名探偵
二日後の日曜日、舞台の本番まで残り十日となり、さすがに気合いを入れていかないといけないと思った。少人数での稽古は何度も組んだが、全員で行うことは未だになく不安が募った。
しかしその傍ら、何とかなるのではとの自信があることもまた事実だった。演劇部で培った経験を活かせば、練習など行わなくとも大丈夫だろうという楽観的な考えが、頭の片隅に残っていたのだ。そしてそれは、塔弥だけの話ではないことが窺えた。ここ最近、自主的に稽古を行う動きがメンバーの間に見られないのである。
塔弥はこの日の朝、自宅で衣装を羽織った。燕尾服に似せた上下真っ白のその衣装は、助っ人である沙絵花が一から作ったものだ。塔弥の役は公爵だが、彼女は王子様をイメージしたという。着心地は抜群だった。
だが依然士気を高めきれていない彼は、多少の動作や台詞を確認したあと、間もなくベッドに仰向けに倒れ込んでしまった。
ここまで本番への実感が湧かないのは初めてだと、あくびをしながら思った。演劇部で共に歩んできた仲間たちと行う最後の舞台であるにもかかわらず、なぜこうも奮い立たないのか。それは、根拠のない自信だけがそうさせているのではないと、塔弥は確信していた。
やはり彼が一番大事にしているのは、恋人である真由美なのだ。彼女を差し置いて、彼は演劇には集中できない。彼女が悩みを抱えていること、彼女にどういうわけか避けられていること、そして彼女に関する謎の手紙――これらのわだかまりが解けない限り、本番当日すらこの無力感で迎えることになろう。
塔弥は起き上がり、汚れないうちに衣装を着替えることにした。畳んでクローゼットに仕舞い、部屋着ではなくデニムと白いタートルネックのセーターを着た。そしてスマートフォンで、ある人物に今から会えないかという連絡を入れた。
相手も暇だったのか、すぐに返信は届き、承諾を得た。そして一枚の写真が送信されてきた。開くとそれは地図だった。中央に三角コーンのような赤い目印が表示されていて、そこが相手の家であることを示していた。塔弥は財布と皺だらけの一枚の紙をデニムの後ろポケットに忍ばせ、マンションをあとにした。
二階建てのアパートにたどり着いた。各階四部屋ずつの小さなものだ。正面にコンビニがある広い道路に面している。車が行き交っていて、騒音で夜間は満足に眠れない者もいるだろう。実際、ここの近くですでに、塔弥はクラクションの音を二回聞いていた。
部屋は103号室らしい。塔弥はベルを一回鳴らした。
アパート全体を仰視し、壁の灰色の塗料が鮮やかであったことからも推測していたが、ステンレスのドアノブの輝きを観察した時、この建物が比較的新しいということを確信した。
そのドアノブがお辞儀をすると、ゆっくりと扉が開いた。隙間から、爆発したように乱れた髪の毛が目に飛び込む。続いて太くて黒いふちの眼鏡。そして横に大きく広がった口元――。
「よう、待ったぜ」
ドアから横向きに顔を出して相手は言った。見た目はまるで普段の彼とは違ったが、力のあるその声は彼のもので間違いない。
「あの地図の三角は、ちょうど塔弥が立ってる所を指してる。つまり目的地はそこだから、用件もそこで済ますことになるな」
「冗談はよして中に入れてくれ。寒いんだから」
「はは、俺の冗談は正気だ。それは覚えておけ」
塔弥は中に招かれた。
まるで新築物件を見ているかのようだった。四畳半の和室の床にものは一切置かれておらず、およそ家具と呼べるものが見当たらない。部屋の奥の大きな半透明のガラス戸と、手前にある押し入れの戸はぴたりと閉まっており、一度も触れていないかのようだ。おまけに、畳の藁の匂いが部屋中に立ち籠めている。生活感がまるで感じられない。
彼――すなわち弘毅――は、湯気の立った小さな湯飲みを両手に持ち、キッチンから現れた。彼が着ていたのは、袖の短い浴衣だった。その淡い黒色が、長年使用していることを思わせる。この部屋の真新しさとは対照的だ。
彼は床に茶飲みを置き、胡座をかいた。塔弥も彼に向き合う形で座った。湯飲みの中は、抹茶だった。
「シンプルが一番とよく言うが、一番はシンプルじゃない」弘毅が乱れた髪を伸ばしながら話した。「シンプルは無駄がないことを言う。ものが多くても、それがそいつにとって無駄じゃなければ、それはそいつにとってのシンプルだ。だが一番じゃない。なぜなら、うるさいから。うるさくないのは、何もない状態だ。だから、この部屋は一番」
