これからのこと
一夜が明け、塔弥は昨日の件をどう報告しようか迷いながら大学へ向かった。靴は普段のスニーカーを履いた。いつも通っている道ではなく、敢えて遠回りをして時間を稼いだ。それでも、校舎が見えた時にはまだ考えがまとまっていなかった。
自分の信じることを言うべきか、事実を言うべきか。沙絵花が参加しない可能性が微塵でもあれば、史織や大輔が公演の取り消しに動くかもしれない。観客はそれなりにいると聞いている。迷惑がかからないように、中止なら早めに動くのは当然のことだ。
かといって、沙絵花は来ると伝えて来なければ、取り返しがつかないことになる。
どうすればいいかを考えていると、運悪く、大輔に遭遇した。正門に入る手前で声をかけられてしまった。塔弥は咄嗟に笑顔を作ろうとしたが、表情筋がうまく動かず強張った。
「昨日はすまなかったな。立ち聞きなんかしてしまって」大輔は言った。
「いや、別にいいよ。気にしてない」塔弥は手を横に振った。
「あのあと、練習ははかどったか?」
「練習?」
「帰って練習するって言ってたじゃないか。あの時、塔弥の真剣さに込み上げてくるものがあった。俺も帰って練習したんだよ」
ここで塔弥は気づいた。彼が沙絵花の家に行ったことを、大輔は知らないのだ。
「そうなのか。でも、俺はちょっといろいろあって、練習はできなかった。また今日から頑張るよ」
塔弥は言って、少し歩く速度を上げた。沙絵花の話題に触れられる前に大輔と別れたかった。
「そうだ、昼に真由美と合流しないか? 沙絵花のことが気になるだろ?」
昇降口で別れる際にそう言われ、塔弥は思わずぎくりとした。
「いや、昼はちょっと都合が……」
それ以外の言葉が浮かばず、足早に大輔の元を離れた。
洗面所に駆け込んで鏡で自分の顔を見た時、事実を言うべきだったと後悔した。真由美と大輔が合流するとなれば、塔弥が沙絵花の家に行ったこともいずれ判明する。ごまかしが効かなくなるのも時間の問題だ。さらに言いにくくなる前に言ってしまえばよかったと思った。
昼休みになると、塔弥は食堂へ一人で行った。そこで大輔らに会ったら会ったでいいという覚悟でいた。空席を探しつつ、彼らがいないかにも注意を払い人混みをかいくぐった。
注文品の配膳が行われるエリアの近くで、弘毅と久美がお盆を持ちながら並んで待つ姿を目にした。いつもなら大口を開けて笑っているものだが、今日は様子が違った。久美が時折頭を押さえたり、苦い顔をしたりするのだ。その様子を弘毅が背中をさすったりして窺っている。彼らに配膳が行われた時、久美はお盆を落とさないようにすることが精一杯というような雰囲気で、背中を丸めた。塔弥は見兼ねて助けに行った。
「久美、大丈夫か?」
お盆を彼女の代わりに持った。載っていたのは少量のご飯とサラダだけだった。
「スーパーのタイムセールじゃないのに、オカンが走ってる」
久美が寒そうに腕をこすりながら言った。目の下に小さな隈があった。これは以前も見たものだ。
二人が確保していた席にお盆を持って行って、塔弥は言った。「寝不足が続いてるんじゃないのか?」
久美は椅子の背に体を預け、額を押さえた。「ああ、頭が痛い。熱だよ。熱、熱」
顔は確かにしんどそうだが、声だけを聞いているとむしろ溌剌な印象を受ける。
「弘毅、久美はずっとこの調子なのか?」
塔弥は向かいに座った弘毅に顔を向けた。彼もどこか元気がないような雰囲気だった。
「目元の二体のクマが羨ましいよな。熱がある久美の体はホテル。だからのんびり過ごせる」
弘毅は言ってサンマらしき魚を食べた。彼のお盆の上には二尾の魚以外に何もなく、久美と弘毅は二人で定食を分けあっているのかと思ってしまう。
「あまり無理するなよ、久美。主役なんだから」久美に箸を突きつけ、弘毅は釘を刺した。
「何言ってるのよ。主役だからこそ無理しないと。無理しない主役に主役は無理」
「いや、それは違うな。無理をすれば脇が甘くなる。脇役が甘い劇は味気ない」
「私の脇は甘くないよ。だって、今は熱くて脇汗びっしょり。塩っ辛くなってるからね」
「ハッピーエンドの劇は幸せを求めるんだろ。辛いのは幸せとは似ても似つかないぜ。むしろつらい劇になる」
二人がいつもの調子で言い合っているので、別に心配いらないかと塔弥は思った。それよりも空腹があった。次々に食堂に人が流れ込んでくるのを見て、早く並ばねば食べられないとの焦りが生じ始めた。
「じゃあ、俺はこの辺で」
二人が聞いている様子はなかったが、そう言って手を小さく振った。
その時、久美の元から大きな鐘の音が鳴った。抽選で一等に当選した時に聞くような音だ。周りで食事を取っていた学生たちが一斉に視線を彼女に向けた。スマートフォンを取り出したところを見ると、どうやら着信音らしい。
