第3話-2 ウラディミール ホロビッツ

 1953年、突如としてホロビッツは聴衆の前から姿を消した。「健康上の理由」とされているが、それが肉体的な健康を示しているのか、精神上の健康を示しているのか定かではない。ストレスなどの何らかの精神的な理由で指が動かなくなるなど、肉体的な症状に転化して複合的な病状を呈することもある。

 ただ、長期休暇中にときおり発売される録音、カムバックを果たした後の演奏技巧に肉体的欠損やイップスなどが影響を与えた痕跡が全くないので純粋に精神上の問題なのだろう。(先にも触れたが、直前行われたセルとのチャイコフスキーの協奏曲の共演後に元来持っていた鬱病が重症化したという説もある。セルはホロビッツの義父であるトスカニーニに、オーケストラ団員に対する怒りというか指導というか・・・端的に今で言うハラスメントに関して叱責しっせきを受けたのでその意趣返しといったこともあったのかもしれない。セルは指揮者としての才能は飛び抜けて優秀であるが、一方で粘着質タイプの人間であったようで、それはクリーブランド管弦楽団との関係、他の共演者、例えばギレリスとかパイネマンとかの関係でも良きにつけ悪しきにつけ、垣間見える。しかし・・・あの厳しさで知られるトスカニーニにハラスメントを指摘されるなんて・・・セルも相当なものだ。あえてセルを擁護するなら何らかの的を射た言葉がそこにあったからこそホロビッツは衝撃を受け他のだろうと推察することもできるのだが・・・)

 とはいってもそれはあくまできっかけであり、優秀な音楽家の多くは精神的なもろさを抱えている。曲を理解するための感受性と共に聴衆を相手にするために求められる精神の強靱性きょうじんせい狭間はざまで苦しんだのはホロビッツだけではない。作曲家と同時に演奏家でもあったベートーベン、シューマン、近代のピアニストであればミケランジェリやグールド、それにクラッシック音楽以外ならバド・パウエルなど、ちまたで天才と呼ばれる人ほど精神的な問題を抱えていた。

 25年、コンサート演奏家として闘ってきた精神的なダメージをいややすのに、ホロビッツは半分近くの12年を要した。(その期間の内にトスカニーニの死、娘の死などがあり、立ち直りを更に遅らせた可能性がある)時折、ぽつぽつとレコードの録音はしたものの本来ホロビッツがその実力をもっとも発揮するライブ演奏に戻ることはなく、もしかしたらそのままコンサート演奏家としては朽ち果ててしまうのではないかとさえ思われた。

 だがその予測をくつがえし、1965年カーネギーホールに於いて伝説的となったリバイバルコンサートが開かれる。これほど劇的な復活を果たした音楽家は珍しい。

 その後の活躍については誰もが知っていることだろう。それは単にひとりのピアニストが復活したというだけではない。まさに世界最高のピアニストが「再降臨」してきたのだ。あたかもキリストが復活したかのように。

 そして彼は期待を裏切ることなく、それからしばらくの間、生演奏だけではなくテレビやレコードを通して毎年素晴らしい演奏をあまねく「地上」に恵んだのである。ここでは主にその「再降臨」以降の演奏について触れてみたい。結果的にはCBSと再契約をしたRCA、そして晩年のグラモフォンでの録音が対象となる。


 まず、最初に挙げたいのはベートーベンの「月光」、あの冒頭の三連符である。夜空に一つずつ点る星のように静かに刻まれるリズム、それは或いは葬送の行進を思わせる沈痛な響きを伴って耳に静かに宿る。スピーカーから出た音が空気を震わせた途端、僕は催眠術に掛ったかのようにこうべを垂れる。乱れもなく、同じような力で、訥々とつとつと進んでいくリズム。深く染み入るような音色。楽章を通じて点った星たちを清かに月光が束ねていく。

 楽章が進み、曲想が柔らかな優しい響きに変わっても、催眠状態はなお続いていく。夜が明け、月の青白い光が注いだ地面にたたずんでいた植物のつぼみから花が開いていくような、柔らかなメロディが聴き手を包んでいく。旋律の始めの音を強く叩くホロビッツの演奏はメリハリが利いて心地よい。

 ここまでは「My Bests (僕の好きな音楽の演奏)」において「月光の章」に記した感想と基本的に変わらないが、そこに記した『三楽章の走るようなメロディも大げさではなく、左手で弾かれる和音も程よく、品よく多少リズムが詰まり気味のところもあるがそれが抑えた感情の吐露のように聞こえる』の部分に関しては、幾つかのホロビッツによる演奏を聴き直して考え直した。

 「抑えた感情の吐露」というより、ホロビッツは第3楽章においては感情を積極的に解放しているように聴こえてきたのだ。ピアニストが演奏しながら作曲家と会話をしたり天啓てんけいを受けるパターンは幾つか存在しているのだろうが、それにもピアニスト毎の癖があり、グールドにはグールドの、ポリーニにはポリーニなりの癖がある。そしてホロビッツの基本的な癖は「一貫したストーリーの形成が可能な曲」においては「序破急」が基本ではないかと聞えてきたのである。逆に後述するシューマン(どちらかというと独立した小曲のクラスターという曲集)やスカルラッティ(山ほど作られたソナタの殆どは後世のソナチネより短い単一楽章の曲である)においてはそうした作りをしない。また協奏曲においても「序破急」の傾向はあるが、むしろ共演者である指揮者とオーケストラとの関係の影響が大きく、たいていにおいて曲そのものの構成要素を上回る。そもそもホロビッツは自分と合わない指揮者には演奏中であろうとなんであろうと本能的に「噛みつく」ことをいとわないので、例え演奏前に「序破急」の設定をしたとしても途中で「飛んでしまう」のであろう。

 それに比べ幾つかのベートーベンのソナタ、シューベルトのソナタ、「展覧会の絵」などでの独奏曲においては「序破急」を重視するパターンでホロビッツは演奏しているように聞こえる。こうした楽曲の幾つかは作曲家によってもそうした流れで作曲されている場合もありホロビッツ独自の解釈ではないのだろうけど、冒頭から終曲に至るまでの流れは他の演奏家に比べてそうした意識が強く宿っているように思えるのだ。そして、それこそがホロビッツがコンサート・ピアニストとして君臨した大きな理由の一つだと思う。自在に小曲を散りばめ、時に聴衆を巻き込むために強いストーリー性を楽曲に宿らせる、そうした工夫を凝らしたホロビッツの演奏は、終わる度に聞こえてくる聴衆の拍手や歓声が他のピアニストと比較しても常に熱狂的である。

