争い、そして統制

 体育館の前の砂利道に足を踏み入れた時、腕時計の針が十二時十八分を刻んだ。ちょうどその頃、重い扉が開き、館内から男子バスケットボール部と思われる集団がぞろぞろと出始めた。いいタイミングだと思った。

 舞台に上り、フロア全体を俯瞰した。赤や白のテープが貼られているが、塔弥はどれがどの競技のための線かということを知ってはいない。しかしバスケットゴールが四つしかないことから、広さではあまり恵まれた場所とはいえないということは、何となく分かった。

 ところが、話が舞台となると、これが稽古をするにはもってこいの空間なのだ。自動開閉する幕があり、スポットを当てたりするなどの操作が可能な照明があり、十分な広さがあり、裏には放送用のマイクとスピーカーがある。メンバーがリハーサルの場所を体育館にこだわるのは、そういう理由からだ。本番に近い形で行える魅力が詰まっているのだ。

 舞台のへりに座っていると、続々とメンバーが集まってきた。大輔から聞いたのだろう、全員が沙絵花の事情を知っていた。それでも塔弥は改めて一人一人に詳しく説明をした。それが自分の責任だと考えたのだ。

 十二時四十五分には、沙絵花以外の十人が揃った。更衣のため、左右の舞台裏に男女で分かれて入った。

「どうだ、俺の衣装かっこいいだろ?」衣装に着替えた弘毅が仁王立ちして言った。

 彼の役であるトビーは太ったおっさんだ。どちらかというと痩せ型である若者の彼とは正反対の役となる。だから大きく見せるために、下半身には提灯のように膨らんだバルーンパンツ、上半身はチョッキを何枚も重ね着している。革のブーツを履き、顎に白いつけ髭をしてベレー帽のような平たい帽子を被っているその姿は、お世辞にもかっこいいとは言えない。

「どこがかっこいいんだよ」遙が嘲笑した。

 膝まである白いストッキングに、太腿のラインを強調したような引き締まった短パンを穿いた彼は、弘毅とは対照的に細身であることを印象づける衣装である。襟元がひだ状になっていて、エリマキトカゲのようだ。魔女が被りそうな尖った帽子はしおれたように先が落ち込んでおり、彼のアンドリューという役の弱腰な雰囲気が全体として出ている。

「へなちょこのお前が笑うなっての。かっこいいっていうのは、恰好が仕上がってるかどうかってことだ。いわゆるイケてるかどうかは関係ない」弘毅は言った。

「へえ。まあ、どれだけ威張っても女の子ウケするのは俺の方だと思うけどね」遙が対抗した。

「ほう、それは何が根拠で?」

「いまどきの子には、太ってるより痩せてる方がいいんだよ」

「そうか。それなら俺の方がいいじゃないか」

「は? 何でだよ」遙は首を傾げた。

「劇の舞台は昔だ。それを観る観客の気分も昔にタイムスリップする。つまり観客にいまどきの女子はいないということになる。さらに、昔は豊満な方がモテたという噂も存在してる。豊満は裕福な証だからな」

 言い返せず悔しそうな顔をした遙だったが、次の瞬間には吹き出すように笑っていた。弘毅も彼の視線の先を見て、同じように笑った。

 そこにいたのは祐樹だった。彼らが笑った理由は明白で、祐樹は赤のワイシャツを着て、やや大きめの赤いズボンを赤色のサスペンダーで吊すという、彼の寡黙な印象とは程遠い赤のオンパレードだったのだ。

「……何で笑う? 道化はこうではないのか?」祐樹は不機嫌な様子で聞いた。

「いいや、道化はそうだ。そしてお前はもう道化としての仕事を果たした。だって道化の仕事は人を笑わせることだからな」弘毅が言った。

「そうか、それはよかった」

 素っ気ない返答をし、祐樹は脱いだ服を畳み始めた。

 塔弥もようやく着替え終えたその時、遠方でチャイムの音が鳴った。それはつまり、一時になったということを意味していた。さらに言えば、それはリハーサル開始の合図でもあり、沙絵花を待つタイムリミットでもあった。

