その女
第一会議室という狭い部屋に真由美はいた。並べたパイプ椅子の上に寝かされていた。胸に手を置いて眠る姿は、服装が白であれば本当に今から埋葬されてしまいそうである。それにしても、もっとましな安置方法はなかったのかと塔弥は思った。
声をかけようとすると、舞に止められた。彼女は真由美の横に椅子を置いて座っていた。
「今は何をやっても無駄よ。当分はスリープ状態ね」
塔弥は歯を食いしばった。思っていたより容体が深刻で、軽い気持ちで状況を受け入れられない。
「舞、お前はもう帰れ。あとは俺が看る」
「あなた、泣いてたでしょ。目が真っ赤だもの」
「放っておけ。早く支度しろ」
「ダメよ。私は待っておかないと。彼女がきっと来るから」
「彼女?」
「ええ。いいから、あなたはまず着替えなさい。素のあなたで待つのよ」
塔弥は言われた通り私服に着替え、舞の横に座って待った。
約十分の沈黙のあと、開き戸が動いた。足音で気配を察知していた塔弥は、それ以前にその取っ手の部分を凝視していて、扉が開いてから閉められるまでを寸分たりとも見逃さなかった。
現れたのは、「彼女」と言われて塔弥が想像していた人物とは全く別の人物だった。だが、舞が敵意ある眼差しでその者を見据えていたことで、それが「彼女」だと確信した。その上でも、状況はまるで理解できなかった。
「やっぱりあなただったのね。久美」
塔弥は沙絵花が来ると思っていた。しかし違った。扉の前で俯いているのは、男装をすでに解除している久美だ。頭の片隅にも置いていなかった存在が、何かを自白しに来たように暗い表情でそこに立っているのである。
「とりあえず、こっちに来なさいよ」
椅子が用意されたが、久美は座ることを拒否した。虚ろな目で真由美を見下ろしたと思うと、彼女はその状態から動かなくなった。ただ、体の前で組まれた手だけは僅かに震えていた。安眠する真由美を見て何かを感じているようである。
「塔弥もいることだし、正直に話しなさい。あなたが何をしたのかを。私もそれは知っておきたい」
舞の唐突な進行に、塔弥はすかさず口を挟んだ。「待て。俺だけ情報に差がある気がしてならない。何で久美が来たのかを俺だけが理解できてない。二人共が分かってることを、まず教えてくれ」
「……分かったわ。そうね、どこから話した方が……」
舞はそう言ったあと、口を閉ざした。彼女がそうしたのは、久美が手の平を向けていたからだった。
「いい。私が話す」
「……そうね。あなたの方がいいかもしれない。私はどちらかというと当事者ではないから」
舞が椅子ごと後ろにずれ、塔弥と久美が対峙する恰好となった。
塔弥の背筋は自然と伸びた。久美より相対的に低い位置にいることで、体が勝手に張り合おうと対抗したのかもしれない。いずれにせよ、相手に威圧感を与えるような目を久美はしていた。
「真由美をこんな風にしたのは、全部私の仕業」
彼女は言った。ほとんど口を開かずに言った。それ故にひどく聞き取りにくい声ではあったが、塔弥に衝撃を与えるには十分な響きと情報だった。
「お前が……? お前があの女と手を組んで……」
「いいえ。あの女の人は全く関係ない。私の知らない赤の他人」
信じられない。ではオサダは本当に、演劇への憧れというだけで台詞と演技を覚えていたというのか――。
俄に怒りが沸き上がった。「……何でだ? 何でこんなことをした? どうやってやった?」ともすれば上がってしまいそうな手を制御しながら言った。
互いを睨み合った。久美のとげとげしい表情を見ていると、塔弥の表情もより一層険しくなった。
すると突然、久美の顔に表情がなくなった。たちまち何も感じられない顔になり、塔弥は拍子抜けした。
「私が裕福な暮らしをしているのを羨ましいと思ってるでしょ」久美は突然言った。
「いいや、そんなことは……」咄嗟に口をついた。
「嘘はやめて。ちょっとは思ってるんでしょ」
「……まあ、少しは」
