「1番正統性を主張するのが容易な、だからこそ(ある意味、思考を拒否した)卑怯な演奏だ」とさえ思えてくる。

 しかし時代はコルトーのようなタイプのピアニストを時代遅れと断じ、そうした「断罪の流行」はルービンシュタインも一時、打ちのめすほどであった。(ルービンシュタインは自ら自分の弾くショパンの音が余りにも楽譜から抜け落ちていることに気づいて、一時は死ぬほど悩んだと言われる)

 それにしても、なぜ人は「あるタイプ」の演奏のみを「正しい」と断じようと試みるのか、全く理解に苦しむのである。そもそも音楽の世界などに「正しさ」などは本来存在しないのではないか?

 「幅のある解釈」を認めることこそが「正しい」のではないか、と僕は思う。

 こうした問題は小説とか絵画には存在しない。主に音楽の世界、多少類似するのが演劇やバレーの世界で、そもそもこの芸術に特質的なのは聴き手の前に「作曲家と演奏家」が存在するという二重構造があるからだ。そして多くの場合「作曲家」の意向が「演奏家」の上位にあるという前提の下で人は批評を始める。しかし、その際に「作曲家」の威を借りて演奏家をけなすのは、どうにも腑に落ちない行動である。それが可能なのは作曲家その人のみである。

 更に言えば音楽は法廷に持ち込むようなものではない。断罪されるものはないのだ。例えて言えば、僕はアファナシェフの弾くピアノを余り好きでは無いけれど、だからといって存在を否定する積もりは無い。その好みを確認するためにはただ一回、ただ一枚のCDで判定する事も無く、シューベルトとベートーベンを何回か聴いて、結論としてこういうタイプの演奏ならば「敢て言うなら(比較的似ているタイプとして)僕はグールドの方が断然好きです」という結論に達したわけである。

 しかしこれは個人的な感想でしか無いし、アファナシェフにとっては屁の突っ張りでしか無い。そしてアファナシェフの演奏に価値を見出す人はそれこそ山ほど居るだろうし、その人たちと争うつもりは無い。

 そんなのは所詮好みでしか無いわけで、好みの「好きな方」を言う事は構わないのだが、往々にして人々は否定から入る。まあ、こういうのもアファナシェフの演奏を否定していると捉えられるわけなのかなぁ。やはり「沈黙こそは金」なのだ。


 話を元に戻す。コルトーの演奏。

 その価値は貴重そのものとはいえ、前奏曲集の演奏は1933年から翌年に録音されたもので、音質の悪さも手伝ってその真髄に触れる前に耳が疲れてしまう。だが、カップリングされているアンプロンプチュとバルカローレは1949年、1950年の演奏で特筆すべき素晴らしい演奏である。

 戦後コルトーはナチスへの(積極的とまでは言えないが)協力を疑われていた。ヒトラーは貧乏絵描きという経歴のせいか芸術家気取りの蒐集家であった。絵画の蒐集は単なる蒐集と秘蔵に過ぎなかったが音楽家はそうはいかない。彼はドイツや周辺国の「ユダヤ人以外」の音楽家を蒐集する(という言い方が正しいのかは議論の余地はあるだろうが)という行為に出た。その結果、さまざまな音楽家が結果的に被害を受けることになる。

 リヒャルト シュトラウス、ウィルヘルム フルトヴェングラー、ヴィルヘルム メンゲルベルグ、クレメンス クラウス、ヴァルター ギーゼキング。

 世の中はこうした音楽家がヒトラーにNOを突きつけなかったというその事実を以てナチスの協力者と断じた。

 コルトーは何度かナチスから受けた招聘しょうへいを断らなかった。その事が災いしたのであるが、彼がフランス人であったことによってその不運は更に大きなものになったのだ。オランダ人であった指揮者、ウィレム メンゲルベルグも同じような目にあっている。僕は彼らのそうした話を聞く度にキャパの写真集にある「罰を受け剃髪されたフランス女」の写真*を思い浮かべる。(*「ロバートキャパ写真集」(ICP ロバート・キャパ・アーカイブ編 岩波文庫 青580-1 ISBN978-4-00-335801-6  no.154/155)

 ドイツ人との間に生れた子供を抱え、後ろについてくる母親と共に多くの民衆に嘲られ、罵られても毅然と前を向く女性の心中は果たしてフランスの解放を呪っていたのであろうか?その姿は横で興味深げに女を眺める人々とそんなにかけ離れたものだったのだろうか?

