説得
「ここか……」
十階くらいはありそうなマンションを見上げて、塔弥は呟いた。
真由美に到着の電話を入れた。403号室だと知らされた。電話が切れたあとオートロックが解かれ、塔弥は扉を押した。
エレベーターを使って上がり、部屋の前に来た。地上でバイクが遠ざかっていったのを機に、周囲から音がなくなった。チャイムの音が大きく重厚に感じられた。
冷たい風が頬をなでる。覗き穴から小さく漏れる光を見つめて、塔弥は一呼吸ついた。それにより、気持ちは落ち着かずとも気合いは入った。やれることをやるしかない。そう思った。
鍵の開く音がしたあと、僅かに扉が動いた。指一本も入らないような隙間から、真由美が言った。「塔弥くん?」
塔弥が、ああ、と言うと、扉が閉まりチェーンが外れる音がした。なるほど女性は警戒心が強いな、と思いながら塔弥は中へ足を踏み入れた。
「沙絵ちゃんは奥の部屋にいるから」
真由美はそう言って、玄関から部屋の中を指差した。彼女の肩には黒いバッグが提げられていた。
「えっと……真由美は、もう帰るのか?」
「うん。私はもう必要ないから。どんな話があるのか分からないけど、あとは塔弥くんにお任せするね」
「そうなのか。ちなみに、沙絵花が舞台に戻ってくる確率はどの程度なんだ?」
「ううん……五分五分くらいかな。やりたいとは言ってるけど、一方でそれを引き留めている何かがあるみたい」
「それが俺と何か関係があると……」
「そうみたい」
「……はあ、分かった。どちらに転ぶ可能性もあるってわけだな。結果が出たら報告するよ」
真由美は部屋を出ていった。
塔弥は中へ進んだ。やや広い印象の洋室を目の当たりにした。台所と隣接しており、片隅にはテレビ、それに向き合うように一人掛けのソファが置かれている。床に敷かれたカーペットが暖かい熱を発していた。
その部屋の側面に閉ざされた襖があり、そばにアイロン台が立て掛けられていた。この襖の中の部屋が、沙絵花が裁縫に勤しむ場所であり、今まさに彼女がいる場所でもあるようだ。塔弥はノックをし、ゆっくりと襖を開けた。
沙絵花は、膝を抱えて畳に座っていた。ただし、そこは和室というよりも、物置と言った方が相応しい状態だった。ミシンや糸を初めとするあらゆる裁縫道具と、彼女が作ったと思われる服やバッグなどが床に並べられている。並べ方に規則性はあるようだが、量が多すぎるために散らかっているようにしか見えない。五畳ほどの部屋だが、足を置ける空間は一畳分もなかった。
塔弥は沙絵花の横に座った。お馬鹿であるという彼女に対する先入観を、彼女の今の凜とした顔は裏切っていた。だが、その態度とは裏腹に、ツインテールの髪の先は締まりのない枝分かれを見せていた。
沙絵花に口を開く様子がなかったので、塔弥は先手を打った。
「沙絵花、どこから話すのがいい?」
すると、彼女からこんな返答が来た。「まだ頭が追いついてないの。それと、全部を話すことは口止めされてるから、全部は言えないの」
「口止め? 真由美に口止めされてるのか?」
「ごめんね。それも言えない」沙絵花は言った。
だが塔弥はすぐに勘を働かせた。推論が正しければ、久美の家に行ったあの日、沙絵花が電話で話をした相手がそうだと思った。
「分かった。じゃあ、話せることだけでいいよ。俺は何かの真相を暴きに来たんじゃなく、沙絵花を取り戻しに来たんだから。沙絵花がその気になってくれるのであれば、むしろ何も話さなくてもいいくらいだ」
そう言われて気が楽になったのか、膝を抱えて縮こまっていた沙絵花の腕が少し開放的になった。
そして、彼女は語り始めた。「あたし、本番の日が怖いの。何が起こるか分からなくて。何か起こった時に、あたしが何とかできると思えなくて……」
本番に対する過度の緊張かと塔弥はまず思ったが、すぐに思い改めた。そんなことで自分が呼ばれるはずがない。
「それは、失敗が怖いとか、そういうことではないんだな?」
「うん、それは違う。失敗は全然気にしないって、みんなが言ってくれてるから」
「そうか。なら、俺の勝手な考えを言わせてもらうが、その何かが起こることに俺が関わってると言って間違いではない、ということになるのかな?」
「関わってるとまでは言わないけど……」沙絵花は言葉を濁しながらも、頷いた。
「なるほどな……」