「そうよね。でもそんなの構わない。だってみんなそうだもの。みんな金持ちを妬みたくなるもの。当然。それが金に支配された世の中」
久美は少し感情的になったが、すぐに落ち着いた口調になった。
「普通の人はみんな金持ちになりたいと夢見る。だけど生まれた時から裕福だった私からしたら、むしろ普通の家庭が羨ましくて仕方がない。金なんかあったところで、何も楽しくないもの」
塔弥は何を聞かされているのか、まだ理解できていなかった。
「金持ちは贅沢をしているという偏見。実際はそんなことなくてもイメージだけが先行して、やがて嫉妬に変わる。私の家は確かに大きくて中も豪華。でもそれは見た目だけ。私の生活プランは、普通の家で暮らす大学生と何ら変わりはない。食べ物はスーパーでなるべく安いものを買って、週五でバイトに入って自分で稼いでる。洗濯物は何日か溜め込んでからしか回さない。お風呂だって数分のシャワーで我慢する。服もいっぱい欲しいけど、買ってしまわないように財布には少額しか入れないということもやってる。でもみんなはそれを知らない。だって、そんなこと言ったって誰も信用しないもの。金持ちが何か言ってる、としか思われない」
久美は弱い息を吐いた。
「苦しかった。努力してもお金のおかげだと言われ、ちょっと意見したら鼻につくと毛嫌いされる。お金があるというだけで、誰も私をただの女の子として見てくれなかった」
「でもその周囲の偏見も、あることがきっかけで無視できるようになった。でしょ?」後ろから舞が言った。
「そう。今まで見ていたものが何一つ見えなくなった。もちろん、それはいい意味で。誹謗中傷に目が向かなくなったのは、私の中では大きな変化だった。今でもこう思う。恋って、本当に素晴らしいものだって」
「恋……」
塔弥はここへ来てようやく話の展開が読めてきた。
「大学一年の冬に恋が芽生えた。そこからの演劇部はあまりに心地がよかったわ。私が現実逃避するのを許される環境がそこにはあったから。恋なんてその時までしたことがなかったから、すごく楽しかったのを覚えてる」
「つまり、演劇部に好きな人ができたと……」
「誰よりも優しくしてくれたよね? だから勘違いしちゃったのかもしれない」
「『よね?』って、誰の話をしてるんだ?」
「誰って、あんたしかいないでしょ。私はあんたが好きだった。いつもあんたのことだけを考えてた」
「お前が俺を?」
知らなかった。久美の口ぶりからすると、相当熱を持って恋心を寄せられていたに違いない。それなのに気がつかなかったのは、自分が鈍感だからか、それとも久美がそれを悟られないようにしていたからか。
「びっくりしてるようね。これを二年前に暴露しておけば、事は変わってたのかも」
二年前とは、塔弥が真由美と付き合い始めた頃だ。
「でも遅かった。知らぬ間にあんたら二人は公認の関係になっていた。私のあんたへの強い気持ちは、簡単に裏切られたってわけ。それで――それまで現実から目を逸らしてこられたのに――急にまた周囲の声が気になり始めて、生きづらい人生に逆戻り。金持ちの女に逆戻り。でも一つだけ失恋前とは違うことがあった。それはひどい憎しみを抱いてしまったこと」
妬みではなく、憎しみ。久美にとって塔弥への恋は、ただの恋ではなかったということだろう。
「私は真由美を憎み、演劇部を憎んだ」
「なぜ演劇部を?」
「目が覚めて冷静になったら気づいた。私はみんなから貯金箱程度にしか思われてなかったって。だってそうでしょ、ことあるごとに私にお金を要求してくるんだからっ」久美は床を強く踏みつけた。「私の存在意義はそんな形でしか維持されてなかったと気づいた時、憎悪の念が湧いた。だから見返してやろうと思って、本気で演技に取り組んだ。死にもの狂いで一度主役を取ってやったわ。その時は一人で勝手に優越感に浸ってたけど、結局この行動は裏目に出た。金の力で主役を取った、なんていう風に揶揄されただけ。まるで蟻地獄よ。上に行こうともがけばもがくほど落ちていくんだから。でも誰にも言えない。言えるわけない。ただ憎しみが増幅して、いつしかその対象はあんたの方に向かっていった。あんたに恋なんてしなければ、余計なこともしなかったと思うようになった」
