悩む者、達観する者

「あざっした」

 大学生と思しき男の店員が、乱暴に釣り銭を渡してきた。レシートはいらないと言うと、今度はレジの機械が吐き出した紙を握り潰す始末だ。まるで教育がなっていないなと彼を蔑視しつつ、塔弥はコンビニを出た。

 店の前に設けられた白いベンチには、茶色いベストを着た七十代くらいのおじいさんが、杖を前について座っていた。その横には、あと二人は座れるスペースがある。塔弥は真ん中を空けて座った。

 さすがに空腹には耐えられなかった。鮭のおにぎりと缶コーヒーを買い、腹の足しにした。大学までは五分でたどり着ける。授業の開始まで、しばしここで待つことにした。

 雲一つない空を眺めながら、塔弥は考えふけった。エレベーター前での真由美の反応を見て、彼は確信していた。自分は避けられていると。ではなぜそんな対応をされるのか、それが謎だった。

 以前からそれは薄々感じていたことだ。だから彼女のマンションの前で立ち聞きをするような真似もした。だが、それで暴かれたのは自己嫌悪というのが真実であったということだけで、具体的な中身が分かったわけではない。自己嫌悪が何なのかもよく分かってはいない。

 それを本人に聞きたいが、避けられる。これが今の状況だということだけが、塔弥の中で唯一分かっていることだった。ならば電子機器でやり取りをすればいいということも考えた。だがメッセージを送ったり電話をしたりして仮にそれが無視された時、いかなる精神的打撃を被るかを想像すると、スマートフォンからの発信はひどく躊躇われた。だからといって人に軽く相談できる話でもない。塔弥の取るべき手段は、こうして一人で考える以外にないと言えた。

 気づけば頭を抱え、足下を見ていた。記憶のどこをたどっても、避けられる理由が浮かばない。唸り声を上げていると、「兄さん」としゃがれた声が聞こえた。それが自分のことだと気づいたのは、足に杖を突きつけられた時だった。

 隣に座っていた老人が言ったのだ。深く刻まれたほうれい線と、垂れて目に入りそうなほど伸びた白い眉毛が印象的な顔だった。塔弥が返事をすると、杖を地面について前を向いた。

「こんな所で何しとる。若者が暇しとる場合か」

「いえ、今は昼休みの最中なので……」

「それが最近の若者の言い訳か? わしらはどんな所でも本を読んどった。教養は若い時に身につけないといかんと、教えられておったからな。だが今時のやつは、時間の使い方というものが分かってない。あんたがそこでぼーっとしとるのが、それを証明しとるというもんじゃ」

 典型的な若者嫌いの老人だ。面倒な人に絡まれてしまったなと、塔弥は思った。

「何でも便利さを求めていって、楽ばかりし始めた。仕舞いには、わしらの苦労があって今があるということも知らずに、高齢者を社会の邪魔者扱いしおって。それで、あんたは何か一つでも苦労したことがあるんか?」

 老人は、前方に駐車しようとしている車に話しかけているのかと思うほど、頑として塔弥の方は見ない。

「悩みならあります。それを今どうすればいいか、考えていたところでした」

「ふん。所詮恋愛がどうとか、人間関係がうまくいかないとか、そんな安いことじゃろ?」

「僕にとっては重要な問題です。恋愛と人間関係だけでは説明がつかない、複雑な悩みだと思います」

「自分で説明ができない時点で、それは悩みとは言えん。見栄を張って苦労人ぶるな。悩みというのは、論理的に説明し得る不条理によって初めて生じるもの。そして合理性を獲得した時、初めてその悩みは解消される。説明ができないということは、不条理も合理性も何もないということ。世の人間が言う悩みの九割は、些細な鬱憤に過ぎんのじゃ」

 この手の意見に反論する術を、弱冠二十一歳の塔弥は持ってはいなかった。

 老人は姿勢をほとんど変えることなく話し続けた。コンビニの入り口付近から流れてくるたばこの煙にも、一切の不快感を示すことがない。

「一つ教えておいてやろう。生きるための基本は戦うことじゃ。地球上の生物はみなそうやって生きておる。死なないためにも、常に何かと戦うことが重要なんじゃ。わしは社会という巨大な敵を相手に戦い続けた。戦わないと、社会的な居場所を失うことになったからな」

「社会というのはつまり……?」

「日本は多様性を嫌う内向的な国じゃ。在日と言っただけで、目の色を変えて見られるような国じゃ」老人は脇を向いて唾を吐き捨てた。

 いつかの道徳の授業で学んだ。日本に住む朝鮮人がいると。そしてなぜか嫌われていると。だが当時小学生であった塔弥が、その授業で得た知識といえばその程度だ。そしてそれ以来、そのことは頭の片隅に置いたことすらなかった。

「だがそんなことで悩んだことはない」

 事実を知ったあとの老人の言葉は、塔弥の胸に重く響いた。無数の皺を蓄え骨が浮き出るほど薄くなった手の皮が、苦労の差を物語っているように俄に感じられた。

「社会の居場所を失ったら、それは死んだも同然。だから悩む暇があったら、何か行動を起こす。抗う。それが生きるための手段というものじゃな」

 塔弥がその場を立ち去る時も、老人はずっと前だけを見ていた。その佇まいは、塔弥がベンチに座った時と何ら変わりはなかった。

 交差点を横断する時に、一度だけ振り向いた。ベンチには、すでに中年の男が座っていた。そのスーツの男と老人との間には、人一人分の空間の隔たりがあった。

 その日、気づけば周りの目など、どうでもよくなっていた。再び舞に会った時に、こう指摘されたほどだ。

「なんか、清々しい顔をしてるわね。何かあったの?」

 塔弥は肩をすくめたあと、こう切り返した。

「さあな。鬱憤が一つ、晴らされたのかもしれない」

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