 もう一つの際だった傾向として同じ曲集でも、作曲家によって演奏の扱いが違うことである。シューマンの曲集(「子供の情景」や「クライスレリアーナ」)は纏まった曲として演奏するのに、リスト(様々な曲集他)やショパン(練習曲、バラード他)、シューベルト(即興曲など)に関しては分けて演奏する事に何の躊躇いもない。スクリャービンやラフマニノフ、ドビュッシーも同じである。シューマンも「トロイメライ」などを分離して演奏をする事はある(例えば1968年のカーネギーホールでのコンサートでの演奏がある)が、作曲家によるこの扱いの違いは注視するべきだと思う。端的に言えば・・・ホロビッツにおいてシューマンだけは特別な存在なのではないだろうか。それについては後で少し触れたい。


 さて、ベートーベンの演奏に立ち戻ろう。新譜としてリリースされたとき、月光はシューベルトの「即興曲」から選ばれた4つの曲とカップリングされていたが、CDではベートーベンの「ワルトシュタイン」及び「熱情」と共に収められている。「ワルトシュタイン」はホロビッツのお気に入りの曲の一つだがこうした楽曲の中では例外的に最初から「攻めていく」即ち鍵盤を叩きつけるような激しい演奏方法で最後まで貫いていく演奏を取っている。これは単に曲想の違いではなく、ホロビッツが「ワルトシュタイン」に見ているperspectiveがそうさせているのだろう。良くも悪くもホロビッツがこの曲に感じている「背骨」は曲の壮麗さに相応しい激しさと一貫性であり、「序破急」は存在(2楽章序盤における展開など)してもその姿は月光や熱情ほどに明確ではない。打鍵は正確だが音色は花びらが乱れるように絢爛と、しかし執拗なほどに連続して聴衆の耳に絡まってくる。その意味で極めてホロビッツ色が前面に出ていて、やや前掛かりである演奏であるが、好き嫌いは別として納得のいく演奏であり、最終楽章やや単調になりがちに繰り返される打鍵にニュアンスをつけ、そのまま緊張感を増しつつ終演に至る構成は見事だ。

 「熱情」の演奏は第1楽章から躍動感に溢れた演奏だがテンポの動かし方や「音の纏め方」に癖があって僕には少し違和感があり全体としての構成力に関しては、相対的に言って先の2曲に比べるとやや説得力に欠ける演奏に思える。なんと言っても「熱情」にはリヒテルやゼルキンを始めとした様々な優秀な演奏があるわけで、少しでも迷いを感じたり、方向性が緩んで感じられると不足感が顕わになってしまう。もちろんホロビッツの意図が別のところに存在してそれを理解する力に欠けているのかもしれない。更に何度か聞けばある日突然何かがひらけてくるかもしれず、その時が訪れるまで何度か聴き続けることにしよう。

 ホロビッツのステレオ録音(CBSレーベル)によるベートーベンはこの3曲以外に「悲愴」と28番(op.101)がある。

 「悲愴」はコンサートに復帰する2年前、1963年CBSでの3度目のレコーディングにドビュッシーやショパンと共に選ばれた曲である。今回はレコードで聴いた。(ついにプレーヤーを手に入れたのだ。一年ほど前に購入したベルトドライブのおもちゃのようなプレーヤーでは昔のレコードをまともに聴くことなどできなかったが、今回買ったダイレクトドライブのものではきちんと聴くことができた。ノイズや音飛びなどはあって、CDとの優劣は簡単には語れないがやはり、音の幅はレコードの方が広く複雑な部分まで聞き取れる)

 慎重な構えでホロビッツは鍵盤を確かめるように弾き始める。美しい響きがノイズの向こうから切々と響いてきた。この曲はまさに「序破急」の典型的な演奏といえよう。曲も深刻な面持ちを帯びた最初の楽章から訥々とつとつとした揺れた響きをもつ2楽章を経て、突如演奏家は音符の変容を遙かに超える密度と幅をもって3楽章を弾き始める。

 堅い大地溝帯の頂に湧き出た泉は第1楽章の深遠な森から、柔らかな日差しの差す2楽章の緩やかな大地をゆっくり流れると、その先にある滝を一挙に流れ落ちていく。飛沫が太陽の光を受けキラキラと舞い落ちるように音符は終末の奈落へと落ちていく。翠色みどりいろ滝壺たきつぼへと音楽は消えていく。それは1曲の音楽の持つダイナミズム、1音の持つ生命力を鮮やかに蘇らせるのだ。

 そうした曲に内在するダイナミズムを語らせたらこのピアニストを超える存在はなかなかない。有名な曲のわりに決定的な名演奏を持たないこの曲の一つの魅力を伝える演奏だと思う。

 ちなみにモノラル時代を含めてホロビッツのベートーベン演奏はポピュラーな「タイトル付」のソナタに偏っていて(RCA時代の録音も「熱情」、「月光」、「ワルトシュタイン」以外には7番のソナタop10-3だけが残る)、これら「タイトル付ソナタ」をあまり高く評価しなかったグールドとは正反対の選曲、好みと言えよう。

 故にステレオで録音の残る1曲はop.101のみとなる。この曲は晩年のホロビッツにとって気に入りの曲となった。聴いたのは1967年のライブの演奏である。愛らしいこのソナタはハンマークラヴィアに始まる最後期のソナタの先駆けになる構成と曲想をもっており、特に3楽章の多重的で飛び跳ねるようなリズムを楽しむかのようにホロビッツは弾き進めていく。後に触れる最初の日本公演に際してもホロビッツはこの曲を選んだが散々な演奏であり、叩かれる原因にもなった。しかし、この録音では全くその兆候はない。「月光」ほどではないが印象的な演奏である。

 もしホロビッツが「ハンマークラビア」やop109-111のソナタを演奏していたらどんな演奏になったのだろうか、と想像するがせめてホロビッツの演奏方法にもっとも合致しそうな「ハンマークラビア」は聴いてみたかった気がする。


 さて次いで本来ならベートベンと共に古典派の重鎮であるハイドンやモーツアルトに触れるべきだがその前にスカルラッティについて触れておくことにしたい。

 ホロビッツがスカルラッティの曲を愛したことはよく知られている。ホロビッツもこの作曲家に愛されたのであろう、例えばベートーベンのop.101にカップリングされた二つのソナタ (L.35/L.124) を聴くとホロビッツ独特の指の動かし方が実にこの作曲家の曲に似合っていることが分かる。様々な難度をもち時にアクロバティックな演奏を要求するスカルラッティではあるが、ホロビッツにとってはどの曲も難なく演奏が可能だ。