「……それで俺に仕返しを?」
「しようと目論んだ。何か弱みを掴むためにストーカーみたいにあんたをつけ回したりもした。覚えてるでしょ、林の中で私があんたに声をかけた時のこと。私が偶然あんな所に、それも日曜日にいたと思う? あんたが家を出た時からずっと後ろにいたのよ」
あの時確かに違和感を覚えたが、まさか最初から尾行されていたとは。塔弥は愕然とした。
「そのあとあんたが莉央と仲違いしてる話をした。私は莉央があんたと絶交したがってるって言ったけど、そんなの全然嘘。あんたと莉央の話は人づてに聞いた程度で、そこから私が話を膨らませただけ」
「お前が莉央と喧嘩したことがあったという話も、嘘だったというわけか」
「莉央は使えると思った。何でもかんでもネットで呟いちゃう子だから。あんたと対立すれば必ずそれを世に広める。あんたを困らせることができる。それで、普通なら考えられないようなことを解決策としてあんたに教えた。嬉しいことに、あんたはまんまと実行してくれたわ。そして思った通り、怒った莉央はネットで暴れた。見てて楽しかったよ」
久美は目を細めた。彼女がこんなに性根の悪い女だとは思っていなかった塔弥は、その顔を今までのようには見ていられなかった。
「でもなぜか莉央が急に心を入れ替えて、今までのネット上の誹謗中傷を全て消去した時は正直驚いた。ねえ、これだけは聞かせて。一体何があったの?」
「知らない」塔弥は撥ねつけるように言った。
「……そうよね。こんな私に教えることなんてないよね。まあいいわ。その策略はどうも莉央の心境の変化で失敗に終わったみたいだったけど、私はもう一つ別の計画を平行してやってた。そっちの方は、少しは打撃があったみたい」
「それが真由美をこんな風にするという計画だったというわけか。何が少しだ。少しどころか――」
「そうじゃない」久美は大きくかぶりを振った。「こんなことをするつもりは最初はなかった」
「……どういうことだ? じゃあ、何なんだ?」
「別の計画というのは、最後の舞台をめちゃくちゃにしてやろうというもの。誰かへの攻撃じゃなくて、グループ全体への攻撃。私を金の源泉としか見なしていなかったかつての演劇部への仕打ち」
「一つ言っておく。俺たちはお前をそんな風には見ていない」
「うるさいっ」久美は叫んだ。「被害者がそう言ってるのよ。加害者は知らないだけ。覚えてないだけ。その気がないだけ。だから苦しんでた人を前に堂々とやってないって言えるのよ」彼女は早口でまくし立てた。
反論は無駄だと悟り、塔弥は口を紡いだ。
「ごめん。取り乱した。とにかく、私がしたのは全員が困ること。ある時は設計書の数字をいじり、ある時は体育館の鍵を隠した」
「何だと? お前、そんなことまで……」
「舞台の大道具をなくし、リハーサルを一回台無しにすることに成功した私は、本番直前のリハーサルでも行動を起こした。まず、リハーサル続行に反対票を入れたのは私。それから、主役がしょうもないミスをしたらどうなるかという実験もしてみた」
「まさか、リハーサルで台詞を忘れたのはわざとだったのか?」
「遙が粋な真似をしたからあっさりダメだったけどね」久美は肩をすくめた。
「もう分かった。これ以上聞きたくない。そこまでやって、最終的に真由美に対象を移した理由は何だ。本番に真由美に倒れられれば俺もみんなも困るという考えか」
塔弥は核心に迫った。話を聞いていると、真由美への憎しみは彼女を対象にした攻撃をするに至るほど大きなものではなくなっていたと言える。寸前に久美の心境が激変したと考えるのが自然だ。その理由が塔弥は知りたかった。
