素敵な夜
劇の本番前夜、塔弥はある意外な人物と待ち合わせをしていた。それを「意外」と表現することに、塔弥は些か抵抗があったが、今はそう言い表す他ないと思った。
誘いのメールがあったのは、その前日のことだった。その文面を見た時、涙腺が緩んだ。嬉し涙というものを、塔弥はその時初めて体験した。それほどにこの機会を渇望していたのだ。
駅前にある大きな噴水の前に、塔弥は待ち合わせの二十分前に着いた。
あと二日でクリスマスというだけあって、駅の外壁や遠くに見えるマンションのバルコニーでイルミネーションが輝いている。改札口を出入りするのはサラリーマンだけではなく、若者のカップルも目立つ。マフラーや手袋に赤が多いのは、サンタクロースを模しているからだろうか。
塔弥は身だしなみを確認した。ベージュのチノパンに黒のブルゾンを合わせた今の服装は、彼のお気に入りのコーディネートだ。髪は風が吹いたくらいでは乱れないように、いつもより強固に仕上げた。見た目は問題ないなと思った。
十分ほど経ったあと、彼女は改札の人混みの中に現れた。塔弥は迎えに行った。
「ごめんね。待たせちゃった?」
「いいや、全然待ってないよ。それより、その服、似合ってるね」
真由美は照れ笑いを浮かべた。彼女は黒のワンピースにグレーのロングカーディガンを着ていた。塔弥が初めて見る服装だった。
「真由美の方から誘ってくれるなんて、嬉しいよ。何かの悩みはもうなくなったのか?」
「これが塔弥くんへの気持ちなの」
「気持ち……。分かった。その気持ち、しっかりと受け止めるよ」
「ありがとう。そしたら、行こっか」
塔弥は、うん、と返事をしたが、実はどこへ行くのかを知らなかった。
路線に沿って歩き、やがて見えてきたバス停で真由美は足を止めた。
ここで塔弥はようやく聞いた。「ちなみに、どこに行くつもりなんだ?」
「高いところ」
真由美は具体的な場所を言ってはくれなかった。
塔弥は心当たりがないままバスに揺れた。各停留所に停止しながら、そのバスは真由美の言う通り確実に高所へと上っていった。やがて、ほとんど明かりすらないような暗い道になった。乗客も塔弥たちを含めて四人しかいなくなり、彼は少し胸にざわつきを覚え始めた。しかし、真由美はいつまでも降りようとはしなかった。
結局、バスは終点まで行った。降りた場所には数件の家があり、その窓から漏れる光で辛うじて周囲の状況を確認できた。辺りに背の高い枯れ木が密集していることから、どこかの山奥だと塔弥は推測した。
「こっち来て」
言われるがまま、真由美について行った。最初はコンクリートの道を歩いていたが、気づけば舗装されていない小石だらけの道になっていた。
「なあ、どこに向かってるんだ? 寒いし、辺りは暗いし、正直不気味なんだが」
「もうちょっとだよ。もうちょっとで、イルミネーションが見られるから」
「イルミネーション? こんな山奥にか?」
「そう。こんな山奥だからこそだよ」
しばらくすると、広場のような開けた空間に出た。そこが駐車場だと分かったのは、一台の車が正面から上がってきた時だった。そのヘッドライトの光で、他にも何台も車が停車していることを掴んだ。
一体この車の所有者たちはどこにいるのか、塔弥が疑問に思っていると、左上の方から微かに声が聞こえた。振り向くと、その声の方向へ通ずる階段を発見した。
「もしかして、あの階段を上れば到着ということか?」
「そうだよ。ごめんね、いっぱい歩かせちゃって」
上りきった先には、二十人くらいの人が横一列に並んでいた。彼らは皆塔弥たちに背中を向けていて、よく見ると、ガードレールぎりぎりの所で立っている。カメラのシャッター音と興奮の声が騒がしかった。
その列の端に行き、その先に広がる光景を目の当たりにした時、塔弥も思わず声を上げていた。
「これは……」
こんな巨大なイルミネーションは見たことがなかった。山の麓から地平線にかけて無数に点在する小さな光は、そのほとんどが人々の暮らしを支えるための明かりだ。決して一つの芸術品を構成することを意図して設計されてはいない。だが見下ろすと、まるで山上にいる者にその輝きを楽しませるために、街全体が協力しているかのようである。
「どう? 綺麗だと思わない?」真由美が言った。
「すごいよ。こんなの初めてだ。心を奪われるというか、目が離せない幻想的な感じがある」
