腐心、されど腐らぬ心

 次の日の夕方のことだった。塔弥は大輔と合流し、ある場所へ向かった。

「いやあ、本当によかった」

 大輔は跳ねるように歩きながら、何度もそう言った。その喜びを表すかのように、彼の服は鮮やかなオレンジ色をしていた。だが、それはただの偶然だろう。

「いつどこで見つかったんだろうな」塔弥は言った。

「さあ、そんなのはどうでもいいよ。リハーサルをできるということが保証されたんだから」

 砂利を踏み歩いた先に、南京錠が外された体育館の扉があった。約一週間の閉鎖から、今日ようやく解錠されたのだ。誰が開けたのかは分からないが、十数分前、圭人がたまたまそれに気づいて一報を入れてきたのだった。

 部活動などは行われておらず、中は静かだった。道具を収める器具庫の扉が中途半端に開いていることから、圭人がその中にいるのだろうと二人は考えた。

 だが、器具庫には誰もいなかった。卓球台やバスケットボールの入ったカゴなどに加えて、演劇で使う大道具や組み立て途中の木材などが、一週間前の状態でそこにあるだけだった。

「結局、大道具は使わない方針なのか?」

 塔弥はベンチに手を置き言った。その安定感のないベンチは、彼が真由美や莉央と共に作ったものだ。

「ああ。思い切ったことをやってみようってことだ。みんなに聞いても、反対票は一つもなかったよ」

「でも不安だな。例えば背景がなかったら、何だか支えられてる感じというか、安心感がなくなると思わないか?」

「分からなくもないが、それが気にならないくらいみんなは演技が達者だから、きっと大丈夫だ。どうしても不安なら、そのベンチくらいは置いてもいいかもしれないが」

「いや、これはいいよ……。出来映えが完成品の中で一番悪いからさ……」

 塔弥はふと、跳び箱の間に段ボール箱があるのを目にした。小さな子供なら一人は収まりそうなほどの大きさがある。こんなものあっただろうかと疑問に思い、塔弥は箱を開けた。

 色鮮やかな何かが詰まっていた。手を入れてみると、それが布の束だと分かった。何の繊維かは塔弥には判別がつかなかったが、とても滑らかで触り心地がよかった。

 よく分からぬまま、段ボールのフタを閉めようとした時だった。そのフタの裏に、メモ用紙をちぎったような小さな紙が貼りつけられていることに気づいた。そこには小さく何かが書かれていた。塔弥は目を凝らして読んだ。

「はあっ?」そして思わず声を上げた。

「何だ? どうした?」

 大輔に紙を見せると、彼も同様の反応を示した。

「あいつはどこだ?」大輔は慌てた様子で言った。

「知らないよ。俺だって全然見かけてないんだから」

「まずい。まずいぞこれは。何で急にこんな……」

「とにかく、みんなに知らせよう。誰か一人くらい事情を知ってるだろう」

「ああ、そうだな」

 大輔がスマートフォンで文字を打ち始めた。だが落ち着きを失っていて、何度も打ち間違えていた。

 段ボール箱を器具庫に置いたのは、助っ人として舞台を支えてくれる予定だった沙絵花であると知った。その中の布は、彼女がその手で作ったものだったのだ。そして貼りつけられた紙には、こんなことが書かれていた。

『とつぜんごめんなさい。あたし参加したくないかも。さえか』

 メンバーへの情報発信を終えた大輔が、渋い表情で頭を掻いた。「急遽全員に、校舎の地下へ招集をかけた。これは話し合わないとまずいことだ」

「もし沙絵花が本当に参加しなかったらどうなる?」塔弥は焦りを隠せない。

「それは相当厳しいだろうな。大道具がないことなんか、可愛いくらいに思えるだろう」

「しかし、何で一週間を切った今なんだ? あの装飾用の布の量を見る限り、つい最近までは意欲があったように思えるが……」

「何か特別な事情ができたのかもしれない。それを聞いて、なんとか説得するしかない」

 二人は、沙絵花の伝言が記された紙だけを持って校舎の地下へ行った。入った部屋にはすでに二人のショートヘアがいて、教壇を挟んで話をしていた。一人は七分袖のシャツを着た史織で、もう一人の華奢な体躯をした方は真由美だった。塔弥は一瞬たじろいだが、それは真由美も同様で、双方、まさかこのタイミングで会うとは思ってもいなかったという状態だ。

