第7話 マルタ アルゲリッチ(Martha Argerich)

肉食系女子という言葉が流行はやり始めたころ、その響きと意味に最も相応ふさわしい女性として最初に思い浮かべたのがマルタ アルゲリッチであった、・・・と聞けば彼女は怒るであろうか?

まあ、その頃には既に彼女は「女子」の年齢ではなかったし、日本と違って「女子」であることに何の価値を見いださない欧米の女性だから「肉食系女史」と言ったならゆるされるのだろうか。・・・いや年齢を示すことによって怒りを更に増幅させる事になるかもしれない。

 とは言え、三人の音楽家と結婚し、それぞれ子供をもうけ、三度離婚し、全ての子供を手元に置いた、と聞くとむしろアフリカの大地で雄をしりぞけながら暮らしていく「獅子」のような女性であり「肉食系女子・女史界の女王様」とでも言った方が良いのかも・・・、等と思ってしまう。

 そのマルタ アルゲリッチを題材にした映画を或る夜、テレビのBS放送でやっていた。彼女のイメージを保つことを考えると「果たして観た方が良いものなのか、そうではないのか」と悩みながら(ちなみに・・・LPのショパンリサイタル集のジャケットにあるピアノに手を掛けながら考え事をしている彼女の写真は同じピアニストであるルース ラレードのラフマニノフの「音の絵」のジャケットともに僕の「知的な女性」という意味で憧れの的でもあったのだ・・・)テレビを付け放しにしておいた。

 画面の中の彼女は雌ライオンとまでは言わないけど、まるで老いた雌ヤマネコのような姿でソファの上でごろごろしながら語っていた。その姿態は妙に生々しく、ピアニストというよりある「特筆すべきある女の生涯」の一場面を見せつけているようであった。

 うん、まるでモーパッサンかバルサックの小説のタイトルみたいだな。

 画面の中の彼女はラヴェルの「夜のガスパール」について語り始める。

「あれは妊娠しているときにレコーディングしたの。一番売れたレコードだったけど、録音を聞いて泣けてきたわ。なんにもないの。妊娠している女の弾いた『夜のガスパール』・・・って以外には」

 なんとも残酷な自己批評である。僕を含めて彼女の「夜のガスパール」のファンは山ほどいるであろうに。僕らファンは屡々しばしばそんな思いもしない裏切りに遭うのだ。(ちなみに記憶が定かでは無いので、これが「夜のガスパール」だったかピアノ協奏曲の話だったか明瞭ではないがラヴェルの曲での話あったことは間違えない)それを聞いた僕は息を1つついてから画面を消した。この映画はもう少し、先に見ることにしよう、そんな風に思いながら。


 アルゲリッチはデビュー当時、ドイツグラモフォンと専属契約を結んで録音を開始した。彼女はポリーニの次のショパン国際ピアノコンクール(1965年)の受賞者であるが、グラモフォンとの契約は受賞の5年前に始まっており、なぜか所有しているCD(3枚)に被りまくってしまったOp.39のスケルツォはその時の録音である。(発売は1961年である)

 本格的な録音はショパン国際ピアノコンクールのあと、1967年あたりから始まるので、コンクール優勝から10年ほど沈黙を続けたポリーニより若干早い時期から彼女は録音を重ね始めた。ポリーニがそのグラモフォン(現ユニバーサル)との専属契約をずっと続けているのに対して、アルゲリッチはEMI、Philips、TELDEC等からも演奏が発売され、今では正規外の録音が市場に溢れつつある。そういうものが全くでない(初期のショパン以外)ポリーニとはその点でも対照的と言えよう。

 更にポリーニが滅多に室内楽の演奏や伴奏を行わないのに対し、1980年代になるとアルゲリッチは逆に「殆ど独奏を行わない」方向に転換した。

 そして・・・ポリーニがブラームスの2つのピアノ協奏曲やベートーベンのト長調、変ホ長調を複数回録音しているのにアルゲリッチはそのいずれも録音していない。いやそれどころか、ベートーベンのピアノソナタの正規の録音は一つも出ていないし、恐らくこれからも出ないであろう。その代わりポリーニはチャイコフスキー、ラフマニノフ、ラヴェルなどの録音はしていない。


 こういうのは同時代のピアニスト同士に「結果的」にありがちな話(例えばケンプとバックハウスとか、ルービンシュタインとホロビッツとかの間で)であって、当然当人たちは意識しているのだろうけど、それにもまして「聞き手に変に比較されて面倒な話をされるのが嫌だなぁ・・・」という「無意識」があるように思えてならない。要はさして音楽の本質をわかりもしない聴衆にどちらの演奏が良いのか「やいのやいの言われる」のが鬱陶うっとうしいから避けたいのであろう。その思いはピアニストという枠を越えてなんとなく分らないでもない。(まあ、それとは別にしてポリーニはチャイコフスキーとかラフマニノフを弾きそうにもないという「感覚」はある)