「いつか塔弥くんに見せたいと思ってたの。ほんと、見てもらえてよかった」
「俺も見られてよかったよ。ありがとう、真由美」
塔弥は写真を撮るためにスマートフォンを取り出した。
その時、鼻先に冷たい何かが当たった。しかしそこを手で触った時には、もうすでに何もなかった。
「これ、雪じゃない?」誰かが声高にそう言った。
塔弥は上空を見上げた。真っ暗な夜空から、確かに白いものが落ちてきていた。しかし、それは星状六花の結晶ではなかった。
「こりゃ、あられだな」
また別の誰かがそう言った。塔弥もそういうことで間違いないと思った。
「あられかあ。ちょっと残念だね」
真由美が小さく言った。彼女は両手で受け皿を作って、小塊の落ちてきては消えてゆく様をじっと見ていた。
「同じ雪であることに変わりはないよ。でも、この辺りでは滅多に降らないのに、こんな時に限って降るなんてな」
塔弥はスマートフォンを構えて、夜景をフレームに収めた。あられが端の方に映り込んだ。
「そうだね。去年も確か、一度だけしか雪は降らなかったよね」
「ああ。その日に撮った写真が、俺の部屋の机に立ってるよ」
「え……もしかして、私が写ったあの写真?」真由美は塔弥に顔を振り向けた。
「そう、あれ」
「何で? やめてよ。恥ずかしいでしょ」
「別に誰にも見せてないさ。それに、古い写真はどんどん新しい写真に埋もれていくから、そういう形で残しておかないと記憶から消えてしまうだろ」
「でも……」真由美は頬を赤らめた。
「じゃあ、俺の写真を真由美の部屋に置いておくのはどうだ? これでお互い様だ」
「え? いや、そういう問題じゃないよ」
塔弥は真剣に提案したつもりだったが、どうやら冗談と受け取られたようだ。真由美は半笑いで言った。「もう、分かったよ。その写真はそのままでいいけど、それ以上は増やさないでね」
「大丈夫。あの一枚以外に飾る気はないよ」
二人は階段を下った。駐車場に降り立った時には、あられは止んでいた。
時刻は七時五十分となっていた。夕食を取るために下山した。バス内で、洋食が食べたいねという話になった。
駅の向かいに、高級そうな洋風レストランを見つけた。入り口の前に大きな樽が置いてある。中に入ると、すぐに窓際の小さな座席に誘導され、落ち着く間もなく女性の店員がオーダーの案内を始めた。飲み物と主菜以外は全てビュッフェ形式だという。確かに、厨房の付近にそれらしきものがあった。
塔弥は赤ワインと鶏肉のオリーブ煮を、真由美はアルコールに弱いのでオレンジジュース、そして白身魚のムニエルを選んだ。
近年の健康志向からか、ビュッフェには色彩豊かな野菜が多くあった。真由美はふんだんに皿に盛ったが、塔弥はあまり野菜が好きではない。彼の手は自然とパスタやキッシュに伸びた。
席に戻ると、空のグラスが二本置かれていた。しばらく食べていると、さっきの女性店員がワインのボトルと、オレンジジュースの入ったピッチャーを持ってきて、目の前でグラスに注ぎ始めた。粋な計らいだなと、塔弥は見てて思った。
「明日はとうとう最後の舞台だな。緊張してないか?」塔弥はそう言ってワインを一口飲んだ。
「それが、驚くほど緊張はしてないの。何でだろうって思っちゃうくらい」
「それはすごいな。アドレナリンが云々ってやつか」
「そうかもしれないね」
真由美は緑の葉をちびちびと食べていた。
「いろいろあったけど、最後はこの仲間と過ごせてよかったと思うよ」塔弥は言った。「一人でも欠けてたらどうなってたかとか、考えたりすることがあるんだ。そうなってたら、きっと全然違う色になってたんだろうなって」
「そうだね。私もいい思い出はいっぱいできたし、演劇部に入ってよかったなって思う。そういえば、弘毅くんが前にこんなことを言ってたよ。『思い出は口にしたらダメだ』って」
「どうしてだ?」
「言葉にしたら思い出じゃなくなるんだって。楽しいとか嬉しいとか、そういった安い言葉に置き換わっていくことで言語化できない感情が薄れていって、結果思い出がただのストーリーに変わってしまうとか。だから、思い出こそ思い出すなと」
「はは。弘毅らしい論理だな。まあ確かに、思い出は自分の頭の中でしか味わえないものかもしれない。でも共有することで深まる思い出もあると思うけどなあ」
「明日の劇が大成功したら、どんな辛いことも吹き飛ぶ思い出になると思わない?」
