第12話 ベネディティ ミケランジェリ

 幻のピアニスト。

 世間から屡々しばしばそう呼ばれるベネディティ ミケランジェリこそ「現代における最も素晴らしいピアニスト」だと考える人は多いのではないか。

 なんと言ってもポリーニとアルゲリッチが教えを請いにこのピアニストの下に馳せ参じたのである。あたかも宮本武蔵が塚原卜伝つかはらぼくでんに教えを請いに行ったようなものだ。技術を知る人は技術を極めた人の下にしか行かないものだ、というのは今も昔も変わらない。そう考えればミケランジェリが当代随一のピアニストであるという考えもあながち間違えではないのかも知れない。

 アルゲリッチが教えを乞いに行ったにもかかわらず「君は完璧だから」とピアノを教えず、ずっと卓球の相手をさせたという話もまことしやかにささやかれている。卜伝が鍋のふたで武蔵の一撃をかわした風景を彷彿ほうふつとさせ、もしかしたら、その卓球のリズムに謎があるのでは?と思うかも知れないが、ミケランジェリは肝心の卓球がめちゃくちゃに下手糞へたくそだったらしいというオチまでついて、なんだかよく分らない。だが・・・少なくとも卜伝と武蔵の話は(時代が合わないので)素性の怪しい伝説であるのに対し、こちらのほうは真実に近い。

ミケランジェリは単にほんものの変人なだけではなく、変人を演じることを敢えて好むという二重の変人で、しかもそうしたすぐばれる嘘をつくことさえいとわない。ピアニストのくせにスピード狂だとか、変人だからと自らを称して変人のみを評価する(グレン グールドとかセルジュ チェリビダッケとか)、という複雑怪奇な人格の持ち主であったらしい。そのイタリア人らしからぬ魁夷かいいな容貌と共に俗人を寄せ付けぬ感がこれほどあるピアニストも少ないだろう。

 ポリーニの時に卓越した見解でショパンコンクールで彼を一位に推したアルチュール ルービンシュタインがユージン・イザイコンクール(今のエリザベート妃国際コンクール)でミケランジェリに極めて辛い点数をつけたために彼はこのコンペティションで7位に甘んじた。まだルービンシュタインが若い頃であり、早熟なピアニストを嫌ったのかもしれないし(ミケランジェリがコンペティションで要求された初見での演奏が苦手だったせいもあると聞くが)、ホロビッツの鬼才ぶりに「死ぬことも考えた」ピアニストはその後、考え方も変わりポリーニを受け入れるまでに円熟していったのかも知れない。いずれにしろ、イザイコンクールで落伍した青年ピアニストはその1年後コルトーとパデレフスキが審査員を務めたジュネーブコンペティションでコルトーに「新たなリスト」と賞賛を浴びるのである。


 この奇妙な経歴と性格を有したピアニストの録音を僕が最初に購入したのはロンドン(日本ではキングレコードから発売された)ベートーベンのピアノソナタ32番とガルッピ、スカルラッティのソナタが組み合わされたLPであった。彼の演奏するベートーベンの最後のソナタに魅せられた記憶と共にガルッピって誰?と思った記憶がある。

 その後、日本コロンビアからチェリビダッケとスウェーデン放送交響楽団によるベートーベンの5番の協奏曲が発売され幻の名盤と呼ばれ僕も(当時の正規盤で2200円もした)買い求めた。この盤のライナーノーツを吉田秀和が書いているのだが、この知見にあふ明晰めいせきな評論家にしては珍しくとりとめのない文章になっている。

 例えば「私が(ベートーヴェンのピアノ協奏曲で)好きなのは、四番であり(これは僕も同意)、それから一番である(一番はモーツアルトの28番ピアノ協奏曲のようで曲自体は嫌いではないけどその順位に余り同意できない)」とか余計なことを書いておいて、その後で「スペースがないので、くわしくはのべられないが、要するに、ここには、実にたくさんのものが入っているのである」・・・。

