リハーサル
真由美が真っ先に沙絵花に飛びついた。「沙絵ちゃん、心配したんだよっ」
沙絵花の体からは、湯気が立っていた。全速力で走ってきたのかと塔弥は思ったが、不思議なほどに彼女の息は上がっていなかった。
それ以上に気になったのは、中学か高校の頃のものと思われる緑色の体操着を着ていることだった。マット運動でもしにやって来たのかと思ってしまう。
「みんな、今までごめんね。もう大丈夫になったから、頑張ってみんなのこと支えるよ」
だが沙絵花がそう言った時、彼女がどんな恰好だろうがどうでもいいことだと塔弥は思った。今は彼女の到着を喜ぶ時だ。
「待ってたぞ、沙絵花。もう来てくれないかと思ったよ」大輔が言った。
「ギリギリだよね。あぶなかったあぶなかった」
「いや、三十分オーバーだが……」
「え? 一時半集合じゃなかったの?」
沙絵花はどうやら勘違いをしていたようだ。実は一時だと聞かされ、ひどくショックを受けていた。
「何でもいいよ。これで本番ができる。そうでしょ?」真由美が沙絵花の頭をなでながら言った。
「そうだ。さっきの意見聴取は沙絵花がいないという前提のもとでやったもの。その前提が崩れた今、議論の余地はない。そうだろ、大輔」
塔弥は真由美の発言を補強し、大輔に迫った。いくら自明の理とはいえ、リーダーの首肯が得られるまでどうなるか分からないからだ。
「ああ。もちろんだ。やらない手はない」
大輔の承認と共に、歓声が起こった。塔弥もガッツポーズをしていた。沙絵花は何が起こっているのかよく分からないままに、周囲に合わせて喜んでいるという風だった。
舞台では史織が一人、壁にもたれて俯いていた。論争を招いた手前、素直に集団に加わることができないでいるようだ。だがこれで本番の体制が整ったのだから、彼女が喜んでいないわけはない。
「元気出しなよぉ。稽古もそのテンションでいくのぉ?」莉央が彼女に近づいて、顔を覗き込んだ。
「気を引き締めてるだけよ。勘違いしないで」史織は暗い声でそう言い、舞台裏へ消えていった。
「今はそっとしておこう」塔弥は莉央に言った。
リハーサルの準備は、大道具がないので大して時間はかからない。小道具をいくつか用意し、あとは心の準備をするだけだ。
舞台裏では、大輔が沙絵花に音響や照明の機材の使い方を説明していた。ある程度のノウハウはすでに伝達済みのようだったが、教えてから時間が経っているからか、あるいは沙絵花の記憶力が弱いからか、多くの解説を要していた。
「〝きっかけ〟は覚えてるか?」
大輔が台本を開いて言った。塔弥たち役者が持つ台本は、自分の台詞がない部分は大幅に省略されているが、沙絵花の台本は全ての台詞を含んでおり、異様に分厚い。
「えっと……あ、そうだ、合図のことだね」沙絵花は何とかひねり出した様子だ。
「そうだ。そして台詞に引かれている線が〝きっかけ〟だって教えたよな。青い線が音、黄色い線が光。例えば、開幕と同時に音楽を流して一旦止めるだろ。その次に音楽を流すのが、ここの『スミレの花』が言われたタイミングだ。青い線が引いてあるな」大輔は台本の字を指差しながら説明した。
「うん。思い出してきたよ」
「分からなければみんながフォローしてくれる。今日のうちに疑問は全部解消しておいてくれ」
「あたし、みんなの足引っ張らないかな?」
「そんな心配はいらない。問題は成功とか失敗ではなくて、いかにみんなを思ってやるかだ。たとえ間違っても沙絵花が一生懸命やっていることが伝われば、それはちゃんと演技に反映される。逆に成功だけを追い求めて独り善がりのプレーをすれば、うまくいってるのになぜか釈然としないなんてこともある。大事なのは気持ちだ」
沙絵花に台本を託し、大輔は閉じられた幕の間から舞台を降りていった。
今の言葉を噛み締めるように一人で胸に手を当てる沙絵花に、塔弥は近づいて言った。「あれからよく来てくれる気になったな。どうやって立ち直った?」
彼の頭には、沙絵花が物置のような部屋でうずくまる光景がこびりついていた。その引きこもりのような状態からたった二日で脱却し、こうして彼女が舞台裏に立っていることが、今となっては奇跡のように思えた。
「実は、今日も来ようか迷ってた。というか、来ない考えの方が強かった」沙絵花は急に元気をなくしたようになった。
「それが、急に考えが変わったのか?」塔弥は聞いた。
沙絵花は頷いた。
