喜劇の中の悲劇

「よかったぞ、塔弥」

「声出てたし、バッチリだったよ」

 舞台裏に引くと、賞賛に迎えられた。ここで初めて、芝居が始まったという実感が塔弥の中に湧いた。無我夢中で演じていると知らぬ間に最初の場面が終わっていたのだ。

「ありがとう。ちょっとはみんなの負担を減らせたかな」塔弥は言った。

「うん、やりやすい雰囲気になってるよ」遙が答えた。

「そうか、それはよかった」

「確かに演技はよかった。でもこれで気を緩めちゃダメよ。まだ始まったばかりだからね」史織が釘を刺した。

「分かってる、分かってる」塔弥は苦笑いで言った。

 久美からもらった水を口いっぱいに含んだ。出番はまたすぐにやって来る。それは理解していたが、とりあえず胸をなで下ろさずにはいられなかった。喉を通過した水はよくも悪くも生ぬるかった。

 場面の進行に伴い、舞台裏は忙しくなっていった。

「久美と莉央の着替えだ。急げっ」

「スカーフがないっ。みんな、スカーフを探してっ」

「早くっ。出番が来ちゃうよっ」

「合図してちょっとだけ進行を遅らせようっ」

「準備できたっ」

 序盤での混乱に先行きが案じられたが、二度目のステージ上で塔弥が見たのは前列の観客の食い入るような視線だった。彼らを退屈させるような芝居にはなっていないのだ。裏はどたばたしていても表はちゃんとしたものを見せられているのである。それが自信になり、俄然声が出た。

「――だから青年よ、彼女の元へ行くんだ。対話を拒否されようとも、門の外に立ち、謁見を許されるまで自分の足は地に根付いたままだと言うんだ」塔弥は言った。

「仰せの通りに、ご主人様」久美が答えた。

 塔弥がこの日、初めて久美の顔をきちんと見たのがこの場面の舞台上だった。目元にあった隈はいつの間にかなくなっていて、顔に生気が戻っていた。リハーサルの時とは異なり、演技も実力通りのもので様になっている。体調管理をしてこの日に回復を間に合わせたのだろう。さすがは主役だと、演じながら塔弥は感心していた。

 裏に下がると、久美が真っ先に向かったのは、隅の方で落ち着きなく動き回っている真由美の元だった。久美が何かを語りかけると真由美は眉を少し開き、小さく頷いた。男装という見かけのせいでもあるだろうが、久美がそばのテーブルに置いていたペットボトルの水を手渡し、背中を軽く叩きながら真由美を勇気づける姿は、男らしいものがあった。リハーサルの時に見た光景とは対照的だ。

「真由美ちゃん、もうすぐだよ」

 圭人が階段の前で手招きをした。彼と真由美で一緒に入場するのだ。

 真由美はドレスのスカートを持ち上げながら、小走りをした。

 この時、塔弥は彼女の耳元に視線をやっていた。前後に揺れ動く小さな青い玉。それは、彼が前日にあげたピアスで間違いなかった。

 元々彼女の耳に穴は開いていなかった。つまり昨夜別れたあと、自分で穴を開けたということになる。きっと、もらったからにはすぐにつけねばならないと気を遣ったのだろう。彼女が夜中に怖々穴を開ける姿を想像すると、塔弥は申し訳ない気分になり、本番のあとに渡せばよかったと後悔した。

 しかし、おそらく消えていないであろう耳の痛みや、初めてつけるピアスに対する違和感を、全く感じさせないのが舞台上の真由美だった。おそらく誰が見ても、つけ心地のよいピアスに思えるに違いない。あるいは、つけていることすら気づかないかもしれない。実際、塔弥が気づいたのはつい先程だ。それほどに、真由美はいつも通り自然に振る舞っていた。