塔弥は複雑な感情を抱いた。本番の日に何かが起こり、自分と関わりがある、というのはまさに――。
「つまり、その不安が解消されれば、沙絵花は公演に参加してくれるわけだな?」
「うん」
「実を言うと、俺も本番は楽しみだし、不安なんだ。沙絵花と同じで、何が起こるか分からないから怖い。それでもやっぱりみんなで最後を飾りたいという気持ちがあって、今は前向きに考えてる。沙絵花だって俺たちを手伝うって言ってくれた時も、同じようにみんなと頑張って何かをしたいという思いがあったんじゃないか?」
「ものすごくあったよ。衣装を作ってみんなに褒められた時は、ほんとに手伝いに来てよかったって思ったもん」
「そうだろ。みんなで何かを達成するっていうのが楽しくなるように、人はできてるんだ」
塔弥は沙絵花に微笑みかけた。彼女の表情は、まだ変わる様子はなかった。
「俺の衣装、どのくらいで作ったんだ?」
「えっと、三時間くらいかな」
「三時間か。すごいじゃないか」
「そうかな」
「あの形は何がモデルになってるんだ? 独特な服だなと思ってたんだ」
「あたしの想像だよ。王子様とかプリンスを思い浮かべたら、ああいう風になったの」
「これは驚いた。本当に何もないところから作ったんだな。そんなこと、メンバーの誰にもできやしないよ」
沙絵花が、僅かに照れ笑いを浮かべた。塔弥はこの機を逃すまいと、こんな質問を投げかけた。「あのさ、役者が演技を本当の意味で成功させられるのは、どんな時だと思う?」
それを聞いた沙絵花は、たちまち難しい顔をした。だが、これは彼女が真剣に考えている証だと塔弥は分かっていた。
「みんなの息が、ぴったり合った時?」彼女は首を傾げ言った。
「そうだな。それもすごく重要だ。みんなが別々にやってしまったら、それは最悪のステージだ」
でもそれ以上に、と言って塔弥は声の高さを少し上げた。そのアクセントに、沙絵花が頷くという形で反応した。
「それ以上に役者の演技に欠かせないのは、しっかりとした裏方なんだ。支えてくれる人がいるという安心感で俺たちは演技に集中できて、普段通りの、いや、普段以上の実力を発揮できる。例えば、役者が演技をしつつ片手間に照明や音響をやっているようでは、絶対にいい舞台にはならない」
「支える人が大事……」
「そうだ。演劇部の時は、役者と裏方ではっきり分かれてたんだ。でも今は十人しかいない。そして全員が舞台に上がらないといけない。そうなった時に、俺たちが一番欲しているのがどういう存在か分かるよな?」
「舞台に出ずに、裏でみんなを支える役」
塔弥は大きく首を縦に振った。「俺たちは、沙絵花が来てくれたことで気ままに稽古ができたし、本番もきっといいものにできる。ここへ来て沙絵花を失うのは、痛すぎる話なんだ。こういうのを致命傷って言うんだが、まさに舞台の開催すら危ぶまれる致命傷だ」
「致命傷っていう言葉くらい知ってるよ」
「はは、それはすまなかった」
沙絵花の表情は確実に明るさを増していた。自分がどれだけ必要とされているかを理解し始めたようである。
塔弥はそばに転がっていた糸巻きを手に取った。巻かれた赤い糸を少しだけほどいて、くるくると巻いていった。
「さっき、息がぴったり合うっていう話があったよな。それはつまり、みんながまとまるってことだ。今俺が巻き取ってる糸も、中心にまとまっていってるだろ。何でまとまるかというと、真ん中に芯があるからだ。これがなくなったら、糸はどうやってもまとめられない。そして、糸である俺たちをまとめるこの芯に当たるのが、沙絵花ということだ。決して大袈裟に言ってるわけじゃないぞ。沙絵花の役回りは、それだけ重要だってことだ」
「みんながそんな風に……。あたし、人から馬鹿にされることが多くて、必要とされることなんかないと思ってた」
「そうか。でも必要とされて嬉しいだろ」
「すごく嬉しい」沙絵花は両手を床につき、肩を広げた。
「ちょっとした不安がどうした。何が沙絵花を邪魔しているのかは知らないが、それはみんなで協力して舞台を成功させる喜びを捨てないとダメなほど、重要なことか? せっかく必要とされている現状を諦めないとダメなほど、深刻な不安か?」
「それは……」
塔弥は彼女に顔を近づけていった。ここが押しどころだと思った。
「俺をここに呼んだのはどうして?」