 そうした「本来なら隣人として仲良く出来る筈の人々」を切り裂く愚かな政治家こそ責任を負うべき存在である。その政治家のみを断罪すれば済む話では無いのか、と思いつつ、今なおそうした政治家たちを断罪できない諸国民、或いは断罪できなかった我々の過去を思うとひどく心が揺れるのである。

 つまり・・・コルトーにしてもフルトベングラーにしても、写真の彼女にしても「僕ら自身」は彼らがどの程度まで深く関わっていたのか、どうしてそうなったのかは実は「知ってはいない」のであって「外形的な繋がり」でそこまで断罪して良いのかという思いもある。しかし、今ロシア政府を擁護する文化人やスポーツ選手の主張を「受け入れる気にもならない」という現実もある。そういう状況を作る愚か者(この場合はロシアのツアーリ擬き)こそが真に断罪されるべきなのだけど。


 ピアニストに話を戻す。

 シューマンのピアノ協奏曲にはライブである事などを考慮にいれ、この演奏を行ったのが既に70歳を超えた事実を考えると「音を飛ばしたり、テンポがおかしかったりする」事を嘲笑するより、その演奏が齎す感興こそが圧倒的で、僕は実に素晴らしい演奏だと思っているのだ。

 もちろんあらを探せばいくつでも出てくる。終楽章ではかなり怪しい音が散見されるし、同じCDに組み合わされた(やはり)ライブの葬送行進曲付のソナタなどはもう少しショパン作曲、コルトー編曲みたいな部分もでてくるのだけど・・・それはそれで「ショパンとコルトー」という総体としての芸術を感じる事ができる。

 それが分らなくて、譜面通りではない、事を声高に主張することの意味は(弾き手としての主張はあるかもしれないけど)聴き手には全くない。聴き手にとってはその演奏に感動できるかどうかが唯一のメルクマールなのである。

 どうしてもそれが許せないならば、1949年から51年に掛けて演奏された即興曲を聴いて欲しい。(前奏曲集にカップリングされているものだ)スタジオ録音だけあって、演奏も音も実にしっかりとしており、幾ら批判されても残っているルバートはあるけれど、そもそもそれはショパンその人が許したものである。取り分け「幻想即興曲」など、実にショパン的なテンポ ルバートではないか。この頃のコルトーの演奏は前奏曲に見られるほどルバートの多用もしていないこともありかなり正統的でありながら、コルトーらしい洒脱な雰囲気も残っており、よく熟成されたシャトーマルゴーのような香りを感じさせる素敵な演奏である。


 コルトーはパブロ カザルス、ジャック ティボーとカザルス トリオという三重奏団を結成したことでも知られている。僕はこのトリオの演奏を聴いたことは無いのだけど、フランク・ドビュッシー・フォーレをティボーと共演したCDを持っていてそのうちフランクとドビュッシーは彼らがまだトリオを組んでいた時代の録音である(1929年)名曲として知られるフランクのバイオリンソナタについて言えば、もうこれは(録音の悪さはあるけれど)最初で最後で構わないほどの名演である。

 ・・・というのは言い過ぎかも知れないけど、とりわけ室内楽曲に関して「なかなか超えることの出来ない名演奏」というのは意外に多くて、シューベルトの「鱒」などもスコダとウィーンコンチェルトハウスの演奏と「並ぶ」名演は幾つかあるのだけど「超える」名演というのはなかなか出てこない。

 フランクの、ひどく抒情的で感傷的なメロディを衒いもなく52歳のピアニストと49歳のバイオリニストが弾ききることの素晴らしさ。これはなかなか並の演奏家の組み合わせでは到達しきれない境地なのだろう。このソナタはチェロ用に編曲されたものを含めて幾つかの演奏を保有しているが、この演奏を超えるものを見つけるのは難しそうだ。

 先ほども述べたコルトーのナチスに対する態度はカザルスの怒りを買い、カザルストリオは解散することになり、やがてティボーとも袂を分かつことになる。(ティボーはパリ音楽院でコルトーの同僚であったマルグリット・ロンと組むことになる)

 こうした演奏家としての不幸や友人関係の破綻を経てなお、コルトーはピアノを弾き続けた。世評とか批判とか関係なく自らの主張を貫き、さして世間を恨むことなくピアニストとして生涯を終えることになる。そういう生き方こそ「生き様」という言葉に相応しい人生なのではないか、というふうに僕は「生き様」という言葉を選びたい。


サンソン フランソワ Samson Franscois

 サンソン フランソワほど「雰囲気のある」ピアニストはなかなか滅多にいるものではない。セラフィム版のレコードにしろ。EMIのCDにしろ、カバーに写る彼の写真は実に「かっこいい」のである。サンソンフランソワはドイツ(フランクフルト)生れであるが、両親はどちらも生粋のフランス人で、彼自身もいかにもフランス人らしい雰囲気・・・生まれついての女誑おんなたらしの雰囲気を備えた男性である。

 