「彼女に見惚れてるのか?」

 弘毅が横に来て言った。平たい帽子を浅く被っている。

「見守りだよ。こんな時に見惚れる馬鹿がどこにいる」塔弥は返した。

「一目惚れってのは、どんな状況だろうと起こるものだ。こんな時だろうがあんな時だろうが、全く関係ない」

「何で一目惚れするんだよ。真由美はもう俺の――」

「おいおい、勘違いするな。俺が言ったのは史織のことだぜ」

「はあ?」

 舞台からちょうど史織が戻ってきたところだった。汗を拭う仕草をする彼女をじっと見ていると、目が合って怪訝な顔をされた。

「何?」

「い、いや、別に……」

 咄嗟に目を逸らし、変な冗談はやめろと弘毅に言った。

 彼は声を出して笑った。「はは。まあ、今からの俺の演技にも見惚れるといい。存分に暴れまくってやるから」

 そう宣言した彼の手には、いつか見たテキーラの瓶があった。中は空っぽだ。練習ではペットボトルやワインのボトルだったはずだが、いつ変わったのだろうかと塔弥は思った。

 弘毅はそれを持ったまま、千鳥足で舞台に上がっていった。

「まあ、酔っ払ってらっしゃるわ!」

 真由美の台詞で会場に笑いが起こった。少し間を開けて彼女は台詞を続けた。

「おじ様、門の外にはどんなお方がいらっしゃって?」

「ジェントルマンだ」弘毅は言って、しゃっくりをした。

「ジェントルマン? どのようなジェントルマンで?」

「ジェントルマンは……ウ、ウォエエエッ」

 弘毅が嘔吐する演技をすると、再び会場が沸いた。

 確かに「嘔吐をする」ということは台本に書かれている。しかしそのやり方があまりに仰々しい。体を後ろに反らしたあと、そのバネで勢いよく前方に倒れ込んで地面に吐き出すという無駄な動きの多い、まさに芝居がかった芝居だ。また好き放題やっているなと、塔弥は呆れを通り越して笑っていた。

 弘毅はすぐに戻ってきた。満足そうな顔である。「どうだ、今の演技は。手応えしかなかっただろ」

「やり過ぎ。どう見ても不自然だ」塔弥は言った。

「俺の役は不自然こそ自然だ。自然に演じたければ不自然にやらないと。自然に演じようとすると不自然になる。だから不自然に演じたわけだ」

「……何でもいいけど、周りを困らせるような真似はやめろよ」

「アドリブは史織にしかしないから安心しろ」

 一時盛り上がりを見せた会場は、真由美と久美の二人の場面になると落ち着いたムードに包まれた。

 多くのメンバーは何度も入退場を繰り返していたが、真由美だけはもう十分ほど舞台に立ち続けていた。そしてこの場面が終わるまであと三分はあり、その間も彼女は舞台上に居続ける。ここが彼女にとっての最大の山場だ。

 頑張れと心の中で唱えながらその様子を見守っていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと白いジャケットを着た莉央がいた。つばだけが黒くなっている白い帽子を被っている。船長の恰好だ。

「ネクタイ、手伝ってくれない?」

 青いネクタイを首にかけた状態で彼女はそう言った。普段ネクタイなど締めないから手間取っているのだろう。塔弥はウィンザーノットで莉央の首に巻いていった。

「着替え、多いな」塔弥は言った。

「ほんと、そうだよぉ。マイナーな役は全部私だもぉん」莉央は不満を漏らしたが、顔には笑みが張りついていた。

「すまないな。でもおかげでちゃんと成り立ってる。脇役がいかに重要か、莉央が証明してるというものだ。ほら、できたぞ」

「ありがとぉ」

「頑張れよ」

 莉央にガッツポーズをして舞台の方を振り返ろうとした時、塔弥は微かに違和感を感じた。舞台上が妙に静かなのだ。誰の台詞も聞こえてこず、かといって音楽が流れているわけでもない。