「意味不明だったからよ」久美は言った。
言葉があまりに簡潔なために、塔弥は理解に苦しんだ。
「塔弥を取られて憎しみはあったけど、真由美のことは別に嫌いじゃなかった。でも自分から近づこうとは思わない、そんな存在。だって私を恋という名の逃避行動から現実に引き戻した張本人だということを、真由美といたら再確認してしまうから」久美は真由美を見下ろした。「でもどうしてか、真由美はやたらと私に近づいてきた。やたらと私と一緒にいたがった。それも最近になって急にね。最初はちゃんと付き合ってたけど、私は段々耐えられなくなった。話してると失恋を思い出して、私が正気を保っていられなくなった。でも私の苦悶に比例するように、真由美の行動はエスカレートしていった。意味のない電話を一日に何回もかけてきたり、メッセージなんか何十通も来た。やめてと言っても全く言うことを聞いてくれなかった」
「真由美がそんなことを……?」
「本当に嫌だった。明日もまた真由美につきまとわれると思うと、夜も眠れなかった」
「目に隈があったのはそれが原因か」
「その時はもう限界寸前だった。そこに追い打ちをかけるように昨日の夜、真由美は私の家に来た。私が寝ているところをインターホンの連打で起こしたりなんかしてね。そのくせ言ったのが、『明日頑張ろうね』だけだった。本当に意味が不明で、私はもう怖くなった」
昨夜真由美が一人で帰ると言ったのは、久美の家を訪問するためだったということか。しかし、一体なぜそこまでして久美を――?
「それで急遽決めた。真由美との縁を切ってやろうと。そうすればもうこんなことはされないと。だから今回のことを起こした。手法は簡単。私が渡したペットボトルの水に、高濃度アルコール飲料をほんの少しだけ混ぜておいた」
「それってまさか……」
「そう、テキーラよ。真由美が倒れることは事前に承知済み」
塔弥は飛びつくように真由美に寄りかかった。彼女の手は熱かった。
「そんなに慌てる必要はない」久美は冷静だった。「あの程度のアルコール量で死ぬ人なんていない」
「黙れっ。お前が言うことかっ。……くっ、真由美……」塔弥は真由美の腕に項垂れた。
頭痛、動悸、目眩、痺れ――様々な症状が襲ったに違いない。それでも真由美は気を失うまで誰の助けも求めず、また台詞以外の言葉を発することもなく舞台に立ち続けていた。倒れる直前も客席を向き続けていた。顔の正面から倒れたことがそれを証明しているというものだ。自分の仕事を全うしようと頑張っていた真由美のことを考えると、塔弥の胸は痛んだ。
「ペットボトルに名前を書いたのは、他のと区別するため。でもただの水に名前を書くのは不自然だから、メッセージを添えた。例えばあんたのは『キスはおうちでしっとり』というもの。でも本当のメッセージは『キスはOH、血でしっとり』ってこと。キスしながら真由美の舌を噛み切ればいいのにという思いを込めた」久美はどこまでも淡々と話した。「思惑通りテキーラ入りの水が真由美の元に届いたはよかったけど、彼女、全然飲まなかった。だから私から近づいて飲ませた」
塔弥は顔を上げ、久美を仰視した。彼の心には怒りではなく、無念の気持ちが広がっていた。
「何で……。何で劇の途中で……。何でそんなやり方で……」
「私の家で同じように倒れた時、真由美は別室で看護された。あんたが付き添った。その時、私はあんたたちの話を立ち聞きしてた。真由美が帰りたいと言ったのにあんたが強引に止めたから、真由美は怒鳴ったわね。その時に真由美はこう言った。人に迷惑をかけることが嫌だって。人に気を遣ってもらうことが申し訳ないって。私はそこを突いた。百人近い観衆の面前で倒れたりすれば、全員が気を遣い、全員に迷惑をかけることになる。真由美にとって最も辛い状況が生み出される。もっとも、計算外だったのは気を失うところまでいってしまったことだけど。本当は倒れたあとも動ける状態なら、舞台に立たせるつもりだった。まあそれも結局、オサダとかいう人があの劇場にいた時点でそうはならない運命だったんだろうけど」