 セラフィムのレコードにあるライナーノーツによると、フランソワは世界中の演奏会に旅行した結果、彼自身の計算によると「地球と月の距離の旅行をしたことになる」らしい。そして彼自身、「ジャズに関してはかなりの目利き」であるばかりではなく、「映画音楽に関しては趣味以上」の関心があり、そのために自らの会社を設立し,カンヌ音楽祭の審査員としても働き、フィルム音楽も彼自身が作曲したこともあるとの事だ。こうしたなかなか知ることの出来ない情報が書いてあるのが外盤のいいところで、日本の評論家に書く感想文やありきたりの紹介文よりもよほど演奏家に関する情報が充実している。(外盤のライナーノーツは通常、音楽そのものに関する結構深い洞察が記載されているだけであるが、復刻版や全集などには演奏家の情報がかなり詳細に書かれているケースが多い。例えばグールドのようなミステリアスな演奏家などは、後に彼の項で触れることになると思うけどライナーノーツに演奏家としての人となりを知る貴重な情報も含まれているので見逃せない。日本の評論家もう少し取材をするか、できないなら外盤の翻訳の方が良いのではないか?そもそも外盤でもライナーノーツを書いているのは国籍を問わずその手の専門家一人で、それを英語やドイツ語、或いはフランス語/イタリア語に翻訳しているのが殆どである)


 フランソワの話に戻そう。

 1924年産まれの彼にとってジャズや映画音楽というのは大いに関心を惹かれる対象であったに違いない。翌年に生れたポール・モーリアや少し歳は離れては居る(といっても5年)がレイモン ルフェーブルとほぼ同じ世代に育ちイージー リスニングにおける彼らの大成功に気を惹き付けられないわけはあるまい。また人気が下火になってきたアメリカからヨーロッパに移って活動を始めたジャズプレーヤーの中にはフランソワと同い年のバド パウエルなどの名手もいたわけで、クラッシック音楽に身を置いたフランソワも影響を逃れ得なかっただろう。「ごろつきのためのバラード」などという映画音楽を彼が指揮した録音も残されているらしい(寡聞にして聴いたことは無いけど)フランソワというのはいわゆる優等生のタイプではないからとりわけ心が揺れていたに違いない。

 もともとフランソワはコルトーに見出されたのだが、音楽院ではマルグリット・ロンによって教えられた。コルトーは「才能を見出すのに異常に長けた」人間でありながら、その全部を面倒見るつもりなど毛頭無かったらしく、モーツアルトの項で触れたハスキルなど、ちっとも面倒を見て貰えなかったらしい。それでも彼女は演奏会への恩師の来場を何度も請うたのだが、コルトーは行かなかった。

 とはいってもそれにはコルトーなりの人間観察があったようで、「もし自分が出掛けて彼女がそれを知ったなら恐らく演奏会は上手くいかないだろう」との考えが根底にあったらしい。フランソワをロン夫人に預けたのはコルトーとフランソワで師弟関係を結んだら(敢て悪口を言えば)ダメ人間の組み合わせになりかねない、という思いがあったのであろう。リパッティのような真面目な人間には自分のような奔放な人間を組み合わせ、フランソワみたいな人間には真面目な教師を組み合せる、そういう微妙な人間の綾をコルトーという教師は見抜いていた節がある。


 そのフランソワによるショパンのワルツを聴いてみて欲しい。華麗なる大円舞曲からそれは始まる。何といおうか、軽妙洒脱としか形容しようのない音色・・・華やかなドレス・・・それは白ではなく、そう薄い黄色のドレスを纏った脚の細い少女が軽やかに踊るような風景。ショパンのワルツは様々な女性を思い描かせてくれるけれど、フランソワの想起させる女性は他の演奏家にはない魅力がある。

 ショパンという人間が持つ、彼なりの多様性・・・ベートーベンほど複雑でなくモーツアルトほど高貴な傲慢さでは無く、純朴でどこか田園めいたものを残す青年がパリで洗練されていく過程で時代時代に残していく華やかな香りの名残、それは純粋であり、どこか華麗であり、それでいてどこか軽薄で・・・そうした多様性の全てをフランソワは指で紡いでいく。田舎めいたショパンではなく、かといってサンドとの華やかな恋に溺れた残り香だけではなく、軽薄な部分を含めたショパンの全て。フランソワだからこそだせるそうした部分がこの演奏にはあるのだ。

 聴き手はポリーニやルービンシュタイン、ホロビッツでさえ捨象してしまったショパンの体に刻印された本質みたいなものが顕わになるのを感じるのだ。むろんバックハウスやケンプでは全く感じられない色気のようなものを含めて・・・それはどれほど貴重なものであろうか。コルトーとは別に意味で彼の演奏は長く残り、長く語り続けられ、長く聴いていくべき演奏なのだと僕は思う。

 op.64-1を聴けば、あの黄色のドレスで踊っていた少女がパンツ姿でリュクサンブールのあたりを小さなプードルを引いて散歩する姿が見える。その足下に纏い付きながら掛ける仔犬も一緒に。

 そしてop64-2。高貴なメロディ。セピア色の写真の中に封印された夢としか思えない想い出。フランソワの弾くワルツはどれも本当に素敵なのだ。最後のホ短調は大人の色気に満ち満ちている。