 振り返ると、真由美が一人で立っていた。体は観客の方を向いているが、顔は真下を向いている。

 こんな場面あったかなと何となくその様子を見守っていたが、あまりに間が長いことに気づき、塔弥は焦燥感に駆られた。

「今どうなってるっ」

 近くにいた遙の肩を揺らした。彼は異変に気づき、すでに台本のページを急いで繰っているところだった。

「ここだ。このシーンの最後の独白だよ」遙は早口で言った。

「あんなに溜め込むところかっ」

「いや、違うはず」

「じゃあ何で喋らないっ」

「知るかよ、そんなの」

「……ということは、まさか」塔弥の頭に最悪のシナリオが描かれた。「台詞を忘れたっていうのか……?」

 真由美は胸を押さえ始めた。まだ台詞を言わない。時間だけが過ぎていく。

 塔弥は確信した。しかしどうすることもできない。台詞を教える者が舞台上に一人もいないのだ。

 舞台裏はパニックに陥った。

「どうすんの、あれっ」

「誰か、何とかできないのかっ。アドリブでもいいから、誰か行こう」

「無理だよっ。どうやって次の場面と繋ぐのさっ」

「会場がざわつき始めたよっ。早く、判断っ」

「もう、行くしかないっ」

 塔弥が飛び込みかけた、その時だった。

 真由美が突然崩れ落ち、床に倒れた。一切の抵抗もなく顔から落ちた。小さな衝撃音は会場のざわつきを止ませた。そして塔弥の足を止めた。

 しばらく時の停止があった。誰も動かない。誰も話さない。

 誰も状況を呑み込めていなかったということだ。それは塔弥も同じだった。階段についた足が動かないでいた。

 最初に動いたのは、反対の舞台裏にいた大輔だった。

「大丈夫か、真由美っ」

 彼が飛び出してきたのを見て、ようやく塔弥の体は動いた。「おい、しっかりしろっ。聞こえるか、真由美っ」

 肩を揺するも返事がない。気を失っているのか。

 大輔と二人で舞台裏へ連れて行った。

「布か何かを引いてくれ。早くっ」大輔が怒鳴った。

 バスタオルを床に引いて、仰向けに寝かせた。目は閉じられ、黒いドレスとは対照的に顔は白かった。

 メンバーが周りに集まって口々に呼びかけた。しかしぴくりとも動かない。完全なる気絶だった。

 塔弥は真由美の顔元に座り込んで唖然とした。まだ頭が状況を受け入れられていなかった。

 この緊急事態に、アナウンスが入った。

「ご来場の皆様にお詫び申し上げます。上演の最中ではございますが、誠に勝手ながら、只今より一時中断とさせていただきます。再開まで、今しばらくお待ちください」

 会場は再び騒然とした。

 その騒ぎの中に、舞台を駆ける音が混じっていた。それはこちらに近づいてきた。

「真由美、大丈夫なの?」細身で髪の長い女が声を上げて舞台裏に入ってきた。舞だった。メンバーを掻き分けて真由美の顔に接近した。

「しっかりしなさい、真由美」医者のような落ち着きで彼女は言った。しかし顔を上げた時、その表情は険しかった。「誰か、何か冷たいものを。体が熱くなってるわ」

 すぐにポリ袋に冷水を汲み、真由美の額に宛がった。頬に触れると確かに熱を持っていたが、彼女は表情どころか顔色一つ変えていない。

 舞は正座をして真由美の頭を膝に乗せた。

「予兆はなかったの?」

「何も。突然すぎて俺たちも驚いてる」塔弥は眉間に皺を寄せた。

「二列目で見ていたけど、倒れるまで顔はしっかりしていたわ。でも動きが止まった時、少し苦しそうだった」

「台詞を忘れたことによるショックなのか」

「そうかしら。私にはそうは見えなかったけど」

「だったら一体……」

 突如、舞がまなじりを吊り上げた。その鋭い眼力で、群がるメンバーの中の誰かを捉えた。

「まさかね……」声にならない声で舞は言った。

 塔弥は困惑した。何だ? 何がまさかなんだ――?

 すると、大輔が舞台の階段を駆け降りてきた。沙絵花もいた。

「みんな、聞いてくれ。幕は一旦閉じた。客には早めの休憩という形で納得してもらっている。でも休憩は十五分間だ。時間内に目処が立たなければ、それ以上客を拘束するのは難しい。つまり最悪の場合……」

 大輔は苦い顔で、終わりだ、と言った。

 直ちにメンバーたちは彼を囲い込んで反抗した。中断なんてあり得ない、何とかならないのか、などとわめき立てた。

 その論争の輪を抜け出す者があった。沙絵花だ。彼女は横たわる真由美の姿を目にすると、口元を手で覆った。ぎこちない足取りで近づき、彼女の頬に触れた。

 絶望したような顔で舞を見上げ、沙絵花は声を震わせた。「舞ちゃん、これって……」

 舞は静かにかぶりを振った。そして沙絵花の結われた髪をなで下ろした。「あなたのせいじゃない。気にしないでいいから」

 すると、沙絵花がごめんなさいと謝った。

 いいのよ、と舞は答えた。

 塔弥は咄嗟に二人の会話を遮断していた。「ちょっと待て。何で沙絵花が謝る? 何で舞がそれを許す?」

「塔弥、あなたは今は黙ってて」

 顔の前にかざされた舞の手を、塔弥ははたいた。「何かあるなら言ってくれ。気になる」

「しつこいわ。あなたには関係ない」

「おい沙絵花、どうなんだ?」沙絵花の不安そうな目を見た瞬間、塔弥の脳裏に閃光が走った。「お前、そう言えば、本番の時に何かが起こるかもしれないって言ってたよな。まさか、これのことなのか……?」