 もちろん完全に棲み分けることなど出来ない。そもそもショパン国際ピアノコンクールでグランプリを受賞した二人が「ショパンを弾かない」選択肢は存在し得ない。

 だからピアノソナタ・前奏曲集などは重なっている。だが、アルゲリッチはその他の練習曲やマズルカ、スケルツォなどは全曲録音しておらず、ポリーニは協奏曲の2番は録音していない(1番はコンクール優勝直後の恐らく避け得ない状態でのライブ録音は二つ残っているが、スタジオ録音は無い)。他ではシューマンのコンチェルトやリストのソナタなども重なっているが、ディスコグラフィを見る限り、この二人がそれぞれ「意識的であろうと無意識であろうと」なんとなく棲み分けをしていたのは間違えないであろう(それがもしグラモフォンだけの意向であったなら、そのくびきから離れたアルゲリッチはベートーベンを録音したに違いあるまい。ちなみに二人ともモーツアルトのソナタは録音していないのはこれと違う理由があるのだろう)


 先ずは幾つかグラモフォンから出ている彼女の演奏から聞いてみた。最初はやはりショパン。変ロ短調のソナタのをメインとしたLPが僕と彼女の出会いであった・・・。(残念ながら彼女の方は僕に出会っていないけど)

 そして前奏曲集、これはアルゲリッチによるポリーニに対する唯一の挑戦状に見える。1974年のポリーニの録音の三年後、1977年にロンドン近郊のワットフォードタウンホールで録音された物である。そのアルゲリッチから仕掛けられた「タイマン」をどう評価するのか。とても難しい作業である。取りあえずのコメントとしては「完璧さ」と「抒情性じょじょうせい」を両立させたポリーニの演奏に対してアルゲリッチは自由で闊達かったつな演奏といえようか。

 アルゲリッチの指はとても速い。個人的には17番のアレグレット、20番のラルゴ、21番のカンタービレ以外の曲は全て速すぎると感じた。確認をすると24曲全てでポリーニよりも短い時間で演奏をしている。前奏曲はソナタとか協奏曲と異なり、演奏時間がそのまま「早さ」とリンクしているといって差し支えない。これは意図的な速さなのだろう。

 ポリーニの前奏曲については既に彼の項で記したが、まるで宝石箱の中を覗いているような、聴き手のイマジネーションを拡げてくれる演奏であった。アルゲリッチの演奏は寧ろモノトーン、黒と白のドレスを纏った彼女自身のように思える。ただ、そのどちらも従来の「内気な青年ショパン」をかたどったサンソン フランソワのような演奏から離れたところにいるのは間違えなく、従来のショパン像を意図的に打ち壊す演奏であるように見受ける(ちなみにサンソン フランソワの演奏ではアルゲリッチより速く演奏している曲も少数ながらある)

 ショパンの演奏を「フランソワやルービンシュタイン」の時代から1つ進めたのはこの二人の功績であり、それ以降のピアニストが(例えば僕はキーシンなどは高く評価するけど)いくらテクニックを磨こうとその「最初に挑戦した」高みを越えることは出来ない。(要はエヴェレストに最初に登頂したのはエドモンド ヒラリーとテンジン ノルヘイであり、その後誰が何度征服しようと、その事実はくつがえせないのと同じである)


 とはいえ、この三者の演奏の差は目指す表現の違い、ショパンの人物像の捉え方の差であってその優劣を論じるべき性格のものではない。少なくとも演奏としてはどの演者のものも完璧に近いものである。(従来のショパンにイメージのまま)優しい音色ならフランソワ、明瞭さならアルゲリッチ、音の美しさならばポリーニというようにそれぞれの長所を見た方が建設的であろう。個人的な好みはポリーニにあるが、その演奏を聴いた上で敢て録音したアルゲリッチにそれなりの思いがあることは理解でき、彼女には「ポリーニのようにショパンを演奏する事」に多少なりとも異論があるのであろうと察せられる。

 さてそのショパンについては先にスケルツォの3番がやたら所有しているCDに被っていると嘆いたが、被るのも道理でこの演奏は特筆すべき名演である。ダイナミックでドラマ性に溢れ、それでいて女性の指でしなやかに、繊細に演奏されている。それとop.57のソナタ、なんと瑞々しい演奏であろうか?やはり彼女は天才なのだ、と思わせてくれるのがショパンである事は嬉しい。


 次いでアルゲリッチのグラモフォンへのデビューアルバムにリストのロ短調ソナタをカップリングしたCDを聴いてみる。

 デビューCDは1961年、リストはその11年後の録音である。

 デビューアルバムではプロコフィエフのトッカータが面白い。余り耳慣れない曲ではあるが出だしから奇妙で機械的なリズムが耳にまとわりつき始める。アルゲリッチはいともたやすく、平気な表情でその曲を弾ききっていく。そしてその直後にラヴェルの「水の戯れ」、機械から自然への転換がしなやかに提示される。ショパンの舟歌、リストのハンガリアン ラプソディ、いずれも素晴らしい演奏であり、その曲目の選択は音楽界に対する彼女の宣戦布告だったに相違ない。

 リストのロ短調ソナタは様々な名演がある曲であり、献呈されたクララ シューマンの思いとは別に今なお世界中のピアニストから挑戦される名曲となっている。(因みにポリーニも録音していて、彼の項でも書いたがこの曲の僕の気に入りはラーンキの最初の録音である)

 と言ってもクララがこの曲に感じた違和感・・・即ち、「曲自体の有する騒々しさ、和声進行の欠如、混乱」は少なくとも「当時の女性ピアニスト」の発言として理解できるものである。それにこの曲は献呈されたクララ シューマンにとっても(その音階の離れ具合から)弾くのが難しい曲であったろう。アルゲリッチは女性にも関わらず、この難曲をあっさりと征服している。ただ、デビューアルバムで感じた感情の吐露、表現の初々しさ、もっと言えばわくわく感がどこかに消えてしまっている、そんな感じを受けるのは僕だけであろうか。まあ・・・でも、そうした感覚はレヴェルの高いピアニストに対する期待値の高さの裏返しでもある。ポリーニやアルゲリッチが直面するのは、そうした期待値の壁であることが殆どであると僕は思う。そんな風に思っていた。

