第14話 フリードリッヒ グルダ

 グルダというのは不思議なピアニストだ。

 ジャズにのめり込んだり(友人のチックコリアは逆にクラッシック音楽にフージョンしたのだけど)、やたらテンポの速いベートーベンを弾いたりとか、由緒正しい音楽の聖地ウィーンを基盤とする演奏家にしては様々な奇矯な行動を取ったが、干されることもなく(レーベルは変わり続けたが、そのいくつか例えばデッカのようにグルダの方から変えた場合がある)、主張が強そうな割に実は伴奏をいとわない人だったというのが面白い。

 実際、グルダはバイオリンやチェロの伴奏を頻繁に行っている。特に声楽の伴奏は通常伴奏のスペシャリスト(ジェラルド ムーアとか)がやるもので、独奏をするようなピアニストはしないものだけどグルダはそれを全く気にしていないようだ(グールドにもそうした傾向があったけど)。

 ウィーンの三羽烏としてパドゥラ スコダ、イエルク デムスと並び称されるピアニストではあるが、グルダは2、3歳年長の兄「カラス」たちと違い、末っ子らしいすこぶる自由闊達なピアニスト生活を送り、ウィーンの「比較的狭い」音楽界に閉じこもっていた二人と違う様相を世界に見せてきた。死後、既に二十年経っているにも関わらず、そして亡くなったとき70歳の齢だったにも関わらず、グルダには今なおずっとそれより若い(それでいながら若い頃は、少し薄い髪の毛とその割に深いもみあげのせいか「おじさん」ぽい)不思議な印象がある。

 そんなグルダの演奏を僕が初めて聞いたのはフルニエと共演してるベートーベンのチェロソナタが初めてだった。これはフルニエが三回録音しているもののうち、真ん中の録音で最後であるケンプとのものが良く名盤と言われているが個人的には圧倒的にグルダとの組み合わせが良いと感じている。


 うん。グルダは独奏曲よりも協奏曲、室内楽曲、あるいは伴奏曲の方が実力が発揮されるピアニストだ。彼自身もそれを分っているのではないか?英語で言えばtalkativeなタイプの人間で他の演奏かと掛け合いをすることで相手の長所を引き出すばかりではなく自らの演奏も高める、そんな演奏家に違いない。特にそれを感じたのはアーノンクールの指揮したアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団と共演したモーツアルトの26番と23番のピアノ協奏曲である。

 アーノンクールは癖のある指揮者で人によっては評価されるが、僕にとっては全幅の信頼を置ける指揮者ではない。ギドン クレーメルと共演したモーツアルトのバイオリン協奏曲集などは変人同士の掛け合わせのような演奏になってしまって最初から最後まで安心して聴くことが出来なかった。だがグルダは遊びがある演奏でいながら締めるところはきっちりと締めているために、アーノンクールの癖(わざと音の大小を極端につけたりする)が適度に中和され、寧ろ悪くない「アクセント」となっている。

 そのアーノンクールと対極にあるアバドが指揮を執ったグラモフォンの演奏では(この伴奏ではアバドが批判されがちなちょっと「真面目だけど退屈な指揮」という悪い面が出ているけど)独奏者は21番ではもの凄くきれいなパッサージュを弾きつつ自らのカデンツァで遊び心を前面に押し出してくるのに、20番ではベートーベンのカデンツァをとてもシリアスに弾いてくるという二面性を豊かに示している。こんな柔軟な才能と稚気に溢れたピアニストといえば彼を凌ぐピアニストはいないのかもしれない。その意味でグルダは本物の「カラス」のように賢いピアニストだと言えよう。

 そして自分と同年代のアバドやアーノンクールと違い大先輩のベームと組むときはジュナミ(KV271:録音された当時はjeune homme<ジュノーム>という名で知られていた。若い男という意味のフランス語である。なんとなく指揮者と比べた自分について指す洒落なの?と思わせる)のようなモーツアルトの若き日の協奏曲を選んで、大御所の手の中で楽しそうに遊んでいる。僕は持っていないが、指揮者なしで弾いている演奏もあるらしい。どんな環境でも遊び心を忘れず、状況に柔軟に適応するグルダはメンタル的にモーツアルトと共通するものを持った音楽家のようで、モーツアルトの演奏で名演が多いのはそのせいなのかもしれない。

