七、聖なる夜

 衝撃を受けた。そして、何を思ったのだろう。こう、モヤモヤっとした、感じがした。モヤの色は、白ではなく、灰色であった。しかも、気体ではなく、固体。火山灰のようにギザギザとしている。それが身体の隅々まで傷つけるから、所々痛い。

 司さんが、所属事務所から、脱退した。そのことはハロウィンの翌日、報道された。所属事務所を脱退。つまり、俳優を辞めること。司さんの、テレビや映画などで活躍する姿が。もう見ることができない。大好きな、司さんが。私がこの世で一番好きな人が。この気持ちは、何という言葉で表されるんだろう。寂しい。悲しい。苦しい。虚しい。このうちのどれかだ。司さんをドテレビ、映画などで観ることができないから、寂しい。こうなったのは、全て私のせいだ。私は虫がいいから。そのせいで、司さんが。悲しい。苦しくて、虚しい。結局、どれも合っていた。私のせいで。悔しい。悔しい。

 

『私、やっぱり司さんと一緒に居たいです』

 

 それが一番の原因だろう。何てことを言ったんだ。『一緒に居たい』そう言っておいて、俳優を辞めないで欲しいとは。一体、どういうつもりなんだ。虫がいいのもはなはだしいところだ。身勝手すぎる。目からは涙が止まらなかった。嗚咽おえつを漏らしながら。全て私が悪いんだ。ごめんなさい。土下座どげざして謝りたい。

 

 涙が枯渇こかつしたあとも、気分は重いまま。床に倒れ、雨上がりの土のような目は、あるがまま、動かさない。魂は抜けていた。死体になって、動かない。


 どれくらいか時間が経った。電話が鳴った。生き返った私は、電話に出る。相手は司さん。

「……はい」

『もしもし、祐奈ちゃん。ニュース見た?』

 ちょうどさっき見たところで、落ち込んでいた。

「見ました。ごめんなさい」

『どうして、謝るの?』

「え、だって、私のせいで……」

『祐奈ちゃんのせいじゃないよ』

 私が言い終わらないうちに、司さんは言った。でも、わだかまりがあった。

「いいえ。そんなことはないです」

『ううん。これは、祐奈ちゃんのせいじゃなくて、僕自身の意思なんだよ。僕は君が好き。でも、芸能界にいると、人と恋愛をするのは難しくて。だから辞めた。そうすれば、何も気にする必要はないでしょ』

 これは、私のための決断。嬉しいのかな。不思議なことに、手放しには喜べなかった。だって、彼を好きな人はこの世に溢れるようにいる。その沢山の中で、私が選ばれた。これは、とても恵まれたことだ。嬉しい反面、選ばれなかった人からは、ねたまれ、そねまれ。私がその人たちの立場なら、同じだっただろう。申し訳ない気持ちだ。悩ましい。

 

 今日もいつものラーメン屋で、ラーメンを食べる。もちろん、隣には司さんがいる。

 司さんのファンである、このお店の奥さんは寂しそうでいた。「寂しいわ。辞めてしまうの」

 司さんは笑顔で受け答える。

「ありがとうございます。このお店には引き続き来ますから」

「あら、嬉しいわ。司さんはこのお店にとって、重要なお客様だからね」

「あ、『桔梗司』は、俳優での名前です。なので、俳優を辞めた今、桔梗司ではありません」

 え? これは私も驚いた。本名は知っているが、今はもう、司さんではない。

「本名は、平田哲。これからは、『司』ではなく『哲』で」

「ええっ‼︎」

 思わず声に出てしまった。麺を含んでいる口を手で覆う。

「もちろん、祐奈ちゃんもね」

 マジでか。これからは、司さんではなく、哲さん。慣れるまでに時間がかかりそう。

「……哲さん。哲さん。哲さん。哲さん」

 小さい声で唱える。早く慣らさないと。もちろん、隣の哲さんには聞こえている。思いっきり笑われた。

 

 十二月になった。今年も残り僅かだ。肌寒い季節となり、木の葉も寿命が尽きて、地面に落ちる。もう、ほとんどの木が、裸になった。

 スイーツ研究部の活動も終わり、自由時間となった。

「上原さん」

 岩永君だ。少し緊張している様子。

「あの……今度のクリスマスって、空いてる?」

 なるほど。クリスマスの夜を一緒に過ごしたいと。お誘いか。

「ありがとう。でも、ごめん。二十五日は空いていない」

 やっぱり。とため息をついた。分かっていたんだ。最初から。その上で、ダメ元で。私は、彼の気持ちを悟ってしまった。申し訳ないな。

「その、前の日は?」

 彼は諦めていなかった。最初からダメだと分かっていたから、ダメだった時のこともしっかりと考えていたのだろう。

「うん。イブの日はいけるよ」

「じゃあ、その日で」

「わかった。いいよ」

「ありがとう」

 どうにかダメージを軽減することができたが、複雑だ。とても複雑な思いだ。

 岩永君。彼は、私のことを、好きでいるのかな。本来なら、クリスマスの当日に、彼と一緒に居ることになったのかな。でも、私の前には、途轍もなく大きな存在が現れた。私が大好きな人が、私を好きになっている。こんなミラクルなこと、これ以上はないだろう。逃すことは絶対にしない方がいいだろう。分かってる。それでも、複雑だ。どっちを取る。例えるなら、白馬に乗ったプリンスか、仲の良い友人か。前者なら、夢のようだが、後者なら、現実味がある。どっちだ。今、天秤にかけられている。苦しい展開。互角のようにみえて、実は互角ではなかった。罪悪感が強いが、心というのは嘘をつくことができない。常に本能のままにいるから。ごめんなさい。