 一緒に収められた即興曲も独特の演奏で、有名な幻想即興曲などは、他のピアニストとはかなり違う。表情をやたらにつけたがるピアニストと、違って素っ気ないほどにあっさりと弾いていくからこそ曲本来の持つファンタジーの世界が立ち現れる。

僕の持っているCDではワルツと即興曲に加えバラードとスケルツォが組み合わされて二枚組として発売されている。ワルツやアンプロンプチュより早い1954年から55年の録音で一応ステレオ録音とされているが、もしかしたらpseudoかもしれない。ワルツよりフランソワ独特の間合い、弾き方の癖が濃厚でフランソワ好きにはよりアピールしそうだ。コルトーのテンポルバートとは全く違う(それでこそテンポルバートではあるけど)。僕はワルツの方が好きだけど、フランソワ節を聴きたければこの時期の方が「はじけている」かもしれない。

 もう一つの組み合わせであるノクチューンとプレリュードでは、プレリュードの方により強く癖を感じる。それは実際に癖があるというより、曲間を含めてたくさんの前奏曲集を聴いて、その「まとまり」として「曲集」を捉えているからに相違ない。そのために「全体」や「個々」の曲のニュアンスが「聴き手側に於いて」全て再構成を要求されるのだ。

 独特の間合いは魅力的で、彼の(ワインとシガーの香る)息づかいを感じさせ、それなりに魅力的であるが、僕はノクチューンの演奏の方を好む。

 理由はちょっと前に書いた通りショパンが前奏曲集において「どのように曲を構成し、また曲集として構成したのか」による。op.28という一つのperspevtiveの中で演奏される(べき、といったら言い過ぎかも知れない)前奏曲集として捉えるならば、その全体の構成やそれぞれの曲に対する自由度はある程度制限されるような気がして、その場合「少しかちっとした」演奏をより高く評価してしまう僕がいる。

 この弾き方をするならばホロビッツのようにばらして欲しい、ような思いがするのだ。本来ばらばらに作曲され、めいめいにopを持つ夜想曲こそ纏めて演奏するのが「おかしいじゃないか」という意見もあるのだろうけど、あくまで個人的に言えば「前奏曲」を個別の曲の集合として捉えるのか、一つのlibroとして捉えるかの解釈の違いであり、僕は一つのlibroとして捉えたであろうポリーニの方に一票を投じるというだけなのだ。ただ、それは好みの問題であり、或いは聴き手の「心持ち」の問題である場合もあって、一曲ごとの演奏のレベルと醸し出される雰囲気、微妙に「オシャレな」崩し方に心惹かれる時も実際にはある。そういう意味では順位を付けること自体に意味はさしてないのだ。

 さて、フランソワと言えば、ラベルやドビュッシーを欠かすことは出来ないのだが、ラベルのピアノ協奏曲(二曲とも)やピアノ曲というのは演奏の評価が難しいとつくづく思っている。決して嫌いな曲というわけではなく寧ろ好きなのだけど・・・。例えばベートーベンやシューマン、ブラームスなどは「演奏の優劣」をかなり気にするのだけど、ラベルのピアノ協奏曲となるとなかなかその演奏の質を語るのが難しい。そもそも聴いている演奏が全て高いレベル(フランソワ、アルゲリッチ、ミケランジェリ、ベロフなど)ということもある。「外れ」を聴いたことが無いというのも一つの理由であろうけど、曲の「構成要素」に「作曲家分」と「演奏家分」があるとして、例えばベートーベンのピアノ協奏曲だとそれが「50対50」なのだとしたら、ラベルは「70対30」くらいの比率ではないか、と僕は思うのだ。

 ちょうどレコードのクリーニングをしながらその一環として古いレコードを聴いているのだけど、そのレコードの中にジャン ドワイヤンというフランスのピアニストがラベルを弾いているのがあって、今はドワイヤンなんて知っている人も少ないだろうけど、これが実に良い演奏なのだ。個人的にはラベルのピアノ曲はペルルムテルの演奏を評価しているのだけど、ドワイヤンにも魅了されてしまうのはやはり「70対30」なのかなぁ、とこれまたそう思ってしまった原因である。

 それに比較するとドビュッシーはもう少し演奏家の違いが出ると思える。フランソワとホロビッツとベロフではちゃんと違った風景が見えてきて、その中ではフランソワは実は結構作曲家に忠実な演奏スタイルを取っているように思える。逆に言えばこれも作曲家が既に「かなり規格外」なので、「規格外に忠実に演奏しての規格外」を選ぶか「更にそこに解釈を加えた規格外」なのかという選択の中でホロビッツは後者を選んだという事なのかも知れないけど。