 高音で刻むリズムと低音で弾く和音の強度と組み合わせが絶妙に上品で、ホロビッツ自身もこうした曲を弾くことで古典派以降の曲を弾くときに自らの指に宿る「毒」を消しているのではないだろうか。これがモーツアルトだと、またモーツアルトの曲に内在する別の種類の毒があるように思えるのでその意味で「毒消し」としてのスカルラッティはこのピアニストに取って演奏会の必須のアイテムだったのではないかと思える。他にもL23(K380), L335(K55), L483, L209などを聴くことができた。(ロンゴ番号とカークパトリック番号が入り乱れるのは配給元のCBSの表記の揺れに原因がある)

 L23(K380) のように誰もが一度は耳にした曲がある。それは誰もが春に道ばたで見つける蒲公英たんぽぽの花のように、目立たぬ場所で咲いているけれど、ホロビッツの演奏を通してみればその不思議な構造といい、鮮やかな色といい、いつまでも印象に残る、そんな感想をもたらす曲である。CBSにはスカルラッティだけを集めた曲集があるらしいので、好きな方はそれを聴くと便利であろうが、ベートーベンの気難しさ、シューマンの曲の節々に内在する精神疾患、明るさと共に死の影に常に纏わり付かれていた(「魔王」や「死と乙女」など曲にもそうしたものを感じさせ、早逝した)シューベルト、ときおり高慢さが鼻につくリストなどの曲に混じってリスナーとしてもスカルラッティを「毒消し」として聴くのが好ましくもある。

 L23はウーズリィホールでのライブ録音(おそらく録音機器を勝手に持ち込んで膝上で録音した、今なら違法な録音で、録音状態はひどいが)もある。歪んだノイズの向こう側から響く音は、嵐の後、まだ黒雲がところどころに残る空から日の光が差し込んでくるような感銘を受けるのが不思議である。このL23はリパッティにも素敵な演奏があってスカルラッティの作曲したソナタの中で最も幸せな曲と言えよう。


 ハイドンのソナタの演奏はスカルラッティの延長線上に位置し、後のモーツアルトへと繋がっていく。XVI-48(58番)のソナタは2楽章からなる10分足らずの小品、XVI-23も3楽章で構成される15分ほどのソナタで複雑な構成ではないが、気品のあるメロディはXVI-23の劣悪な録音を通しても明確に聞こえてくる。ホロビッツの演奏方法はラフマニノフやリスト、チャイコフスキーを始めとした過酷な指捌きにももちろん対応するのだが、ハイドンなどを耳にするとこうした曲にこそ長所がはっきりと出てくるのかも知れない、と思わせる。

 そのハイドンは、復活直後のコンサートに屡々しばしば演奏されているのだが、1980年代東京やモスクワやハンブルグで行われたコンサートではモーツアルトに置き換わっている。他の作曲家の選択(スカルラッティ、シューマン、ショパン、リスト、スクリャービン、ラフマニノフなど)は同じなのでハイドンからモーツアルトへの変化が突出している。

 そのモーツアルトの演奏を集めたものがグラモフォンから発売されている。このCDにはスタジオ録音のものが多いが晩年の録音にはコンサートで演奏された同一曲 (K.330/K.333/K.485) の別テイクもある。RCA時代にはK.332のソナタとトルコ行進曲の録音くらいし無いにも関わらず、突如、スタジオでもコンサートにおいても溢れるようにモーツアルトの演奏を始めた理由はどこにあるのだろうか?そしてその演奏に於いてモーツアルトに内在する「毒」は消えているのだろうか?

 ます最初に指摘しておきたいのはモーツアルトはホロビッツのようなピアニストには「楽譜的」には易しすぎる、という事実である。だが「楽譜的」に易しい音楽を弾いて聴衆の耳を欹てさせることの難しさは想像以上のものがある。ホロビッツのチャイコフスキー、ホロビッツのラフマニノフ、ホロビッツのショパンには「常に驚き」があり、聴衆は熱狂する。

 だが・・・モーツアルトはそういうわけにはいかない。モーツアルトで聴衆を熱狂させることは(少なくともピアノソナタでは)至難の業なのである。スカルラッティやハイドンは、相当のファンならともかくモーツアルトに比べれば認知度が低いので、曲そのものの新鮮さで耳を欹てさせる事がある程度可能だが、モーツアルトとなるとそういう訳にはいかない。そう言う意味でヴィルトゥオーゾほどモーツアルトの演奏に抵抗があるのは「もっともで、分りやすい」話である。

 逆にモーツアルトの名演と言われるものは概してテクニックに頼らないピアニストのものが多い。実際の名演かどうかはともかくとして、概して「技巧に頼らない(のか、どうかは言い方次第)」事を評価する傾向が見られるのはモーツアルトの演奏に関する一般的な傾向である。逆に言うとモーツアルト弾きと言われている人ほど、モーツアルト以外の演奏に関する評価は高くない傾向にある。イングリッド・ヘブラーやリリー・クラウス、クララ・ハスキルなどの女流ピアニストなどがそれに該当するであろう。現代で言うと、マリオ・ジョアン・ピレシュ(ピリス)はそうした評価を覆すために相当の努力をしているのではないか。ある意味、ピアニストを分ける試金石であるモーツアルトを平然と演奏したのはフリードリッヒ・グルダとグレン・グールドくらいのものだと思う。

 そういう「優しいかも知れないけど、実は難しい」モーツアルトの演奏に「挑む」というより「そういうことを気にしなくなった」老ピアニストが選んだ曲たちは実に優しい響きを持っている。ある種の植物の毒が「あく抜き」で消えるようにそこに青臭い毒の匂いはない。

 モーツアルトのピアノ独奏曲の多くが長調であることはよく知られているが、ホロビッツが演奏している曲の殆どは「楽章全てが長調」の曲が多く、唯一の例外はK.540のアダージョである。まるでひなたぼっこをしている猫の毛のように暖かい演奏は、若い頃にリストの演奏で見せた刃物のような切れ味も、チャイコフスキーの協奏曲で見せた感情の異様な高揚も、まるで嘘のように「欠片かけら」もない。3楽章でありながらベートーベンやショパンで見せた「序破急」もない。ただモーツアルトの楽譜を楽しげに、時折弾むような表情を見せながら軽やかに弾くおじいさん(滅茶苦茶に上手な)がそこにいる。

 確かにモーツアルトの演奏だけを集めたホロビッツのCDを聴くと、「ホロビッツでなければならない必然性」はない。だが、それは「やっぱりホロビッツ」なのである。時折煌めくような音、微妙な音の間、気をつけて聴けばそこここにホロビッツはやっぱり、「いる」。