「一時だ……。沙絵花は来てるんだろうか……」大輔が呟いた。彼の黒い衣装は、軍服のようである。

「俺が見てくるよ」塔弥は真っ先に手を挙げ、こう続けた。「ただ、入り口の扉が閉まったら、がしゃんという音が鳴るはず。それがないということは、多分……」

 全員の顔を見回したあと、舞台の表へ出た。一目でフロアを確認したが、予想通り沙絵花の姿はなかった。

 舞台を降り、走って扉まで向かった。ドアノブを握り、期待を胸に力一杯引いた。

 しかし、その先を二秒ほど眺めたあと、塔弥はすっと手の力を抜いた。勢いよく扉が閉まり、爆音のような音が館内に響き渡った。

「どうだった?」

 舞台の上から大輔が声を張り上げた。他の者たちも舞台の裏から出てきた。

 塔弥が頭の上で腕を交差させると、一瞬全員の動きが止まった。そして、彼の腕が下りた時、ざわめきが起こった。どうするとか、終わりだとか、口々に言う声が彼の耳にも届いた。

「お前ら、沙絵花が時間音痴な上に方向音痴だってことを忘れてるだろ。あいつは今、駄菓子屋にでも行き着いてるはずだ。もうすぐそこのおばちゃんと一緒に現れるから、安心しろ」

 場を和ませようとしたのか、弘毅が一人楽しげに言った。しかしその態度は、史織を逆上させた。

「ふざけないでよっ。見たら分かるでしょ、もう来ないのっ。今まで覚えた台詞も、この衣装も全部終わりっ」

 史織は頭を掻きむしった。彼女が着ているメイドのような服装に、その行為は似つかわしくない。

「とにかく落ち着け、みんな。今はできることをやるんだ」

 統率を図ろうとした大輔に史織の矛先は向いた。「一体何ができるっていうのよ」

「何って、リハーサルだよ。それ以外に何がある?」

「あんた、前に自分で言ってたよね。リハは本番と同じじゃなきゃダメだって。これが本番の形だって言えるの?」

「やむを得ないだろ。こういう時は臨機応変に対応しないといけない。何もかも理想どおりにやろうというのは無理な話だ」

「それらしいこと言って、結局言動に一貫性がないだけでしょ。あんたのやり方は、ただ都合のいい方向に転がってるだけ」

 史織に突き刺すように指を差され、明らかに大輔は不快な表情を浮かべたが、それでも取り乱さなかった。「史織、お前が中途半端な芝居をしたくないという気持ちはよく分かる。だけど今は少しでも練習をして、沙絵花が来てくれた時のために備えておくべきだ。史織や俺の独断でこの劇をやめるわけにはいかない。その前に、みんなの意志がある」

「は? 誰もそんなこと主張してないじゃない。急に民主主義の真似事みたいなことしちゃって、ほんと都合いいよね。あんたみたいなのがリーダーだから、沙絵花も来ないんだよ」

 さすがの大輔も、これには黙ってはいられないようだった。「おい、そんなに言うことないだろ。俺は何がベストかを常に考えてやってるんだ。みんなが言っていなくても、みんなが最後にいい方向にたどり着けるように調整するのが俺の役割だ。極論、それはみんなの意志であって、民主主義の真似事なんかじゃない」

「でも結局自分の思う方向へ持って行くわけでしょ。建前と本音をうまく使い分ける独裁者だね」

「お前、いい加減に――」

 その時だった。

「二人とも、もうやめようっ」大きな声が響いた。

 火花を散らす二人が黙り、彼らの前に出てきたのは、黒いドレスを着た真由美だった。激昂して頬が赤くなっていた。

「喧嘩なんかして何になるの? みんなここまで一生懸命にやってきたんだよね。こんなのじゃあ、最後の最後で台無しになっちゃうよ。そんなこと、誰も望んでない」大きな身振りで話す姿は怒れる役を演じているかのようだった。

 当事者の二人だけでなく、舞台上にいる全員が棒立ちの状態だ。真由美が怒鳴る光景を初めて目の当たりにしているからだろう。

「沙絵ちゃんが来ないのは残念。だけど、来ないからといってすぐにやめようとしたり、逆に強引に続行しようとしたりするのは、はっきり言ってどっちもおかしいよ。私たちのチームは、人数が少ないようで少なくないの。十人に聞けば十個の案が出てきて、それを組み合わせれば考えつかなかったいい案が見つかるかもしれない。何で二人はそれをしようとしないで、勝手に進めていこうとしてるの? こういう時だからこそ、みんなでもっと協力しなきゃダメなんじゃないの?」