 いやいやスペースを無駄にしているのはあなた自身でしょ、ぜひ詳しく述べて欲しい。そもそもたくさん入っているものって何よ?芋煮じゃあるまいし、と思ったのは僕だけであろうか。

 他にも色々と突っ込みどころのある文章で、ミケランジェリ(このレコードではミケランジェーリと記載されている)が「究極的なところまで考え詰める」けど「一回一回、そのときでなければ」起こらない演奏であることという主張の矛盾に翻弄ほんろうされ、セルジュ(このレコードではゼルギュウと記載されている)チェリビダッケについては「このレコードをきいただけで、その(現代一流中の一流の名指揮者であるということの)当否を判断する力がない」と事実上判断の放棄をしている始末であって・・・とても人間的で素晴らしい。正しい評論家はこうありたいものである。なんだか雲に巻くようなことを適当に書いて推薦しているよりはずいぶんと正直でマシである。

 いつの間にかこの録音は「皇帝」の幾つかある決定盤の一つのように祭り上げられたような感じはあるが、出始めの頃は著名な評論家でさえ評価の確定した演奏に比べて「なんだかよく分らんぞ」的な雰囲気があったのは間違えない。聴けば明らかにその演奏が秀逸しゅういつな物だと分っても、余りに録音が少なく素性のはっきりしないピアニストと指揮者同士の演奏ではめったなことを言えなかったのだろう。

 その後もミケランジェリというピアニストは謎のままめったに人前に姿を現さず、レコーディングもしないままでいたが、そんな中、グラモフォンから新譜が発表され、その最初はドビュッシーとショパンであった。1971年の事である。そしてその後もポツポツとベートーベンの幾つかの協奏曲とソナタ、ブラームスやシューマンの小品などが発売される。


そのグラモフォンから発売されているベートーベンの協奏曲はライブ録音であるが、数少ないミケランジェリの録音にはライブ演奏が比率的に多い。特に協奏曲はそうで、僕が所有するベートーベンの5番の3種類の演奏は全てライブである。その事実は彼の完璧主義と相容れないような気がするが、コンサートでさえ、全てが万全でないとキャンセルしまくったミケランジェリの事だから、スタジオ録音などという「いくらでもキャンセル可能な状況」ではとりとめなくなってしまう。運任せで演奏したらライブでの録音が良ければ発売可、気にいらなければ発売しない、そんな状況だったのかも知れない。(その幾つかは本来許可する対象でさえなかったのだろうけど)まあ、コンサートを行ったと言う時点で、彼にとっては万全の状態であったはずだから(でなければキャンセルするわけだから)発売されている全てのライブはその意味で彼自身によってqualifyされているという論理が成り立つわけである。

 テレビ向けに公開で録画録音されたこの演奏にいても、「めったに演奏会に顔を現さないピアニストが演奏する」という事実だけでかもし出される緊張感に、オーケストラも聴衆も息が詰まるほどであったのだろう。ライブ録音には聴衆の出す小声、しわぶきや咳がつきものだがそれが一切聞えてこない。その前にフィンランドで録音されたチェリビダッケとの録音にはそうした雑音が入っているので、隔てた13年の間にミケランジェリは更に聴衆に対する緊張感を高めることに成功(?)したと言えるのだろう。

 ちなみにミケランジェリが共演するオーケストラや指揮者は必ずしも超一流ではない。グラモフォンへの最後の録音で奇数番で共演しているジュリーニとウィーンシンフォニカーはその中ではかなりレベルが高い方であり、指揮者のレベルとしてはチェリビダッケに次ぐと言えよう。その他の録音で聴くことの出来る指揮者、オーケストラの名前は末尾に記してあるように余りお目にかかったことのない名前も結構含まれている。これはミケランジェリに非があるのであって、もともと公演でベートーベンの協奏曲を共演したのはカルロス クライバーだったのだがミケランジェリの方から難癖なんくせをつけた形跡がある。クライバーだって相当の変わり者であるからいったんへそを曲げたら修復が効かなくなって実際にはいさかいが起きる前に共演したにも関わらず録音の段階には至らなかったらしい。なんとももったいない話である。クライバーの方も協奏曲で共演している独奏者はせいぜいリヒテルとかエッシェンバッハくらいで、この二人が共演したらまさに世紀の奇跡に近かったのであろうに。