画面を見た途端、久美は顔をしかめた。気分の悪さから来るしかめっ面ではないと塔弥は察知した。大きな音を放置したまま、しばらく応答するか否かで逡巡しているようだった。塔弥が気になって画面を覗き込もうとした時、それを隠すかのように彼女は電話に出た。
「はい」
聞いたことのない低い声で久美は言った。憎しみのようなものを塔弥は感じた。
「いや、無理。ごめん。……うん。……それはダメ。……しつこいよ。無理って言ってるでしょ」
強い語調で放たれる言葉は、先刻まで会話で賑わっていた周囲に緊張を与えた。
一方、弘毅は素知らぬ顔で箸を動かしている。
「久美のやつ、最近よく電話してやがる」彼は呟いた。
「何であんなに怒ってるんだ?」塔弥は彼の耳元で聞いた。
「さあな。久美に聞きな」
久美の語気に変化が現れたのはその時だった。
「もうやめて、お願い。ほんとに」威勢はまるでなくなり、弱々しいほどの声になった。「……分かったから。今はもうやめて。しんどいの。……それじゃあ」
久美は電話を切ると、眉間に手を当て目を強く閉じた。
「もう……何なの」
彼女はため息と共に漏らした。白米から沸き上がる湯気が揺れ動いた。
「一体誰だったんだ? 電話であんなに感情的になるなんて」
塔弥は聞いた瞬間、怯んだ。久美が物凄い剣幕で睨んできたからだ。彼は咄嗟に謝っていた。彼女が再び目を閉じたあと、彼は自分に視線が集まっていることに気づき、気まずさを覚えた。
「めし、塔弥は食わないのか?」
弘毅に言われ、塔弥は我に返った。「ああ、そうだった」
「久美のことは任せとけ。風邪も不機嫌も俺が何とかする」
途端に弘毅が頼もしく見えた。しかし、彼の声のトーンがどこかいつもより力ないのが気になった。久美に風邪を移されたのに、実は痩せ我慢をしているのではないか。塔弥はそう推測したが、彼のプライドのために言わないでおいた。
「じゃあ頼んだ。明日はリハーサルだから、それまでに治しておいてくれよ」
塔弥は長蛇の列を成す券売機へと走っていった。
腹拵えをしたあと、自ら大輔を一室に呼び出したのは、罪悪感からだった。マネジメントをしている彼に隠し事をするのはあまりに非協力的であり、同じグループの一員として心が痛んだ。
事実を全て話す覚悟を決め、大輔に椅子を勧めた。自分は机を挟んで立った。
「真由美から聞いたと思うが――」
塔弥は、昨日沙絵花の家に行ったこと、説得を試みたが結果は明日まで分からないということ、そして真実を述べようか迷ったことを、惜しみ隠さず話した。
大輔は終始真面目な顔つきで話を聴いていた。口は閉じられたままだったが、机の上に置かれた手が彼の思いを語っていた。青白くなるまで握り込まれ、開かれることがなかったのである。
「――以上、隠そうとしてすまなかった」
「そうか。実は、沙絵花の家に塔弥が行っていたということも、今初めて知った。真由美とは結局会ってなくてな」
「そうだったのか」
「だが、事情は分かった。塔弥は必要以上に気負わなくていいよ」
「このまま中止というのが、俺は一番怖くて……」
「大丈夫だ。そう簡単には中止にしないよ。塔弥は観客への迷惑を心配してるんだろうが、俺たちだってもう半年くらい、ゆっくりではあるが準備を重ねてきたんだ。それを一日そこらの判断で、ないがしろにすることはできないよ」
「でも、もし沙絵花が明日のリハーサルに来なかったら?」
塔弥は机に手をついて前のめりになった。
質問の答えは、視線を側方に逸らすという大輔の行為が出していた。苦渋の選択であるということもまた、そこから読み取れる。
「まだ来ないと決まったわけじゃない。今の俺たちにできることは、明日と本番に向けてしっかりと調整をすることであって、するかしないかの議論をすることじゃない。そうだろ?」
大輔は張りのない声で言った。彼も塔弥と同様、沙絵花は来てくれるという根拠のない期待を抱きつつも、悲観的な考えが先行して不安を拭いきれないようだ。
「……そうだな。取り越し苦労かもしれない。消極的なことを言って悪かった。最近、俺は無駄な心配ばかりしている気がする。よくないよな、こういうの」
塔弥は机から一歩離れた。メンバーの上に立つ大輔に、自分と同じような境遇に陥ってもらいたくはなかった。
「ひとまず、明日まで様子を見よう。続行かどうかはそれから考えても十分間に合う。俺だけの判断でできることでもないしな」
大輔はそう言って腕時計を一瞥し、立ち上がった。
一緒に行くかと聞かれたが、塔弥は断った。「いいよ。俺はあとから行くから」
「分かった。報告してくれてありがとうな」
大輔は塔弥の背中を軽く叩いて教室を出ていった。
そのおよそ十秒後、塔弥は消灯し廊下に出て、後ろ手で扉をスライドさせた。
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