 沙絵花が呼吸を乱し始めた。目が定点を捉えていない。言わずとも答えは明白だった。

「待て……ということは……」塔弥は目を丸くして沙絵花の両肩を掴んだ。「これは事故じゃない。なあ、そうだろ。何とか言えよっ」

 彼女は泣きそうな顔をした。「あのね、実はね、真由美ちゃんは――」

「沙絵花っ」舞が吠えるように妨害した。ものすごい剣幕だった。「何も言わなくていい。黙ってなさい」

「何でだよ。これは俺に関係のあることだろ。俺が知るべきことだろ」

 そう強く言ったあと、塔弥はふと手紙のことを思い出した。

 不吉な計画、イブの予言。まさか、この二人が――。

 その時、突然真由美の顔が平手で打たれた。塔弥は我に返った。そこには、肩で息をする史織の姿があった。

「起きろ、真由美っ」

 彼女は叫んだあと、もう一度叩こうと手を振り上げた。

 塔弥は反射的に立ち上がり、何とか腕を押さえて食い止めた。だが史織は上体を振って暴れた。すると大輔と弘毅が彼女の体を拘束した。

「離してっ。真由美を起こすのっ」

「お前、正気かっ。無理矢理起こして何になるっ」大輔が歯を食いしばり言った。

「劇を続行するのよっ。役者は一度舞台に立ったら最後まで演じきる。このままじゃ、誰も役者として終われないじゃない」

「そんな信念のために仲間を傷つけるなっ」

 史織は壁際に押さえ込まれた。巻き込まれそうになった圭人が尻餅をついた。

「いい加減離しなさいよっ」

「こいつ、一回殴られないと分からないようだな」暴れる史織に、弘毅が拳を構えた。

 が、次の瞬間、塔弥は目を剥いた。弘毅より早く大輔が拳を繰り出していた。それは一直線に史織の顔へ向かった。

 当たる寸前、塔弥は目を閉じた。

 鈍い音がした――。

 おそるおそる目を開けた。史織が目を見開いて固まっているのが目に入った。大輔の拳は、彼女の後ろの壁に突かれていた。

「くそ、くそ……こんなはずじゃなかった……」大輔は肩を震わせた。拳が壁沿いにずるずると落ちていく。「こんなこと、想定してなかった……。例えば誰かが休んだ時のことを考えて練習していれば、対応できたかもしれない。そこまで頭が回らなかったのは俺が悪い。でもな……もう現状を受け入れるしかないんだよ。俺だってこんな形で終わるのは嫌だ。だがもうどうしようもないんだって……」

 床にひれ伏し、大輔は嗚咽を漏らした。悔しそうに何度も床を叩いた。舞台裏は一転して独房のようになった。

 塔弥は舞の方を振り返った。

「おい、何か知ってるならみんなに白状しろ」あくまで声を抑えて言った。

 だが舞がだんまりを決め込むのを見て、ついには怒鳴っていた。「状況が分からないのかっ。何かあるんだろっ。言えよっ」

 舞台裏の空間に塔弥の声が響いた。

 その余韻が消えた直後、舞台の方から「すみません」と言う声があった。男か女か分からない、中性的な声だった。

 塔弥はしかし振り向かなかった。どうせ観客が文句を言いに来たのだろうと思ったのだ。今はあんたらに付き合ってる場合じゃないんだと、内心毒づきながら舞を睨み続けた。

 ところが、遙が「オサダじゃないか」と言った瞬間、塔弥の心はざわついた。鼓動が早く打ち始めた。

 オサダ。下の名はアイ。脳内にこだまする。

 アイ、アイ、アイ、哀――。

 顔を向けていく。グレーの服を着た者が視界に入り込んでくる。階段を降りている。

 見たことのある顔。直接ではない。写真という形で。だが一度見たら忘れない顔。忘れられない髪型。

 祐樹を探した。舞台から一番離れた隅に彼はいた。眼鏡の照り返しで、どこを見ているのか分からなかった。

 オサダという女は言った。

「私がオリヴィア姫を演じましょうか?」

 にやりと笑うその丸い顔は、祐樹のペンダントの中にいたおかっぱ頭の女の顔そのものだった。

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