 グラモフォンから出ているCDの一つにモーツアルトの協奏曲がありコード ガーベンの指揮するNDR Sinfonieorchester(北ドイツ放送交響楽団)と共演している。聴き始めれば指揮者もオーケストラもそこそこである事は分るが、おそらくこの選択も指揮者がピアニストの機嫌を損ねない、ないしは言うことを聞くという条件で決まったのであろう。meticulousの権化ごんげのようなミケランジェリがそういう要求をしたのはわからないでもないが、こうした選択は共演者との間でアウフヘーベン(止揚)的な効果をもたらすとは思えない。比較的共演の多かったチェリビダッケともやはり衝突したりして、ピアノへの完璧主義だけではなくどこか狷介けんかいな性格がミケランジェリに対して感じるのは僕自身がそうした狷介さを持っているせいであろうか?いずれにしろチェリビダッケやグレングールドのような世間から変わり者と見られている音楽家とは親近感を持っていたらしいがそれが純粋に音楽性の問題なのかどうなのか、少しわかりにくいきらいがある。

 モーツアルトに関してミケランジェリは他にもK.450やK.415を余り著名とは言いかねるイタリアの指揮者、オーケストラと共演している。どちらも正規のスタジオ録音なのか判然としないが、少なくともK.450は販売元がEMI Italiana S.p.Aとは言え、EMIと名乗っているのだから正規の録音なのだろう(音はめちゃくちゃ悪いし、雰囲気的にはライブの録音に聞えるが、録音データが一切書かれていないので判別不能である)。もう一つのK415はモノラルで製造元も怪しいのだが、音はこちらの方がだいぶ良い。1958年ナポリでのライブで、地元のオーケストラなのだろうか、アレッサンドロ スカルラッティの名前を称した(スカルラッティはナポリで宮廷楽長をやっていたらしい)聞いたことの無いオーケストラと指揮者であるが意外ときちんとしており、ミケランジェリのピアノも明晰で楽しめる録音である。(ちなみにK.450の方のCDにはバッハのシャコンヌ(ブゾーニ編曲)とブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」が収録されていて、特にブラームスに関しては面白い演奏である。最初から最後までピアノはとんでもない技巧を伴った強い指で叩かれていき、そのさまは堅い木から像をのみで削り取っていくかのような趣がある。14歳の時にディプロマを彼が得たのはこの曲であるから、よほど弾き慣れているのだろう)

 モーツアルトを弾くミケランジェリを聞いていつも思うのは「音の強さ」の均一性である。全てというわけではないのだけど、多くのピアニストが感情を込めて強く弾くところはそうせず、弱く弾いているところは明晰に、場合によってはテンポを変えて音を響かせる。作曲家の楽譜は分解され、ミケランジェリの手で料理され直され耳新しい曲として提供されるのである。最初モノラル録音のものだけを聴いていて、録音のせいなのかと思っていたのだけどグラモフォンから出た最新の録音でもその傾向は全く変わらない。

 いや・・・むしろミケランジェリはモーツアルトの曲はフォルテピアノで弾くのが相応しいと考えて敢えてそう言う弾き方をし、その時彼の指先にある鍵盤はスタインウェイではなく、ヴァルターのものに変わっているのかもしれない。とはいえ、モーツアルトより4年前に生まれたクレメンティの演奏ではそうした配慮がされていないし(ベートーベンより5年長く生きたせいかもしれないが)バッハのシャコンヌも格別そうした演奏を取っているわけではなく、それがブゾーニによる編曲の結果なのかも分らず、時代考証というよりモーツアルトという作曲家が特別なのかも知れない。