 僕自身はコンサートという「ディナー」の中でラフマニノフやスクリャービン、シューベルトやショパン、シューマンに混じってアントレであったり、セゴンドとして提供されるモーツアルトの方が好ましくはあるが、箱の中に入ったモーツアルトの「たくさんの綺麗なケーキ」も魅力的であったことを記しておきたい。


だがホロビッツの真価はロマン派のピアノ曲に於いてこそ遺憾なく発揮される。

 まずはシューマン・・・。多くのピアニストを今なお魅了するこの人独自の「明るさに纏わり付く不安定さ」「優しさの奥に覗く神経質な傾向」をもっとも自然に引き出すピアニストはホロビッツを措いて他にないだろう。

 例を挙げれば「子供の情景」この曲の目線は「子供の目線」そのものである。その中の第6曲の「大切なできごと」・・・大人にとってはなんでもない些細なできごとが子供の目には「とても大切なこと」である。友だちと目が合うこと、花が開いたこと、犬がいつもより元気なこと、お母さんがいつもより少し元気がないこと、そうした些細な出来事への目配り。そんな「大切なできごと」の複雑さに疲れた子供の心に第7曲のトロイメライでシューマンは柔らかく暖かい毛布を差し出す。複雑な和音は重層的な夢の構造を表すが、旋律はあくまで優美でやさしい。

 第1曲の「見知らぬ国と人々」から始まるどのピースにもシューマンの優しさとどこか不安定な心情が絡み合う、そんな曲想をホロビッツは楽譜にあるそのままに紡ぎ出す。だから、音は強すぎず、弱すぎず、あくまでまだ「男の子とも女の子とも」見分けが付かぬ「子供」の持つ、あるいは醸し出す中性的な魅力に溢れているのだ。

 クライスレリアーナは曲自体、出だしから「不安」に包まれた曲想である。将来結ばれることになるクララとの結婚の見通しもなく、その状況をホフマンの小説に重ね合わせて描いたこの曲は、どこか作曲家に似た精神を兼ね備えたピアニストによってSehr innig(とても心を込めて)演奏される。8つの幻想曲から成り立つこの曲の演奏指定にはそのうち最初と最後を除く6つにSehr(とても)という副詞が使われていて、その「曖昧な心象を表す」指定はシューマン自身の曖昧な不安を表しているのではないか。とりとめもなく展開していくようでありながら曲はくるくるとシューマンの思いの周りを巡っていく。第7曲に至って激しい感情が迸りでるが、それも空中で舞い、墜落するかのように勢いを失って第8曲の右手で奏でられる牢獄に捕らえられる。それでも心は逃げだそうとしているが、激情が去れば同じ景色の中にいる事実に気づくのだ。

 ピアニストのタッチはそんな心象に寄り添うように密やかに感情を紡ぎ出していく、その意味で作曲家とピアニストの思いが美しく結晶した素晴らしい演奏である。彼がシューマンに限っては全曲を通して演奏してくれたことに感謝したい。その演奏スタイルは「アラベスク」や「花の曲」など「たおやかな女性に宛てた曲」とシューマンが呼んだ二つの曲にも引き継がれ、とりわけ「アラベスク」が終盤に向かうときに紡がれる、夢の中に居るような曲想のなんと美しいこと。

 あのラフマニノフやチャイコフスキーを弾くときの叩きつけるような激しさとシューマンの演奏にはまるで共通点さえないかのように思えるが、それが同じ精神と技術から生み出されることの不思議さを思わずにはいられないのだ。

 ロマン派のもう一人、シューベルトの即興曲は「月光」と共に収められたものがある。全部で四つの小品がホロビッツの好みに合わせて選ばれたのであろうが、新たに入手したプレーヤーで聞き返した見たがどれも例えようのない美しさに満ちたものである。CDではこの4曲を纏めて聴くのは難しいようだが是非オリジナルの構成で再発売して欲しいものである。ピアノソナタ「遺作」D.960には幾つかの録音がありホロビッツのお気に入りの曲のようだ。僕の聴いたグラモフォン盤の1986年の演奏はその最後のものである。1986年は例の「ひびの入った骨董」事件から三年後、再来日した年である。

 そもそも吉田秀和がベートーベンのop.101を聴いて「ひとつやふたつのひび」ではないと言ったのはピアニストに対して、というよりそのピアノの演奏を聴いて尚も「素晴らしい」と言いだしかねない「批評」に対する警告の意味があったと推察する。ただ、バックハウスのザルツブルクの演奏と比較してホロビッツに「ピアニストとしての矜持きょうじ」まで問うてしまったのは聊か行きすぎてしまったと本人も思ったのではあるまいか?まともなリスナーであれば、一回の例外的な不出来をもってピアニストの評価を変えるものではないが、そうでない場合吉田秀和のような評論家が行ったただ一回の「分りやすい」コメントでホロビッツの全てに薄く暗い評価のバイアスを持ちこみかねないのである。

 良くない演奏は「良くなかった」と言えば良い。それは確かであり批評家の責務でもある。それ以上の必要はない。吉田秀和の喝破も限度を超えたならば、そしてそれに喝采する人々も「少し大人げない」のである。

 吉田秀和はミケランジェリやチェリビダッケに対応する聴き手側としての「音楽の一回性」とライブを非常に重視して、批評の論点をそこに置くことが多い人で(だからこそ反論しにくい人である、なぜならこちらはその場にいないので)いくら彼であっても全部をライブで聴くと言うことは現実的ではない。逆に演奏を録音のみに集約するグールドみたいな演奏家もいて、聴き手側にも家庭で一人で聴くのを好むリスナーも多い。そのように演奏側にも聴き手側にも重層的な構造があるのだから様々な批評や意見があるのは現実であり、何も集約することなどできない。偶然性が支配するライブでの演奏を持って全てを語ってしまうのはどうなのだろう?集約されたものは「どこか事実と反している」のであり、その事実を踏まえて尚吉田秀和の批評を全面的に理解できるなどと言うのは更に「誠に」烏滸おこがましいのである。

 批判的な角度で聴けばこのシューベルトだって3楽章の終盤にはしばしば音を探すような仕草は見えるし、それは腕の衰えの表出でもあろう。しかしその第3楽章の出だしの美しさが、あの「月光」と共に収められていた4つの即興曲の美しさにひけをとらないのもまた事実である。そしてホロビッツはいつもの通り第4楽章に向けて集中を挙げていく。そして・・・その最後の音は短い悲鳴のように響いて終わるのだ。この演奏自体も又「遺作」なのである。

