付け下げ

増田朋美

付け下げ

付け下げ

暑い日だった。とにかく暑い日であった。もうとにかく暑い日であるとしか、言葉が出ない日だった。テレビでは、外の気温が40度に届くかとかなんとか、そういう事をいうくらい暑い日だった。

そんなことはお構いなし、杉ちゃんとブッチャーは、とある呉服店の展示会に出かけていた。ブッチャーのほうは、こんな暑い日に出かけてもしょうがないのではないかなんて言っていたが、三十五度以上という数字の意味をあまりよく理解できない杉ちゃんは、そんなことは平気な顔をして出かけるのだった。

展示会の行われている公民館へ到着すると、やっぱり暑いせいか人はあまりいなかった。夏用の絽とか紗とかそういう着物が中心となって販売されていたが、振袖や留めそでなどがないわけではなかった。中には若い女の子で、成人式とか卒業式できる振袖を、早く求める人も少なくなかったのである。

「おう、この小紋、お前さんのお姉さんによさそうじゃないか。」

と、杉ちゃんが目の前においてあった絽の着物を指さした。それは黒い地色に絞りなどで雲や木の枝を入れている、確かに、若い女性には似合いそうな着物ではあった。

「そうだな、姉ちゃんも、黒は嫌いじゃないし、喜ぶと思うよ。よし、買っていくか。」

と、ブッチャーはその着物を手に取って値段を調べてみた、ちょうど3000円。高すぎず安すぎない、ちょうどいい相場である。

「小紋だから、名古屋帯か半幅帯を合わせるのが良いだろうな。お前さんのお姉さんは、持っているかな?」

「ああ持っている。姉ちゃんは、半幅帯は何本か持っているし、黒に合いそうなものも、持っていたと思うよ。」

杉ちゃんとブッチャーがそんな会話をしていると、近くのレジから、ワンピースを身に着けた一人の女性が出てきて、

「失礼ですけど、こちらは小紋ではなく、付け下げというお着物になっておりまして、半幅帯というものは合わせないことになっておりますが。」

と、杉ちゃんたちに言った。

「はあ、何を言ってるんだ?小紋に半幅帯を合わせても、何も問題はないと思うけど?」

と、杉ちゃんが言うと、

「でも、これは付け下げで小紋ではありません。其れを言うなら、付け下げに合わせる帯、格の高い袋帯とか、名古屋帯を締めるようにしてください。」

と、彼女はいうのである。

「はあ、バカだなあ、お前さんは。これは付け下げじゃありません。小紋です。小紋だから、半幅帯を合わせてもいいんだよう。」

と杉ちゃんはそういうと彼女は、

「でも、これは付け下げですから。」

と、いう。杉ちゃんもブッチャーもぽかんとしてしまった。明らかに付け下げではなく、この着物は小紋。それを付け下げとして売るなんて、この店どうなっているんだ?

「あのねえ、付け下げとは、肩とすそ、袖に柄のある着物のことを言うんです。こういう風に全体に柄が入っているやつは小紋なの。そんなこと知らないで商売するなんて、お前さん、どういうこっちゃ。」

杉ちゃんはカラカラ笑った。

「大体なあ、付け下げと小紋の違いも判らないのに販売ができるなんて、日本の着物屋もどうしようもないな。付け下げと小紋の違いなんて、素人でもわかるわ。」

と、杉ちゃんに言われる通り、この着物と付け下げとの違いは明確だ。確かに、素人が見ても、違いははっきりしている。

「ごめんなさい。私、実は何も知らなくて。ただ、展示会の手伝いをしろと言われただけです。」

「はあ詰まるところ、着物のことは、何も知らずに来ちゃったのか。」

と、半べそをかきながら、そういう彼女に杉ちゃんは言った。

「お前さんは、本当に着物について、何も知らんの?」

「はい、ご、ごめんなさい。ただいい儲けになるバイトがあると、求人雑誌で見て、それで参加させてもらっただけです。申し訳ありません。」

そうか。もう着物を売るということは、いい儲けになるバイトくらいでしかないのか。それは杉ちゃんもブッチャーも悲しかった。

「で、本当に着物を売りたいと思っていますか?」

一寸疑いを持ってしまったブッチャーが、彼女に言った。

「一応な、着物を売るんだから、説明くらいちゃんとできるようにならなきゃな。それが売る側の責任っていうものになるんじゃないの。」

杉ちゃんに言われて、彼女はちょっと小さくなった。

「でも、上司は、みんな着物のことなんか何も知らないから、たいして説明もしないでいいって言ってました。」

彼女が正直に答えると、杉ちゃんは、

「客をバカにするな。わかるやつもいるよ。」

と、突っ込むように言った。

「だから、もう小紋を付け下げなんて呼んじゃだめだぜ。それでいいっていう会社なんて、そっちから払い下げちまえ。そんな会社、着物の事より、金もうけしか考えてないの。そうじゃなくて、本当に着物を売りたいってところを探すの。」