「なるほど、だから体操着を着ているのか。普段着のまま家を飛び出してきたんだな?」
「うん」
「一体何がきっかけだったんだ?」
この質問に、沙絵花は黙り込んだ。言いたくないのだろうか。
やがて、大輔が舞台下から「始めようか」と高らかに言い、諸処に散らばっていたメンバーたちが舞台裏へ入ってきた。
「塔弥、一発目だろ。早く準備しろよ」遙が舞台袖から言った。
「ああ、分かってる」返事をしたあと、沙絵花の目を見てこう言った。「余計なことを聞いたな。忘れてくれ」
そして幕に沿って舞台上へと出た。
中央に立って呼吸を整え裏手を振り返ると、沙絵花はすでに機材に向かっていた。不安そうな横顔も、そばに寄っていった真由美の励ましの声で微笑みに変わっていった。幕が開かれようとする時、彼女は多くのメンバーたちに囲まれて応援されていた。
開幕すると、本番であれば大勢の観客の拍手に迎えられることだろう。しかし塔弥の目の前に現れたのは、海軍のような服を着てフロアにぽつんと立つ大輔のみである。それを目の当たりにした瞬間、塔弥は「リハーサルで解散」が廃案になってよかったと心から思った。これが最後の舞台となるなど、どれほど悲しいことか。
音楽が流れ始めた。マンドリンの弦が奏でる優しいメロディーだ。その音が消えた時が、塔弥の台詞開始の〝きっかけ〟である。
「もし音楽が愛を育む糧であるというのなら、続けてくれ。多すぎるくらいにそれを与えてくれればいい。そうすれば、情欲も失うだろうから」
塔弥は一人語りを始めた。愛に飢えた公爵を意識した。
彼は客席に向かって台詞を言う場合、主に光るものを見る。そこに焦点を合わせることで、目が泳がず安定するからだ。今、彼の真正面には、棒人間が走る姿を表した非常口の蛍光板があった。彼はそれに視点を当てた。
「もう一度弦の音を。さっきの音色は哀愁を帯びていた。私の耳には、スミレの花が咲く土手に優しく吹きつけるそよ風の音のように聞こえていたのだ」
想定したタイミングで音楽が始まった。沙絵花は「スミレの花」の〝きっかけ〟を聞き逃さなかったようだ。台詞を続けながら、塔弥は手で小さくグッドサインを出していた。
場面が終わると、塔弥は舞台裏に引いた。入れ替わるように、久美と莉央が出ていった。
「ふう、ちょっと緊張したな」塔弥は呟いた。
「舞台で演じるのは久しぶりだからね。僕もちょっと怖いよ」執事の姿の圭人が白い手袋をはめながら言った。その手は微かに震えていた。
「俺の演技、どうだった?」
「よかったと思うよ。満点だよ」
「そうか、ありがとう。圭人も頑張れ。肩の力を抜いてな」塔弥は励ました。
舞台裏はうまく機能した。沙絵花は台本と睨めっこしながら耳をそば立て、一度の失敗も見せなかった。一人二役などで衣装を着替える必要がある時は、周りも協力して素早い着脱を助けた。もちろん、互いの評価も忘れずに行った。
「弘毅と遙、そんなところで何やってんの。もうすぐよ」
そして、いつしか史織が指揮を執る体制が出来上がっていた。やはり彼女は演劇に対する気持ちの入れ方が違う。ふて腐れていた開始前とは、まるで別人の目つきをしている。
「身だしなみ整えて、喉の調子確認して、二人で動き方をもう一回確認する。分かった?」
「はいはい」
「『はい』は一回っ」
メンバーの演技は昔と遜色ないと塔弥は思った。彼らの演じる姿を見ていると、懐かしい気分になるのだ。それぞれにそれぞれの癖やスタイルがあり、その特徴の一つ一つを見聞きする度、塔弥の記憶の引き出しは叩かれていった。そして、単なる演技ではなく「演劇」をしているのだという実感が、塔弥の中で沸々と湧いていくのだった。
ところが、メンバーで一人、明らかに演技の質が低い者がいた。
「久美、あんた今日はどうしちゃったのよ」
史織に見上げられている久美は、瞼を重そうにしていた。彼女はすでに男装をし、大輔と同じ黒い軍服のような服を着ている。
「何か、力が入らない。脱力感」
本来、最も秀逸な芝居をする久美であるが、体調不良のためか、今日は全く実力を発揮できていなかった。
「あんたが一番出場回数が多いんだよ。そんなのでどうするのよ。気分が悪かろうが、一度舞台に上がったら何が何でも演じきる。それが役者ってもんでしょ」
「史織さあ、そういうことは休み休み言って。そして今は休みをちょうだい」
久美はパイプ椅子を見つけて座った。