 だが・・・その二年後に録音されたラヴェル・・・。その演奏はデビューアルバムさえ凌駕している。誰がなんと言おうと、そして彼女自身がどう言おうと、彼女のラヴェルの独奏曲のアルバムは現在聴くことの出来る最良のラヴェルである。

 サンソン フランソワ、ヴラド ペルルムテル、パスカル ロジェといった錚々そうそうたるラヴェル弾きを差し置いて僕は彼女のラヴェルを高く評価する。ショパンの前奏曲がモノトーンの衣装を纏ったアルゲリッチだとしたら、「夜のガスパール」を弾くアルゲリッチは虹色に輝くドレスに包まれたアルゲリッチである。その指先からは光が溢れるように紡ぎ出され異世界に聴衆を導いていくのだ。そう、ハーメルの笛吹き男の鳴らす笛に子供たちが導かれていったような、不思議な魅力に溢れた響き。透明感に溢れた「ソナチネ」、そして、躁鬱気味に、狂ったように開始される「高雅で感傷的なワルツ」。Assez lentoは一瞬前の狂騒が一転し、童女が一心不乱に葉に止まっている虫を見つめているような情景を描き出す。転がるような音色は何処か捉えどころの無いまま、踊り手を失ったまま(確かに3/4拍子なのだけどワルツ感があるのはMoins Vif位かしらん)水の流れのように滑っていく。その流れは終曲のLentで光を失い、森の奥底へと注いでいき、そのまま地中へと消えていく。僕ら聴き手はデビューアルバムにある「水の戯れ」と全く遜色のない響きとイマジネーションがそこから湧き出てくる事を感じ取るに違いない。

 かくて、彼女は聴衆が「勝手に作る期待値」という高いハードルを楽々と越えていった。

 もう一曲のラヴェルはピアノ協奏曲である。これはロンドン交響楽団をアバドが指揮しているもので、演奏者と曲の構成を見てみると「アバドの演奏したラヴェル・アルバム」である。「左手」の独奏者はベロフだし、「クープランの墓」を始めとした管弦楽も一緒に収められている。こうした指揮者のアルバムにアルゲリッチほどの著名なピアニストが参加するというのは珍しいと思うが、こういう柔軟なところもアルゲリッチらしい。

 アバドとアルゲリッチの二人にはその7年前に、ベルリンを振って共演した同じ曲の演奏があるし、それ以外にもこの曲には幾つかの録音が存在する。後述するシューマンほどではないが彼女の気に入りの曲なのだろう。

 その演奏は独奏曲集と同じ、きらめくような音色でありながら「水の戯れ」の透明感を引き継いだ美しい演奏である。この協奏曲の録音が1984年で実際にLPになったのは1987年、この3年間のブランクが何を意味するのか、良く分らないがもしかしたらアバドは「彼女」が「左手」を弾いてくれるのを待っていたのかもしれない。だがそちらは結局、1987年になってからミシェル ベロフが弾いていて、これはこれで優れた演奏である。(この当時ベロフは右手を痛めていたという)

 ピアノの響きは明らかにアルゲリッチと違って彼のそれはもっと楷書かいしょ的で、沈み込むような音色だが、曲想に似合っている。アルゲリッチがこの曲を演奏しない理由が分らないほどの名曲ではあるけれど、ベートーベンの4番とか皇帝と違い、たぶん「覚えるのが面倒くさかった」ような気がする。

 それ以外にこの曲にまつわる特段の理由はないように思えるのはこの曲に「決定的な名演奏」はない(というとフランソワのファンに怒られそうだけど)のと、アバドにベロフを紹介したのは(当時つきあっていたらしい)彼女自身だという話があるからである。

 妄想かもしれないけど。


 シューマンの幻想曲、幻想小曲集はイタリアのDisci Ricordiというレーベル(後にBMGに売却され、その一部はEMIやRCAで販売されているようで僕の所有しているものはEMIから発売されたものである)から発表されて、このあたりからグラモフォンの専属から離れているようだ。もっとも後述するようにクレーメルやマイスキーとの共演の一部はグラモフォンから継続して販売されているので喧嘩別れという訳ではない。

 このシューマンの独奏曲2つはラヴェルのそれと別の面で彼女の良い部分を十分に表している演奏だ。幻想曲の事実上の献呈先であるクララ ヴィーグ(後のシューマンの妻)もかくやと思わせる「気品に溢れた」ピアノである。この録音が1976年、僕の手元にはこれ以降の彼女の独奏曲はなく、全てが室内楽と協奏曲になった。


 その「非独奏曲化」の最初の頃の録音の1つが、ムスティラフ ロストロポービッチとの共演によるショパン作曲「ピアノとチェロのための」ソナタと華麗なるポロネーズ、そしてシューマン作曲の「アダージョとアレグロ」の3曲である。

