アイの正体

 二時間ほど待ったが、結局真由美が目を覚ますことはなかった。苦肉の策ではあったが、最終的に塔弥は彼女を負ぶって家に帰すことにした。

 彼女のマンションにたどり着いた時、塔弥は息を切らしていた。夜七時。不審な目で見られる可能性があったので、急いでここまで来たからだ。

「ちょっと、鞄の中を覗かせてもらうぞ」

 塔弥は真由美を背中に乗せたまま彼女のバッグを漁り、ドアの鍵を探した。小さなポーチの中にそれはあった。鍵を開け、どこにもぶつけないように注意しながら中に入った。

 真由美を見送りに何度もこのマンションまで来たことがある。だが部屋の中に入るのは初めてだ。

 手探りでスイッチを探して電気をつけ、真由美の靴を脱がせた。幸い、踵のないスニーカーだったので苦労はいらなかった。

 台所を抜けると、四畳ほどの小さな部屋があった。そのうち一畳分は敷かれた布団が占領している。残りの空間にあるのは、二段しかない本棚と、電話が置いてある背の低い机のみだ。それ以外は襖の奥やクローゼットに仕舞われているのだろう。

 真由美を布団の上に寝かせ、塔弥は一息ついた。その途端、今日の出来事がその時の感情を伴って蘇ってきた。喜怒哀楽その他あらゆる感情を、全て体験した一日であったように感じた。だがその中で、現在どの感情が優位なのかは分からなかった。

 これからどうしようか悩んだ。いつ訪れるか分からない真由美の目覚めを待つかこのまま帰るかの二択があったが、前者は塔弥の忍耐に不安がある。だが後者を選べば、目を覚ました彼女に状況を説明する者がなくなり、彼女は当惑するだろう。

 悩んだ結果、塔弥は帰ることにした。その代わり、置き手紙を利用する。なぜ自分の部屋で寝ているのかを、彼女が起きた時に知ることができるようにするのだ。

 机の上に紙を広げ、鉛筆を走らせた。真由美が舞台上で倒れたことはもちろん書く。だが、それが久美の仕業であったことは書くべきか迷った。話を聞いた限り、真由美は久美とかなり仲良くしたがっているようである。実は恨まれていたなどと聞けば、真由美は相当なショックを受けるに違いない。

 書くべきではない。塔弥はそう判断した。倒れたが、それはなぜだか分からないとした。そして、観客が代わりに演じて無事舞台は終了し、塔弥がここまで運んできたと記した。最後には、起きたら連絡を入れてくれないかと足した。

 部屋を出る前に、真由美に「おやすみ」と言って頬をなでた。ドラマの世界であれば、ここでキスをして立ち去るのが鉄板なのだろうが、塔弥にはそうする勇気はなかった。彼女とは、キスは疎か手を繋いだことすらないのだ。

 立ち上がって荷物を担いだ。天井から垂れた電気の紐を引くと、薄暗い明かりに切り替わった。

 もう一度引いて消そうとした時だった。机に置かれた電話が鳴った。だが塔弥がそれに応答していいはずはない。無視をする以外ないと思った。

 呼び出し音が途切れると、機械が話し始めた。

「只今、留守にしております。電話の方は――」

 塔弥は、やはり誰からの電話かだけは知っておこうと思った。もしかすると、真由美のことを心配したメンバーの誰かがかけてきたのかもしれないと考えたのである。

 留守番電話が作動した。

(もしもし、スギハラです)

 知らない名前だった。女の声だ。

 塔弥は電気の紐を引いた。メンバーでない以上、それが誰であろうと関係ない。

(彼氏さんと、うまく別れることはできましたか?)

「えっ?」

 慌てて電気をつけた。

(真由美さんのことを理解してくれる方であると信じていますよ)

 塔弥は机に身を乗り出して、電話に顔を近づけていた。

 真由美が俺と別れる――?

(自分の気持ちに素直になるのは、とても難しいと思います。ですが、真由美さんの決断は決して間違いではありません。自信を持ってください)

「この声……」

 塔弥は相手の声に思い当たる節があった。彼が真由美の心理カウンセラーだと思っていた女の声だ。

(あとは久美さんへのアプローチですね。進展のほどはいかがでしょうか? また追々お話を聞かせてください)

「久美……?」

(私たちは、確かに社会では少数に属する人間です。ですが、それがいけないかというと、そんなことは毛頭ありません。女性だからといって、女性を好きになってはいけないはずはないんです。それを隠さないといけないような社会がおかしいだけです。ですから、私たちの存在を認めてもらうためにも、一緒に頑張りましょう)