「それはもちろん。最後に拍手で迎えられながら全員で舞台に上がっていくのは、何にも代え難い感動があると思う。まさにその瞬間のためにやってきたというものだな」
主菜が運ばれてきた。塔弥が思っていた以上に内容量は少なかった。それに対して、皿は必要以上に大きい。
「これだけか? 何か、拍子抜けしたよ」店員が去ったあと、真由美に小声で言った。
彼女は苦笑いした。「多分、高級な店はみんなこうだと思うよ」
あまり納得はいかなかったが、仕方なくナイフとフォークを握った。
だが鶏肉を口に含んだ瞬間、塔弥の料理に対する評価は変わっていた。
「何だこれ。すごく柔らかくて溶けていくようだ。オリーブオイルの風味が口に広がって……いやあ、これはうまいよ」
うまく表現できないのがもどかしかったが、真由美は笑って頷いてくれた。彼女もまた、魚を美味しそうに食べていた。こういう店も悪くはないなと、いつしか塔弥は思うようになっていた。
二人は同じ頃に食べ終えた。真由美が紙で口を拭いて、こんなことを言った。
「今までありがとうね。塔弥くんと過ごせた二年間、すごく楽しかった」
まるでもう会えないかのような言葉に、塔弥は虚を衝かれたようになった。「……えっと、もうすぐ会えなくなる、とか……?」
「ううん、そうじゃない。誤解を与えちゃったね。けど、いつかはそういう時が来る。だから言える時に言っておきたくて」
「そう……か」
いつまでも一緒にいられるような気がしていたが、一方で真由美は現実を見ていたようだ。塔弥は少し切ない気分になった。グラスの底に残っていたワインを口に入れると、苦味を感じた。
「そういうことなら、俺もありがとうと言わないわけにはいかないな。真由美にはいろいろお世話になったし、こっちが感謝することの方が多いよ」
「私なんか、全然。迷惑ばかりかけてたと思う。最初は私みたいなのが塔弥くんと釣り合うのかなって、不安だったけど、ここまで来られたのもみんな塔弥くんのおかげ。ほんと、ありがとう」
塔弥はこれを聞いて、真由美が自己嫌悪で悩んでいる人であることを思い出した。そのような態度があまり表に出ないので今まですっかり忘れていたが、些細な発言からそれは見え隠れするようである。
だがそれに触れるのはよそうと思った。それよりも、今この状況で渡しておいた方がいいと思うものがあり、塔弥は椅子に下げたポーチの中に手を入れた。
「真由美、ちょっと手を出してくれ。あと、目もつぶってほしいかな」
真由美が戸惑いつつも差し出した手に、ピアスの入った小さなケースを置いた。
「もう目を開けてもいい?」
「いいよ」
彼女の目は二段階に開いた。一段階目は閉じた状態からの開眼、二段階目は瞠目だ。さらにケースの中を見た瞬間、口も大きく開いた。
「すごく綺麗。サファイアか何か?」真由美は興味津々だった。
「ん……ごめん、あまり宝石の類には詳しくなくて……。でも、真由美に似合うかなと思ってさ」実は舞が勝手に選んだとは、口が裂けても言えない。「ちょっと早いけど、俺からのクリスマスプレゼントということで」
「ありがとう。ものすごく嬉しい。ピアスなんてつけたことないから、どうしようか迷っちゃうな」
「いつでも好きな時につけてくれたらいいよ」
真由美の喜んでいる姿を見て、塔弥はよかったと思った。
「……本当にいいのか?」
駅で切符を買う真由美に、塔弥は尋ねた。
「うん。もう遅くなっちゃったし、塔弥くんはまっすぐお家に帰って」
塔弥は当然のように真由美を家まで送るつもりでいたが、彼女はそれを断って一人で帰ると言い張った。
「分かった。じゃあ、もうしつこくは言わない。ここでばいばいしよう」
時刻は九時半になるところで、改札に人影はほとんどない。だからその前で立っていても、誰の邪魔にもならなかった。塔弥は中に入っていった真由美に、手を振り続けた。
彼女が見えなくなったあと、噴水の外枠に腰掛けてスマートフォンを取り出した。彼女に感謝の気持ちをもう一度伝えようと思った。
画面をつけると、メッセージの通知が一件入っていた。送られてきた時刻は九時二十八分、まさに今である。そして送り主は真由美だった。
対話アプリを開いてメッセージを確認すると、真由美の顔のアイコンが、吹き出しでこう言っていた。
『ばいばい、塔弥くん』
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