 ショパンのチェロソナタは結構数多くの演奏が出ているがちまたによく知られた曲とは言いにくい。だが、よく聞けば名曲であり、華やかなピアノと積極的な動きのチェロがよく調和して、ピアノ協奏曲などよりよほどバランスの取れた曲である。opまた.3のAlla Polaccaの響きは二人の名人によって耳に心地よく響く。シューマンの「アダージョとアレグロ」も良く練られた演奏であり余り目立たないが名盤の1つと言って差し支えない。とはいえ、アルゲリッチはこの全ての曲をもう一人のチェリスト、ミッシャ マイスキーと再録音しているところから見て、この演奏を完成形とは思わなかったのであろう。

 ところでロストロポービッチとアルゲリッチは屡々しばしば男女関係が噂されていたが、誰かがそのことを彼女にただした時、それに対する回答は「覚えがない」という素晴らしい返しだったらしいと聞く。それを聞いたとき思わずそのウィットに笑みを浮かべてしまった。とにかく本人が認めているだけでも片手に余る音楽家との関係があるわけで、そんな彼女に「覚えがない」などと答えられてしまったら「どっちなんだい?」と内心ツッコミを入れたくなる。いったいロストロポービッチおじさんのことをどう思っていたのだろう?

 単なる「ありません」よりよほど余韻がある。日本の政治家が過去の悪行を指摘されると「記憶にございません」と同じような科白せりふを使うが、その響きの典雅さには雲泥うんでいの差がある。

 ロストロポービッチとは彼の指揮で協奏曲を演奏したのが始めでこのソナタの13年程前からだから、「だいぶ長い間に1つくらいそんなことがあったかもしれないけど「覚えてない」わ、くらいの感覚なのだろうか。


 そのロストロポービッチの弟子であるミッシャ マイスキーとは上記の再録音を含めてずいぶんと共演がある。その全てを聴いているわけでは無いが、マイスキーのチェロはロストロポービッチのように、「良く言えば朗々と響く、悪く言うと、やや強引なもの」ではない。

 チェロほど演奏家によって違う表情を見せる楽器は少ないのだが、それはチェロの音域が広いからなのだろうか?とフランクのソナタを聴きながら考えた。(もっともこの曲は元来バイオリンのために作られた曲ではあるが)マイスキーのチェロは(師匠である)ロストロポービッチに比べるとずっと女性的で、抑制的で、柔らかく揺れる感覚がある。アルゲリッチのピアノは強かな音を紡ぐことが出来るので互いに補完し合うと言う意味では相性が良いのかもしれない。

 この曲を聴きながらの感想を更に付け加えると、フランクという作曲家はもっと評価されてもいい作曲家である。作曲法はともかく思想でもワーグナーに影響を受けたのは少し気に入らないが「交響的変奏曲」「コラール」「交響曲ニ短調」などいずれも名曲であり、音楽愛好家はともかく、世間にもっとその名が知られて良い筈である。このアルバムではドビュッシーのソナタの方が斬新ざんしんで前衛的であることは事実だが、曲としての完成度はフランクの方が高いわけで、演奏家二人の息も合っている。

 そのマイスキーと共に演奏したバッハとベートーベンのソナタも僕は一枚ずつながら持っている。

 バッハ・・・。独奏曲を幾つか集めたアルバムがあるようだけど、残念ながら僕は持っていないので、これが初めてのアルゲリッチの弾くバッハとの出会いであった。

 好き嫌いが強く出そうな理由はやはりピアノにある。バッハの音符が踊るような感覚のピアノを肯定するか、否定するか?例えば異端とされるグールドのバッハは、実はオルガンやチェンバロをよく演奏している彼自身の演奏体験に裏付けられた演奏である。自由闊達に演奏しているようで、実はそうでもない。それに比べるとアルゲリッチの演奏は自由闊達な「ピアノの演奏」であり、マイスキーの比較的正統派 に属する落ち着いた演奏と対照的であり、それがフランクの演奏のように昇華する方向に動いているかどうか、という解釈の問題を提起する。

 これだけぐだぐだと書いているのはご想像通り、今のところ僕はこの演奏に残念ながら「余り肯定的ではない」のである。その理由は・・・バッハの演奏には「どこか抑制的」「自然な禁欲」が求められているような気がするからなのだろう。

 ベートーベンの方は全曲(変奏曲も含めて)出ているが、僕が持っているのはop.5の2曲と変奏曲だけである。ベートーベンの方がバッハに比べるとより柔軟な解釈が可能だと言うことがはっきりと分るのが面白い。

 このチェロソナタにはフルニエ/グルダ盤を始めとして名盤が多いので競争は激しいが、より優美なフルニエ/グルダ、マッチョなロストロポービッチ/リヒテル、様式美を指向するフルニエ/ケンプなどと混じってこの盤はより闊達さ、屈託のなさがある。この演奏を好むような若者がいれば大変結構な話である。少なくともデュ プレ/バレンボイムの演奏よりは随分としっくりくるのはやはりピアニストの腕の所為せいであろう。アルゲリッチは師匠(アルゼンチンにいたときは憧れのピアニストで実際の師匠でもあった)グルダと違って「伝統という枠内での自由へのムーブメント」ではなく、「真の自由さ」へと突き進んでいったので、その差は大きいが開放的な指向という意味では共通している。

 その彼女がクレーメルと共演したバイオリンソナタでは、少し様相が変わる。op.23のプレスト・・・ピアノもバイオリンも音色がかなり鋭くアグレッシブ(ここでは積極的と言うより攻撃的という意味である)である。これは曲想でそう感じるだけではなく、演奏法がそうなのであって、そこに「鋭さ」を感じる人もいるだろうし、刺々とげとげしさを気にする人もいるだろう。この感覚はもっとずっと温和な曲想のヘ長調に曲が移っても変わらない。柔らかな布地のコートの下に鋭い刃物を隠し持っているようなバイオリンの音色、その同僚に時々流し目を送り、不敵な笑みを浮かべるピアノ。まるでボニーとクライドのような二人の組み合わせ、と言ったら却ってわかりにくくなるだろうか?

