四面楚歌
「大道具なしでやるんだって。聞いた?」
頭上で声がした。机の上に伏せていた顔を上げると、腕を組みながら見下ろしてくる史織がいた。赤い服を着ていた。
すぐに返事ができなかった。それは質問を聞いていなかったからではない。彼女を警戒する気持ちが先行したからだ。
「何で朝から寝てるの? 調子悪いの?」
史織は答えを待たず、質問を被せてきた。塔弥の隣に空いている席を見つけると、そこに座った。
「別に……」痰が絡んでかすれたような声が出た。
「声が変ね。この授業、休んだら?」
史織はバッグの中を探りながら片手間に言った。関心などないとみえる。
「大丈夫。別に寝ていたわけじゃない。ちょっと気持ちが上がらなかっただけ」
「何で? あと九日で舞台本番。そう考えたら自然と気持ちが上がるでしょ?」
むしろ駄々下がりするよ、と言いたかったが抑えた。
「まあ、何も起きなければいい舞台になるだろうな」
代わりにそう言った。これはちょっとした罠だった。史織が手紙の人物であれば、何か反応を示す可能性がある。
「何も起こさせない。今までの失敗は全部頭の中。どんなミスが出ようと、対処できる用意があるから」史織はショートヘアの頭を、とんとんとつついた。そして、鋭い口調で続けた。「塔弥もしょうもないことをして、最後の舞台を台無しにしたら許さないよ」
「俺は何もしない。あくまでいつも通りやるよ。史織こそ、余計なことをしないでくれよ」
「何よ、余計なことって。俺の演技を邪魔するなって言いたいの? そんなに上手くもないくせに、よくそんな上からものが言えるね」
「別にそういう意味で言ったんじゃないさ」
「いい? 私はこの最後の舞台に、大学生活の全てをかけるつもりで臨むから。将来、大学時代のことを振り返った時に、その舞台のことしか思い出せないくらいインパクトを残したい。だから今までみんなに厳しく当たってきた。そのせいで後輩に変なあだ名をつけられたけど、私の貢献でみんなが上手くなってたらそれでいい」
史織は水筒を取り出して口をつけた。
「そうか……」呟いた塔弥は、机に両肘をついて体重を乗せた。
史織ではない。何となくそう感じた。これだけ意気込んでいるのだ。劇を壊そうとはしないだろう。仮に彼女が手紙を書いた人間なら、何かの企てに舞台の日を選ぶとは思えない。
「あぐぉぎぐぉが……」
突然、史織がうがいをするような声を発した。塔弥が振り向いた時にはすでに喉を通っていたようだったが、どうやら飲み物を口に含んだまま話そうとしたらしい。水筒の蓋を閉めながら、彼女はもう一度言い直した。
「あの人だ」
その視線の先には、塔弥がこれまで探し求めていた女の姿があった。彼女は扉を抜けたあと、ただ前だけを見ながら所定の席へと移動した。所定の席とは、前から三番目の窓際の席だ。この講義で彼女が必ず座る席である。頭を素早く後ろに倒して髪の乱れを整え、そして座った。
「名前、何だっけ?」
史織が尋ねた。薄茶色のコートを手際よく脱いでいくその女を、史織も知らないわけではない。メンバーは皆その者を知っている。ただし、親密度合いに違いはあるようだ。史織は、よく演劇を観に来ていた人、くらいに彼女を捉えているとみえる。
「舞だ」塔弥は言った。そして俺に不安だけを残して消えたやつ、と心の中で付け加えた。
先週の今日なら、立ち並ぶ机をなぎ倒しながら彼女の元へ突進したに違いない。なぜ〝嘘〟をついたのか、いち早く問いただしたかったからからだ。その日彼女は現れなかったが、塔弥はつい最近までそうする機会を窺っていた。
しかし、今は違う。真由美の自己嫌悪が真実であることが証明された時点で、舞を追及する必要はなくなった。確かに真由美の暴走という点は気がかりだが、それ以上に気がかりなのは起こると分かっている手紙の予言の方だ。その予言と暴走は関係があるという推論は誤りであり、二つを切り離して考える必要が出た時、後者に関してはイブの日を過ぎてから追究すると決めた。だから塔弥は、頬杖をつきながら窓の外を眺め始めた舞に話しかけに行こうとしなかった。
授業が終わると、塔弥は立ち上がって伸びをした。
「今週を乗り切れば冬休みだな」
「勉強しなくていいんだぜ。最高だよ」
どこかから、そんな会話が聞こえた。暢気なものだな、と思いながら窓の方を見た。いつの間に去ったのか、そこに舞の姿はすでになかった。
「どうしたの?」