杉ちゃんは彼女の肩をたたいた。

「まあ、こういう時代だから、働くところなんてまたすぐに見つかるよ。それが見つかるまで頑張りや。」

「そうですよ。付け下げのことを、ちゃんと伝授していないところで働いても、何も意味がありません。其れよりもちゃんと着物の事をちゃんと学べるところで働いてください。」

杉ちゃんとブッチャーは、彼女を励まして、先ほどの黒い小紋を購入して、展示場を後にした。今日は変なものを売っているやつらにあったな、なんて杉ちゃんもブッチャーも言い合っていたのを見て、彼女の気持ちは何か変わったようだ。

その数日後。ブッチャーが、何気なしに、自身のフェイスブックに目をやると、メッセージが一通届いているのに気がついた。誰だろうと思って開いてみると、古村菊代さんという人からのメッセージで、こんな事が書いてある。

「こんにちは、フェイスブックに投稿されていた、お写真とお会いしていた時のお顔が一致したので、メッセージを送りました。あの時、ご指摘くださってありがとうございます。それで私、あれから本気で着物のことを勉強したくなって、着付けの教室に通い始めました。でも、肝心の着付けに入る前に、いろんなものを買わされる羽目になって、結局着付けを習うことができずに困っております。何かいい対策はないかと思いまして、メッセージさせていただきました。」

ああ、あの時の女性だな、と、ブッチャーはすぐにわかった。しかし、着付け教室というところはどうもおかしなところで、本来なら着物の着方について教えてもらうところなのに、余分なものを買わされるところになっているらしいのだ。ブッチャーは、そういうところへ行ってしまった彼女がかわいそうになった。とりあえず、その日も暑い日だったけれど、急いで家を出て、杉ちゃんの家に向かった。

「杉ちゃん、お願いがあるんだけど。こないだの女性から、相談を持ち掛けられたんだ。なんでも着付け教室という所に通い始めたそうなんだが、ちゃんと教えてもらえることはできないらしいんだ。」