舞台では、圭人が悪戯の手紙を拾う場面に突入していた。仕掛け人の弘毅と遙が、幕の裏に隠れるようにしてその様子を見守っている。
「ほら、あの場面が終わったらあんたと祐樹の出番。座ってる場合じゃないよ」史織は腕を組んで言った。
「はあ……ちょっと座ったって構わないでしょ」
「まったく。じゃあ、座って休んだんだから、次の演技はちゃんとやりなよ」
史織が久美の元を離れると、見計らったように真由美がドレスを引きずり接近していった。
「久美、大丈夫? 無理しないでね」彼女はかがみ込み、後ろから久美の両肩に触れた。
しかし、次の光景は驚くべきものだった。久美が真由美の手を振り払ったのだ。
「やめて」
冷ややかに言ったあと、久美は椅子を離れた。そして何もなかったかのように台本を開き、そこに目を落とし始めた。
いくら気分がよくないからといって、そんなあしらい方があるのか。実力を発揮できないことに苛立っているのだろうが、それで周りの人間に八つ当たりするのは違うだろ、と塔弥は見ていて気分を害した。
真由美と目が合った。彼女は慌てて顔を背けた。どこか悲しそうな顔をしていた。
場面が変わり、久美は舞台へと上がっていった。
舞台から戻ってきた遙が、圭人の頭を叩いた。「お前、手紙読む時に噛んでるんじゃねえよ」
「だって、文字を読みながら台詞を言うって結構難しいんだよ」
「何でだよ。汚い字ならまだしも、めちゃくちゃ綺麗な字で書いてあるじゃないか」
「そうだけど……。もう、手紙なんかなければいいのにな……」
間もなく、真由美と久美の二人だけの場面になるところだった。真由美がスタンバイを始めた。
塔弥は彼女の元へ行った。さっきのことがあって気まずいのではないかと思い、一声かけて勇気づけてあげたかった。「さっきのこと、あまり気にするなよ。久美は体調が悪くてちょっといらいらしてるだけだから」
「うん。ありがとう」真由美は微笑んで言った。しかし、その顔は幾分強張っていた。
シーンは、真由美の演じるオリヴィアが、男装する久美の演じるヴァイオラに自身の想いを伝え、自分は女だと言いたいができないヴァイオラが、何とかそれを断ろうとするところだ。
「わたくしは貴方を愛しています。知性や理性を以てしても、この気持ちを閉まっておくことはままなりません」
真由美はしっかりと役の顔になっていた。先刻の久美とのやり取りで傷ついているであろう心は、舞台上では決して見せなかった。
「私が人に与えられる心と愛情は一つしかありません。そして、私はそれを女性に与えるつもりは決してございません。ですからお嬢様、これにて失礼致します。もう二度と、ご主人様の想いを伝えに参るようなことはないとお思いください」
久美がお辞儀をして舞台裏へと歩んできた。
それを真由美が追いかける。「いいえ、またお越しになって。わたくしの彼を嫌う気持ちが変わるかもしれないでしょうから」
久美は舞台裏に戻ると、まっすぐにパイプ椅子へと向かい長い息を吐いた。やはり一人だけ全く楽しくなさそうである。
すると、フロアと舞台裏を繋ぐドアから大輔が入ってきた。彼の出番が近づいてきたということだった。
「みんな、なかなかいいじゃないか。大道具がなくても大丈夫みたいだ。ある程度緊張感があって、それでいて緩さもあるから落ち着いて観ていられる。修正点は終わってから言うが、今のところはこの調子でいってくれ」
大輔はそう言ったあと、今のところ完璧な役割を果たしている沙絵花を褒めにいった。彼は久美の調子の悪さについては一切触れなかった。劇の進行中に消極的なことを言うと、それが士気に影響すると考えたのかもしれない。さすがはリーダーだと思い、塔弥もそれ以降、久美のことはあまり気にしないようにした。
ところが劇の後半、信じがたいことが起こった。それは、弘毅の演じるトビーが、遙が演じるアンドリューとヴァイオラを、二人が嫌がっているにもかかわらず、決闘させようとする場面でのことだった。
弘毅が久美に向かって言った。「もう後戻りはできんぜ、兄さんよ。あいつはもうあんたに戦いを挑むことを誓った。だが、あいつはもう一度あんたに戦いを挑む理由を考えて、それで気づいたんだ。そんなことはどうでもよくて、考える価値もないってな。だから、あいつの誓いに敬意を表して、あんたも剣を引きな。あいつはあんたを傷つけたりはしないと言っている」
このあとの久美の台詞は、「神よ、私をお守りください」という至極簡単なものだ。塔弥ですら覚えていた。そして、きっとそこにいた誰もがその台詞を待っていたに違いなかった。