 最後は怒号ではなく、訴えかけるような声に変わっていた。真由美は小さく肩で息をしていた。

 彼女の訴えは、確実に大輔の心を打ったようだ。彼が最初に言った言葉は、ありがとうだった。「一人でまとめようとするあまり、大事なことを忘れてたよ。最悪なリーダーで終わるところだった」

 一方の史織はふて腐れていた。そっぽを向いて何かをぶつぶつと呟いている。

「史織、お前の案もきちんと考慮する。だが全員の意見をまとめてそれが廃案になったら、その時は文句なしだ。いいな」

 大輔に乾いたような声で言われると、彼女は静かに頷いた。

 聞き取り調査が始まった。大輔が一人ずつ舞台裏に呼ぶ形で進行した。人の意見に合わせることのないように、そのような体制が取られた。

 呼ばれるまでの間、塔弥はずっと舞台の下にいた。そこからは、全員の姿がよく見えた。

 舞台の奥では、壁にもたれかかって頬を膨らませる史織に、怒りから冷めた真由美が慰めるように寄り添っている。そばでは白のセーラー服を着て水夫の恰好をしている莉央が、手を後ろに組みながらそれを見守っている。中央には、大きな体躯の弘毅と白いドレスに身を包んだ久美がいるが、彼女は相変わらず調子がよくなさそうだ。舞台左方では、遙と圭人が服装を整え合っている。遙の細身を強調した恰好は、遠くから見るとより引き締まって見えた。圭人は執事の役なので、タキシードのような服装に蝶ネクタイをしている。しかし、彼のややぽっちゃりとした体とはあまり調和しておらず、少なくとも塔弥のイメージする執事とは程遠い。

 塔弥は、沙絵花がいない状態で続行するという大輔の意見に賛成だった。そして最悪彼女が来なくても自分たちで本番も何とかしようという立場だった。だから自分の番になった時、そう訴えた。大輔は「分かった」としか言わなかったが、それはあくまで私情を挟まずに客観性を保つためで、本当は彼の意見を尊重したことで感謝されているに違いないと塔弥は思った。

 全員の調査が終わると、舞台の上に輪になって集まった。リーダーの表情からは、その結果は全く読み取れない。

 彼は手元のメモを見ながら、最初にこう言った。「意見は三つに分かれた。十人いて、こんなに意見が被るとは思わなかった。みんな似たようなことを考えていたらしい」

 大輔と史織の意見がそのうちの二つだろう。だとすれば、あと一つは何だろうか。

「まず、このまま演劇をやめようという意見。つまり、今ここで解散するという意見に二票」

 塔弥は聞いた瞬間、少々驚いた。史織の意見に同調する者がいるとは思わなかったからだ。

「それから、残りの二つの意見が四票ずつで拮抗した。一つは本番のために今から練習して、本番も何とかやっていこうという意見。もう一つは……」大輔はここで小さく息を吐き、そして言った。「今日このリハーサルを以て解散とする、という意見だ」

 塔弥は目を丸くし、思わず全員の顔を見回していた。なぜこんなにも本番に挑むことに消極的な者が多いのか、彼にはまるで理解できなかった。なぜ観客のいないこんな場所で、有終の美を飾ろうとするのか――。

「つまり、この二つの意見を戦わせることになる。そこで、最初の意見に入れた二人に、どっちがいいかを聞きたいと思う。そして、それで決まった方の意見を尊重する。異論はないな?」

 全員が頷く中、塔弥だけは首を横に振っていた。しかし、それは誰にも気づかれなかった。

 戦わせるまでもない。二票は、必ず本番を中止する後者の意見に入るに決まっている。そして、今日で晴れ舞台を味わうことなく終わってしまうのだ。塔弥は下唇を噛んだ。だがどうすることもできない。これが民主主義である。

「じゃあ、ここで最初の意見の二人だけ、名前を言わせてもらう。まず史織。それから――」

 その時、体育館内に爆発音のような音が鳴り響いた。聞き覚えのある音。それは、出入り口の扉の閉まる音で間違いなかった。

 そこに立っていた者を見て、塔弥は鳥肌が立った。それはこの意見の対立に、ただ存在するだけで終止符を打ち得る者であり、少数派の絶望的な状況を覆す救世主であった。

 やがてメンバーは口々にこう叫んだ。

「沙絵花!」

 舞台から飛び降り、彼女の元へ雪崩のように走った。

 時刻は、午後一時三十分ちょうどだった。

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