「ううん……分からないけど、塔弥くんの顔を見て話したら、何か変わるんじゃないかなと思って」
「それだよ。結局何が不安なのか自分でもちゃんと説明できない。違うか?」
「それはそうかも」
「だろ。沙絵花は要するに、見えない何かに対して一人で苦しんでる。でもそれって、何か意味のあることだと思うか?」
沙絵花はまた難しい表情をした。「それは意味がないかも。あたしが悩んでも何も変わらないことだと思うから」
「そうだ。そういうことだよ。説明できないことに悩む必要なんかないんだ」
塔弥は強く思いを乗せて言った。彼自身同じ経験をしていたし、今も悩みは絶えない。沙絵花の不安が痛いほど分かるからこそ、そこから解放してあげたかった。
彼女が何もない畳の一点を見つめ始めた。だが実際に見ているのは畳の目ではなく、頭の中にある葛藤だろう。一見不機嫌にも見える口の歪んだ顔がそう伝えている。
間もなく沙絵花は口を開いた。塔弥は前向きな返答が来ると思った。流れがその方向にあったからだ。
しかし、その期待は裏切られた。
「でも、やっぱり不安なことに変わりはないよ。考えれば考えるほど、難しくなってきちゃった」沙絵花はそう言って頭を抱えた。
「大丈夫だって。それなら考えなければいいだけだ」
塔弥は彼女の肩に触れて言った。もうすぐで説得できそうだというチャンスを、逃すまいと思った。
「考えないのはできないよ。どうしても考えちゃう。何でこうなっちゃったんだろう。一人でもうちょっと考えたい」
「俺を見てみろ。不安を抱えていても、全然そんな気配を感じさせないだろ。それは気にしないようにしてるからだ。沙絵花もできるさ」
沙絵花は顔を上げた。しかし、すぐにまた頭を抱えた。「あたしには無理だよ。ごめんね。やっぱりもう少しどうするか考えさせてくれない?」
「沙絵花、頼むよ。俺たちには沙絵花が必要なんだ」塔弥は手を組み、ついに懇願という手法に訴えた。
「お願い。もうちょっと考えたいの」
しかし、沙絵花はそう言うことをやめなかった。彼女の不安というのは、どうやらそう簡単に対処できるものではないようだ。ここまで彼女が思い悩むのを塔弥は初めて見た。
「……どうしても今答えは出せないか?」
「うん」
これ以上言ったところで沙絵花の意志は変わらないと悟った塔弥は、諦めて立ち上がった。
「二十日の土曜日、つまりあさってがリハーサルの日になってるんだ。場所は体育館で、時間は昼の一時からだ。もし沙絵花が考えた結果、俺たちに協力してくれるのであれば、その日に手伝いに来てくれ。もしどうしてもダメなら、無理にとは言わない。その時は……仕方ないが、俺たちで何とかやっていくことにするよ」
最後に沙絵花の頭をぽんぽんと叩いた。
襖を閉じる時、「ごめんなさい」というか細い声が聞こえた。物が多くてうるさい部屋に一人静かに頭を垂れる沙絵花に、「俺の方こそごめんな」と言い残して、塔弥は部屋をあとにした。
エレベーターホールに出ると、歩きながらメッセージを打った。沙絵花が参加するか否かは分からないという旨を、真由美と大輔に伝えようと思った。
横断歩道で待機中に本文が完成したが、塔弥は送信ボタンを押す指を寸前で静止させていた。少し考えたあと、横にスライドさせて削除のボタンを押した。『本当によろしいですか』という確認の画面に変わり、「はい」を選択した。たちまち文章は消えた。
信号が青に変わり、渡り始めた。長蛇の車の列は塔弥一人のために停止していた。反対側にたどり着くと、彼は振り返った。合図をしたように、先頭から一斉に車が動き始めた。
沙絵花は必ず来てくれる。塔弥はそう思った。彼女が気づいていなかった歩行者用のボタンを、代わりに押すことができたはずだ。今はまだ、彼女の前に見えない何かが横切っていて、彼女はどうすることもできずに頭を抱えているが、やがて信号は青に変わる。そうすれば彼女はこちらに来る。きっとそれは時間の問題で、彼女は絶対に自分たちの元に来てくれると塔弥は信じた。
刹那、クラクションの音が響いた。視線を右にやると、横断歩道ではない場所で車が停滞を余儀なくされていた。車間を縫って出てきたのは腰の曲がった老婦人で、無謀な横断を試みたようだった。
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