不意に背後からそう言われた。だが史織の尖ったような声ではなかった。もっと落ち着いた雰囲気のある声だ。
振り向かずとも、それが舞だと分かった。
「誰かをお探しで?」
「いいや、景色を眺めていただけだよ」窓を見たまま言った。
「あらそう」
舞は少し時間を空けると、次にこう続けていった。
「じゃあ、史織さん、おはよう。元気?」
「え、あ……まあ、それなりに」
「ちょうどあなたと話したいことがあったの」
「え……私と?」
「ええ、だから一緒に行きましょう」
舞のわざとらしい言い方に、塔弥はため息をついた。仕方なく振り向いてぶっきらぼうに言った。「はいはい、あなたを探してました。これでいいだろ。史織が困ってるから、その辺にしておけ」
「ふふ、初めから素直に言わないからそうなる。ごめんなさいね、史織さん。その服、すごくお似合いよ」
どう反応していいか分からない様子の史織に、塔弥は教室から出るよう促した。舞と二人だけになったあと、何の用かと尋ねた。
「気になる? 真由美のこと」舞は言った。
「急に何だよ。あれだけ俺に相手しないように振る舞っておいて、今さらそっちから出向いてくるなんて」
「相手しない? 何の話?」
「とぼけないでくれ。メッセージを無視した上に、先週はこの講義に出なかった。まるで俺から逃げるように」
舞は首を振って否定した。メッセージに答えられなかったのはスマートフォンが突然壊れたからで、講義を休んだのは風邪を引いたからだと彼女は言った。出来すぎた話だと思ったが、表情一つ変えずに淡々と話す彼女からその真偽は読み取れなかった。
次の講義を控えた学生たちがぞろぞろと入ってきたので、塔弥たちは教室を出た。
「お前を疑ってたけど、あれは本当だと分かった」テンポよく廊下を歩きながら、塔弥は言った。
「あれって?」
「はあ、何回とぼけるつもりだ。お前が以前『闇』と形容してたやつだよ」
「真由美の話?」
そう言うと、舞は歩く速度を急激に落とした。塔弥が止まって振り返ると、彼女は訝しげに眉を寄せていた。
「分かったって、どういうこと?」
「真由美の家に心理カウンセラーが訪問してたんだ。それをこの目でちゃんと確認した」
「本当に?」
「間違いない。会話も少しだけ聞いた。悩みがどうとか、そういったことを言ってた」
舞が小さな声で何かを呟き始めた。あからさまに彼女は動揺していた。理由が分からず、塔弥の顔も次第に怪訝さを帯びた。
「何かおかしいか?」彼は聞いた。
「いいえ、ただ……」すると舞の顔から、険しさが溶けるように消え去った。「ただ、あなたがそうやってあの子のことを気にかけてあげるのは大事なこと。その調子で」
そして再び無表情が張りつく。百面相のように豊かな表情はないが、その心情は様々なのかもしれない。声のトーンが僅かに変化するのを、塔弥は感じていた。
舞が塔弥を追い越し歩き始めた。その足取りに動揺の気は引いていた。
何に引っかかっていたのかを問い詰めたが、塔弥は執拗に突き返された。仕方なく諦めた時には次の教室にたどり着いていた。彼女とはここで別れる。
「それじゃあ、私はここで」
舞は軽く肩を上げ、それを手を振る代わりとした。そのまま去るのかと思うと、彼女は思い出したように言った。「そういえば、莉央と何かあったの?」
塔弥は軽くのけぞった。「何でそれを?」
「誹謗中傷が山のようだったから、気づきたくなくても気づくというものよ」
「どういうことだ?」
「あら、SNSは見ないタイプなの? なるほど、だから感覚が世間ずれしてるわけね」
舞が引き出したスマートフォンの画面を見て、塔弥は肩を震わせた。
そこには莉央がネット上に投稿した発言がずらりと縦に並んでいた。投稿数は三千を超え、画面をいくらスクロールしても終わりが見えない。中には写真が添付されたものもあり、買った服などの情報が提供されている。どうやら莉央は近況の報告にネットを活用しているらしい。
そしてその投稿に、突如として塔弥の名が登場するようになる。それは十二月三日の投稿を起源としていた。体育館の器具庫で、塔弥が莉央に「お前はいらないから出ていけ」と怒鳴りつけた日だ。その日の投稿の一つに、こんなものがあった。
『塔弥こそいらないから。消えちゃえ!』
次第に過激化していく発言は、十二月八日を境に様変わりする。それまでは分かりやすい暴言が並んだが、この日からはまるで人が変わったように落ち着いた言葉になった。しかし、その一つ一つが不気味である。