「お前、何でそんなに淡々と話ができる……?」塔弥は立ち上がった。「自分が何をしたかを分かっていて、何でそんなに毅然とした態度でいられる? 真由美を見て、何も思わないのか? 最後まで自分の足で舞台に立っていた真由美を見て、何も感じないのか? お前はそんなに悪い人間だったのか? 人の不幸を喜ぶような人間だったのか?」
「もうやめてっ」久美はこめかみを押さえた。「私のことを何も知らないくせに。変えられない運命にずっと抗い続けてきた私の苦しみが、あんたのような何の苦しみも味わったことのない人間に理解できるわけがない」
彼女はその手を目の方へ移した。「私だって……私だって本当はこんなことしたくなかった……。でもこうしないと私は耐えられなかった。だって……私の周りには、誰一人味方なんていなかったから……」
力ない声は、啜り泣きに変わっていった。
刹那、扉の方から声がした。「ほう、だったら俺はお前の味方ではなかったということか」
入ってきた者を見て、久美は目の色を変えた。
「弘毅……」
「話は全部聞かせてもらった。全部お前の仕業だったとはな」
弘毅はゆっくりと久美へ近づいた。その一歩一歩が彼女を威圧するかのようであった。
「どうもおかしいと思ってた。ちょっとしたサプライズをしようとお前のバッグを開けたら、なぜかテキーラの瓶が入ってるんだからよ。よく分からなかったが、とりあえず劇で使ってやった。だがそういう事情なら、さぞびっくりしたろうな」
久美は黙って頷いた。怯えたような顔に変わっていた。
「真由美が倒れたあと、しばらくお前の様子を窺ってた。だいぶおかしかったよ、お前。誰とも喋ろうとしない、誰とも目を合わせようとしない。ひたすら端の方で佇んでさ。俺はすぐに何かあるって分かった。みんなの前で追及しなかっただけありがたく思え」
「弘毅……」久美はすがるように弘毅にしがみついた。「弘毅なら私の気持ち、分かってくれるよね……?」
「分からないな」弘毅は即答した。言外に辛辣さがあった。「人の気持ちなんて分かってたまるか。俺はお前と気持ちを共有した覚えはない。お前の訴えを聞いたところで何も感じない。それはお前の気持ちであって、俺の気持ちではないからな。俺はしないよ、同情なんてことは」
久美は呼吸を乱した。目には大粒の涙が溢れていた。
「お前はメンバーの努力を無にした。私情の余地なく、これは事実として残ること。その事実に対しての俺の気持ちは、お前が抱いているであろう気持ちとは真逆だろうな」
弘毅は踵を返し、扉の前まで行った。「悪いが、俺はメンバー側につく。お前の過去を俺はよく知ってるが、だからといってこの惨劇をなきものにしようとは思わない。クリスマス・イブのサプライズとして処理しようとは思わない。お前を助けようとは思わない」
振り返ることなく、弘毅はこう続けた。
「お前とはもう友達じゃない。明日から俺とお前は他人だ。これは冗談で言ってる。その意味が、お前にはよく分かるよな」
そう言うと、静かに扉の向こうに消えた。
久美は床に崩れ落ちた。息を詰まらせ、泣いた。涙は彼女の手を濡らし、彼女のズボンを濡らした。
舞が彼女の背中をなでた。しっかりしなさい、と何度も呼びかけるが、久美のむせび泣きは激しさを増す一方だった。
「あの人は久美にとって特別な存在だったのよ」舞は言った。「批判なんてものともしないような彼の強い人間性に、久美は信頼を置いた。だからずっとあの人と一緒にいたんだと思う」
塔弥はどう返答していいものか悩んだ。
「あの人が突き放すようなことを言ったのは、久美、あなたを思ってのことよ。あなたが悪の道に進んでいくのを、彼は身を挺して止めようとしたわけ。彼だって、あなたの損失は大きいはずよ」
