四、覚醒

 

 同級生と、このラーメン屋に行くのは、初めてだ。新鮮な感じがする。

「おお、祐奈ちゃん。珍しいね。こんな日に来るなんて」

 お店に入ると、ご主人がびっくりしたように話しかけけきた。

「はい」

 ご主人に続いて奥さんが。

「あら、お友達? わざわざ、ここを選んでくれてありがとう」

「いえいえ、ここのラーメン美味しいですから」

「そう言ってくれると嬉しいな」

 私とご夫婦との会話を聞いていた、岩永君は、とても意外だというような顔をしていた。

「お店の人とすごく仲いんだね」

「まあ、週一で通ってるからね」

 いつも座っている席に座る。やっぱり、違和感を感じる。いつもなら司さんがとなりに座っているからだ。もはや、それが当たり前だと、身体からだが覚えているのだ。私が座っているこの席の隣の席に座っているのは、司さんだ。そんな概念が、液体となって、私の血管の中に染み込んでいるのだ。その液体は、血管を流れる血液と共に流れ、遂には、毛細血管までにも伝わっていったのだ。つまり、私の身体の隅々に、この概念が染み渡り、固まったのだ。ところが、ある日、その固定概念が破壊された。私の隣座ったのは、司さんではなかった。しかも、それが、仕事帰りのおじさんではなく、同じ研究部の友人。隅の隅まで染み込んでいる固定概念が、ある日壊された時。その時の新鮮さ、違和感は半端はんぱではない。

 岩永君が、いつも司さんが座っている席に座っているという違和感から、戸惑いが隠せない。

 大きな視界で彼をずっと見ていた。どうしても違和感を感じてしまう。

 岩永君も私の視線に気が付いたよう。目と目が合ってしまった。もちろん、すぐにらした。ものすごい気まずくなった。でも、前を向いたことを横目よこめで確認し、再び彼を見た。今度は、すぐに気付かれた。そして、とても不審がられた。

「どうしたの? ずっと、俺を見てるけど」

「い、いや、別に。あ、そうだ。岩永君てさ、けっこう食べるの?」

 なんとか誤魔化ごまかそうと、聞いてみた。

「うん。めっちゃ食べるよ。中学の時なんてね、給食の余った分を全部片づけたから」

「あー! ……す、すごいね」

「?」

 危ねえ。あと一歩で、終わってしまうところだった。私も同じで、けっこう残っていた大食缶を一人でからにしたことが結構ある。大食缶だけでなく、ご飯や野菜なども、プラスで片付けた。まさに、『給食界のお掃除係』。実際には呼ばれてないが、そう呼ばれてもおかしくなかった。それほど食べた。それが原因で、嫌われてしまった。だから抑えている。食べたいという欲求を抑えて。

 でも、今、私はとても不思議がられている。どうしよう。

「はい、どうぞ」

 助かった。ちょうどラーメンができあがった。

 カバンから取り出した手拭いをする。

「大好きなんだね、ラーメン。すごい本気を出してるけど」

 ……大丈夫かな。こんなにラーメンにガチな女の子って嫌かな。でもなあ、ラーメン食べるのに手拭いは欠かせない。もし欠かしたら、髪が気になって、ラーメンに集中できない。

「上原さん?」

「あ、大丈夫、大丈夫。いたたきます」

 とっとと、ラーメンを食べる。最悪の事態になるのを避けるためだ。

 岩永君は、何か私に言いたそうだったが、それを呑み込んで、ラーメンを食べる。

 しかし、やっぱり我慢出来なかったのか、一回麺をすすったあと、私に聞いてきた。

「上原さんも、ラーメンとかたくさん食べるの?」

 一番、聞かれたくなかったことだ。

「ううん。あんまり食べないよ。ラーメンは一杯だけ」

「中学の時とかは」

「……」

 いいのかな。本当のことを言って。嘘をつくのも情けないから。でも、本当のことを言ったら、嫌われるんじゃないかな。気味悪がられるんじゃないかな。

 

 私は、物心がついた頃から、大食らいで、ご飯をたくさん食べていた。両親と姉の四人家族だったが、大家族並の食卓だった。私意外の家族も、よく食べた。ご飯やおかずは山盛り。それでも、必ず平らげていた。

 それは、大きくなっても変わらず、学校の給食の余りを全て平らげた。どんなに余ってもそうだった。その私の大食いに、みんな驚いていた。私は、あまり運動をしない方だが、一番身体能力の高い、スポーツ系の男の子よりも、よく食べて、本当に驚いていた。驚きすぎて、怖くなってしまうほど。私の前では優しい彼らだったが、心の底では気味悪がっていたと思う。こんな地味で落ち着いた女の子が、こんなに食べるなんて。

 もちろん、中学になっても、私の大食らいは変わらない。中学での給食も、よく食べた。そして、みんなに驚かれた。こんなに食べれば、太るだろうと、みんな必ず思っている。けれど、私は、どんなに食べても、全く太らなかった。もはや、人間ではなかった。バケモノ。みんながそう思っていただろう。

 そんな私にも、乙女おとめ心はあった。とある男の子に恋をした。それを友達に言うと、言ってみたらと背中を押してくれた。そして、彼を呼び出して、伝えた。すると彼は。

「マジで言ってる?」

 明らかに強い憎悪を含んで言っていた。

「ふざけるな。俺、お前みたいなバカバカ食ってる女嫌いなんだよな。下品で、気味悪い。見ていて虫酸が走る」

 息ができなかった。心臓を握り潰されているかのようだった。今まで食べてきたものを、全て吐き出してしまいそうだった。あの苦しみは、初めて。今後も、二度と来ることは無さそうだ。

