本番の時
忘れ物がないか、何度も鞄の中を確認した。とはいっても、台本と衣装さえあれば何とかなるのは事実だ。そう分かってはいたのだが、会場へ向かう道中ですら鞄を調べずには気持ちが落ち着かなかった。
目的の公民館へ着くと、控え室に足を運んだ。演劇部時代に何度も利用しているので足取りに迷いはない。閣議で使われるような大きな丸テーブルが中央にあり、天井にはステージの様子を映すモニターが下がっているということは、しばらく訪れていなくても覚えているものだ。
十二時の集合時間より二十分早く着いたので一番乗りだと思っていたが、沙絵花がすでにテーブルについていた。
「おはよう、早いな」塔弥は鞄をテーブルに置いた。
「今日は絶対に遅れちゃダメだと思って、早く来たの。でも早く着きすぎて誰もいなかったから、別の意味で怖かった」
「はは。何事もほどほどがいいってことだな。ところで、そのズボンはどうした?」
沙絵花の前には、黒い長ズボンが広げて置かれていた。
「ああ、これは圭人くんのだよ。脚の間のところが破けたみたいでね、あたしが縫ってあげたの。圭人くんがあたしの家に来て、縫って欲しいって言われちゃって」
「へえ。圭人から行くとはね。意外だな」
「意外?」
「いや、何でもない」塔弥は手を横に振った。
メンバーたちは次々にやって来た。彼らの表情は決して硬くないと塔弥は思った。いつものように挨拶し、いつものように雑談を始めている。だが、その話題がなぜか今日の演劇に及んでいかないことに気づき、やはり緊張はあるのだろうかと思案した。
圭人が入ってくると、沙絵花が動いた。修繕した部分を広げて見せ、目を細めた。
「あ、ありがとう、沙絵花さん」圭人は興奮気味に言い、ぺこぺこと頭を下げた。
「破れないように、しっかり縫いつけておいたよ。だから気にしないで張り切って演技してね」
「う、うん。頑張っていっぱい動くよ」
他人同士のようなぎこちない雰囲気は否めなかったが、二人の笑い合う姿は微笑ましかった。もう少し触れ合えばすぐに仲良くなれるに違いないが、きっとこういう事務的な会話で終わってしまう間柄なんだろうなと思うと、塔弥は少しもったいない気がした。
開演は二時三十分だ。まず大輔が用意したコンビニのおにぎりで腹をこしらえ、全員で会場の見回りに行った。
赤いシートが何層にも並ぶ客席は、下段から上段にかけての高さが十分にあって、軽く二百人は収容できる。今回の上演の来客数の見積もりは大輔いわく九十人程度だというから、少し疎らになるのかなと思いながら、塔弥は座席やその足下に異物などがないかを確認していった。
「照明を動かしてみてくれ」
大輔は舞台の上でテストを行っていた。彼が頭上を見上げると、突然ブザー音が響き渡った。それはすぐに鳴り止み、しばらくして舞台の照明が動いた。どうやら沙絵花が操作を誤ったようだ。
「あれで大丈夫かねえ」
声がしたので後ろを振り返ると、弘毅が足を組んで座席に座っていた。
「懸命に取り組むのはいいが、最後は結果。頑張りましたと言っても失敗したらアウトだ。逆にテキトーにやっても、それでうまくいけば何の問題もない」彼はそう続けた。
「そういう言い方はよせ。沙絵花が失敗したら俺たちがカバーするって話だろ。それに、リハでは一度も失敗しなかった。あいつはやってくれるよ、絶対に」
塔弥の言い分に弘毅は鼻で笑ったが、それ以上何も言い返してはこなかった。
私服のまま軽く一通りの練習を行い、その後舞台上で円陣を組んだ。隣同士で肩を持って上体をかがめ右足を一歩前に出す構えは、誰かが野球部の円陣を見て取り入れたことにより、演劇部でも本番前に必ず行う伝統となっていた。