久美は何度も首を縦に振った。言葉への理解ではなく、そうであって欲しいという願望の表れのように塔弥には思えた。
「塔弥、ごめんなさい。私はあなたに嘘をついてた」舞は言った。
「嘘?」
「ええ。真由美の自己嫌悪がどうとか、暴走がどうとか、あんなの全部作り話。誰にも言わないでと釘を刺したのは、そんな嘘が広まっては困るから」
何で嘘をついた、という疑問がすぐに塔弥の中に湧いた。舞はそれを見抜いた。
「嘘をついた理由を知りたがってるのね。それは、あなたが真由美のことを気にかけるようにするため。それで真由美を守らせるため。実際、あなたは真由美のことを心配したわね?」
「そりゃ、心配したよ。だがどうしてそんなことを?」
「その前に。私がなぜ久美が実行犯だと知っていたかというと、久美が私に言ってきたから。明言はしなかったけど、真由美への敵対心を暴露してきたから」
「何でまたお前に?」
「元々私は久美の相談に乗ってきた。だから久美が辛い思いをしていたことは知っていたし、私も親身になって対応していたつもり。でも十一月のある日、お酒が少し入った時のこと。久美は感情的になって今まで私が知らなかったこともいろいろ喋った。そこで私が察知したのは、久美が怒りにまかせて何か大変なことをやらかすのではないか、ということだったわけ。久美は真由美のことを嫌いじゃなかったと言ったけど、お酒が入って本音で話した時、その話の中心は真由美への怒りだった。心のどこかで、真由美のことを憎む気持ちが根付いていたのかもしれないわね。それで私は、真由美が危険な気がしてならなくなった」
「俺に心配させることで俺の目が真由美に向くようにして、何かあった時にすぐに対処できるようにさせたというわけか。暴走なんていう言葉を使ったのも、より心配を煽るため」
「ええ。あなたが嘘だと見抜いてきた時は焦ったわ。適当な言い訳をして乗り切りはしたけど」舞は言った。
ここで塔弥は一つ疑問を抱いた。「それなら、何で久美がそういうことを企んでるかもしれないって普通に言わなかったんだ? あまりに回りくどいじゃないか」
舞は、分かってないわねと言うようにかぶりを振った。
「だってそんなの、私の憶測に過ぎないじゃない。もしそうやって言って、久美が何もしなかったらどうなると思う? 何もしてないのに、あなたは久美をとんでもない悪人として見なすことになるでしょうよ。そうしたら軋轢が生じて、最後の劇にも支障を来すと考えた。でも真由美が自己嫌悪だという嘘であれば、判明した段階で生じるのは安堵感だけ」
塔弥はぐうの音も出なかった。
「でも、沙絵花には全て言った。久美を、真由美を監視してって伝えた。あの子は部外者だったから演劇に支障はないと思ってね。でもあの子、かなり思い悩んじゃったみたい。危うく彼女、本番に出ないところだったわね」
なるほど、沙絵花が突然本番に出ると翻意したのは、舞の働きかけがあったからか。久美の家に行った日、沙絵花へ電話をしていたのも舞だったわけだ。
「ごめんなさいね。嘘なんかついちゃって。でも真由美とあなたを思ってのことだから、許してちょうだい」
舞は久美の肩を持って立ち上がった。久美はまだ泣き止む様子がない。
「私は久美を連れて帰るわ。あなたはどうする?」
「俺はしばらく真由美の様子を見ておくことにする」
「そ。じゃあ、これで失礼するわね。行きましょ、久美」
舞たちが会議室を出ると、久美の啜り泣く音がぴたりと止んで、たちまち静かになった。
塔弥は椅子に座った。今の感情を一言で表す術はなかった。ただ胸の辺りをくすぐられているかのような、不思議な感覚があるだけだ。胸を叩いてみるが、それは取れなかった。
真由美は一度も動いた形跡はない。しかし、体温にやや低下の兆しがあった。快方に向かってはいるようで、塔弥は安心材料を一つ見つけて気持ちが幾分楽になった。
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