サキュバスネード カテゴリー2

 ニューヨーク州・ニューヨーク市


 庭付き戸建て家屋。その寝室で、腰まで長い金髪をした中性的な美貌を持つ一人の青年がソファで項垂うなだれている。そこにバスローブ姿の中年女性が、胸をはだけさせながら歩み寄ってきた。


「シャワー浴びた後で悪いんだけど、もう一回シない?」

「これから仕事があるので……そろそろ出ないと……」

「あら、貴方に仕事なんてものはないでしょう? 見え見えの嘘をつくのはやめて頂戴」


 逃れようとする青年の肩を、中年の女ががっしりと掴んだ。中年女の肉体は海豹のように豊満であるが、その眼光は虎のように鋭い。対する青年の目は、まるで小動物のように怯えている。

 その時、下の階から犬の吠え声が聞こえてきた。


「ああ、ごめん、待ってギルバート。今餌あげに行くから」


 そういって、女は部屋を出ていった。


 ――脱出するなら今しかない。


 青年は財布とスマートフォンがポケットに入っていることを上から触って確認すると、部屋からベランダに出た。階段を降りて馬鹿正直に玄関から出るのは無理だ。出口はここしかない。そう思って、青年はベランダから飛び降り、庭の芝生に着地した。

 庭に出た青年は、駆け足で走り出した。なるべく早くこの屋敷から遠ざかりたい。その一心で彼は走った。長い金髪を振り乱しながら走り、角を曲がって立ち止まった。

 空は鉛色の雲に覆われており、今にも一雨来そうである。そういえば、大きなハリケーンが近づいてきているんだったか……と、青年は今し方テレビで流れていたニュースを思い出した。


 青年の名を、メイスン・タグチという。

 日系人を先祖に持つ富豪一家に生まれた彼は、父親によって幼少期の頃より苛烈な教育を受けてきた。メイスンの母が早逝してから、それはより一層激しくなったといえる。

 彼のスケジュールは分刻みで管理されるようになった。それによって彼はあらゆる古典籍を修め、フランス語にラテン語、中国語、日本語を習得し、洋弓術アーチェリー、馬術、ライフル射撃、対サメ戦闘などを叩き込まれたのである。

 抑圧的な厳しい教育によって作り上げられた、向かう所敵なしの超人。しかしその彼の心は、大学卒業とともにとうとう破裂した。彼は誰に言うでもなく、勝手に探偵事務所を立ち上げたのである。


 ――自分の人生は、父のものではない。


 いつ頃からか、そういった思いが彼の心に巣食っていた。彼は実家との一切の連絡を断ち、「父の会社を継がない」という意志を言外に表明することで叛逆としたのである。


 だが、現実はそんな、向こう見ずな青年に甘い顔をしなかった。


 ぽっと出の怪しげな私立探偵事務所に、依頼など来ようはずもない。日がな一日、事務所でつまらないB級パニック映画を流すばかりの日々であった。ニューヨークの地価の高さもあって資金はあっという間に払底し、テナント料が払えなくなってしまった。


 そこに目をつけたのが、あの中年女である。


 彼女――バーバラは夫を亡くした後、夫から引き継いだ会社を成長させた敏腕社長である。しかし、富やら権力やらを得ると色に狂うのは男だけではないらしい。

 彼女は数年前、社交の場で父に連れられたメイスンを見かけ、彼の容色に惚れ込んだ。そして、父に無断で探偵業を始めたメイスンが資金繰りに困っていることを人づてに聞くと、彼女は資金援助の見返りとして彼個人の肉体を求めた。メイスンは週末になると彼女の自宅に呼び出され、寝床を共にするといった生活が始まったのである。


 メイスンはこの日、ある人物と会う約束をしていた。しかし、正直にバーバラに伝えた所で「その人と私とどちらが大事なのか」と言われるだけだ。そう思って「仕事がある」などと言ってみたのだが、それは効果なしであった。


***


 メイスンは黄色い看板のメキシコ料理屋に入った。


「おう、久しぶりだなメイスン」


 そこで待っていたのは、体格のよい黒人の青年であった。


「よかった間に合った……マーク、久しぶりですね」

「また会えて嬉しいゼ」


 黒人青年マークは、ハイスクール時代のメイスンのライバルである。二人は対サメ戦闘競技大会で覇を争い、二勝二敗という結果に終わった。二人の活躍は、今でも両校の生徒に語り継がれている。


「それで、仕事の方はどうだったのです?」

「ああ、フロリダで庭鮫ガーデンシャークを仕留めてきたんだ。しつこい相手だったゼ」


 マークは楽しげに話していた。充実していそうなかつてのライバルの姿が、メイスンには眩しく見えた。

 マークは学生の頃からサメ退治の仕事を請け負い金を稼いできた。そして、卒業後にはプロのサメ被害専門家となり、業界で名の知れたサメハンターなのだという。


「何か雨降りそうだな」

「確かハリケーンが近づいてきているんでしたね……」


 その時、メイスンのスマートフォンが振動した。もしやバーバラからなのでは……と思ってぎくりとしたメイスンであったが、画面を確認すると、相手は知らない番号であった。

 やがて通話を終えると、メイスンは言った。


申し訳ないExcuse me。ちょっと外せない用ができてしまいました……」

「そうか。お互い社会人だもんな。じゃあまた今度な」


 会計を済ませると、メイスンはマークと別れた。

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