大輔が輪の中に向けて語った。「みんな、今までご苦労だった。俺たちが活動できるのも今日で最後になる。これまで培ってきたことをこの舞台で遺憾なく発揮して、悔いのないものにしてもらいたい。適度の緊張感は大事だが、あまり力みすぎないようにな。普段通りやれば必ずうまくいくはずだ」
彼の話は激励に始まり、これまでの活動の振り返りを経て、リーダーとしての感想へと移っていった。「正直、リーダーは楽ではなかった。思い出しても苦労ばかりが頭を過ぎる。だけど途中で投げ出さなくてよかったと、今となっては痛感するよ。こんな俺でもここまでやって来られたのは、みんなの協力があったから。最後にこうして全員で舞台に立てるのも、俺のおかげじゃなくみんなのおかげだ。終わりよければすべてよし。劇の物語と同じく俺たちもハッピーエンドを飾れるよう、閉幕まで一ミリの気の抜かりもなく協力してやっていこう。いいな」
「おーっ」
かけ声と共に陣形は解かれた。
二時になり会場の扉を開放すると、たちまち観客が流れ込んできた。沙絵花に受付を任せ、メンバーは衣装に着替えて残りの三十分を舞台裏で過ごす。そばにいる人と適当に台本の読み合わせをしたりするのだが、塔弥はいつもこの時間が落ち着かなくて嫌いだった。準備が整っているのにすぐに始動できないのがもどかしい。緊張も増幅していくだけだ。
舞台と裏を繋ぐ五段ほどの階段に腰掛けていると、セーラー服を着た莉央が隣に来て脚を伸ばして座った。彼女は気が緩んでいるのではないかと思うほど無邪気に微笑んでいた。
「怖いんでしょう」彼女は言った。
「そんなわけないだろ。むしろ楽しみなくらいだ」塔弥は見栄を張り、徐々に緊張で胸が締まりそうになっているのを悟られまいとした。
「ふふ。顔が言ってるよぉ、早くここから逃げ出したいって」
「何だよ。緊張を煽りたいのか?」
「そうじゃないよぉ。そういう顔も悪くないなぁってこと」
「はは、急にどうした。言ってることがちぐはぐだ。お前こそ緊張してるんだろ」
莉央はかぶりを振り、笑みを解いた。「そういう凜々しい顔ができるのは、塔弥しかいないってこと。前に塔弥はいらないとかひどいことを言ったけど、そんなこと全然ないなぁって今は思う。代わりなんて誰も務まらないってね」
しみじみとした雰囲気で言われ、塔弥は少し調子が狂った。
「はは……」弱々しい笑いをした。
「嘘で言ってるんじゃない。きっとみんなそう思ってる」
「……急にそう言われると、何か恥ずかしいじゃないか」
「今だからこそ言えること。まぁ、その服装はあんまり似合ってないけどねぇ」
「そ、それは言わなくていいだろ」
「ふふ。おもしろぉい」莉央は再びほんわかとした笑みを浮かべた。
馬鹿にされた気分だったが、真面目なのよりこっちの方が彼女らしくていいかなと塔弥は思った。自然と笑みがこぼれた。
その時、後ろから走ってくる足音があった。しかし後ろは舞台の上だ。子供が乗り出してはしゃいでいるのかと思って、塔弥は振り返った。
だが走ってきていたのは子供ではなく、白いドレスに身を包んだ久美だった。両手に茶色い紙袋を持っている。
「久美、いつの間にそんな所に……」
塔弥の質問に答えることなく、彼女は足早に階段の隙間を通って舞台裏に降り立ち、床に紙袋を置いた。
「みんな、私からの振る舞いよ」
全員の注意を引きつけて彼女が取り出したのは、透明の液体が入ったペットボトルだった。ラベルが剥がされていて、側面にマジックで何かが書かれているのが見えた。
「振る舞いと言ってもただの水だけど。でもこういう時は水が一番いいの。炭酸みたいにガスが溜まって発声の邪魔になることもないし、余計なものが入ってないから的確に水分だけが補給できる。これを飲んで、みんなで本番頑張ろう」