 その演奏の技法は、だから、ベートーベンでは採用されない。作曲家に応じた演奏の変化という点ではミケランジェリは結構明確でおそらく指先には作曲家ごとのスイッチが埋め込まれているのだろう。特にEs-Durでの研ぎ澄まされた、それでいて力強い演奏はモーツアルトでの軽やかなタッチの演奏と全く違う。

 ミケランジェリはEs-Dur「皇帝」を好んで演奏するピアニストでそのどれもが輝きを持って存在する。「皇帝」は出だしがピアノで始まるという構成のために(ラフマニノフの2番とかにも言えるように)最初からピアニストの主張がはっきりとする曲である。その意味ではミケランジェリのものはグールド(アンチェルの指揮とストコフスキーの指揮のいずれも)と双璧そうへきの強い主張に飾られた出だしである。

 ただ、それでいながらやはりミケランジェリらしい音やメロディの作り方、微妙な表情(特に揺れ)は共通しているわけで、モーツアルトの20番とベートーベンの5番という全く違う曲の中にもときおりふとそれを感じさせるパッサージュ(ややゆっくりめの進行の時に特に)がある。

 第二楽章が始まって三分ほど経った時に始まるピアノの独奏の独特な和音、終盤の主題に入る前に掛けてのオーケストラとの掛け合いの中で決してオーケストラと交わり合わぬような細心の表現から、第三楽章への主題への変化。凡百の「皇帝」ではない事は明白である。僕が所有するだけでも「皇帝」は10以上の演奏を数えるけれど、その中でもやはり特筆すべき演奏である事は疑いを入れない。

 ちなみにこのシリーズでは奇数番号の協奏曲を同じ共演者で演奏しているが、ミケランジェリはC-Dur(1番)でもモーツアルトで使った演奏法を取っていない。1番のピアノ協奏曲はモーツアルトの協奏曲の系譜を引いていると僕は個人的に思っているが、ミケランジェリは全くその意見にくみしない。ダイナミズムに満ちた演奏方法はそのまc-moll/ES-Durへ引き継がれていく。それは一つの明確な主張で、ベートーベンのはベートーベンの、そしてドビュッシーにはドビュッシーの、シューマンにはシューマンの曲なりの演奏法が彼の中には用意されているのだ。とりわけモーツアルトとブラームスの演奏にそうした主張を僕は感じる。

 そうした彼の思考法と彼の表現の微妙な組み合わせに僕らは耳をそばだてさせられるのだろう。逆に言えば、それに気づかないままでいることもできる。その時、僕らは彼の演奏をどう評価するのか・・・。一期一会で、素のまま彼の演奏を耳にしたとき、僕らはその演奏の奥底にあるものをすくい上げることは出来るのだろうか?

 ちなみにグラモフォン盤のジュリーニの指揮はチェリビダッケの指揮に比較すると絢爛豪華けんらんごうかというか、音を響かせているのがやや難で、その意味ではチェリビダッケの指揮のものの方が聞きやすい。ミケランジェリ自身のピアノは若さのせいかチェリビダッケ盤の方が華やかである。とはいえ、別に新盤に技術的衰えがあるということでもなく、これは好みの問題であろう。私の持っている盤では1960年のフレチャ指揮のもの(これはミケランジェリの演奏の凄さは分るけど音の問題があって余りお勧めできないしちょっとテンポが速過ぎる嫌いがある)が19’22”/7’20/10’15” 1969年のチェリビダッケの指揮の盤が20’28”/8’29”/10’38”、最新の1982年のジュリーニとの共演が21’03”/8’36”/12’11”という演奏時間である(演奏時間は拍手とか無音とかが含まれているケースもあるので必ずしも正確ではないが少しずつゆっくりになっている傾向が認められる)注目すべきは楽章毎の時間配分が比較的一律になっているという事で、ミケランジェリの中で各楽章への時間の比率配分がアプリオリに決まっていると言うことである。(これは当たり前のようだが意外とそうではない)