 だがその6年後に録音されたop.30の3曲はずっと音がまろやかになっている。歳月が二人の音を変えたのかもしれないし、録音場所(1987年の録音はベルリンのイエスキリスト教会で録音されたものであるが、op30はモントルーのストラビンスキィ公会堂で録音されている)の違いも影響しているのかもしれない。1994年に録音されたop.47(クロイツェル)とop.96もモントルーで録音されている。

 二人はこのジャズフェスティバルの会場の方が気に入ったのだろうか。僕も録音込みでこちらの演奏を評価したい。(とりわけバイオリンの高音がずっと聞きやすいと思う)op.30 Nr.2(c-moll) の3/4楽章など、かなり激しい音の遣り取りがあっても「刺々しい」とまでは感じない。それを6年の歳月が二人の演奏家にもたらした円熟だと「思いたいだけ」なのかもしれないが、引き続いて演奏されるG-durの穏やかさを初秋の涼やかな空気の中で聞けば誰もが納得してくれるような気もする。とりわけ、Tempo di Minuetto(メヌエットの速度で)の美しさ。時折クレーメルが見せるあの気難しい変人の相貌そうぼうはそこに見当たらず、そのまま終楽章へと「機嫌良く」合奏は進んで行く。

 翌年に収録されたop.47では第1楽章ピアノの右手がややもたつく印象がある。バイオリンの音色も、時折怒った猫のように毛を膨らませる。前年の演奏の穏やかさは何処に行ったのだろう、と心配になる。でもまあ、これが二人の演奏なのだ。アルゲリッチにしてもクレーメルにしても、音楽家にありがちな気紛れが、曲想によって導き出されてしまうときがある。だが、2楽章になれば、その懸念も払拭され、終わってみればなかなかの名演である事に気づかされる、不思議な演奏である。一方、「大公」に捧げられたG-durは最初から最後まで落ち着いて聴ける演奏であった。(ライブ演奏でもないのに)op.47の第1楽章だけが、どこか不穏な嵐を予感させる演奏であったのはなぜだろう?

 もしかしたら意図的なものだったのかもしれない、そう思いながら室内楽の最後の演奏としてロッケンハウス音楽祭(それにしてもモントルーにしろ、ロッケンハウスにしろ素敵な観光の街で羨ましい限りである)において同じ二人が演奏したクライスラーのLiebesleid(愛の悲しみ)を聴く。録音データがないので1992年以前の演奏である事しか分らないが、妙に素直なバイオリンの音色と、それに寄り添うような落ち着いたピアノに意表をつかれる。この二人の演奏を予測するのは僕らには少し難しすぎる。

(ちなみにこの部分を書き終えた後にベートーベンのバイオリンソナタの1番から3番のCDを購入した。1984年、ソナタ集では最も古いこの演奏は旧バイエルン王国の首都ミュンヘンに遺る王宮レジデンツのプレナールザール(解説ではプレオザールとなっているが間違えであろう)で録音されている。この盤がレコードアカデミーを受賞したのはむべなるかな。全てが長調で統一されているこの曲集の特筆すべきはバイオリンの明るい音色でクレーメルの特徴である、時折見せるはすに構えた屈託くったくのようなものが殆ど見られない。細かいところまで磨き抜かれた演奏で、二人で相当の準備をしてから臨んだ演奏なのであろう。その経緯までがつまびらかに見えてくるような共演である)


 そして、協奏曲・・・。彼女は様々な年齢・キャリアを問わず様々なアーティストと協奏曲を演奏している。ポリーニがとっているベーム・アバド・ヨッフム・ティレーマンなど極めて限られた指揮者としか録音をしない(実際のコンサートでも限定されている)アプローチとはだいぶ異なるが、有能な指揮者との共演が彼女の演奏の質に深みを与えてきたことは疑問の余地はないだろう。

 最初に聞き直したのは(CDには記載が無いが恐らく1980年に)イタリアのDisci Ricordiに録音されたベートーベンとハイドンの協奏曲である。この演奏はロンドンシンフォニエッタを彼女自身が指揮した、彼女にしては珍しい「弾き振り」で、まずこの小編成の新しいオーケストラ(アサートンが現代音楽の演奏用に立ち上げた楽団)の性能の良さに驚かされる。ベートーベンの2番とハイドンという曲が小編成のオーケストラに似合った曲であることは間違えないが、それにしても「小股の切れ上がった」演奏が彼女のピアノを引き立てる。粒立ちの整った実に美しい演奏によって、彼女の愛する2つの協奏曲が提示されている。


 その6年前、チェリビダッケとパリで共演したシューマン・・・彼女の最も愛する協奏曲なのだろう。この演奏でのアルゲリッチは、テンポもリズムも許される範囲内でわざと少し崩しながら指揮者に甘えるかのような表情の演奏を見せる。