『塔弥は合ってない。代わりがいても誰も文句は言わない』
『塔弥は異国の人。でなければおかしい』
そして、昨日の塔弥に関する最後の投稿がこうだった。
『弱き者、汝の名は塔弥』
呼気を乱しつつ、塔弥はスマートフォンを返した。最初に彼を襲ったのは、激しい怒りだった。
「ここまでする必要があるのか……?」
大声を上げないようにこらえたが、右手は教室の扉を強く叩いていた。大きな音に対し、室内の何人かが野次馬精神を働かせて見にやって来た。だが塔弥が睨むと、怖じ気づいて戻っていった。
「ネットは恐ろしいわ。何でも言えてしまうものね」
舞がこう言った時、塔弥の中で怒りは不安に変わった。
ネットは恐ろしい。だがそれは、何でも言えるということだけではない。誰でも見ることができるということも含まれている。すなわち、全く知らない人間も見得る。そして塔弥の名と評価は、そういった者にも知れ渡ってしまっている。
予鈴が鳴った。
「じゃあ、塔弥、また今度」
舞は少し急ぎ足でその場を立ち去った。入れ違いで猫背の白髪頭がこちらへ向かってくる。
塔弥は教室に入ってすぐの席についた。姿勢は自然と、ちょうど教室に入ってきた教授と同じものになっていた。
予鈴が鳴り止んだ時、真後ろで話し声が聞こえた。声は潜められていて、何を話しているかはほとんど分からない。だが、ある部分だけははっきりと耳に届いた。そして塔弥は、途端に居心地の悪さを感じることになった。
教授の咳の音が響き渡る。それを上回る大きな雑音として、塔弥の耳には今の言葉がこだましていた。
あれが塔弥っていう人だってさ――耳を塞いでも、それは頭の中で響き続けた。
教室を飛び出したあと、なるべく人目につかない場所を探して歩いた。時刻は十二時。本来なら食堂へ向かうところだが、間違ってもそんな人の多い場所には行きたくなかった。空腹は我慢し、思いつくがままに図書館へ入った。この昼休みの時間は、ここを利用する人も少ないはずだ。
それでも人目は気になった。最上階である五階まで上がり、その隅にある仕切りのついた机に腰を下ろした。そこでもさらに、仕切りの板に顔を隠すようにした。
不安が解消されるまで、ここでじっとしていよう。そう思った矢先、椅子を引く音が聞こえた。それも、塔弥の真横の席からだ。背を起こして仕切りから少しだけ顔を覗かせると、人の背中のラインが見えた。確実にそこに誰かが座っている。
塔弥は舌打ちをした。なぜ数ある座席の中からこの場所を選ぶのか。それも、自分が一人になりたいときに限って。
わざと机にぶつけるように椅子を戻し、移動した。エレベーターに乗り、悩んだ末に一階のボタンを押した。結局図書館を出ることにしたのだ。
ところが扉が閉まった時、塔弥は開くボタンを連打していた。彼をそうさせたのは、個室という空間に対する恐れだった。人が乗り込んできた時に、そこは逃げ場がない。各階で停止などされたらと考えると、気が気でなかった。
が、遅かった。エレベーターは彼に体の浮くような感覚を与えながら下降を始めた。
ボタンのある右端に立ち、頭上の表示を見ながら息を呑んだ。何をそんなに恐れているのだと、不安を一蹴しようとする気持ちもあったが、脳裏には先刻聞いた言葉が焼きついて離れなかった。自分は学内で、悪い形で有名になってしまっているのではないか。そんな風に、妄想は拡大していた。
一度も止まらずに一階に着いた時、安堵の息が漏れた。扉が開くと同時に暖かい空気が入ってくる。それを浴びに行くように外へ踏み出した。
その時、死角から不意に人影が現れた。ブレーキをかけたが効かず、接触した。相手が小さく、しかし甲高い声を発した。塔弥は反射的に振り向き、言った。
「すみません」
目が合った瞬間、時が止まったかのような感覚があった。互いに見つめ合い、そして硬直した。僅か一秒、二体のマネキンのように。
塔弥の唇が「まゆみ」と動いた時、相手は顔を逸らした。その首の回し方に、滑らかさはなかった。
真由美は、どこか躊躇いがちにエレベーターに乗り込んだ。その時、塔弥は気づいた。彼女と共に久美がいたことに。
扉が閉まる。俯く真由美の顔が切れていく。久美もなぜか俯いている。だが閉まりきる寸前、久美は顔を上げた。薄く開いた目の下に小さな隈があった。
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