 そうしたさまざまな背景を鑑みるほどに、ホロビッツに対する吉田秀和の批評は、「演奏の恐ろしさ」と共に「批評の恐ろしさ」を感じさせるものであった。僕は決して彼の批評が間違っていると言っていない。ただ、彼の批評を受け取る側がしっかりしていない状況がある中で放たれる批評の恐ろしさを感じているだけである。


 さて、ちょうどこの年のあたりに前後してスタジオ録音されたシューマンの「ノベレッテ(1番)」と「クライスレリアーナ」、ウィーンムジクフェラインでライブ録音された「子供の情景」も、また完成度の高い演奏である。逆に言えばベートーベンのような一貫したストーリー性のある楽曲や、戦いを強い協奏曲は避けて(ストーリー性のある楽曲としては1977年のリストのソナタ、協奏曲は1978年、オーマンディとのラフマニノフの3番。只その後、シューベルトのD.960が遺言のように録音されているし、モーツアルトの23番の協奏曲も録音されているが、それらの演奏スタイルは従来のものと少し異なっているように思える。但しモーツアルトに関しては聴いていないので推察である)シューマンの曲集とそれ以外の作曲家の小曲を重ねていく演奏会への回帰・収斂して行っているように思う。そして、そのどれも「罅割れた骨董」ではなく、ホロビッツらしさ、ホロビッツにしかない弾き方で演奏されているのは素晴らしい事である。或いは吉田の批評がホロビッツを奮起させた、そういう側面もあるだろうし、そうポジティブに捉えることにしよう。

 ロマン派にはもう二人、ピアノの巨人が存在する。一人がショパン。ホロビッツのショパンは評価が高い。最初の来日の公演に於いて吉田秀和はベートーベン(op.101) を酷評し、シューマン(謝肉祭)はまだマシ、なかで1番良かったのはショパン(ポロネーズや練習曲)だと書いた。つまり最悪だった公演でもはや本能で弾いていたような状態であってもその演奏にはきらめきの残滓ざんしを感じたと言うことである。

 それが吉田秀和が書いたようにベートーベンよりシューマン、そして更にショパンが「最もピアノの精髄に根ざす音楽を書いた証拠」なのだ、と言いきるのには異論はあるが、ホロビッツのショパンには他の演奏、たとえばフランソワやルービンシュタイン、或いはポリーニやアルゲリッチと違う「表情」があるのは間違えなくそれがホロビッツの演奏に共鳴している。

 ショパンという音楽家がどのような人間だったのか、というのはもはやその時代の人物評を通してしか分らないのだけど、ホロビッツの演奏には彼が持つ多様性、つまりは高貴な側面と相反する俗物性とかが混じって聞こえてくる。それが現代のピアニストと違う点で、そうしたものには多少は時代の背景があるのかもしれない。というのは全く違った意味で例えばコルトーのショパンにもそうした作曲家の人格に関する洞察のようなものが感じられるからである。しかし、現代のピアニストはそうしたものを削ぎ落とす。

 例えば、ポリーニによる前奏曲や練習曲を聴いたとき僕の視点は演奏者から紡ぎ出される音とそこから連想される情景のみであり、それはおそらくショパンという作曲家の意図そのものなのだ。しかしホロビッツの演奏はまず音の先に作曲家の表情の変化が存在して、その心情が立ち上がるように感じられる。例えばバラードの1番、決然とした最初の音列に続いて、どこか不安げな表情がたちまちのうちに顔を出す。それが、曲想や情景というよりショパンその人の心情を物語るように弾くのがホロビッツである。ショパンの曲を集めたリサイタル版(これはレコードで聴いたものである)の最初にある幻想ポロネーズなどを聴いても、やはりそこにはショパンと演奏者であるホロビッツが対峙たいじしている。

 このピアニスト評の中に「作曲家の曲を聴いているのでは無く、ピアニストを聴いているのだ」というものがあるが、恐らくその感想はホロビッツが楽譜と格闘した結果を示すものであろう。このピアニストは作曲家の「示すがまま」をその曲の真髄と思っていない。矛盾しているように聞こえるかも知れないが、極端に言えば、あるピアニストにとって作曲家はミューズの神の「口寄せ」に過ぎないのだ。そしてミューズの神は作曲家の表情を通すことによって聴衆に訴えかける・・・そうした別のルートが存在しているのではないか?

 スカルラッティの所でも記した1966年、Woolsey Hallでのリサイタルの非正規録音には葬送行進曲付のソナタが収められている。これもとても商用にならないひどい録音であるが、その奥から聞こえてくるのはやはりただ者ではないピアニストの姿である。ウィリアム カペルのオーストラリアライブの演奏と並ぶ「op.35のひどい録音の向こうに聞こえる名演の双璧そうへき」といえよう。だが、ホロビッツの場合はRCA盤もSONY盤も存在している。どちらも所有していないが、疑いなく名演であろうから、敢て無線の向こうから聞こえてくるような録音を聴く必要はなかろう。こういう録音は、「ホロビッツのライブは凄い」という事実を知らしめる存在にはなるが、一般的な視聴の対象にはあまり相応しくない。

 もう一人のロマン派におけるピアノの巨匠、リストについてはソナタと幾つかのピアノ曲の演奏が残されている。ホロビッツはヨーロッパで演奏活動をしていたときはブラームスやリストの協奏曲をしばしば演奏していたらしいが、アメリカに移住後に正式な録音が残っているのはブラームスの2番のみ(非正規には1番も残っている)で、リストは全く残っていない。

 ブラームスの協奏曲に関してはフルトヴェングラーとの共演で確執があり、フルトヴェングラーがホロビッツに向かって「こちらではブラームスはそうした演奏はしない」と言ったという話を読んだことがある。またその後共演の話があった際に「ブラームスはちょっと・・・リストなら」とフルトヴェングラーが言ったという話も聞いたことがある。真偽は定かではないがフルトヴェングラーならばそんなことを言いそうな気がすると思ったのと同時にホロビッツがリストの協奏曲の演奏をしなくなった理由の一つがそこにあるのではないか、とふと思った記憶がある。フルトヴェングラーにとってベートーベンやブラームスは「譲れないコア」のドイツ人作曲家であり、オーストリア-ハンガリーのリストはそうでもないという事情もあったのかも知れない。或いは本来、ピアノが中心であるリストとオーケストラが中心であるブラームスという区分けをした上で、譲ったのかも知れない。