 そう言う意味では僕はフランソワのドビュッシーをとても評価していて(ベロフのものとは別の意味で)寧ろ定評のあるミケランジェリよりも良く聴くかもしれない。それでいながらホロビッツは(残っている演奏は余りたくさんはないけど)素敵だなぁ、と思わせる、なんか、異国の美少女を思わせる趣があるのだ。

 フランソワはパリジェンヌ、ミケランジェリは意外にお堅いミラネーゼ、ホロビッツのは少し異文化の入ったシェラザード風、といえば少し分りやすいだろうか。

 色々思いついたままに雑駁に綴ってきたのだけど、僕に取ってはやはりフランソワというのは無視できないし、忘れることのできないピアニストである。(と、突然纏めにはいるのを許してください。寄り道もあってだいぶ話が長くなってしまった)取り分けショパンのワルツを聴くときには真っ先に手に取るピアニストである。


アルトゥール ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein)


 ルービンシュタインはホロビッツの演奏を聴いて、「死にたくなった」と言い、ホロビッツはウィリアム カペルの訃報を聞いて「これで僕がナンバーワンピアニストになった」とうそぶいたという話を聞いたことがある。本当かどうかは別として「よく出来た話」だと思う。どちらも、いかにも彼ら「らしい」コメントで、ルービンシュタインの何というか、享楽主義者であるくせに「人が良くて、素直」な性格、ホロビッツの「勝ち気で天才に特有のひねくれ者的な物言い」がこれらの逸話には良く出ている。

 グールドがカナダに演奏旅行に来たミケランジェリが「皇帝」の演奏をキャンセルしたために「弾いてくれないか」(これはちゃんと前段があっていきなりもちかけられた話では無い)と頼まれ承諾した時「世界でナンバー2のピアニストの代わりにナンバー1が弾くなんてね」と、これは実話でその時の録音(カレル アンチェル指揮のトロント響)も残っているのだけど、実力者のピアニストは往々にして個性が強いので面白い話が残るものだ。


 さて、僕の持っているルービンシュタインのピアノ演奏は(何度も再発売され、そのたびに少しずつ新たな演奏が付け加わっていくのが不思議な)ショパン全集(初期のもの)とウオーレンシュタインのバックによる(サンサーンスなどの)ピアノ協奏曲集だけで、ルービンシュタインの全てをカバーするものではない。先ほど触れたように彼のレパートリーは古典派から現代音楽に渡りその幾つかは名演として名高いのだが、僕自身はとりわけ古典派やブラームスに関して彼の演奏を好んで集めてはいないのだ。

 その理由は僕自身判然としない。

 なぜ彼よりホロビッツやポリーニ、或いはアルゲリッチなどに惹かれたのか?そもそも僕はCDはともかくルービンシュタインのレコードを持っていないのだ。つまり10代の時、既に彼の演奏を敢て選ぶことはなかったということになる。

 彼の演奏が殆ど廉価版で出ていなかったのは理由の一つなのかもしれないが、それならばポリーニやアルゲリッチのような新人ピアニストも廉価版にはなっていないし、ホロビッツはRCAから廉価版はでていたけれど廉価版になっていないSONYから発売されたレコードも結構多数所有しているのだ。

 ただ全くルービンシュタインの演奏を聴いていないかと言えば、そうではない。あの時代、僕らはレコードを買うお金がないからしばしばFM放送を録音して(エアチェックと当時は呼んでいたが厳密には正しい言葉ではない)聴いていた。その中には「皇帝」やブラームスの協奏曲、幾つかのショパンなどが含まれていた。その結果として僕は彼の演奏を「買う」という行為までに結びつけなかった、ということになる。

 おそらくルービンシュタインの演奏とあの時代の僕の心情は「ケミストリーが適合しなかった」のだ。

 今、改めて聞き直すと、ベースとしての感想は「立派で押し出しのよい演奏」だと思う。どの演奏も「品が良く、ある意味正統的で、明るい演奏」であり、取り分けショパンの夜想曲、や舟歌などはとても心惹かれる。

 こうした曲は彼の人間性が良く出ていて、殆ど全てが明朗で素晴らしい演奏である。ルービンシュタインの弾くショパンは例えばホロビッツのような「どこか神経質で引っかかりのある」演奏ではないし、フランソワのような夢想的な演奏でもない。もちろんポリーニが連れて行ってくれるどこかの別世界でもない。ショパンの一面である、優しさ・明るさがこれほど溢れる演奏はない、と思いつつ・・・それがショパンの全てか、と考えると腕を組んでしまいそうな・・・そんな感じなのだ。

 例えばソナタの2番、ふくよかな音色が響くこの演奏に「葬送」の思いをどこまで感じうるか?ポロネーズやマズルカもまた弾き手の心情の灯りに照らされて本来曲が抱えている様々な感情が抑えつけられてしまっているのではないか、というような思いが沸き起こる。

