決戦前
自宅に帰り、夕食を取った。意欲が高まっているうちに稽古をやりたかったので、メニューはレトルトの白米に鯖の缶詰と、調理を要しないものを選んだ。それらを胃に収めたあと、クローゼットから衣装を取り出し、体の前に広げた。
真っ白な上着。後ろから見ると腰から下が長く伸びていて燕尾服のようだが、前は胸元を開くことはなく、ワイシャツのようにボタンで留める構造になっている。左胸にクリーム色の細長い布を縫いつけ、それを胸ポケットに見せるといった工夫も忘れてはいない。さらに、動きやすさを想定した柔軟性の高い生地を使っている。多少の皺は生じるが、伸ばした際に抵抗が小さいことで、普段着のような着心地のよさを体感できる代物である。
これは沙絵花が作ったもの。改めてそう認識した時、彼女がいかに必要な存在かを確認した。
土壇場になって彼女の意志がどうして変化してしまったのか。あるいは、参加したくないことをずっと言い出せずにいただけかもしれないが、いずれにしても、そこにどんな問題があるのかは気になるところだった。
ふと、塔弥は最後に沙絵花に会った日のことを思い出した。それは久美の家に稽古で集まった日だ。沙絵花が買い物に行ってテキーラを大量に購入し、それを飲んだ真由美がベッドへ運ばれるという出来事があった。あの時、塔弥は真由美を看護するために二階の部屋へ行っていたが、やがて一階に戻った時には沙絵花がいなくなっていた。そのあと、確か大輔が、急用で彼女は帰ったと言った。
そういえば――塔弥は思い出した――あの時、沙絵花に一本の電話が入ったのだった。それを受ける前、彼女はとても楽しそうに振る舞っていたのに、電話を終えたあとの彼女は随分と気が抜けたようだったのだ。
そのことをこれまで気にかけてこなかったが、今思えば何か関係があるのかもしれない。実際、あの日以来、誰も彼女を見かけたと言っている人物はいないのだ。
そうして考えていた時、デスクの上でスマートフォンが音を立て始めた。電話の着信音だ。時刻は八時になろうとしていて、こんな時間に誰だろうと、塔弥は疑問に思った。
それは真由美からの電話だった。着信を知らせる画面に、その名前が表示されるのを久しく見ていなかった塔弥は、つい胸を高鳴らせた。
だがすぐに、浮かれている場合ではないと思い直した。彼女から電話が来たということは、沙絵花を巡って何か進展があったということだ。
「もしもし」
「塔弥くん、今、大丈夫?」
少し早口だった。何かを急いでいるのだろうか。
「ああ、問題ないよ」
「時間、大丈夫?」
「え……今言ったじゃないか。大丈夫だって……」
「沙絵ちゃんの家、知ってる?」
「いや、知らないけど……何で?」
「実は、沙絵ちゃんが塔弥くんと話したいって言ってるの。それで今から来られないかなって」
「え? 俺と? 何かの間違いじゃないのか?」
「ううん、確かにそう言ってるよ。ね、沙絵ちゃん」
塔弥は、真由美が沙絵花の背をなでている姿を想像した。沙絵花を今の呼ぶ声に、迷子の子を安心づけるような優しさがあった。
「何でまた俺なんだ?」
「それは……ちょっと分からない。私には言えないみたい」
「真由美に言えないことを……? それは、今じゃないとダメなのか? それと、電話じゃダメなのか?」
真由美の声が遠くなった。確認を取っているようだ。
やがて彼女は電話に戻った。「直接会いたいって。塔弥くんの顔を見て話したいんだって」
予想外の答えではなかったが、塔弥は少しだけ返答に遅れた。
「そうか、分かった。そしたら今すぐに行くから、場所を教えてくれ」
郵便局の隣のマンションという情報をもらい、塔弥は電話を切った。
状況は芳しくない。何となくそう感じた。なぜ自分が呼ばれたのかはよく分からないが、このところ、自分が絡んでいいことが起こった例しがない。
衣装を綺麗に畳み、重い足を動かして玄関へ行った。普段履いているスニーカーの横に、舞台で使用する予定の黒いローファーを並べて置いている。買ったばかりで傷一つない。
今夜の自分の行動次第で、今度の演劇の命運が分かれるということを肝に銘じ、塔弥はローファーを履いた。
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