ところで先ほどグラモフォンから晩年の彼の演奏が発売されていると書いたが、その前に録音され正規の形で発売されたものがある。そのシューマンの作品「謝肉祭(カーニバル)」「ウィーンからやってきたファッシング(ファッシングはオーストリアやドイツの祭りで謝肉祭と訳されるけどカーニバルとは違う)の道化」の二曲が入ったCDを改めて聴いてみた。1957年3月にBBC(イギリスの放送局)の放送用として録音されたものでモノラル録音だが、音質は大変良い。(非正規版で発売されているものの録音時期と録音場所から、これらは同じ音源によるものだと判断できる)この録音が1957年、彼の37歳の時の録音で、個人的にはこの録音、ドビュッシーの前奏曲集、そしてベートーベンの「皇帝」(チェリビダッケもの)が彼のベストの演奏ではないかと思っている。

 ただ、その「ベスト」の中味はそれぞれ違うわけで、1957年のこの演奏は躁的そうてきな演奏でその後の彼の抑制された演奏とはやや方向性が違う。もちろんテクニック的には素晴らしいものがあり、この演奏を耳にしたらどんな鬼才がこの演奏をしたのだろう、と誰しもが思うだろう。このピアニストが評価されたきっかけはこうした演奏によるものに違いない。一方でその演奏にヴィルトオーゾ的な要素がどこにもない。ヴィルトオーゾ的な演奏とは技術に裏打ちされつつも、どこかその表情に「得意げな」姿が付きまとう物である。演奏中にバイオリンの弦を一本ずつ切り最後に残った一本で弾ききったというパガニーニの伝説に通じる物がそこにある。その得意げ表情の代わりに当時のミケランジェリのピアノの後に残るのはうめくような切迫感だ。その切迫感に似たものは1981年にレコーディングされたブラームスのバラードとシューベルトのD.537のソナタに継承されている。ミケランジェリがこの二人の若い時代の曲を敢えて選んで一枚のレコードに纏めたのには何かしらの意味がある。ちなみに先ほど書いたシューマンの作品も若い時期の作品である。ブラームスとシューベルトには躁的ではないが、いずれも作曲家の青年時代のどこか切迫した感情がミケランジェリの手によってあばかれていて、それこそがこのピアニストの意図であったのではないか?

 例えばシューベルトであれば最後の三曲のソナタ、シューマンであれば「森の情景」、ブラームスであれば協奏曲の二番などもう少し練った曲を選ぶこともミケランジェリには当然可能であっただろうに。だが、その修道僧のような演奏に反して(10年前に録音された)マズルカを中心としたショパンでは遙かに穏やかな表情である。この演奏は最も素直に聴くことの出来る彼の演奏であり、最後のスケルッツオを聴き終えた僕らは彼がそうしてもう少し多くのショパンを残してくれなかったのかを残念に思う。(どうしてもというなら12年前にBBCに録音された2番のソナタ<葬送>を聴くが良い。グラモフォン盤ほど完成度は高くないけれど同じ傾向である)


 最後に彼が残した数少ない正式なステレオ録音の一つで、更に「集」に近い構成であるドビュッシーの前奏曲(livre1 et 2)、イマージュ(1 et 2)、子供の情景の演奏がある。ミケランジェリはホロビッツと共に「集」を弾く演奏家ではないと思うので、まずその点が驚きである。ドビュッシーは現代音楽の出発点に立つ音楽家であると同時に明らかな変人で、その意味でミケランジェリに通じるものがあるのかもしれない。ドビュッシーと近現代フランス音楽の双極を成すラベルについては1959年の録音の「夜のガスパール」と1982年チェリビダッケの指揮によるピアノ協奏曲の録音が残されており、とりわけ「夜のガスパール」には心惹こころひかれるものがあるが、ミケランジェリの波長はどちらかというとドビュッシーの方に合っているようだ。