 彼女が幼少の頃から愛していたこの協奏曲のCDは、調べただけでも

アーノンクール/ロストロポービッチ/アルミンク/チェリビダッケ/パラコフスキー

/コルト/ラヴィノビッチ/テンシュテット

 と組み合わせ8種類があるが、恐らく指揮者毎に違った表情を見せるに違いあるまい。そうした楽しみ方も彼女のファンにはあるのだろうと思う。どれが1番良い演奏かなどと、答えのないくだらない批評は止めて(まあ、ちょいちょいそういうくだらないことを僕自身もやってしまうのだけど)そのそれぞれを楽しむ事こそ真のクラッシックファンの持つべき心構えであろう。

 因みに同じ巨匠との共演でもコンドラシンとのチャイコフスキーでは、指揮者と対等に渡り合う姿勢が鮮明である。6年間の歳月(この録音は1980年のものである)がそうさせたのか、指揮者との相性なのか、或いは師と仰いだミケランジェリの盟友であったチェリビダッケだからこそシューマンでは指揮者に全幅の信頼をおいたのか、そこらへんは良く分らない。

 だがチャイコフスキーの協奏曲では彼女のそのスタンスこそがうまく働いて名演に通じたように思える。

 リヒテルのものを聞くまでは「この演奏があればチャイコフスキーはいいか」と思わせるくらい十全に曲の魅力を引き出している演奏で、その感想はリヒテルを聞いた後でも些かも揺るぎはしない。オーケストラとのバランスと言う面ではアルゲリッチ盤の方が優っていることも事実である。(ただそれとは別にリヒテルの演奏は是非聴いて頂きたい)

 共演者に左右されない自律性の高いピアノを演奏するアルゲリッチのこのスタンスはリッカルド シャイイーと共演したラフマニノフの演奏にも通じていて、この頃に彼女の「協奏曲におけるピアノの在り方」は確立したのだと個人的には思っている。


  モーツアルトの20番(二短調)などはその良い例であろう。時折強音をぶつける妙な癖の音作りに気を取られることなくアルゲリッチはピアノパートを自律して弾いていく。やがて、指揮者の癖もどこか矯正されたように、気にならなくなって行く。巷では奇妙な演奏だとか、マッシブだとか言う人も居るようだが、そんな事は無い。第2楽章のピアノの少しもったりした感じと終曲に向けての感情移入が気になる人も居るだろうけど、この程度のこと、モーツアルトの演奏には良くある事である。

 もっともモーツアルトがアルゲリッチの分野かというと、そうでないことは彼女自身も自覚しているようで、協奏曲も含めて余り数は弾いていない(20番だけは幼少の頃から演奏会でも披露していたようだけど)。おそらく彼女にとってモーツアルトは「少し退屈」な作曲家なのであろう。ハイドンのニ長調やベートーベンの2番が交差する領域ではあるが、敢てそこに踏み込まないのはホロビッツに似た気持ちがあるからかもしれない。(ホロビッツもベートーベンの5番以外とモーツアルトのイ長調(最晩年のもの)以外、協奏曲の録音はない)

 付け加えると、この盤は19番はなぜかラビノビッチの弾き振り(ピアノの音自体がアルゲリッチのものと違っているし、同じ指揮者なのにオーケストラの音作りも20番と異なるのはなぜだろう)、10番はなぜか第2ピアノがアルゲリッチで指揮者はファーバー、という変わった構成になっている。「二台のピアノ」(K.365)はかなり若い頃の作曲で(姉であるナンネルとの共演用との説もある)数少ないモーツアルトの協奏曲の中でこれを選ぶのは「二台のピアノ」のものだから、という以外に理由はないように思える。アルゲリッチのファンにしたらだいぶ疑問符のつく構成だけど、アルゲリッチ本人は歳と共にこういう演奏形式を好むようになっているようだ。


 そのモーツアルトによる二台のピアノによる協奏曲を指揮したイェルク フェルバーとはショスタコーヴィチとハイドンの協奏曲を録音している。

 ショスタコーヴィチの音楽というのは特別難渋なものではないけれど、当時ソビエト連邦で生きていた音楽家、取り分け作曲家は政治からの干渉を強く受けていて、そのストレスが音楽にも(特に中期から)色濃く出てくるように思える。一方で、そうした非音楽的な事柄が作曲の意欲を掻き立てて来たという側面も否定できないだろう。

 この曲自体はまだ共産党から批判を受ける前の時代のもので、若い音楽家の鮮烈な意欲が迸る曲想が特徴である。

 アルゲリッチはその曲の流れをうまくつかんだまま一気に弾ききっている。初めて聞いた曲であるが、さすがはピアニストとしても名を馳せたショスタコーヴィチの音楽だけあって、ハチャトリアンなどと比べると格段にピアノ協奏曲としての質は高いし、アルゲリッチの指にも迷いはなく、彼女の新しいレパートリーの1つとしてぜひ聞くべき演奏の1つだろう。一緒に収められているハイドンは自らの弾き振りの盤と同じく、小ぶりのオーケストラがよく似合う曲で、指揮も極めて快適(この曲自体が快適な曲なのである)である。前の盤とどちらが良いとか、なぜ再録音をしたのか(どちらもライブではないので)とか、どうも彼女の場合はあまり突き詰めても仕方ない部分がある(この点でもポリーニとは対照的である)ので、どちらも素敵な演奏ですよ、と書くにとどめよう。


 そして最後にショパンの2つのピアノ協奏曲、二度目の離婚をして24年経った1998年に、離婚相手のシャルル デュトワと共演したこの演奏が突然出現した理由は何であったのか?