久美は何やら選別をしながら一人一人に水を配っていった。塔弥の手元に渡った時、彼女が選別をしている理由が分かった。マジックで書かれていたのは名前だったのだ。
そして、その名前の下に小さくコメントが書かれていた。
『忘れないでね。キスはおうちでしっとり』
なぜ今これを、と不思議に思ったが、これは冗談で緊張をほぐそうという久美の計らいだと思い直し、その気配りと共にありがたく水をいただくことにした。
開始十分前になると、場内アナウンスが入った。
「本日はご来場いただき、誠にありがとうございます。間もなく開演となりますので、今しばらくお待ちください。なお、本上演の撮影や録音等は、固く禁じられております。そのような行為が発覚した場合、ご退場いただくことがございますので、くれぐれもご遠慮ください。加えて、携帯電話並びにスマートフォンの、マナーモードへの切り替えを――」
話しているのは沙絵花だが、普段は聞かないような大人びた口調だった。
彼女は今、塔弥たちがいる舞台裏とは反対の舞台裏にいる。機材が全てそちらにあり、彼女の邪魔にならないように役者たちは反対側にいるのだ。しかし彼女一人では不安なので、大輔のみ彼女側にいるというのが現在の態勢である。したがって、暗黙の了解で史織が舞台裏を取り仕切ることとなった。
「気を引き締めていくよっ。一度舞台に上がったら最後まで演じきるっ。その気持ちを忘れないことっ」
アナウンスの声に負けない大きな声で史織は言った。メイドの衣装とは相容れない覇気である。
その威勢のままの彼女に、塔弥は睨みつけられた。彼は一瞬怯んだが、彼女に顎で指示されると、舞台に上がれと言われているのだと理解した。
塔弥はゆっくりと舞台の真ん中に進んだ。赤い幕の向こうから、がやがやと賑わいの声が聞こえる。心拍数が上がっていくのを感じ、胸に手を当てて深く息をついた。それでも口の中は急激に乾燥していった。
今すぐ逃げたいか――塔弥は自分に問いかけた。何度も舞台には上がってきたが、開幕の時に自分一人というのは初めてだ。九十人近くの視線を一手に浴びることは、楽しみでもあり怖くもある。緊張で最初の一言が出なかったら、地獄のようだろう。
やがて塔弥は首を横に振り、雑念を振り払った。逃げる必要などない。先陣を切って、みんなにやりやすい環境を作ってやることが自分の役目だと、自身の心に言い聞かせた。さらに重ねて深呼吸をすると気持ちは随分と落ち着いてきた。今ならいけると直感した。
幕の隙間から差していた光がなくなった。同時に、会場が静まり返った。客席側の電気が消えたようだ。立て続けに沙絵花のアナウンスが入った。
「ご来場の皆様、大変長らくお待たせ致しました。本日上演の『十二夜』は、只今より開演となります。どうぞごゆっくり、お楽しみくださいませ」
ブザーの音が鳴り響いた。
幕が開く時だ。塔弥は顔を上に向けた。
視界がゆっくりと開けていく。都合百八十の目が自分を捉えた。だがなぜか驚くほどに静かで、時が止まったようである。そこにいるのは人形ではあるまい。
額に汗が滲んだ。開幕時に流れるはずの音楽も、浴びるはずの拍手も、そこには一切ない。今自分が何を期待されているのか分からず、目が回る。
と、その時だった。客席のどこかでぱちんと手が一回打たれ、塔弥は我に返った。その音は二回、三回と続き、他の手がそれに倣って打たれていった。そして場内はたちまち大きな拍手で包まれ、さっきまでの静寂が嘘のようになった。
その合奏に、塔弥は鳥肌が立った。咄嗟に台本にはない一礼をしていた。
興奮から心拍数が上がっていくのを感じ、胸に手を当てて深呼吸をした。口の中に唾液は十分に分泌されていた。
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