 ドビュッシーではモーツアルトの演奏と逆に音の強弱とリズムを最大限に用いた立体的な音楽の構築がなされている。それまでの彼の演奏(シューマンとかブラームス)にはどこか悲愴感と同時に聴衆に伝えきれないもどかしさのようなものが感じられたが、このドビュッシーの演奏を聴いていると、天にある目に魅入られたような、そんな不思議な感覚がする。ミケランジェリがその目をしているのではなく、演奏家と聴衆がどちらもその目の下で弾き、聞き入っているという不思議な感覚である。

 このドビュッシーを演奏していたとき、ミケランジェリというピアニストの心と指先は確かにどこかそれまでと別の境地にたたずんでいた、と僕には思える。それはシューマンを演奏していたときの喘ぐような指ではなく、ベートーベンの皇帝を演奏していたときのきらめきでもない。またショパンの時の優しさでもないのだ。ミケランジェリというピアニストはそれらのどの演奏に於いても極めて特徴的であり、そして異なる印象をもたらす。

 

 彼はスタインウェイのピアノを愛し、公演にはしばしば彼自身のピアノを持ち歩いた。バイオリンや管楽器では当たり前の事だが、ピアノを持ち歩くのはなかなか大変であるが、よく考えてみると自分の愛器をもって演奏をするのは音楽家として当たり前の事なのかも知れない。そんな形で彼は非常識と常識の境目をひっくり返していった。

 そのスタインウェイのホームページに彼の言葉が載っている。 “It is not a profession to be a pianist and musician. It is a philosophy, a conception of life that cannot be based on good intentions or natural talent. First and foremost, there must be a spirit of sacrifice.” 「ピアニストであることや音楽家であることは職業ではないのだよ。ピアニストであることとは哲学なのだ。言い換えれば正しい意図とか自然にもたらされた才能とか、そういうものに立脚したものでもない人生における概念なのだよ。そしてまずもって、そして究極的にもそこに身を捧げるという精神がなければならない」

 そして商業的に大成功を収めたコンサートの後でも “You see, so much applause, so much public. Then, in half an hour, you feel alone more than before.” 「ごらん、素晴らしい拍手喝采、あんなに聴衆も来ているのだ。けどね、三十分もすれば、コンサートの前に比べてさえ、もっと孤独な感じになるんだ」と呟いた。

 彼にとっては公演というのはそう言うものであったからこそ、身を削るべきものでベストの状態でなければできない宗教的儀式であり、どんなに成功しても辛く孤独を増す作業であったのだ。そして、だからこそ指揮者を選ぶときにその孤独を共有してくれると思える人間、例えばチェリビダッケであったり、少なくともその孤独感を増すことのない指揮者を共演者に選んだのであろう。

 それほどまでに彼は真剣にピアニストであろうとした。ピアノの前でのみは紳士であり真摯であったが、それ以外の場では風狂としか思えぬ行為をとり、そのピアノの演奏は作曲家によって余りに異なり僕の耳には「ミケランジェリ」という一人のピアニストに集約しない。

 つまり今もって僕はこのピアニストがよく分らないのである。


レコード

*ベートーヴェン

ピアノソナタ 第32番 ハ短調 作品111

ガルッピ 

ピアノソナタ 第5番 ハ長調

スカルラッティ

ピアノソナタ ハ短調 L352 ハ長調 L104  イ長調 L483

       ロンドン(キングレコード)   GT9058


*ベートーヴェン

ピアノ協奏曲第5番変ホ長調皇帝作品73

ゼルギュウ・チェリビダッケ指揮 スウェーデン放送交響楽団

       日本コロンビア         OP-7080-RC


CD

*ROBERT SCHUMANN

Carnaval op.9 / Faschingsschwank aus Wien op.26 (*)

Deutsche Grammophon 423 231-2

*CLAUDE DEBUSSY

PRELUDES 1er LIVRE

CHILDREN'S CORNER*

PRELUDES 2e LIVRE

IMAGES 1*

IMAGES 2*

Deutsche Grammophon 449 438-2

(*Deutsche Grammophon 415 372-2)