 下世話に聞えるかも知れないが、夫婦や男女としてではなく、友人として、或いは成熟した音楽家として再び理解し合って演奏をしたのでなければ、このような見事な演奏は生まれえないであろう、そう思った。

 二人の才能に満ちあふれた音楽家によって、一分の隙も無く音に充たされた空間をリスナーは楽しむ事が出来る。確かにピアノは主導権を握っているが、オーケストラを巻き込んでソリストと指揮者の目指している方向は北辰ほくしんのように微動だにしない。ショパンのオーケストレーションが貧弱などと言うのはそもそも指揮者とオーケストラの性能の故ではないか、と思わせるほどデュトワの指揮も見事である。いや、こういう共演ができるのならば離婚というのも悪くないのかもしれないなぁ、なんて思ってしまう名演である。

 それにしてもこの二人が離婚しなければクラッシック音楽の男女関係はずっと平穏であったことは想像にかたくない。デュトワとの浮名を流され巻き込まれた形の鄭京和チョンキョンファ(おそらく、当代もっとも素晴らしい才能を持ったバイオリニストの一人)やらセクハラ問題を起こして世界中のオーケストラから締め出しを食らったデュトワ本人(あんなことさえなければ確実に当代最高のマエストロとして評価されたに違いないのに)、アルゲリッチとの関係が噂されてからというものの、最高のチェリストという権威がどこかにずり落ちてしまった感のあるロストロポービッチ(この人はベートーベンの三重協奏曲の共演者だったリヒテルからの批判で優柔不断な性格が露呈されてしまったこともあるだろうけど)、そんなことはないのになんとなく「ヒモ」感がついてしまったスティーブン コバセビッチ(彼とは実際に結婚していたのだし、そもそも彼女の方からアプローチしたのに・・・)やミシェル ベロフ(この人は本物の音楽家である)など、どこかざわつく感じが二人の周りにはある。


 しかし、彼女がそれほど男を魅了する女性だったのは間違いなかろう。そんな彼女も五十を超えた頃から「共演」だけをするようにスタイルを変えたのは、それがどこかセックスに通じる感覚があったのかもしれない。実際のセックスでの子供はもう三人で十分で、その後は共演という形で、音楽という子供を次々に産んでいく、そんな人生をめざしたのかもしれないとさえ思う。

 彼女を神に例えるならアルテミス・・・だろうか。

 アルテミスは処女神であり、貞節の女神でもあるが(貞節の神は純潔を汚すものを殺戮する力の神でもある)、本来エフェソスのアルテミスは豊穣と多産の神である。そしてローマ神話では彼女の双子の兄弟はアポローン、即ち太陽と音楽の神であり、彼女自身は狩猟と月の神である。

 月は夜、太陽の光を浴びながら妖しく輝くものである。貞節の神であるはずのアルテミスは夜、変容し、闇から子供を産みだしていく。そんなイメージは彼女に相応しい・・・といったらやっぱり怒られるのだろうかしらん?

 アルゲリッチはアルテミス。ふふふ・・・少なくとも日本語の発音では頭韻を踏んでいる。


追記:本日、CDの棚を漁っていたらアルゲリッチによるバッハ独奏曲集が手元にある事に気づいた。買ったCDを忘れて、二度購入してしまうことは時折ある(意図的な場合:アルバンベルクSQによるラベルとドビュッシーの弦楽四重奏曲、これは海外にいたときに日本に残していたものを買い足した、や、忘れていた場合:ロストロポービッチとゼルキンによるブラームスのチェロソナタ)が、忘れているケースというのは大抵、演奏に満足していないケースである。聞き返してみたが、その感想はまさにっチェロソナタに記した感想と同一であった。バッハだけは彼女には合わないような気がするのは僕だけだろうか?


レコード


*≪葬送行進曲/アルゲリッチ、ショパン・リサイタル 第2集≫

フレデリック・ショパン 

 ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35<葬送行進曲付>

 アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 作品22

 スケルッツオ 第2番 変ロ短調 作品31

 ドイチェ グラモフォン MG2491


CD

*FREDERIC CHOPIN

Klaviersonate Nr.2 b-moll op.35

Scherzo Nr.3 cis-moll op.39

Klaviersonate Nr.3 h-moll op.58

Deutsche Grammophon 419 055-2


*FREDERIC CHOPIN

24 Preludes op.28

Prelude cis-moll op.45

Prelude Ad -dur op.post

Scherzo cis-moll op.39

Deutsche Grammophon 431 584-2


*<DEBUT RECITAL>

FREDERIC CHOPIN Scherzo Nr.3 cis-moll op.39

JOHANNES BRAHMS Rhapsodien op.79 No.1/2

SERGE PROKOFIEV Toccata op.11

MAURICE RAVEL Jeux d'eau

FREDERIC CHOPIN Barcarole Fis-dur op.60

FRANZ LISZT Ungarische Rhapsodie No.6 Klaviersonate h-moll

Deutsche Grammophon 447 430-2


* MAURICE RAVEL

Concerto for Piano and Orchestra in G major

CLAUDIO ABBADO London Symphony Orchestra

with Concerto for the Left Hand (piano: MICHEL BEROFF), Fanfare for the ballet  

 "L'Evantail de Jeanne", Menuet antique, Le Tombeau de Couperin

 Deutsche Grammophon 423 665-2


*FREDERIC CHOPIN

Sonate fur Klavier und Violoncello g-moll op.65/Polonaise brillante fur Klavier und