 そのグルダが独奏したベートーベンの曲で僕が現在唯一持っているのが「アントン ディアベリのワルツに基づく33の変奏曲」であり、「靴屋の継ぎ革」(主題に対するベートーベンの感想というか悪口?)は33もの変容をベートーベンに託されたグルダの手で演奏されている。この変奏曲は意外と録音が多く、かなり著名なピアニストも演奏しており場合によってはバッハのゴールドベルク変奏曲と「変奏曲の双璧」と評されることがあるらしい。ベートーベン自身が元の曲を「靴屋の継ぎ革」と言っているくらいだからそこまで評価する必要はないように思えるが、装飾的変奏ではなく、内容的変奏の嚆矢としての評価というのはあるだろう。

 しかし内容的変奏というのはもはや変奏の域を超えているわけで、ピアニスト達はこの変奏曲をピアノソナタに連なる作品として演奏しているに違いないし、それだけの内容を伴う曲ではある。

 ただ、まあソナタと比較してどうか?と聞かれるとそこまでではない、というのが僕の本心である。「変奏曲」というカテゴリーだから注目されるという要素は否定しきれず例えば同じ頃に作曲された後期のソナタ群と比べて印象は強くない。だからグルダの弾くベートーベンをこの曲で評価するのは恐らく正しくないだろうし、この演奏が僕の中の何かをインスパイアすると言うことは特になかった。グルダがベートーベン弾きだと考えている方々からすれば怪しからぬ所業であろうが、僕は実のところグルダはモーツアルト弾きだと思っているので仕方ない。いつかはグルダによるベートーベンの協奏曲やソナタを聴くことがあろうかとは思うけど、今のところその食指は動いていない。(だから冒頭に書いたやたらと速いベートーベンというのは又聞きに過ぎない)

 しかし、フルニエを伴奏したベートーベンのチェロソナタの素晴らしさは筆舌に尽くしがたいものがある。フルニエはチェロの有名な協奏曲、伴奏を伴うソナタ曲をだいたい二回(ベートーベンのソナタは三回だけど)、相手を変えてスタジオ演奏している。ベートーベンのソナタではグルダとケンプ(およびシュナーベル)、ブラームスのソナタではバックハウスとフィルスクニー、ドボルザークの協奏曲ではセル・ベルリンフィルとクーベリック・ウィーンフィル(但し、非正規のライブ盤を加えると少なくとも5つのレコーディングが確認される)。そしてその少なくとも片方はその曲の随一の名演奏となっている。

 ただ個人的に言えば、バックハウス、ケンプ、フィルクスニーといった名ピアニストと比較してもフルニエのチェロはグルダとの相性が最も良い。端正なフルニエのチェロと才気溢れるグルダのピアノが紡ぐベートーベンの五つのソナタ、三つの変奏曲は全てのチェロソナタの中でも圧倒的な高みにある存在だと僕には思える。何度聞いても飽きない豊かな感性、瑞々しい調べ。音楽の楽しさというのはこういう演奏にこそあるのではないだろうか?

 op.5No.1の友人同士のようなチェロとピアノによる軽妙な掛け合いは、op.2で少し真面目な人生と恋愛についての相談へと、ベートーベン26歳の頃らしい(真面目だけど)若々しいリズムが二人の奏者によって引き継がれていく。

 それと打って変わってop.69は38歳の分別のついた作曲家がしみじみとチェロの音で語り始める。第一楽章冒頭の重厚でありながらどこか懐かしげな、儚い心情がフルニエの弓から紡ぎ出される。それをグルダのピアノが受け止め、後悔めいた悲しみを昇華させていく。第二楽章は再び思い悩みに囚われた人のため息を思わせる曲調に心が沈んでいくような気がするが、それを受けた第三楽章の先には鬱陶しい雲の隙間から漏れ出た日の光が暗雲を払うようなメロディが生み出される。その全ての物語をフルニエは誠実に、グルダは少し諧謔を混ぜながら語っていく。他の組み合わせでは味わうことの出来ないストーリーをこの演奏からは感じ取ることが出来るのではないだろうか?フルニエという傑出したチェリストからそれを引き出すことが出来る、グルダはそんな演奏家である。

