第19話 高橋悠治

 高橋悠治というのは(聴き手がその姿勢に肯定的であろうとなかろうと)唯一無二のピアニストである。

 世の中にはある「範疇」の曲しか演奏しない演奏家というのは存在するのだが、高橋悠治ほど偏って、かつ売るのが難しい作曲家を選ぶというのは本人にとっても会社にとっても相当に覚悟のいることに違いあるまい。少なくとも日本では稀なピアニストである。技術の確立で「初期費用」をあまり気にせずに録音やその配布が可能になりつつある現代とは違って彼は1960年代から武満徹とかジョン ケージとかあまり売れそうにない作曲家や曲目を好んで演奏し(つまり商業的には儲からない選択をし)、またそれが許されたピアニストでもあった。

 僕が最初に出会ったのは小澤征爾が演奏した武満徹の「ノヴェンバーステップス他」の中にある「アステリズム~ピアノと管弦楽のための」での演奏である。それはほぼ同時に僕に取っての現代音楽との出会いであり、たいていのリスナーと同じように僕もそれによって現代音楽に殴られた組である。

 それはまあ、そうでしょう。そもそも1950年代生れの僕の時代に合ってもクラッシック音楽のファン自体が準絶滅危惧種・・・(ビートルズや郷ひろみや山口百恵などの方がよほど人気があった時代だ)その中で「最初から現代音楽に親しんでおります」などという人などいるわけもない。聴いたことのある現代音楽と言ってもせいぜいストラヴィンスキーやバルトーク・プロコフィエフくらいまでで、シェーンベルクさえ聴いたことの無い状況で武満徹を聴けば、やっぱり殴られたような感覚に陥るのです。

 この時代というのは武満を始めとして日本の作曲家、或いはそれを演奏した小沢を筆頭として日本の演奏家が世界に進出しようとしていた。クラッシック音楽の世界は欧米で縮小しつつある顧客を補完する意味で日本に期待し、そうした潮流を後押ししたのだと思う。そうした傾向はインドや南米などにも見られ、幾人かの本物の音楽家と、それほどでもない音楽家を世界に紹介することになった。その後そうした流れは韓国や中国にも波及した。もちろんビジネスの側面があるのだし、アルゲリッチなどをはじめとした優秀な音楽家を世界に導き出したのは事実である。そしてアルゲリッチほどのマグニチュードはないにしろ高橋悠治もそうした潮流の中できらりと輝く宝石の一つだったと思う。武満の作品を収めたLPのジャケットもそんな雰囲気を纏った斬新なものであった。

 残念ながらプレーヤーが故障しているので美しいジャケットの中で眠っている武満のアステリズムを再聴することは叶わなかった。


 ということでサティから聴き始めることにする。

 CINEMAという4手のピアノはアラン プラネというフランス人のピアニストと共演したものである。このダリウス ミローによる編曲(ピアノ版)ルラーシュ<本日休演>の幕間音楽からCDは開始する。

 この選び方が絶妙でこれは高橋悠治ではなくレコード会社の選択なのだろうけど、サティの曲の中でもあまり耳慣れない、躁状態の叩きつけるような音が進行していく。繰り返すその音のフレームの中を突然ショパンの葬送行進曲らしい音の連なりがフレームに縁取られたスクリーンに影絵のように進行していく不思議な経験をしていると、いつのまにかジムノペディスというサティの原点のような、パリの街角のバス停に立たされているのだ。

 あれ、どこにあの不思議な曲が流れていたのかしらん、と首を傾げながらバスに乗り込むと、突然バスの中はJe te vuexという魅力的な曲の流れる遊園地に早変わりしている。夢のようなお言葉?となじみ深いリズムに酔い痴れていると、ほい、と古びた山高帽を被り、色とりどりのシャツを着た奇妙なフランス人が何かを放ってくる。

「なんじゃ、こりゃ?」

 聴き手は手にした、がさがさとした奇妙なものを眺める。

「Embroyons dessechesじゃよ。」

 へ?突然フランス語のアルファベットが踊り出して「胎児の乾物」という日本語を作り出し、段差のある激しい音階と文字の端で僕をぶちのめす。手の中から乾物は飛び出てどこかへ飛んで行ってしまう。脳が頭の中でぐらぐらとしている僕の耳にまたまた聞き慣れた音楽の影絵がなり出す。これは・・・?クレメンティだ・・・じゃない。ソナチネ ビュロクラティク?官僚的な小ソナタ?

 続く「梨の形をした三つの断片」はジャックフェブリエの演奏で初めて聴いたサティのレコードに収められていたものだ。それを聞きながらしばらくすると漸く心が落ち着く。そしてグノシエンヌとラグタイムパレードへと流れ、突如途切れる。

 このエンディングの唐突さはサティの録音を聴いたとき、誰の演奏であろうと常に抱く感想である。サティ自身は音楽という歴史の中で何かを作り出したという印象が薄い。ワグナーのように雄弁ではないし、ドビュッシーのように革新的でもない。ラベルのようにオーケストレーションの色彩感覚もない。だがサティは確実にその時代の音楽の触媒として音楽の「シーン」を作り替え、なおかつその音楽は未だに触媒としての力を保持し続けている。


 モンポウの音楽も並べて聴いてみるとサティに近く感じる。指先から紡がれる音は雄弁でもなく、高揚感も与えず、花びらから落ちる滴のように心許ない。Musica Calladaを作曲したモンポウはCompositor Calladoであった。