 

 複雑の思いのまま、迎えたクリスマス・イブ。

 岩永君と二人で、眩しく飾られたの中を歩く。途中、サンタクロースの格好をした人やトナカイのツノを生やしたカップルを見かけた。街の建物は、クリスマス仕様になっている。街を歩くだけでも面白い。岩永君とは、馬が合うので、一緒に居て楽しい。話も合うし、趣味も合う。シュークリーム屋にも立ち寄る。限定のシュークリームを買って食べる。その空間はとても幸せだった。恋愛とかではなく、友達関係でも十分にいけると思う。

 噴水広場の、噴水の側のベンチに座った。

 岩永君が、重々しく口を開く。

「上原さんはさ、やっぱり、司さんが……」

「あ、今は司さんじゃない」

「へ?」

 申し訳ないが、言わずにはいられなかった、

「もう、俳優辞めちゃったから。司さんじゃなくて、哲さんだよ」

「……そうなんだ」

 ロマンチックな雰囲気がブチ壊れた。岩永君の緊張もほんのりなくなっていた。

「明日は、哲さんと行くの?」

「うん」

「やっぱり……好きなの?」

「うん」

 彼の問いかけに、うなずくことしかできない。悪いなと思いながら。

「……僕も、上原さんが……好きで」

「うん。実は気付いてたよ」

「え……。いつから」

「誘ってくれた時」

「あー」

 あの時から、私は悟った。彼が、私に好意を抱いているんだろうなって。でも、それ以前からも、きっとそうだったのだろう。だから、特に私に優しい声をかけてくれた。よくシュークリーム屋に行こうと、誘ってくれた。……そういうことなんだ。

「私は、本当にミラクルな出会いをしたと思ってる。だから、逃したくないなって。でもね、岩永君と一緒にいるのは、すごく楽しい」

 真摯しんしまな差しで、私の言葉を受け止める彼。ちょっぴり嬉しそうにも見える。

「友達として。なら、十分にいけるよ」

「友達……」

 岩永君は、一時停止した。そののち、再び私に向き合う。

「友達……以上に、親友としては、どう?」

 親友。親友かあ。どうだろう。親友として、悪くはない。……でもなぁ。親友という存在──親友に近い存在は、一人が限度だろうな。二人以上いると、その分だけ、親友という特別感は、薄れるんだろう。一人なら、一人に全部が行き渡る。私には、玲音ちゃんという、心の友──親友がいるから、これ以上は無理だな。うん。

「……無理かな」

「えっ!」

 岩永君は、ショックを受けた。

「……どうして?」

「だって、親友はすでにいるから」

「いや、二人いたらダメなの?」

「ダメダメ。二人いたら、親友という特別感が、二つに分かれちゃう」

「二人くらいはいいんじゃ」

「いやいや、心の友を裏切るようなことは絶対しない」

「極端過ぎない? あ、あと、その子とは、『心の友』で、『心友』。僕とは、『親しい友』で、『親友』はどう?」

 それはいい考えだ。なるほど。親友でも、部類が違えば、特別感というのも変わってくる。一つの種類の親友それぞれに、全部の特別感が行き渡る。それだ。

「いいね! じゃあ、今日から、私と岩永君は、『親友』だね」

「うん。よろしく」

「よろしく。……」

 こういうときって、何か決めポーズ的な何かをするべきだよね。何を……。あ。

 私は、岩永君に、グーを差し出す。すると、岩永君も、私のグーに彼のグーでタッチした。

「これが、お決まりのポーズ」

「憧れるよね。こういうの」

 二人で笑い合う。今年のイブは、とても素敵な日になった。

 

 岩永君と別れ、帰宅した。そしてすぐに、『心友』のところへ。

「あ! お帰り。どうだった」

「楽しかったよ」

「いーなー。こういう日にエンジョイできる人ってさ。まあ、私もだけどさ」

 玲音ちゃんにも、明日、一緒に街を歩く相手がいるのだ。もちろん、同世代。一つ上の先輩で、写真を見る限りは、優しそうで、私にも良い印象に映った。私は、玲音ちゃんの青春恋模様を、全力で応援する。ガンバレ。

 私の方も、明日の聖夜に心を弾ませた。大好きな哲さん。彼と聖夜を共にするなんて。夢にも思わなかった。せいぜい、私の妄想の中の話だけだろう。でも、これは妄想の世界ではなかった。全て、現実に起きていることなのだ。信じがたいが、本当だ。ホントに凄いミラクルだ。


 クリスマス当日。今朝の天気予報を見て、とてもテンションが上がった。

『今日の天気は、午後から夜にかけて雪が降りそうです。積もるところもあるでしょう』

 雪が降る!