 45歳の時に書かれたop.102 No.1はそれ以前のソナタに比べて遙かに激しい感情が聴き手にぶつけられる。人生を振り返った初老の男の得も言われぬ激情と言ったら良いのであろうか、フルニエのチェロもそれまでの曲と違い速く激しく感情を動かしていく。No.2と三つの変奏曲もそれぞれ素晴らしい演奏で、どの一曲を聴いても後悔することはない。無人島に持って行く時に持って行くアルバムは何かと聴かれたら、僕にとってこの演奏はかなり上位に位置する。


 もう一つ、バッハの平均律クラビア・・・この曲にはまた様々な名演がある。リヒテル、グールド、ニコライエワ。荘厳な演奏、宗教的な色合いのもの、斬新なもの。

その中でグルダの演奏の特徴と言えば、もっとも「バッハらしくない」平均律クラビア、といったところだろうか。

 そもそも前奏曲とフーガという次元の違う要素を音律で重ね合わせて、ミルフィーユのようにしたこの曲集は今なおその構造の斬新さで特筆すべきものだとは思うが、グルダの演奏ではそのフーガの部分の遁走感をなるべく感じさせないような奇妙な感覚を覚える。この曲は対比された前奏曲とフーガを音律で並べるという「構造」と通常の曲(前奏曲)とフーガという曲調の差という綿密な構築物であるために、その要素が少しでも消されると全く違ったものに聞える。それを評価するか、嫌うかによってグルダの平均律に対する評価は大きく異なるだろう。ただ、基本的にアプローチの違う演奏をどっちが良い、悪いという議論をしても仕方がないと思う。特に平均律クラビアのような曲は全体としての解釈、アプローチの段階で明白に好みが分かれ余り技術や細かな部分での話ではない。個人的にはこの演奏をバッハの「典型的な演奏」として進めることはないと思うが、そもそも「典型的」というのも、独創性を重視するならば、音楽を語るに当たって少しずれた論点のような気がする。

 グルダの平均律をベストの演奏、という意見があっても僕自身は受け入れることは出来る。でもまあ、グールドとかリヒテルとかも聴いてごらんよ、ニコライエワも聴いてみたまえ。或いはヴァルヒャやレオンスカヤも面白いよ、とは言いたくなる。だからクラッシック音楽は面白いのだし、許容性が深い。逆に言えば、「この演奏がベスト」と相手を罵り合うような必要性はあまりないと思う。特にグルダを聴いた後はそんな気になってくる。なんでもありだよねぇ、と。


 という訳で、グルダと言うピアニストはふんわりと、おじさんの格好をした天使のような顔をして、にやにやしながら地上の批評を楽しんでいるに違いあるまい。



*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Piano Concerto No.26 in D major, K557 "Coronation Concerto"

Piano Concerto No.23 in A major, K488

Royal Concertgebouw Orchesrta NIKOLAUS HARNONCOURT

TELDEK 4509-97483-2

*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Konzert fur Klavier and Orchester Nr.20 in d-moll, K466

Konzert fur Klavier and Orchester Nr.21 in c-dur, K467

WIENER PHILHARMONIKER CLAUDIO ABBADO

  (贈答品)<原盤 Polydor International GmbH 431-973-2>

*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Konzert fur Klavier and Orchester Es-dur, K271

Symphonieorchester des Bayerischen Rndfunks KARL BOHM

(mit Brahams Syphonie Nr.1)

ORFEO C263 921 B

*Johann Sebastian Bach

The Well-tempered Clavier,Book 1 PHILIPS 446545-2

The Well-tempered Clavier,Book 2 PHILIPS 446548-2


*LUDWIG VAN BEETHOVEN

Variation Diabelli 33 Variations sur une Valse d'Anton Diabelli, op.120

HMA 1905 127

*LUDWIG VAN BEETHOVEN

Die Werke fur Violoncello und Klavier

Sonate F-dur op.5No.1

Sonate g-moll op.5 No.2

Sonate A-dur op.69

Sonate C-dur op.102 No.1

Sonate D-dur op.102 No.2

12 Variationen uber ein Thema aus "Judas Maccabaeus" WoO 45

7 Variationen uber das Duett "Bei Mannern, welche Liebe fuhlen" WoO 46

12 Variationen uber das Thema "Ein Madchen oder Weibchen" op.66

PIERRE FOURNIER Violoncello

Deutsche Grammophon 437 352-2

*Bach

The well-tempered Clavier Bk.1/Bk.2

PHILIPS 446 545-2/446 548-2

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