暑い中だから部屋へ入れと杉ちゃんに言われて、ブッチャーはとりあえず用件を言う。

「はああなるほどな。それは大変だ。着付け教室っていうところは、どうも変なところになっているようだね。素直に着物の着付け方を教えてくれればいいのになあ。」

と、杉ちゃんもブッチャーの意見に同意する。

「まあとにかく、彼女に返事を出さないといけない。何て返事を出したらいいのか。」

と、ブッチャーは腕組みをしていった。

「だって着付け教室には入会金とか、そういうものを払ってるだろうし。」

「まあそうだねえ。最近の着付け教室は、金ばかりとって、とんだ無駄遣いをさせるというところばっかりだからなあ。」

杉ちゃんもブッチャーの話に同情した。

「まあ、とにかくよ。せっかく着物に目覚めた彼女の気持ちを傷つけないようにさせるのが一番なんじゃないの。」

「そうだねえ。かわいそうになあ、せっかく着物を着たいと思う人が増えてくれたのに。」

すると、ブッチャーのスマートフォンがまたなった。

「あ、メッセージだ。何何、差出人、古村菊代。はあ、一寸相談したいので、ショッピングモールのカフェに来てくれって?」

と、ブッチャーは、でかい声でそのメッセージを読んだ。

「そうか、古村菊代さんってのは、あの彼女か。それでは、一時くらいに、カフェに行くと書いてやれ。」

と、杉ちゃんが言うと、ブッチャーはおうわかったよと言って、その通りにした。そうすると彼女は、よろしくお願いします、と返事を返してきた。

そして、午後一時。

ブッチャーと杉ちゃんは、ショッピングモールのカフェに行った。行くと、先日の彼女、古村菊代さんは、椅子に座って待っている。

「あの、相談って何でしょうか。」

とブッチャーは、杉ちゃんと彼女の前に座った。

「ええ、実はですね、これを見ていただけないでしょうか。」

と、彼女は一本の帯を杉ちゃんとブッチャーに見せた。

「はあ、ただの化繊の帯じゃないか、こんなのは、何処かの業者で安く手に入るわ。」

と、杉ちゃんが言うと、彼女は、

「実は、この帯、着付け教室で買わされて、二十万払ってきました。まだ、完済しきれてないんです。」

と、小さな声で言った。

「ええ?こんなぺらぺらの帯に20万円?」

と、ブッチャーが驚いて言うと、

「そうなんです。私、ただ月謝を支払うことについて言われただけだと思ってたんですけど、契約書が、この帯を買うことになっていて。もうどうしたらいいのか。」

と、彼女は答えた。

「はあなるほどねえ。そういう悪徳商売になっちゃうんだなあ。着物を売るってのはどうしてそうなっちまうんだろう。着物なんて洋服みたいに簡単に売るわけにはいかんのかな。」

杉ちゃんはそういうが、ブッチャーは、対策を講じないとだめだと思った。

「そうですね。無理やり契約させられたんなら、クーリングオフをしてみるとか、そういうことを、してみたらどうですか。そういう意思のない契約に対しては、そういうことはできますよ。でも、そんなことをする着付け教室は、一寸あてになりません。もっと安全な着付け教室日に行った方がいいですね。」

「安全な着付け教室ってどこにあるんだよ。」

と、杉ちゃんは大きなため息をついた。

「そんなものどこにもないよ。着付け教室ってのは、そういうところばっかだよ。僕のところに、着物の寸法直しに来るお客さんは、みんなそういうよ。リサイクルでかわいらしいのかったのに、おはしょりができないからって言われて、無理やり高級なもん買わされそうになったとか。そういう話はよく聞くよ。多少小さくたって十分にきられる着物だって着付け教室にもってったら、さんざん嫌味を言われて、また処分されたということはよくある事だぜ。」

杉ちゃんは、着物界の現状を言った。

「杉ちゃんそれじゃあ、リサイクル着物がまるで悪徳商売みたいじゃないか。リサイクル着物で買ったのが、そんなに悪いこと見たいかな?着物だって多少サイズが小さくても、着てやったほうが、いいんじゃないのかな。」

ブッチャーがそういうと、

「いやあ、着付け教室がそうなってくれればいいんだけどなあ。着付け教室では、寸法の合わない着物の着方というもんは教えてくれないで、全部だめって否定しちまうから、そういうことになるの。」

と、杉ちゃんは言った。

「とにかく、この帯は、俺が見てもわかります。20万も支払うようなそういうものじゃありません。まあ、リメイクの材料にはなるかもしれませんがね。ま、俺が引き取っておきますよ。俺は、そういうの回収する事業もやっているんで。」

ブッチャーは、にこやかにそういうことを言った。

「そして、弁護士か誰かに、クーリングオフのことを相談するといいですね。そういう悪徳な着付け教室には、ちゃんと罰する法がありますから、大丈夫です。俺の知り合いの弁護士さんに頼んでみます。」

「そうだねえ。でも、肝心の着付けはどうするんだ?」

と、ブッチャーの話に杉ちゃんが言った。

「彼女の着物を着たいという思いはどうしたらいいんだ?まあ、クーリングオフは成立してもだよ、彼女の思いは、どっかへ消えちまうよな。もしかしたら、そういう思いでしかなかったら、着物なんか二度と着たくないと思うかもしれないぜ。」

「そうだねえ、、、。」

杉ちゃんの言葉にブッチャーはすぐに気が付いた。

「俺の店にも着物はあるけど、俺が売っている着物は、銘仙ばっかりだからな。まあ、事情を話して理解してもらえれば、俺の店で着物買ってくれてもいいな。」

「なあ。」

ブッチャーがそういうことを言っていると、杉ちゃんが提案するように言った。

「お前さんは、本当に付け下げの意味を知らないのか?」

「ええ。」

と彼女は答える。

「ただ、お出かけ用とか、外出着用とか、そういう着物を付け下げと言えと言われただけなんです。」

「はああ、なるほど。」

と、杉ちゃんは腕組みをした。

「だったら、本物の付け下げに会いに行かないか?」

この上にまた高い買い物をさせるのかとブッチャーは杉ちゃんを見たが、

「じゃあ、カールさんとこ、連れて行ってやろう。」

と、杉ちゃんは言った。ブッチャーはほっとして、

「わかった、俺も行く。」

とだけ言っておく。

とりあえず、ブッチャーは、スマートフォンを出して、タクシーを呼び出した。こんな暑い日に、歩いていくには、一寸酷というものだ。ショッピングモールの入り口でしばらく待つと来てくれた。運転手に手伝ってもらって、杉ちゃんたちは、すぐタクシーに乗り込んだ。菊代は、一寸緊張しているようだったけど、ブッチャーに促されて、タクシーに乗った。