 そこで留守番電話は切れた。

 塔弥は電話を前に、当分の間動くことができなかった。ばらばらだった過去のあらゆる出来事が、彼の中で一本の線上に乗った瞬間であった。

 どこかの秒針の音だけが部屋に響き、その一打一打が、徐々に大きくなっていくように感じられた。それに伴い、塔弥の鼓動は強く速くなっていった。

 さっき書いた手紙を手の中に握り込んだ。それを床に捨て、別の紙を用意した。

 震える手で懸命に書いた。無我夢中になって、紙を文字で埋めていった。

 そうしながら、塔弥は泣いていた。途中、涙に濡れ紙が破れることもあったが、それでも手を動かすことをやめなかった。書けば書くほど溢れ出す思いがあったからだ。

『おはよう、真由美。長い眠りだったな。何で自分の部屋で寝ているのかは、理解できないかもしれない。実は舞台の上で倒れたと聞けば驚くだろうけど、残念ながらそうなんだ。でも安心してくれ。真由美は誰かに迷惑をかけたかというと、そんなことはない。なぜなら舞台は、観客の一人が代役を務めて無事幕を閉じたから。真由美がいない分、みんなその穴を埋めるために必死になって協力していたよ。

 それで終わったあと、真由美がなかなか目を覚まさないものだから、俺がおんぶでここまで運んできた。その時に勝手に鞄を漁ったことは許してくれ。余計なお世話だと思うかもしれないけど、元々真由美が寝かされていたパイプ椅子よりは、こっちの方がずっとま

しだと思う。

 起きたばかりで頭が働いていないだろうが、これだけはもう一度言わせて欲しい。今までありがとう。こんな俺と二年間も付き合ってくれたことには、本当に感謝する。もし「ありがとう」という言葉が一つのことに対する感謝しか表せないのだとしたら、俺は何万回もそう言わないといけなくなるな。

 何でこんなことを伝えるかと言うと、それは俺が真由美の気持ちを尊重しているから。意味が分からないと思うなら、目の前の電話に聞いてみてくれ。留守番電話を再生すると、俺の言っていることが理解できると思う。

 そうだよな。そういうことなら、俺から距離を置きたくなる気持ちも分かるよ。いつ自分の気持ちを打ち明けようか、いつ俺と別れようかと考え思い悩めば、俺を避けるという行動に至るのも無理はない。

 でも、俺だってそのことで思い悩んでた。確かに言いづらいことかもしれないが、俺はそんなことで真由美を咎めたりするつもりはないから、早いところ打ち明けて欲しかったな。そうすれば、いろいろ協力できたかもしれないのに。

 それと、感謝しておいて苦言ばかりで申し訳ないが、もう一つ言いたいことがある。あんな手紙を突然投函しないでくれ。あれにはかなり翻弄されたんだ。俺なりにいろいろ分析して、クリスマス・イブに何かがあるということが分かってしまって、一人で焦燥に駆られた。ああいうのが一番不気味で、一番厄介。恨みなんてないんだったら、あんなことはしないで欲しかった。

 でも、それが俺と別れるという決意の表れだったということは、今では理解できる。結局真由美の最大の壁は、付き合ってしまっている俺との別れだった。でもなかなか言い出せないから、自分を戒めるためにあの手紙を書いた。必ずイブに決行するんだという圧力を自分にかけた。そうだろ? 

 もし倒れたりしなければ、俺は予定通りフラれることになっていたわけだ。でももしそうだったら、俺は素直に受け入れなかったかもしれないな。演劇が終わって喜んだあとにそんな深刻な話をされても、頭がついていかなかっただろうからさ。

 だから、変な話、こういう形で知れてよかったと思う。これを書いている今、俺はすでに真由美と別れ、真由美の新たな恋を応援するという覚悟ができていて、同性愛というものに真摯に向き合うべきという気持ちになってるんだ。それを否定しようという気持ちはどこにもないんだよ。

 でも忘れないで欲しい。俺は真由美のことが今でも好きだ。俺だってプライドはある。真由美が女性のことを好きでも、また振り向かせられるような男になれるように俺は努める。公爵はオリヴィアを諦めてヴァイオラと結ばれたが、俺は真由美を諦めないよ。

 最後に。久美はやめておいたほうがいい。はっきり言うが、真由美はあまり好まれていない。なぜならあいつは昔、俺のことが好きで、真由美に取られたことを悔やんでいるから。だからどうか、別の人との恋を。

 長くなったが、本当はもっと言いたいことがある。だけどもうこの辺にしておくよ。これを読んで気持ちが一段落したら、何か俺にアクションを起こして欲しい。全てが憶測に過ぎないから、ぜひ真実を語ってもらいたいな。

 それじゃあ、待ってるよ。塔弥』

 塔弥は徐に立ち上がり、真由美の寝顔を眺めた。止まりかけていた涙が再び溢れ出した。彼女の顔をその目に焼きつけておきたかったが、視界がぼやけてうまく見えなかった。だがしかし、塔弥はもうそれ以上彼女に近づきはしなかった。

 頭の上に手をやり、紐を一回、二回と引いた。たちまち朧気な真由美の姿が闇に消えた。

「ばいばい、真由美」

 そう言って、塔弥は玄関の方へ行った。

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