第6話 エリック ハイドシェック(Eric Heidsieck)

お酒の好きな人ならばハイドシェックという名に心当たりがあるだろう。フランス語では通常発音しないHを発音してハイドシェックという音を持っているのはシャンパーニュ地方の名前であり、ハイドシェック家というのはシャンパーニュの醸造元の一つである。そしてエリック ハイドシェックはその金持ち一族の一人である。

フランス人で金持ちでピアノを弾いている、というだけで反感が募るというあなた、その感情は正しい。ましてや彼はハンサムである。貧乏人からすればそんな人生は許せない。しかし、彼はどんなに悪いやつではない。いや、むしろいいやつに違いない。

なぜなら彼の演奏するモーツアルトは純白の色を帯びているからだ。


このピアニストに出あったのはもう数十年前の事だ。まだレコードの時代である。その頃モーツアルトのピアノ曲の演奏と言えばリリー クラウスとかクララ ハスキルとか女流のピアニストが中心で、もちろんバックハウスとかグルダとかバレンボイムとかも録音を出していたし、ポリーニの19番、23番のような刮目すべき演奏も出てはいた。だが、それぞれ一長一短があり僕にとってモーツアルトのピアノ協奏曲の「お気に入り席」は空白のままだった。そんな時何の気なしに購入したセラフィムの廉価版のレコードに針を落として聞き始めた僕の耳に響いてきた音に僕はそのままずっと聞き入ってしまった。ピアニストの名も、アンドレ ヴァンデルノートという指揮者の名前にもその時まで聞き覚えがなかった。さして期待もしていなかった、というのが本当のところだ。

だが、この演奏の横には確かにモーツアルトが立っている。幾つかのモーツアルトの優れた演奏にはモーツアルト自身の存在を感じることがある。例えば、ベンジャミン ブリテンの指揮した二つのト短調の交響曲、アルチュール グリュミオーの演奏したバイオリンコンチェルト、初期のアルバンベルグカルテットが演奏した「狩」、ザビーネ マイヤーのクラリネットの協奏曲や室内楽。そうした演奏の横には様々な年齢のモーツアルトが演奏に聞き耳を立てながら佇んでいることを感じる。

このピアノコンチェルトの演奏の横には、パリにでも演奏旅行に行った時の青年時代のモーツアルトが、少しすました顔で聞き耳をたてている。やや愁いの帯びた表情には過去の栄光の記憶と綻び掛けつつある自分の未来への陰鬱。

グリュミオーのコンチェルトの横にいる彼が、何の疑いもなく、自分の未来を信じひたすら陽気だった時の幼い時代の表情をみせているのと全く異なる表情だが、確かにモーツアルトはそこにいる。

それにしてもモーツアルトの演奏は必ずしもドイツやオーストリアといったモーツアルトの生まれであるドイツ語圏の演奏家がベストというわけでない気がするのは偶然であろうか?子供の頃から生まれ故郷であるザルツブルグを離れ演奏旅行にヨーロッパじゅうを旅したモーツアルトの国際性に(当時、ヨーロッパの中を旅することはそれが一つの国際的な色を帯びていた)起因するものだろうか?ヨーロッパは決して広大ではない大陸の中に様々な文化を包含して発展した。その国々を旅するにしたがって彼の音楽は多様な文化を身に纏い、その結果として様々な国の演奏を受け入れるようになったのだろうか?

そのフランスでの結晶がこの演奏であるように私には思える。紡ぎだされる音はクラウスのように優しくも、ポリーニのように清澄でもない。淡々として耳に響いてくるのだ。


Discography


モーツアルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466

       ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488

エリック・ハイドシェック ピアノ (Eric Heidsieck)

パリ音楽院管弦楽団 (Orchestra de la Societe des Conserts du Conservatoir)

指揮:アンドレ ヴァンデルノート (Andre Vandernoot)

EMI TOCE-16044 


モーツアルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503

       ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595

エリック・ハイドシェック ピアノ (Eric Heidsieck)

パリ音楽院管弦楽団 (Orchestra de la Societe des Conserts du Conservatoir)

指揮:アンドレ ヴァンデルノート (Andre Vandernoot)

WPCS-50338

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