「ちょっと、沙絵花が参加しないってどういうこと?」史織が目の色を変え、攻撃的な口調で言った。

「分からない。だからこうやって集めてるんだ」大輔が答えた。

「もう最悪。何で体育館が閉まったり、突然参加者が減ったり、変なことばかり起こるの? 私たちの邪魔をする悪魔でもいるの?」

「今は嘆いてる場合じゃない。現実的に何ができるかを考えないと。最善は沙絵花を説得して引き戻すことだが、無理なら沙絵花の役割を誰かが果たす以外にない」

「そうね。でももう一つ案があるわ」

「何だ?」

「舞台をやらないという案」

 史織が真剣にそう言った時、場が静まりかえった。常に舞台に対して熱意を見せてきた彼女が発言しただけに、衝撃が大きかった。

「だってそうでしょ? 受付、観客の誘導、アナウンス、照明、音響……あの子がやってくれるはずだったことを、誰が今からやれって言われてできる? みんなで仲良しこよしやろうなんて甘い考えだと、ちぐはぐになるのは目に見えてること。私はね、中途半端にこの舞台をやりたくないの。下手にやって黒い歴史を作るぐらいなら、最初からやらない方がいいって」

 大輔の表情が曇った。唾を飲み込んだのか、喉仏が大きく上に動くのが分かった。

 リーダーとして、彼は窮地に立たされていた。それは、史織の言い分がもっともだと感じたからに他ならない。照明や音響は一見簡単そうだが、タイミングを完璧に合わせるには全ての〝きっかけ〟を知っておく必要がある。二時間は行われる今回の劇でそれらを過不足なくこなすには、それ相当の練習が必要なのだ。

「あの……」真由美が遠慮がちに手を挙げた。「私が沙絵ちゃんと話し合おうかと思うんだけど……」

「沙絵花の状況を知ってるのか?」大輔が尋ねた。

「ううん。それは分からないけど、メンバーの中だと、私が一番仲がよかったから」

「しかし、仲がいいと逆に話しにくいこともある気が……」

「大丈夫。話しにくいようなことも、沙絵ちゃんとはいっぱい話してきたから」

「でも、沙絵花とは連絡がつかないんだ。どうやって探す?」

「私、沙絵ちゃんの家、知ってるよ」

 真由美は緊張を切らすことなく、それでいてどこか信頼の置ける雰囲気で話した。大輔が腕を組んで一考したあと、「真由美に任せよう」と言ったのは、その雰囲気があったからかもしれない。だが塔弥は密かに、真由美が大役を買って出るなんて珍しいと思っていた。交渉に失敗すれば舞台自体がなくなってしまいかねない状況で自ら手を挙げるというのは、少なからず塔弥の知っている真由美ではなかった。

 時刻は六時を過ぎていた。焦る大輔は、今から沙絵花の家に行くよう真由美に催促した。突然の要求にもかかわらず、真由美は一切の当惑を示すことなく承諾した。すでに彼女の中で準備が整っていたようであった。

 彼女は部屋を出た。それをただ呆然と見守る塔弥の胸には、大きな傷が生まれていた。この部屋へ入ってきてからというもの、彼女と目が合ったのが最初の一回だけだったからである。それ以降、彼女はまるで塔弥が存在していないかのように振る舞ったのだ。

 虚しさに駆られた塔弥はいてもたってもいられなくなり、真由美のあとを走って追った。ここで話しかけて無視をされたら、もうどうなっても構わないと、半ば自暴自棄になった。

 彼女が階段の踊り場へ足を置こうとした時、塔弥は意気込んだ声で名を呼んだ。この時、彼は一つ安心を得た。彼女が呼ばれても逃げなかったのだ。

「真由美」そばまで行って、もう一度言った。

 真由美は足を止めていた。それは、彼女が対話の意志を有していることを示すものだ。

「何?」

 だが彼女が放ったこの一言が、塔弥の心臓を深く刺した。至極短いその言葉は、抱えきれないほどのよそよそしさを含んでいたのである。

「その……沙絵花と……頑張ってな」

「ありがとう」

「うん……真由美ならできる」

「嬉しい」

 真由美はしかし、塔弥の顔は見なかった。前に出た自分の左足を気力のない目で捉えているだけだった。

 しばらく沈黙があった。味わったことのない気まずさを塔弥は感じたが、意を決して口を開いた。

「真由美、こんな時に言うのも何だが……いや、こんな時だからこそ言おう」一呼吸置いて、こう続けた。「もし真由美にひどいことをしていたとすれば、それは謝りたい。だけど、俺には全くその心当たりがない。それで、もし仮に真由美が俺のことを、さ……避けてたりなんかするのであれば、その理由を教えて欲しい。俺に非があるのなら、どんなことでも改善する」

 こんなことを言うだけで手に汗をかいている自分が、塔弥は情けなかった。だが、思いは伝えた。あとは反応を待つだけだ。彼は息を呑んで静寂に耐えた。

 真由美がゆっくりと顔を上げるまでに、五秒ほどの間があった。その五秒で彼女が何を考えたのかは分からない。しかし、何かしらの処理が行われたことは、その潤み出した目が語っていた。その目が塔弥の目と合った時、彼女の頬には涙が走っていた。