 だがホロビッツは「ブラームスは駄目だがリストなら」、というフルトヴェングラーの提案を作曲家としての「格」の評価として受け取ったのではなかろうか。そんな事も含めていつのまにかリストの協奏曲を演奏のリストから外してしまったのかも知れないと、これはあくまで想像だが、考えている。思うにフルトヴェングラーは「音楽家」としてそうした提案をしたのではなく「ベルリンフィルを始めと管弦楽団を指揮するドイツ人指揮者」として「こちらのブラームス」を口にしたのかも知れないが。いずれにしろホロビッツはふしぎなことにその後リストの協奏曲も(逆に)ブラームスの独奏曲も(僕の知る限りでは)録音していない。

 CDではリストの曲が纏められたものがRCAから発売されていて、1950年の葬送(「詩的で宗教的な調べ」第7曲)から1981年のバラードに至る5曲が収められているが、圧倒的に良いのは1950年の演奏である。この時期のホロビッツのリストは実にカミソリのような技術でリストを「さばいて」いる。

 一方で1970年以降のリストには逆にピアニストの気負いが感じられる。例えばロ短調のソナタ・・・ある意味圧倒的な演奏である。鬼気迫ると評した方が適当かも知れない。次から次へと繰り出されるフォルテッシモの山脈と、その合間に繰り出される雷鳴・・・遠くから響き落雷ののちも残響を轟かせる、そんな演奏である。それは他のバラードやメフィスト・ワルツにも通底しているのだが、一方で一瞬感じられる力みみたいなのが夾雑物として存在して、なかなか楽しむ事が出来ないのも事実である。また、批判ばかりで申し訳ないWoolseyのリサイタルでのリスト(オーベルマンの谷)は打鍵の強さも相俟って、残念ながら途中から録音自体が崩壊している事のみを記しておく。ほぼ同じ時期(1968年)にQueens Collegeで録音された「スケルツォとマーチ」はライブ録音ではあるが、正式な録音であり遙かに音質は良い。この曲は困難な割にソナタほど聴衆を惹き付ける魅力に欠ける難点があるが、ホロビッツの演奏はソナタほど力みを感じさせるものではない。強い打鍵も緩みを感じさせる間はなく聴き応えがある演奏である。

 メンデルスゾーンは協奏曲を始めとして意外と多くのピアノ曲を作曲している割にあまり知られているものはない。ホロビッツの演奏で聴いたのは練習曲 (op.104b)の3番のみで、恐らくアンコール曲として演奏されたものであろう。これで彼のこの時代のメンデルスゾーンを論じるにはあまりに不足である。モノラル時代には無言歌を始めレパートリーを構成していたが、晩年のコンサートではこの作曲家をあまり弾いていないようでハイドンと共に年齢を重ねる内にレパートリーから次第に抜け落ちていったようである。

 ロマン派の最後にフォーレを記しておきたいが、これは寧ろフランスの作曲家というカテゴリーの中で論じたい。

 ホロビッツとフランスの近現代作曲家という組み合わせはこのフォーレとドビュッシーの二人のみと言って差し支えあるまい。カルメンの主題をホロビッツが編曲した演奏はあるが、この曲はビゼーがピアノの為に作曲したものではない。フランク(正確にはベルギー生れ)やラベル(厳密にはバスク生れ)あるいはサン・サーンスなどの曲は録音していないし、演奏会で取り上げたのかは分っていない。ユダヤ人であるホロビッツがワーグナーの影響を受けたフランクの曲を演奏しない(曲そのものはホロビッツに合っていそうな気もするのだけど)のは理解できるが、ドビュッシーを演奏しラベルを演奏しなかったのは彼なりの何らかの拘りがあったのだろうが、それが何だったのかは僕には今のところ不明である。サン・サーンスについては主なピアノ曲が協奏曲だというのが原因であろう。

 まずドビュッシーについては、前奏曲集2巻から3つのextractsとあのWoolseyのコンサートからやはり3つのextacts(Les fees sont d'exquises danseuses”妖精は良い踊り子”が重なる)と”喜びの島”を聴くことが出来た。ドビュッシーと言えばミケランジェリやフランソワ、もう少し新しいところではベロフを始めとしたフランス人の演奏家によるものが定番で、そもそも極めて限られた曲しか演奏していないホロビッツはあまり語られていない。ドビュッシー自身は自らの音楽をImpressionism(印象派)とりわけ、絵画における印象派と同一視されることに疑義を呈したようだけど、ホロビッツが演奏している幾つかの曲は逆にドビュッシーが絵画的印象派、とりわけフランスの絵画を思わせる印象主義音楽であることを強く感じさせる。作曲家の意図に反するかも知れないし、聴き手によってはそれに拒否感を示す人もあろうが、これこそがホロビッツのたぐまれなる才能を示している証であろう。

 例えばベートーベンやショパンでは奔流のように煌めく音符が、ドビュッシーでは暖かな陽のもと、静かな湖面で穏やかに輝く光のように「見える」。それはスカルラッティを弾く時とも、ベートーベンやシューマンを演奏する時とも異なり、また先に挙げたピアニストたちが弾くときのもう少し温度の低い音ともどこか違う、「異世界」の音のように思えるのだ。作曲家によってどのようにスタイルを作るのか、曲によってどのように演奏するのか考え尽くすからこそレパートリーを限定し、その代りに自分の考える最上のものを作り出す。それが彼のスタイルであり、聴衆がそれをどうとるのかは二次的な事なのである。どんなに腕っこきのシェフが作った料理でもそれを旨いと思う人ばかりではない。街角のラーメンの方が美味しいと思うのは自由である。それは間違えではないが、おそらくは正しくもない。正誤を超えた趣味の問題である。

 ドビュッシーについていえば、その演奏のコアは湖面で穏やかに輝く優しい光のような音である。だからこそ、音は重要でWoolseyのような音質ではその良さが感じられない。スカルラッティやショパンの時は なんとか耐えることができたにも関わらず・・・。

 もう一人のフランス人、フォーレは当初リストのソナタと組み合わされて発売されたものである。即興曲と夜想曲のいずれも掉尾を飾る最後のピースをホロビッツは組み合わせた。そこからはフランスの瀟洒さや機知というよりももう少し抑えた色の音が聞こえてきて、どこかラフマニノフにも繋がる響きを感じる。他にフォーレを録音をした記録もないようであるが、敢てフォーレをスタジオで録音したという事は興味を引く。


 復活後、彼が録音した協奏曲は数少ない。その一つにラフマニノフの第3番がある。1978年自身のアメリカデビュー50周年目を祝うこの年、1月にオーマンディと、9月にメータと、共にニューヨークフィルハーモニーをバックに共演した二つの録音(後者は映像で残っている)が存在し、手元にあるのはその前者である。