*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Konzert fur Klavier und Orchster Nr.20 d-moll KV.466

Konzert fur Klavier und Orchster Nr.25 C-dur KV.503

NDR-Sinfonieorchester CORD GARBEN(dir)

   Deutsche Grammophon 429 353-2


*LUDWIG VAN BEETHOVEN

Konzert fur Klavier und Orchster Nr.1 C-dur op.15

Konzert fur Klavier und Orchster Nr.3 c-moll op.37

Wiener Symphoniker CARLO MARIA GIULINI(dir)

Deutsche Grammophon 449 757-2


*LUDWIG VAN BEETHOVEN

Konzert fur Klavier und Orchster Nr.5 Es-dur op.73

Wiener Symphoniker CARLO MARIA GIULINI(dir)

Deutsche Grammophon 419 249-2


*LUDWIG VAN BEETHOVEN

PIANO CONCERTO No.5 IN MI MAGG "EMPEROR"

Orch. Sinfonica della RAI di Roma dir. M.Freccia

ROBERT 1 a SCHUMANN

CARNEVALE DI VIENNA OP.26(*)


WOLFGANG AMADEUS MOZART

CONCERTO IN DO MAGG.PER PIANOFORTE E ORCHESTRA K.415

Orch. "A.Scarlatti" della RAI di Napoli dir. F.Carraciolo

EDWARD GRIEG

PIANO CONCERTO IN LA MIN. OP.16

Orch. Sinfonica della RAI di Roma dir. M.Rossi


ROBERT SCHUMANN

CARNAVAL OP.9 --SCENES MIGNNONES SUR QUATRE NOTES(*)

MAURICE RAVEL

PIANO CONCERTO IN SOL MAGG

Philharmonia Orchestra dir. Ettore Gracis


(*)MOST PROBABLY represent THE SAME PERFORMANCES

GREEN LINE SRL CD 3CLC 4005


*Johann Sebastian Bach (arr Busoni) CIACCONA dalla Sonata n.4 in Re minore(Paritita n.2) BWV.1004

Johannes Brahms VIRAZIONI SU UN TEMA DI PAGANINI. OP.35

Tema-Variazioni 1 a 8 e 10 a 12(libroI) Variazioni 1,2,5 a 8,10 a 13, 3.4(libro II)-

Varizioni 13 e 14(libro I)

Wolfgang Amadeus Mozart Concerto N.15 IN SI BEM, MAAG PER PIANOFORTE E ORCHESTRA K.450

Orchestra Sinfonica de Camera dell'Ente dei "Pomeriggi Musicali" di Milano

Direttore: ETTORE GRACIS

EMI CDM 7692412


*JOHANNES BRAHMS Balladen op.10

FRANTZ SCHUBERT Klaviersonate a-moll D.537

Deutsche Grammophon 400 043-2

*フレデリック ショパン

 10のマズルカ/バラード第1番/スケルッツオ第2番/前奏曲第25番

     ユニバーサルミュージック/タワーレコード PROC-1551


*Lutwig van Beethoven Konzert fur Klavier und Orchester Nr.5 Es-dur Op.73"Emperor"

Robert Schumann Konzert fur Klavier und Orchester a-moll Op.54

Sveriges Radios Symfoniorkester Sergiu Celibidache

Weitblick SSS0130-2


*MAURICE RAVEL

CONCERTO FOR PIANO AND ORCHESTRA IN G MAJOR, M83

GASPARD DE LA NUIT, M55

SERGIU CELIBIDACHE,Conductor LONDON SYMPHONY ORCHESTRA

MUZIO CLEMENTI

SONATA IN B-FLAT MAJOR,OP 12,NO.1

FREDERIC CHOPIN

SONATA NO.2 IN B-FLAT MINOR, OP.35

BBC THE LOST RECORDINGS TLR-2203042


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る