カールさんの経営する増田呉服店は、ショッピングモールから少し離れたところにあった。増田呉服店というとなんだか固い名前だけど、気軽に買える着物ばかりだから安心しろと杉ちゃんはカラカラと笑っていた。

「はい、お客さん、つきましたよ。」

と、運転手が、増田呉服店の前でタクシーを止める。三人は、すぐに降りた。ブッチャーに促されて、菊代は店の中に入った。

「いらっしゃいませ。」

そういったのが、日本人ではなく、外国人のおじさんだったのに、菊代はびっくりしたようだ。でも、こうでなければ着物は安く買えないぞと、杉ちゃんがそういう。

「よし、カールさん、すまん。付け下げの出物はない?」

と、杉ちゃんが言った。

「こいつにさ、付け下げを一枚出してやってくれないか?こいつ、付け下げと小紋の違いも判らないというので。」

「了解だよ。杉ちゃん。」

と、カールさんは言って、棚の中から、一枚の着物を出した。赤い色の、ユリの花が描かれた付け下げである。

「訪問着と間違える人がいるので、説明しておきますが、付け下げというものは、こういう風に、おくみと前身ごろで柄が切れています。つながっていません。時々間違える方もいますので、注意してくださいね。いまの着物は違いがあまりはっきりしていませんが、昔のは、こういう風に、特徴がわかる付け下げが多いのです。」

「カールさんやっぱりすごいですね。俺、そうなっていたことなんて全然知りませんでした。俺、銘仙ばっかり扱ってるから、付け下げと訪問着の違いなんて分かりませんでしたよ。」

ブッチャーは思わず感心してしまう。

「ついでに小紋と付け下げの違いも教えてやってよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうですねえ。小紋は、同じ柄を繰り返して、規則正しく入れますが、付け下げは、同じ柄を繰り返すということがないということですね。そこが大きな違いですね。また、付け下げは、胴部分、つまり帯で隠れるところには柄は入れませんが、小紋はそこにも柄が入っているということが、大きな違いでしょうか。」

と、カールさんは、売り棚にある着物を見せながら言った。確かに二つ並べてみると、付け下げと小紋の違いは明確だ。そういう風に、違いとしては、大変はっきりしているのだが、それを教えるところが今ないということも問題である。本で調べるにしても、そういうことが詳しく掲載された本はなかなかないというのが現実である。

「ありがとうございます。着物ってやっぱりきれいですね。私、大人になったら着物を着てみたいという気持ちは、持っていて、少しずつ夢をかなえようと思っていたんですが。」

と、菊代はそういうのだった。ほんなら、いまかなえればいいじゃないかと杉ちゃんが言った。

「でも、着物ってお高いですよね。そういう事も少しわかった気がして。」

と菊代が一寸寂しそうに言うと、

「そうですね。うちの着物屋では、長じゅばんから帯まで、すべて揃えても一万円でそろいますが?」

とカールさんが言った。そうなんですか、と菊代が聞くと、カールさんはにこやかにはいと言った。

「でも、着付けはどうやって覚えたらいいでしょう。着付け教室はちょっと怖くていけないところですし。」

と、菊代がまた不安そうに聞くと、

「そんなところいかなくたっていいんです。基本的に着ることができればそれでいいんですから。今ある着物の着方なんて、呉服業界で勝手に決められた事なんですから、気にしないでいいんです。着付けなら、動画サイトで見るとか、本を読んだり、ビデオを見るとかすればいいでしょう。本当に着たいなら、教室に通うことなくそういうことができてしまうと思うんですがね。」

と、カールさんが言った。このセリフには、杉ちゃんもブッチャーも、拍手をした。そうそう、それは本当に、着たいという気持ちだよ、と杉ちゃんは、大きなため息をついている。菊代は、わかりました、やります、といった。

「本物の付け下げを買って帰ります。」

と、いう彼女に、カールさんは、2000円でいいですよといった。菊代は喜んで二千円を支払った。

領収書ができるのを待っている彼女に、

「まったくよ、着物ってのは、部外者でなければ、ちゃんと教えてやれないんだな。」

と杉ちゃんが大きなため息をついた。

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付け下げ 増田朋美 @masubuchi4996

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