「ごめんね」

 真由美は言った。か弱く、かすれた声だった。塔弥はそこに、もうよそよそしさを感じはしなかった。

「塔弥くんを傷つけたくはない。だからこれが、私にできる精一杯なの」

「こ……これって?」

 真由美は鼻を啜った。答えない。

「塔弥くんが傷つくと、私も痛い。この私の精一杯が塔弥くんを傷つけてると思うと、すごく心が痛む」

「避けられてる現状には確かに傷ついてる。でもそれをやめてくれたら、俺も真由美も傷つくことがないだろ?」

「でも、やっぱりダメなの」

「何でだ? その理由を教えてくれ。俺が悪いのか?」

「誰かが悪いとすれば、それは私になるのかもしれない。でも、それを悪くしてるのは私じゃない。多分、塔弥くんでもない」

「じゃあ、誰も悪くはないんだな? 俺は真由美に何もしてないんだな?」

 真由美は頷いた。

「そうか、それならよかったよ」

 塔弥は、真由美が何か言えないような重いことを抱えていることを察知し、それ以上の言及を避けた。何より、目に涙をためながら話す彼女を追い詰めるのは心が痛んだ。

「じゃあ、俺は現状を、一旦距離を置いている状態と捉えておくことにする。離れている時間が絆を深めるとか言うだろ。そういう認識で構わないか?」

 真由美は涙を拭いながら頷いた。

「よし。ありがとう。もうこれ以上は何も言わない。真由美の中で抱えてる何かが解決したら、また距離を縮めに来てくれ。それまで俺はずっと待っておくから」

「うん」

「でも、挨拶くらいは頼むぞ。さすがに会って素通りされたら、俺も寂しいから」

「そうだね……」

 真由美が少しだけ笑ったのを見て、塔弥は彼女の肩にそっと手を置いた。

「足止めしてごめん。沙絵花を何とか連れ戻してきてくれ。やっぱり俺も最後の舞台はやりたいから」

「分かった。頑張るよ。ありがとう、塔弥くん」

 そう言った真由美の目は、しっかりと塔弥を捉えていた。

 階段を上っていく真由美の後ろ姿を、小さく手を振り見送った。

 本当にこれでよかったのか、今になって考える塔弥であったが、そこは首を振ってきっぱりと割り切った。これでよかったのだ。真由美と話ができ、自分が悪くて距離を置かれているのではないということが分かった。今まで全く進展がなかったことを考えると、十分すぎるくらいだ。もう避けられていると心配する必要もない。

 塔弥は軽やかに階段を降りた。その時、明かりが漏れる部屋の入り口に、素早く人が入り込んでいくのが見えた。その部屋は、さっきまで塔弥がいた場所だ。

 だが中に入っても、そこに新たな人の気配はなかった。大輔と史織が入り口に向かって立っているだけだった。

「今、誰か入ってこなかったか?」

 塔弥が聞くと、二人は揃って首を横に振った。口は真一文字に結ばれていて、どこか様子が変だ。

「……もしかしてさっきの会話、聞いてたのか?」塔弥は眉をひそめた。

 二人は顔を見合わせたあと、申し訳なさそうに首を縦に振った。

「すまない。塔弥が急に飛び出していくから、どうしても気になって……」大輔は言った。

「真由美と喧嘩してたって、知らなかった」史織が言った。

 塔弥は軽い不快感を覚えたが、やがてため息と共にそれを吐き出した。自分も一度立ち聞きをしたことがある。彼らをそのことで非難する立場にはない。

「喧嘩じゃない。ちょっとした倦怠期みたいなものだ。勘違いしないでくれ」

 塔弥は、教壇に置いていた沙絵花の伝言が書かれた紙を取り、部屋をあとにしようとした。だが大輔にどこに行くのかと聞かれ、出口の前で立ち止まった。紙を耳の高さまで上げ、こう言った。

「真由美が俺たちのためにやってくれてるんだ。だったら俺たちがするべきは、こんなところで戯れることじゃなくて、本番のために少しでもシミュレーションすることじゃないのか? 俺は今から帰って一人で練習する。どうせやるなら中途半端にやりたくないって

いう思いが、俺の中でも芽になってきたから」

 塔弥は振り向くことなく部屋を出た。

 ちょうど、遙と圭人と莉央の三人が到着したところだった。

「沙絵花さんはどうなったの?」

 圭人が腕にしがみついて言ってきた。あとの二人も心配そうに聞く耳を立てている。

 稽古をあまり行わない彼らのやる気に疑問を感じていた塔弥だったが、危機感が共有できていることを悟り安心した。

「沙絵花なら、きっと大丈夫だ。俺はそう信じてる」塔弥は腕に力を込めた。

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