 今日は、クリスマス。一年で最もテンションが上がる日。そんな日に加えて、さらにテンションが上がる雪が降るなんて、最高すぎる。最高なホワイトクリスマスの日に、私の大好きな元俳優さんと、憧れていた素敵な場所に行けるなんて。とんだハイパーミラクルだ。最高すぎる。ヤバイ! どうしよう。今日の私、めちゃくちゃツイている。

 

 そんな私のハイパーハイテンションは、午後になっても、夜になっても、燃え尽きたりはしなかった。今朝の予報通り、昼頃から雪が降った。私のテンションは、燃え尽きるどころか、さらに燃え上がった。

 

 しかし。哲さんは、来れなくなった。体調不良だそうだ。こればかりは仕方がない。それでも、大ショックだった。哲さんが来れない。そう分かった途端、直前まであったハイパーハイテンションも、ちりとなって消えた。景色が変わった。部屋の景色が。さっきまでは、生き生きとしたいろどりがあったはず。けれど、今はなんだか、死んでいた。しなしなと元気のない植物みたいに、彩りが抜けていた。気づくと私はベッドの上にいた。それに至るまでの記憶は曖昧あいまいだった。余程ショックを受けたのだ。ショックの程度を測る計器けいきはないから、正確な数値は分からない。試しに手を入れて、その感じで測るような測り方でなら、何となく分かる気がした。

 私は泣いていた。き出る泉のように。じわり、じわりと涙が出てくる。でも、それを拭う気力はなかった。色々と思いたいところだが、難しかった。残念だけど、悔しいけど、仕方がない。哲さんだって、こんなことは望んでいない。予定をキャンセルする電話でも、とても重々しく、申し訳ない気持ちがよく伝わった。何度も何度も謝っていた。つらいだろうな、哲さんも。でも、嬉しいな。哲さんに、そう思ってもらえるような、大切な存在になっているんだ。どうか、そんなに気にしないで欲しいな。早く元気になって。

 

 翌日、哲さんから、こんなメールが届いた。

『昨日は本当にごめんね。今日、時間空いてる? もし空いてたら、うちに来て』

 私は、『分かりました』と返信した。今日も雪が積もっていて、道路も凍結しているので車は使えない。徒歩で行くことにした。

 

 歩いていると、ちらちらと雪が降りだした。その量はだんだん増えていった。雪が降っているから、外は冷たい。私は、フル装備でいるが、唯一出ている私の顔に、ほっぺに突き刺さるように冷たい。でも、真冬の時期の方がよっぽど寒い。凍えるように寒い。対して、雪の降る今日は、冷んやりと心地ここちよい寒さだった。

 心地よい寒さに、心をなごませながら歩いていると、あっという間に目的地に到着。哲さんのお宅が見えた。

 

「で、どうしたんですか? 何か用でも?」

 哲さん宅に入って、早々に出してくれた、暖かいお茶を飲みながら、尋ねた。

「昨日のことを謝りたくて」

「大丈夫ですよ。もう、過ぎたことだし、体調不良なら仕方がないです」

 すると、突如、哲さんの大きな体が、私の体を包み込んだ。温かい。哲さんの温かさが、冷えた体を温める。お茶では温まらなかった部分も、氷のように溶けていった。

「ありがとう。ごめんね」

 哲さんは、囁くように言った。

 鼻で大きく呼吸をする。空気中の酸素と共に、哲さんの匂いも暖かさも鼻に入ってくる。もう、身体からだ全体が溶けて、液体と化してしまいそう。別に、そうなってもいいと思った。

 いまだに余韻に浸りながらも、ゆっくりと体を離した。私は、夢見心地の状態で、何が何だか分からなくなっている。

「まあ、代わりとして、今夜どこか食べに行かない?」

「あー、いいですね。賛成です」

「それで、どこ行こうか」

「えーっと」

 考え始めて間もなく、ベストな案が浮かび上がった。

「いつものラーメン屋はどうですか?」

「すっごい、いいと思う」

 哲さんも、間もないうちに賛成した。

 

 いつものラーメン屋に行くのなら、いつもの時間帯に行くのがいい。なので、夜ではなくて、もっと早い時間に出た。

 

「はい。どうぞ」

 いつものラーメン。私は、哲さんにもらった手拭いをして、いつも通りに麺をすする。隣には、大好きな哲さんが。今ではいつも通りだが、最初の頃はとてもミラクルなことで、かなり緊張していた。今もミラクルなことには変わりない。でも、緊張はなくなっていた。

 最初の一杯を既に片付け、二杯目。それも、すぐに片付け三杯目。私の食欲は止まらない。

 

         

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みらくる。いつものラーメン屋 桜野 叶う @kanacarp

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