 ライブ録音で決して最上質の録音ではないし、更に言えばライナーノーツに記載されているように演奏自体も多少編集されているようだ。全体的にデッドな音質だが、ホロビッツ独特のタッチや技巧はよく捉えられている。これでもか、という位の「増し増し」の音符が絢爛豪華に響くが、演奏そのものは一貫した筋の通ったものでフリッツ ライナーと27年前に共演した演奏と通底したものがある。とりわけ第3楽章の出だしなどはとても75歳の老人とは思えない、猛禽類もうきんるいが襲いかかるようなアグレッシブさで、消える前に激しく輝きを放つ命の燠火おきびを連想させる。

 バックのニューヨークフィルについては、前身のニューヨーク交響楽団を作曲家自身が指揮し、ホロビッツがこの曲を演奏したという因縁がある。ライナーの演奏したRCAビクター交響楽団もかなりの部分が同楽団の団員で占められていたわけで、その意味では因縁の深い組み合わせなのだろう。いずれにしろオーケストラとしての力量に全く不足なく、ラフマニノフのような作曲家の場合、欧州のオーケストラより機能的に合致している。

 オーマンディとの演奏は「カット」を少なくしているのでライナー指揮の盤と比べて演奏時間は全ての楽章で長い。ピアノの音が醸し出す緊張感は同程度であるが、オーマンディのタクトにはライナーほどの規律がないので多少オーケストラは若干緩みがちである。曲全体のバランスとしてはライナー盤の方が優れていと思うがホロビッツの凄さはどちらでも味わえる。リストで感じた「力み」がラフマニノフでは感じられないのが不思議である。

 一緒に収められているソナタ(op.36)はやはりライブの演奏で協奏曲の2年後の録音であるが、音はこちらの方が良好である。よほど弾き慣れている曲とみえ、難度の高い曲にも拘わらず、シューベルトの演奏のような「音を探して若干間延び」を感じさせない隙のない演奏であることは前(3話の1)にも触れたとおりで、音の強弱を含め「立体的な音楽空間」を感じさせる。スカルラッティの演奏と対極にあるこの演奏を、両方とも体験してみるとホロビッツの凄さがより理解できよう。

 話は前後するがこのソナタにはCBSにもライブ録音が存在する。1968年の録音で演奏再開した直後のこの演奏も素晴らしいが、個人的には1980年の演奏の方が、録音を含め没入感を感じることができ好ましく思う。1967年録音の「音の絵」(ないしは「絵画的練習曲」)やソナタと共に演奏された「前奏曲」、「楽興の時」などを聴くとせめてラフマニノフに関しては全曲を演奏して欲しかったと思う。


 ホロビッツはラフマニノフ以外にもスクリャービンを始めとしたロシア音楽を多く演奏している。ほぼ、どのコンサートでも必ずと言って良いほどロシアに生れ、ラフマニノフと競い合ったこの作曲家の手になる練習曲や詩曲(poem)を挟み込む。従って僕のような、それほどこの作曲家に関心のなかった(今でも特にあるとは言わないけど)でもOp.8の12のような劇的な(ドラマでも使えそうな)曲はつい口遊んでしまう事になる。(1968年のテレビコンサートの演奏は取り分け思いが籠った演奏である)或いは最晩年に作曲された"ver la flamme(焔に向かって)"。宗教的で粘着質な感触のある不思議な曲で、執拗に繰り返される主題とそれによって高まっていく緊張感はやがて左手で波のように細かくそれでいて荒く弾かれるリズムによって嫌が応にも頂点に持ち上げられていき、そして突如平穏に終わる印象的な曲である。

 スクリャービンの音楽はロシアの作曲家らしく、やや暗いトーンの情念を吐き出すようなメロディが多く、少しショパンに似た響きもありそれがホロビッツの演奏家としての本能に働きかけるものがあったに違いない。モスクワの音楽院で彼とラフマニノフは同期生であったようだが、天才的な素質を持った人間が同時期に生れるというのは「周期的な洪水のように」音楽界に屡々訪れ、音楽に豊穣をもたらす。1810年/11年に生れたショパン・シューマン・リストほどではないにしろ、ロシアという音楽の後背地にショパンたちから60年ほどして誕生したこの『二人のピアノの天才』の曲をもう少し聴く機会を増やしても良いような気がする。そのため、ポリーニやアルゲリッチに匹敵する若いピアニストが練習曲の全曲を「まるでショパンの練習曲を聴いているようだ」くらい身近に、かつ華麗に演奏してくれるような日を待ち望んでいる。

 最後に滅多に聴かないロシアの作曲家・・・ニコライ メトネルの曲はop.51-3「お伽噺」の1曲だけしかない。少し土俗的なゆったりとしたメロディはやがて早足なウサギのように。ラフマニノフに触発され革命後のロシアを出国しどこか根無し草のようにパリからロンドンへと彷徨ったこの作曲家は放浪した先で自分の血が(実は先祖はドイツ人らしいのだが)「ロシアにある」と正教に帰依した。そうした経緯が、この作曲家は決してポピュラーといえないけれど、ホロビッツにとってはどこか、自分と共通し共感するものがあったのかもしれない。ホロビッツもまたピアニスト人生の最後にモスクワでコンサートを開いている。(メトネルの曲は演奏しなかったけれど)1曲だけで評価はできないけど、ホロビッツがショパンやラフマニノフ、スクリャービンだけではなく、あまり世に知られていないメトネルやモシュコフスキ(ポーランド/フランス)を演奏している事は強調しておきたい。


 ホロビッツの残したCDは最低でもRCAとソニーで70枚、グラモフォンで7枚存在し、それ以外にプライベートレーベルでも幾つか販売されており、その全てを聴いていないので遺漏いろうも大いにあろう。おいおい、追加で聴いたものについてどこかで記していきたいのだが、RCA編でも触れたように、最後にいわゆるアンコールピース的なものについて触れておきたい。

 この時代の録音で聴けたのは「ビゼーのオペラ『カルメン』の主題に基づく変奏曲」(ホロビッツの編曲(ないしは二次創作的作曲))だけで、その演奏もRCAの時代の演奏に比べてやや切れがない印象がある。スーザの「星条旗よ、永遠なれ」と共にアメリカの平均的な聴衆向けにアレンジしたアンコールピースは聴衆の成熟と共に少しずつ曲のリストから減らしていったのであろう。ヨーロッパを離れ、アメリカで活躍するに当たって必須であったエンターテナー性はこの時代には芸術性と相反するものになりつつあったのかもしれない。