「もう、俺に話しかけるな。見苦しい」

 そう言い残して、彼は去っていった。

 その時を境に、私は食べるのを抑えた。最初に配られた量だけを食べて、絶対に増やしたりはしなかった。怖かった。給食を食べているときに立ち上がるのでさえ怖かった。また、バカバカ食べたら、同じことを言われて、同じ思いをすることになる。もう、あんな思いをするのは嫌だった。私が食べなくなったことで、みんなは、また驚いた。家でも食べなくなり、家族や友達は、心配していた。抑えた後も、食べることは好きでいた。でも、食べていると、怖くなった。もっと食べたい欲求と、多く食べたら、嫌われ、苦しむ羽目はめになることへの恐怖心が、対立した。天使と悪魔のような対立が。どちらかというと、悪魔である恐怖の方が強かった。でも、天使である欲求も強いため、つらかった。

 食べたいなぁ、でも、食べたら嫌われる。またつらい思いをする。いやだ!

 

 あぁ、どうしよう。ちゃんと正直に言うべきだよね。嘘はいけない。でも、言ったら……。

 いや、でも、岩永君もたくさん食べるというから、共感してくれるはず。彼が一番、私に良い反応をしてくれる。スイーツ紹介でも、そうだった。だから、大丈夫。

「うん、そう。私も、中学の頃はたくさん食べて、常に給食の余りを全て空にしたんだよ」

「すごいね。超人だ」

 彼は、私を褒めてくれた。「すごいね」と。過去には、褒められた経験がなかった。驚かれて、残飯処理係として認識されただけだった。だから、「すごいね」と言われて、嬉しかった。「超人」とも言われたけれど、そこに悪意は込められていなかった。私は嬉しくなった。そのとき、新底から溜まりに溜まっていたものが、一気に噴き出した。大雨のせいで、地下に急激に溜まっていく雨水。遂に限界をこえて、マンホールごと噴き出す。そのように、私の中に、新たに溜まり出したものが噴き出した。それを感じ取った瞬間、そんな言葉をかけて欲しかったんだな、今までずっと。と思った。

 でも、彼にはそれを見せず、

「岩永君だってそうでしょ」

「超人」と言われたことにたいして反論した。もちろん、悪意など含まれていない。

「でもさ、こんなスポーツ系でもない女の子がさ、バクバク食べてたら幻滅しない?」

 今更いまさら、きまりの悪そうに、早口でそそくさと言った。「すごいね」と褒められたことは嬉しかったが、それで私のトラウマが、完全に払拭ふっしょくされてはいなかった。

「いや、そんなことはないよ。女の子だって、たくさん食べていると元気そうだなって思うし、テレビでもよく見るよ」

「そうかな。たくさん食べたら、下品だとか、気味悪いとか、言われるし」

「上原さんは、まわりの目を気にしすぎなんじゃない。まわりの目がどうのこうのよりも、自分の心がどうしたいかが、大切なんだよ」

「私の場合、直に言われたんだよ。下品だ、嫌いだ、虫酸が走るとか」

 彼は、ずっと慰めてくれている。だけど、進むにつれて、私の心はどんどん憂いていく。申し訳ないとは思っているけれど、私の悪魔が本性を現した。最終段階になったのだ。

「その人とか、まわりの人たちはさ、君みたいな大食いな人は、見たことがないんだよ。ましてや女の子は。人って、自分の知らないことには警戒心を持つから、珍しい君に対して、強い警戒心を持ったんだよ。それで、あんまり良くないイメージを抱いたんだよ」

 なるほど。じゃあ、私をののしったあの子も、私に対してどこか警戒心も募らせたんだな。コソコソと私の悪口を言っていた人たちも、私を珍しいがっていた、自分の概念を壊されたからかな。

「まあ、少なくとも俺は、上原さんが気味悪いだとかは思わないよ。これは、君の立派な個性だから。ちゃんと誇りを持って。人の目なんて気にしないで。立派な個性を抑えて生きるなんて、もったいないよ。たった、一度しかない人生なんだからさ、胸を張って生きてよ」

 岩永君のこの言葉が、私の胸に突き刺さる。そして、私の中に潜んでいた悪魔は、見事にほろんでいった。私の大食らいは、私の立派な個性なんだ。誇りを持っても、胸を張ってもいいんだ。もう、押さえ込まなくてもいいんだ。私の中で噴き出したものは、さらに増加していき、圧もどんどん大きくなっていき、身体の上へ、上へと昇っていく。大いに感動した。

「ありがとう」

「どうってことないよ。餃子食べる?」

「うん」

 岩永君は、私の分まで餃子を頼んでくれた。

「今日は、俺のおごりだ。好きなだけ食べてよ」

「え、大丈夫なの」

「平気、平気、五千持ってるから」

「私にかかれば、五千円なんてすぐになくなるよ」

 もちろん、これは嘘ではない。本気を出した私は、万を超える。彼も、それは本気だと思ったらしく、冷や汗をかいた。彼の分も配慮した上でだったが、前よりもずっと多い量を食べた。ラーメンや餃子の皿を次々にかさねる。覚醒した私に、お店のご夫婦は、とてもびっくりしていた。でも、嫌悪する感じでもなく、暖かかった。

 これが私なんだ。本当の私。今まで溜まっていたものが、完全に払拭され、私の心はスッキリしていた。

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