Violoncello C-dur op.3

ROBERT SCHUMANN

Adagio und Allegro fur Violoncello und Klavier As-dur op.70

MSTISLAV ROSTROPOVICH, Violoncello

Deutsche Grammophon 419 860-2


*JOHANN SEBASTIAN BACH

Sonata No.1 G-dur BWV 1027/Sonata No.2 D-dur BWV 1028/

Sonata No.3 g-moll BWV 1029

Mischa Maisky, Violoncello

Deutsche Grammophon 415 471-2


*LUTWIG VAN BEETHOVEN

12 Variationen uber das Thema >Ein Madchen oder Weibchen<

Sonate fur Klavier und Violoncello F-dur op.5 No.1

Sonate fur Klavier und Violoncello g-moll op.5 No.2

Mischa Maisky, Violoncello

Deutsche Grammophon 431 801-2


*CESAR FRANK Cello sonata in A major

CLAUDE DEBUSSY Cello sonata in D minor/La plus que lente/Preludes I

Mischa Maisky, Violoncello

EMI CDM 7 635577 2


*LUTWIG VAN BEETHOVEN

Sonate fur Klavier und Violine Nr.4 a-moll op.23

Sonate fur Klavier und Violine Nr.5 F-dur op.24>Fruhlings-Sonate<

GIDON KREMER, Violine

Deutsche Grammophon 419 787-2


*LUTWIG VAN BEETHOVEN

3 Sonaten fur Klavier und Violine Nr.6-8

Sonate A-dur op.30 Nr.1

Sonate c-moll op.30 Nr.2

Sonate G-dur op.30 Nr.3

GIDON KREMER, Violine

Deutsche Grammophon 445 652-2


*LUTWIG VAN BEETHOVEN

Sonate fur Klavier und Violine Nr.9 A-dur op.47>Kreutzer-Sonate<

Sonate fur Klavier und Violine Nr.10 G-dur op.96

GIDON KREMER, Violine

Deutsche Grammophon 447 054-2


*LOCKENHAUS ENCORE!

Fritz Kreisler Liebesleid

GIDON KREMER, Violine

with various pieces played by above violinist and/or by his friends at LOCKENHAUS Concert

PHILIPS 432 252-2


*ルートヴィッヒ ヴァン ベートーヴェン

ヴァイオリン ソナタ 第1番 ニ長調 作品12の1

ヴァイオリン ソナタ 第2番 イ長調 作品12の2

ヴァイオリン ソナタ 第3番 変ホ長調 作品12の3

 ギドン クレーメル(ヴァイオリン)

ユニバーサル ミュージック(ドイチェ グラモフォン) UCCG-6156


*ラヴェル 夜のガスパール(アロイジャス・ベルトランの散文詩によるピアノのための3つの詩)/ソナチネ/高雅で感傷的なワルツ

 ユニバーサル UCCG-6133


*ドミトリ・ショスタコーヴィッチ ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35+

ヨーゼフ・ハイドン ピアノ協奏曲 ニ長調 Hob.XVIII:11

+ギイ・トゥーヴロン(トランペット)

 ハイルブロン・ヴュルテンベルグ室内管弦楽団

 指揮:イェルク フェルバー

 ユニバーサル PROC-1529


*ROBERT SCHUMANN

Fantasie, op.17/Fantasiestucke, op.12

EMI 7 63576 2


*LUITWIG VAN BEETHOVEN

Piano Concerto No.2 in B Flat major,Op.19

JOSEPH HAYDON

Piano Concerto No.11 in D major, Hob.XVIII:11

London Sinfoniettta directed by piano soloist

EMI 7 63575 2


*SERGE RACHMANINOFF

Piano Concerto No.3 in D minor, Op.30

RSO BERLIN / RICCARDO CHAILLY

PETER ILYICH TCHAIKOVSKY

Piano Concerto No.1 in B flat minor, Op.23

SYMPHONIE-ORCHESTER DES BAYERISCHEN RUNDFUNKS / KIRILL KONDRASHIN

PHILIPS 446 673-2


*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Concerto No.20 in D minor for piano and orchestra, K.466

Orchestra di Padova e del Veneto, Alexandra Rabinovitch, conductor

Concerto No.19 in F major for piano and orchestra, K.459

Orchestra di Padova e del Veneto, Alexandra Rabinovitch, piano & conductor

Concerto No.10 in E flat major for two pianos and orchestra, K.365(316a)

Alexandra Rabinovitch, piano 1 Martha Argerich, piano 2

Wurttembergisches Kammerorchester Heilbronn

Jorg Faeber, conductor

TELDEC 4509-98407-2


*シューマン ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54

  セルジュ チェリビダッケ(指揮) フランス国立放送管弦楽団

( withプロコフィエフ 「ロメオとジュリエット」組曲第2番Op.64より抜粋)

Altus ALT300


*ショパン ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11/第2番 ヘ短調 作品21

 モントリオール交響楽団 指揮:シャルル デュトワ

 ワーナークラシックス WPCS 23036


(追記)

*JOHANN SEBASTIAN BACH

Toccata c-moll BWV 911

Partita No.2 c-moll BWV 826

Englische Suite No.2 a-moll BWV 807

Deutsche Grammophon 463 604-2

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