レコード

*ベートーヴェン ソナタ第14番ハ短調作品27の2「月光」

シューベルト 四つの即興曲 

 変イ長調作品90の4/ヘ短調作品142の1/変イ長調作品142の2/変ホ長調作品90の2

CBS Sony SOCO59

*ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13<悲愴>

ドビュッシー -前奏曲集第2巻から

  妖精は良い踊り子/ヒースの茂る荒地/風変わりなラヴィーヌ将軍

ショパン エチュードハ短調作品10-12<革命>/エチュード嬰ハ短調作品25-7

      スケルツォ第1番ロ短調作品20

CBS Sony SOCL1142

*ホロヴィッツ・ショパン・リサイタル

 ポロネーズ第7番変イ長調作品61「幻想」/マズルカ第13番イ短調作品17-4

 エチュード変ト長調作品10-5「黒鍵」/序奏とロンド変ホ長調作品16

 ワルツ第3番イ短調作品34-2/ポロネーズ第6番変イ長調作品53「英雄」

CBS Sony SECO8

*ウラディミール ホロヴィッツ ゴールデン ジュビリー リサイタル

 リスト ピアノ・ソナタ ロ短調

 フォーレ 即興曲 第5番 嬰ヘ短調 作品102

      夜想曲 第13番 ロ短調 作品119

         RVC RX-2366


CD

*LUDWIG VAN BEETHOVEN

Piano Sonata No.14 in C-Sharp minor, Op.27 No.2 "Moonlight"(1972)

Piano Sonata No.21 in C major, Op.53 "Waldstein Sonata" (1972)

Piano Sonata No.23 in F minor, Op.57 No.2 "Appasionata"(1972)

Sony Classical SK53467


*THE LEGENDARY 1968 TV CONCERT

FREDERIC CHOPIN

Ballade No.1 in G major, Op.23/Nocturne in F minor, Op.55 No.1/Polonaise in F-sharp minor, Op.44

DOMENICO SCARLATTI

Sonata in E major, K380(L23)/Sonata in G major(L335)

ROBERT SCHUMANN

Arabeske in C major, Op.18

ALEXANDER SCRIABIN

Etude in D-sharp minor Op.8 No.12

ROBERT SCHUMANN

Traumerei(No.7 from >>Kinderszenen<< Op.15)

VLADIMIR HOROWITZ

Variations on a Theme from Bizet's Opera"Carmen"

(recorded in Live Concert at Carnegie Hall on Thursday, February 1, 1968)

Sony Classical SK53465


*LATE RUSSIAN ROMANTICS

ALEXANDER SCRIABIN

Feuillet d'album in E-flat major, Op.45 No.1/Etude in F-sharp minor, Op.8 No.2/Etude in B-flat minor, Op.8 No.11/ Etude in D-flat major, Op.8 No.10/ Etude in A-flat major, Op.8 No.8/Etude in F-sharp major, Op.42 No.3/Etude in F-sharp major, Op.42 No.4/Etude in C-sharp minor, Op.42 No.5/Etude, Op.65 No.3/2 Poems, Op.69/Vers la flamme(Poeme), Op.72/Feuillet d'album, Op.58

NICOLAI MEDTNER

Fairy Tale in A major, Op.51 No.3

SERGEI RACHMANINOFF

Piano Sonata No.2 in B Flat minor, Op.36/Prelude in G-sharp minor. Op.32 No.12/

Moment musical in B minor, Op.16 No.3/Etude-Tableau in E-Flat minor, Op.33 No.5

Etude-Tableau in C major, Op.33 No.2/Etude-Tableau in D major, Op.39 No.9

Sony Classical SK53472

*ROBERT SCHUMANN

TOCCATA.OP.7/ KINDERSZENEN OP.15 (1962)

KREISLERIANA OP.16 (1969)

ARABESQUE OP.18 (1968)

BLUMENSTUCK OP.19 (1966)

CBS MK42409

*HOROWITZ RECITAL

Schumann: Scenes of Childhood Op.15/Toccata Op.6

Scarlatti: Sonata in D Major Longo 430/Sonata in A Major Longo 483/ Sonata in G Major Longo 209

Schubert: Impromptu in G-Flat Major Op.90-3

Scriabin Poem Op.32-1/Etude in C-Sharp Minor Op.2-1/Etude in D-Sharp Minor Op.8-12

CBS MYK42534

(year/date of recordings are not indicated in this CD)

*HOROWITZ IN CONCERT

D.SCARLATTI: SONATA L.35/ SONATA L.124(1967)

HAYDON: SONATA NO.58 Hob.XVI:48(1968)

BEETHOVEN: SONATA NO.28 OP.101(1967)

LISZT: SCHERZO & MARSCH (1967)

MENDELSSOHN: ETUDE OP.104B NO.3(1967)

CBS MK45572

*Woolsey Hall, New Heaven Recital 13/November/1966

Franz Joseph Haydn: Piano Sonata in F Major

Robert Schumann: Blumenstuck

Frederic Chopin: Piano Sonata No.2 in B Flat Major, Op.35

Claude Debussy: Prelude Book II / L'isle joyeuse

Franz Liszt: Vallee d'Obermann

Domenico Scarlatti: Piano Sonata in E Major L23

Chopin: Waltz in C-Sharp minor, Op.64, No.2

Rachmaninov: Etudes-tableaux Op.39 No.9

Memories Excellence MR2533/2534

*HOROWITZ PLAYS LISZT

Sonata in B Minor

Ballade No.2 in B Minor

Consolation No.3

Funerailles

Mephisto Waltz No.1

RCA RD 85935

*Sergei Rachmaninoff

Piano Concerto No.3, Op.30, in D Major

Piano Sonata No.2, Op.36, in B-Flat Minor

NEW YORK PHILPHARMONIC Eugene Ormandy, conductor

BMG 82876 59411 2

*FRANZ SCHUBERT

Piano Sonata in B flat major, D960(op.posth)

ROBERT SCHUMANN

Kinderszenen op.15

Deutsche Grammophon 435 025-2

*ROBERT SCHUMANN

Kinderszenen op.15

Kreisleriana op.16

Novellette in F major, op.21 no.1

Deutsche Grammophon 445 599-2

*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Piano Sonata in B Flat major, K281(189f)

Piano Sonata in C major, K330(300h)

Piano Sonata in B Flat major, K333(315c)

Adagio in B minor, K.540

Rondo in D major, K485

Deutsche Grammophon 445 517-2

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