 Musica Callada(「沈黙の音楽」と訳されているが寧ろ「静音楽」と普通に訳した方が良いと思う。原題がMusica silenciosa でもMusica sin sonidoでもないのだから)の第1ノート(primer cuaderno)は不協和音の連続した繋がりによって始まり、やがて奇妙な文字のつずりのようなリズムを奏でるように展開していく指示の音楽帳であるが、最初から最後まで実に不思議な響きを湛えていて、モンポウの書くとおり”it is a weak heart beat.******it's mission is to reach the profound depths of our soul and the secret regions of our spirits's spirit"(この「音楽」は弱い心拍音である。その役割は私たちの魂の奥底と我々の精神に存在する生気の秘められた領域に到達することにある)であり、高橋悠治の演奏はそれを体現している。そこからつま弾かれる音は静かに体内に沈み込んでいくだけであり、僕らは解釈を止める。


 例えばポリーニが現代音楽を演奏するとき、その指先からは現代音楽を溶かす音が流れ出る。ポリーニがそれを意図しているかどうかは分らないけど、現代音楽が彼の手に掛ると硬質で遠い音楽ではなくなる。だが高橋悠治の紡ぐ音は薄い氷の張ったままの音で、逆にそれがその音楽の美しさを強く主張することがある。とりわけ機械性のない抒情的なモンポウの作品ではそれを強く感じるのだ。第4ノートの終盤にかけてそれは極点に達する。演奏家がある作曲家の演奏をするときの意味はそれぞれであり、その意味を明確に保持し続けられるかこそが演奏家としての質を決めるのではなかろうか。

 そうした高橋悠治が古典を演奏するならバッハを演奏するのは必然的であろう。ベートーヴェンならばピアノ曲より後期の弦楽四重奏曲をピアノに編曲したものとかであろう。或いはショパンを始めとするロマン派よりスカルラッティのほうが遙かに似合いそうだ。(但し実際はベートーヴェンはバガテルを演奏し<これはある意味納得できる>ロマン派のシューベルトを演奏していたりする、らしい)


 ともかくバッハを聴いてみる。ゴルドベルク変奏曲には2種類の録音があるようで、僕が聴いたのは1976年荒川区民会館で録音されたものである。高橋悠治がバッハを普通に演奏するはずがないと思わせるが、少なくともゴルドベルク変奏曲にかんしては至極まっとうな演奏である。

 そうはいうものの、とりわけゆっくりした部分ではテンポを微妙にずらしたり、音もリズムを重視すると言うより「摘まむ」ようにくっきりと1音ずつ刻むような弾き方に特徴を

 彼の指先から流れ出る音はバッハにしてもモンポウにしても、曲と聴き手の間に薄い氷のようなものを存在させ、彼自身は「解釈」を拒否している。というか「解釈」は聴き手が勝手にやれば良い話である。それはポリーニとは異なり、グールドとも似ておらず彼特有の音楽に対する姿勢を表している。

 おまけに収録された14のカノン(なんにしろ初めて聴いた曲ばかりでジャケットにも小さくworld premiere recording<世界初録音>と英語とフランス語を交ぜて記してある)はシンセサイザーで演奏されていて、その点がいかにも高橋悠治らしい。実験的であるとか「遊び」とか嫌がる人も居るだろうし、評価する人もいるだろう。「単純カノン」から始まる「逆行形」「反行形」を含んだ4つの部分からはなんだか「象のおなら」みたいな音も聞こえてくる。おかげでラッパの音を「象のおならみたいだなぁ」と書いたのは宮沢賢治だったかしらん、それとも誰か別の人だったかなどと余計なことを考えた。

 まあ、音楽というのはまじめなものでもあり、遊びでもあり、どちらかと決めつける必要もないので嫌なら聞かなければ良いだけの話である。


 バッハに関しては他に「フーガの技法」の演奏があるらしいし、ドビュッシーも演奏している。この二人の作曲家というのはピアニストにとってどうしても気になる存在なのだろうなぁ。

 個人的には平均律クラーヴィアと同時にその現代における裏返しの後継であるショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」を演奏して貰いたいと思うのだけど、既に85歳を超えていることもあり、たぶん願いは叶わないだろう。

 それでもぜひ長生きして頂きたいものである。彼は時代の落とし子なのだから。

 

レコード

*小沢=武満 ノヴェンバー・ステップス

アステリズム~ピアノと管弦楽のための

小澤征爾指揮 トロント交響楽団

(他収録曲:ノヴェンバー・ステップス/グリーン<ノヴェンバー・ステップス第2番> 鶴田錦史(琵琶) 横山勝也(尺八)

     RVC SX-2749



CD

*SATIE FAVORITES

ERIC SATIE

CINEMA(1924)* Entr'acte symphonique de "Relach" Reduction pour piano a quatre mains par Darius Milhaud/GYMNOPEDIES I-II-III(1888)/JE TE VEUX(1900)/EMBROYONS DESSECHES(1913)/SONATINE BEUREAUCRATIQUE(1917)/TROIS MORCEAUX EN FORMA DE POIRE(1903)*/

GNOSSIENNES I-II-III(1890)/RAG-TIME PARADE(1917) Reduction pour piano par Hans Ourdine

* Second piano ALAIN PLANES

DENON DC-8096

*モンポウ(Federico Monpou)

沈黙の音楽 (Musica Callada)

fontec FOCD9346

*J.S.バッハ

ゴルドベルク変奏曲/14のカノン

    DENON COCO 73050




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