 一方でピアノ協奏曲などはオーケストラパートが悲愴な音色を奏で、そこに彼の弾くやや明るめのピアノが加わることで曲の深みが増す。ルービンシュタインのショパン演奏を聴く度にどこかアンビバレントな気持ちになるのは、その音色をどう捉えればいいのか僕自身がまだ聴き手として腰が据わっていないから、なのかもしれない。

 いずれにしろ、彼のショパンの全集には大きな価値がある。ショパンの持つ、「ある一面」をてらいなく引き出した形。僕にはその結晶が「夜想曲」に見えるのだけど、他の人には「前奏曲」や「バラード」に聞き取れるのかもしれない。

 僕らはショパンがポーランドという祖国を後にし、そしてポーランドが11月蜂起に失敗し、ロシアに支配された時、ポーランドを支援しなかったフランスを呪い、革命エチュードなどを作曲するが、一方で彼はやはりフランス市民として(それはルービンシュタインがポーランド生れでありながら最終的にアメリカ国籍を取得したのと重なる風景である)一生を終えたのであり、その生活には天才と呼ばれる幼少期、それに基づく享楽的な部分と逆に生死の境を彷徨うような激しい人生を送った。やはり天才と呼ばれつつ、自分の才能に疑問を抱き、金に困って自殺を図りつつ、どこか享楽的なルービンシュタインはもしかしたらショパンの「大きな一面」をrepresentしているのかもしれないとさえ思う。

 同じようなことはフランソワの演奏の「ワルツ」にも同じ事が言えて、ショパン弾きの彼らが「全集」(或いはそれに近い集成)を演奏しきってくれてこそ、聴衆が選択し、感じとることができる楽しみなのである。ポリーニを含めて何人かの「全集」があるからこそ、複合的な視点を持つことが可能になり、そのお陰である程度ショパンの姿・形が見えてくる、そんな気がするのだ。


 ルービンシュタインのもう1枚、サンサーンス、フランク、そしてリストの協奏曲を聴くとこのピアニストの本質がもう少しはっきりと見えてくる。角のない、ふくよかな演奏と言えば良いのだろうか、どの作曲家の曲でも共通するトーンがそこにある。悪く言えば、その作曲家のものもある一定の範囲内に収まり(場合によっては同じように聞こえ)恐らくベートーベンも同じように聞こえてくるのではないかと思わせる。

 もちろん、ピアニストには共通の様式というものがあり、ポリーニにはポリーニの、グールドにはグールドの様式があるのだが、ルービンシュタインほどそれがくっきりと聞こえてくるピアニストも珍しいし、だからこそ、この人のファンは彼の演奏を好むのかもしれない。ストレスのない演奏とでも言えば良いのだろうか。彼が天才と呼ばれ、そして一時コンサートを殆ど止めるほどに悩み研鑽し直したことはよく知られているが、そんな中でも彼自身の本質的な明るさは途絶えることはなかったのだろう。


 これは僕の想像なのだけど、ルービンシュタインは本当は前奏曲集の再録音とか練習曲の録音を考えていたのではないか。彼のRCAへのショパンの録音は1959年のバラードとスケルツォで途絶えたのであるが、その翌年彼はショパンコンクールの審査員となり、あの有名なポリーニへの賞賛のコメントを発している。

「ここにいる誰よりも上手い」

と。だがその言葉は誰に向かってでもなく自分に向かっての言葉ではなかったのか?

だから僕はこんな想像をしてしまうのだ。


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「ネラ(奥さんであるアニエラの呼称)、今度のコンクールではね、素晴らしいピアニストがいたのだよ。イタリアの青年でね、マウリツィオという名前なのだ。あんなに印象的な演奏は初めて聴いたよ」

 夫が他のピアニストを褒めることはしばしばある。それが夫の人間としての長所だとアニエラは思っているのだが、その日の彼の言葉にはいつもと異なる響きが感じられた。

「あら、アルトゥール。そうなんですか?でも、若い人は技術があっても、あなたのようには弾けませんよ。あなたのショパンは誰よりも素晴らしいんですから」

「ああ、ありがとう。でも本当に彼は上手なピアニストなんだ。僕もあんなに弾きたいとさえ思ったのだよ」

 少しうつむき加減でそう話したピアニストに妻は物思わしげな表情を浮かべた。彼が昔、自分の技量に絶望し山に籠るようにして磨き直した事を彼女は思い出した。そして彼がそうしたのは自分と子供のためだったという事も。

「そんなことを言わないでくださいね、あなた。聴衆の皆さんはあなたの演奏を待っておられるのよ」

 彼女の紡ぎ出すような口調に老ピアニストは驚いたように彼女を見つめ、

「ああ、そうだね」

 と微笑んだ。

「すまんね。つまらないことを言ってしまった」

「いえ・・・。お夜食はどうなさいます?」

「いや・・・今日はいい。申し訳ないがハーブティーを淹れてもらおうか」

「わかりました」

 やがて運ばれてきたガラスのポットにはジャスミンの花びらが揺れていた。妻と他愛ない話をしていたが、やがて妻は疲れたのかベッドへ体を横たえた。

 ポットの中のジャスミンの花びらは底へ沈んでいる。その花びらを眺めながら彼も物思いに沈み込んだ。そして・・・ベッドで寝息を立て始めた妻の様子を窺い、寝入ったことを確かめると、別室に行き、ニューヨークに電話を掛けた。