しかし、待っていてもなぜか久美はその台詞を言い出さない。確かに台詞どうしの間を開けることは、聞きやすさを考慮した場合に重要なことだが、それにしても間が長すぎる。もはや間ではなく、ただの沈黙と言ってよかった。
すると、舞台裏でこんな憶測が飛び交った。
「台詞を忘れたんじゃない?」
まさかと思ったが、塔弥は久美の目が泳いでいるのを確認してしまった。ここにいる誰よりも優れた役者であり、それ故に主役にも抜擢された彼女が、そんな簡単な台詞を忘却するなどあり得ないという気持ちだった。
舞台上にいた遙もそのことに気づいたようで、久美の元へ行って彼女の耳元に囁きかけた。
彼女は目を見開いた。「神よ、私をお守りください」
止まっていた空気が、再び動き始めた。
「来い、アンドリュー。もう後戻りはできん。あの男はお前と戦うことに――」
久美は以降、台詞を忘れることはなかった。そして裏に戻ってきた時、彼女の顔はいっそう険しさを蓄えていた。
彼女はあとから戻ってきた遙に、頭を下げて言った。「ありがとう、遙。おかげで助かったわ」
「え……う、うん。えへへ」遙は照れながら頬を掻いた。
「舞台上で台詞を言えなくなるって、こんな気分なのね」
「怖いよね。俺は大勢の観客の前だったから、あの時のことはすごく感謝してる」
「これでお互い様ってことね」
それから大団円までは順調に進み、目立った失敗は見られなかった。または、久美が台詞を忘れたことが印象的すぎて、多少の瑕疵には目が向かなかっただけなのかもしれない。その辺りは、舞台を観客の目線で観ていた大輔が逃してはいないだろうと、塔弥は思った。
劇の最後は、道化の歌で終わる。真っ赤な衣装に身を包んだ祐樹が舞台に一人だけ残されると、音楽が流れ始めた。劇のいたるところで道化による歌が挿入されるが、最後の歌は締めというだけあって、観客の注目も集まるところだ。
「俺がちっちゃな少年だった頃――」
メンバー全員で、舞台裏から祐樹が歌う様子を見守った。無口な印象とは異なって声量があり、歌も意外に上手かった。自宅で一人で練習している姿を想像すると、塔弥は滑稽に思えた。
歌が終わると皆で一斉に舞台上に上がった。最後に観客に向かって礼をするためだ。
「久美と塔弥は真ん中に、その横に真由美と俺が。それから――」
大輔が配置を決めていった。
「『せーの』の合図で『ご観劇、ありがとうございました』という感じでいこうか」大輔は言った。
彼が「せーの」と言ったその時、「待って」という声が舞台袖から響き、全員の発声を妨げた。
「沙絵花はどうするのぉ?」莉央が舞台裏を指差していた。
「しまった。すっかり抜け落ちてた。沙絵花、出てきてくれ。沙絵花も一緒に挨拶しよう」
大輔が呼ぶと、沙絵花は小さく顔を覗かせた。「あたしも……?」
「ああ。だって沙絵花も立派なメンバーの一員だからな」
「でも、『あんな人劇に出てたっけ?』みたいにならない?」
「ならないよ。ほら、こっちへ」
沙絵花が大輔の隣へ立った。仕切り直して挨拶に向かうかと思った時、今度は史織がこう言った。
「それじゃあ、幕は誰が閉じるの?」
盲点だったようだ。大輔は頭を抱えた。
「やっぱり、あたしは裏にいるよ」沙絵花が言った。
「いや、待て。何か考えがあるはず……」大輔は言った。
その解決策を導き出したのは弘毅だった。「そんなこと、悩む必要ねえだろうよ。沙絵花が幕を閉じてから挨拶すればいい。沙絵花は閉幕のボタンを押したと同時に舞台へダッシュ。位置についたところでかけ声だ。幕を閉じつつ礼ができて、さらにさっき心配してた『誰あの人?』みたいなのも、あとから出てきたから裏方の人間だっていう風に、馬鹿でも推測がつく。あとは、礼をしている最中に幕で見えなくならないように、今よりもっと全員が中央に寄ることだな。顔を上げた時に目の前が幕だったら俺は嫌だぜ」
弘毅の意見はすぐに採用となり、沙絵花は裏へ戻った。全員が小さな写真に収まるくらいに近寄って並んだ。
幕が閉じ始めると、沙絵花が走ってその中に加わった。そして、大輔のかけ声を受けて大きな声が響き渡った。
「ご観劇、ありがとうございました」
誰もいないフロアが、幕で見えなくなっていった。
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