「ああ、xx君かね。うん、あの話だがね。そう、前奏曲と練習曲の録音のことだが、うん、いやね、前奏曲には少し前の録音があるしね、それでもいいかなぁとね。それに今更練習曲の録音というのもどうかと思ってね、うん?いや、それもそうなのだけどね。しかし最近、ちょっと調子も悪くてね。そんな状態で録音してもねぇ、どうかという気がしてきたんだよ。最近は本当に上手いピアニストも出てきているからねえ。不出来な状態で比べられてもむしろ・・・ねぇ。うん、悪いんだけどちょっと予定のキャンセルをしてくれないかね。もちろんだとも。サスペンドということでも全然構わないのだ。考えが変わったらまた連絡するよ」


 その電話から12年が過ぎた。グラモフォンから届いた新譜を自宅のステレオのターンテーブルに載せ、老ピアニストは回転を始めたレコードに針を置いた。

「あら、あなた」

 開け放しておいた部屋の扉の向こうに妻が立っているのが見え、ピアニストは微笑んだ。

「珍しいのね。開けっぱなしで・・・てっきりあなたが弾いているのかと・・・」

 口籠もった妻に

「前に、一度話したことがあっただろう?あのショパンのコンクールでね、優勝したピアニストの演奏だよ。ずいぶんと間があいたけどね。漸く練習曲のレコードができたのだ」

「そうですか」

 立ったままでいる妻を老ピアニストはピアノ部屋に招き入れた。ピアノ部屋にはカンヌの国際映画祭の写真・・・夫妻がロバート・レッドフォードと一緒に写った写真が飾ってある。

 「どうだね、この演奏は」

 部屋に備え付けられたパラゴンから響いてくる音を慈しむようにピアニストは微笑んだ。

「素晴らしい演奏ですわ、でも・・・」

 妻の言葉を遮るようにピアニストは、

「いや・・・『でも』、はもういいのだ。虚心坦懐に聞いてごらん」

「ええ」

 妻はその音に耳を傾けた。夫のピアノにある優しさや温かさとは違う、透明で清澄な音が耳を打った。確かに・・・素晴らしい。その感情が表情に出るのを隠そうとした妻に向かって

「心配することはないよ。僕はまだ演奏をするつもりだからね、ちょっと目の状態は良くないけどね、まだまだ大丈夫だ」

 と夫は断言した。

「そうですか?」

 妻の表情は晴れやかになった。

「ベートーベンをね。演奏をする積もりだ。まだまだ若い者には負けてはおられんからね。とはいえ伴奏は若い指揮者に既に頼んである。彼もピアニストだがしかし指揮者としての方が大成しそうなのだ」

 そう言うとピアニストは妻にウィンクを送った。

「そうなのですか、頑張ってくださいね」

 「練習曲」のプロジェクトは結局遂行されないまま終わった。そしてその遠因ともなったあの若手ピアニストは実は10年間彼の演奏を待っていたのだと聞き、人づてに

「気にせずにどんどんとレコーディングしたまえ」

 と老ピアニストは伝えたのだ。それでも若いピアニストは同じ事が起こらないか気にしたようで、今後の録音予定は何があるのか、ビクターのプロデューサーを介して訊ねてきた。

「そんな事は気にせんでも構わない」

と最初は言ったのだが、ふと悪戯心が湧いた。

「皇帝を録音するつもりだ。指揮者は若い人に頼もうと思っておる」

その答えに驚いたのはビクターのプロデューサーだった。

「ほんとうに?」

「もちろんだとも。録音は君の所でどうだね?」

「いや、それならば話を進めましょう」

 意外な展開にえびす顔になったプロデューサーの尽力で3年後、老ピアニストのほぼ最後の録音がロンドンで行われることになった。

 そしてその1年後にピアニストは舞台を去ることにした。

 視力が衰え、鍵盤を追うことさえままならなくなったのである。そして・・・あの若いピアニストが「皇帝」を初めて録音したのはルービンシュタインが引退してから2年後の事である。

 そして・・・片方は若い指揮者と老ピアニスト、もう一方は老指揮者と若いピアニスト、そのどちらもが今なお他を寄せ付けることのない名演奏として語りつがれている。(あ、この末尾部分については・・・いや、もう完全に妄想・創作です。ルービンシュタインファンの方、怒らないでください。こんな裏話があったら面白いかな、と思って作り話をしただけです。それに僕はルービンシュタインという人間の人格を誰よりも愛しています。これは本当ですよ)


ALFRED CORTOT

*FREDERIC CHOPIN

24 PRELUDES Op.28

PRELUDE en ut diese mineur Op.45/BERCUSE en re bemol majeur Op.57

IMPROMPTUS

No.1 en la bemol majeur,Op.29/No.2 en fa diese majeur, Op.36/No.3 en sol bemol majeur,Op.51/No4 en "Fantasie Impromptu" en ut diese mineur Op.66

BARCAROLLE en fa diese majeur Op.60

EMI CDH 7 61050 2

*ROBERT SCHUMANN

CONCERTO IN LA MINORE PER PIANOFORTE E ORCHESTRA OP.54

Royal Symphony Orchestra(Radio sinfonie Orchester/ CD leaflet refer to 2 dofferent orchestra, actually Berlin RIAS Symphonie Orchester) Direttore: Ferenc Friscay

FREDERICK CHOPIN

SONATA IN SI BEMOLLE MINORE OP.35

ETUDE IN MI BEMOLLE MAGGIORE OP.10

ETUDE IN SOL BEMOLLE MAGGIORE OP.25

WALZER IN DO DIESIS MINORE

NOCTURNE IN FA DIESIS MAGGIORE

WALZER IN SOL BEMOLLE MAGGIORE

WALZER IN LA DIESIS MAGGIORE OP.69 NO.1

WALZER IN MI BEMOLLE MAGGIORE OP.64 NO.1

NOCTURNE IN MI BEMOLLE MAGGIORE OP.9 NO.2

BERECEUSE IN RE BEMOLLE OP.57

MELODRAM MEL18018

*FRANCK

Sonate pour violon et piano en la majeur

DEBUSSY

Sonate pour violon et piano en sol mineur

Minstreis(extrait de :Preludes Livre 1 no.12) arrgt. Hartmann

FAURE

Sonate No.1 pour violon et piano en la majeur Op.13

Berceuse (extrait de Dolly. Op.56)

EMI CDH 7 63032 2


SAMSON FRANCOIS

(レコード)

*CHOPIN

CONCERTO NO.2 IN F MINOR, OP.21/RONDO IN C FOR TWO PIANOS, OP.73(*)

Monte-Carlo Opera Orchestra- Louis Fremaux conducting

(*) with Pierre Barbizet

SERAPHIM S-60109

(CD)

*CHOPIN

14 Valses/4 Impromptus/4 Ballades/4 Scherzos

EMI CMS 7 62569 2

*FREDERIC CHOPIN

NOCTURNES 1-19/24 PRELUDES OP.28

EMI CMS 7691582

*DEBUSSY

CHILDREN'S CORNER/ESTAMPS/SUITE BERGAMASQUE/POUR LE PIANO

EMI 7473742

*ラヴェル

 ピアノ協奏曲ト長調/左手のためのピアノ協奏曲

  アンドレ・クリュイタンス指揮 パリ音楽院管弦楽団

         EMI TOCE-13084


Arthur Rubinstein

≪THE CHOPIN COLLECTION≫

<Disc1-4>

Nocturnes, Op.9,15,27 & 32/Nocturnes, Op.37,48,55,62 & 72

Mazurkas, Op.6,7,17,24,30,33 & 41-1/Mazurkas, Op.41-2・4,50,56,59,63,

Op posth., 67 & 68

<Disc5-8>

Ballades, Op.23,38,47,52/Scherzos, Op.20,31,39,54

Polonaises, Op.26,40,44,53 & 61 "Polonaise-Fantasie"

Sonata No.2, Op.35 in B-Flat Minor/Sonata No.3 Op.58 in B Minor

Fantasie, Op.49 in F minor

Concerto No.1, Op.11, in E Minor*

Concerto No.2, Op.21, in F Minor**

(*/**CD does not refer to the conductors/orchestras, however according to the information on the web)

*Stanisław Skrowaczewski/New Symphony Orchestra of London

**Alfred Wallenstein/Symphony of the Air

<Disc 9-11>

Waltzes, Op.18,34,42,64,69,70 & Op.posth.

Impromptus, Op.29,36,51 & 66"Fantasie-Impromptu"

Barcarolle, Op.60/Trois nouvelles etudes, Op.posth./Bolero, Op.19

Berceuse, Op.57/Tarantelle, Op.43/Andante spianato & Grand Polonaise Op.22

Prelude, Op.28/Sonata No.2, Op.35 in B-Flat Minor/Berceuse, Op.57

Barcarolle, Op.60

BMG GD60822


*Camille Saint-Saens Concerto No.2 in G Minor, Op.22

Cesar Franck Symphonic Variations

Frantz Liszt Concerto No.1 in E-Flat*

Symphony of the Air/RCA Victor Symphony Orchestra*

Alfred Wallenstein, conductor

BMG 09026 61496 2

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