「確かに、無駄が一切ないな。まさにシンプルだ」
「いや、無駄はある。あのエアコンがいつの季節も無駄を生む」
弘毅は塔弥の頭の上を指差した。天井際の壁に、緑のランプが点灯したエアコンがある。
「何で?」
「だって、夏は暖房を使わないし、冬は冷房を使わない。春と秋は稼働すらさせない」
「それが無駄なら、この部屋は一番ではないんじゃないのか?」
「いいや、一番だ。ほら、耳を澄ませよ。暖房がついてるのに、うるさくないだろ?」
「ああ、なるほど」
弘毅は湯飲みの底を上げて、中身を一気に飲み干した。それを見て、抹茶はもっとゆっくりと嗜むものではなかったかと、塔弥は思った。
「で、今日は何で誘ってきた?」弘毅が言った。
「それが、ちょっと聞きたいことがあってさ」
「それはわざわざ休日に会わないとダメなことなんだろうな?」
弘毅は後ろの床に両手をついた。せっかくの休日を邪魔されて、本当は嫌だったのだろうか。
「まあ……そんなところだ」
塔弥は言いつつ、自分のお尻の方に手を伸ばした。
「噂話と浮気話は俺の管轄外だから、問われても上辺の話しかできないぜ。聞くなら、俺の得意分野の質問をくれ。ちなみに得意分野は上着の話だ」
「そんな質問をしにわざわざ来るかよ。俺が聞きたいのはこれだ」
塔弥は折り畳んだ紙を開いて、弘毅の眼前に提示した。
眼鏡の向こうの瞳が、その紙のどこを捉えているのかは分からなかった。しかし、見た途端に小さく口を開けて固まったことが、驚きを伝えていた。そして彼はしばらくそうしていた。
「これ、俺の家の郵便受けにあったんだよ。気味悪くないか?」
塔弥がやや潜めた声で言うと、弘毅はようやく目線を紙から外し塔弥を見た。
「裸で来たのか?」そう言った弘毅の声はいつになく真剣だった。
「いいや、白い封筒に入ってた。でも住所も名前も何も書かれてなかった。だから、その『哀』って言う人が直接入れたんだと思う」
「いつ?」
「ええっと……確か、十二月の八日だったな」
「何でこんなにしわくちゃなんだ?」
「俺がいたずらだと思って捨てようとしたから。でも、それが何を意味してるのか暴きたくなって、取っておいたんだ」
全ては説明しなかった。そもそも、こうして弘毅に手紙を見せていること自体、あまり快いことではなかった。彼の口から他の人間に漏れる可能性だってある。できれば手紙のことを知るのは、自分だけに留めておきたかった。
だが、このままでは埒があかないという焦燥感が、結局彼を手紙の披露へと動かした。それでも、最小限に留めたい思いはあり、見せるなら一人だけだと決めた。そしてそれは弘毅しかいないと、塔弥は思っていた。それには理由があった。
「これが何かの言葉遊びだとしたら、弘毅が見破ってくれるんじゃないかと思ったんだ」
手紙を見ながら眉をひそめていた弘毅が頷いた。「それは悪くない考えかもしれないが、見破ったら字が割れちまうから、やめた方がいいんじゃないか?」
「字が割れる?」
「紙が破けたら、字が真っ二つになるだろ?」
弘毅は冗談を言いつつも、険しい顔を崩さなかった。彼の頭の中で、きっと手紙の内容の処理作業が進んでいるのだろう。
塔弥は紙を広げながら、それを邪魔しないようになるべく息を潜めた。
「十二月八日って言ったな?」弘毅は言った。
「あ……ああ」
「ふうん。十二月八日ねえ……なるほど」
塔弥には分からなかった。なぜその日付が重要なのかが。
やがて、弘毅は腰を上げた。読解が完了したのかと塔弥は期待しながら彼を見上げた。
「何か分かったのか?」
「ああ」
「本当か。早く教えてくれ」
「抹茶にもカフェインが含まれていることが分かった」
「え?」思わず声が裏返った。
弘毅は毅然とした様子で、襖を開けて出た。その後十秒足らずで便器が水を吸い込む音を聞いた。彼はそれが鳴り止まぬうちに、腰の帯を締めながら戻ってきた。
「何だ、手紙の内容が分かったのかと思ったよ……」
塔弥が苦笑すると、気合いを入れるかのように帯を固く締めて強く息を吐いた弘毅はこう言った。
「ラブレターを靴箱に入れるやつは馬鹿だと思わないか?」
彼の話は途端に飛躍するので、塔弥はついて行くことに一苦労だった。「何でだ?」と言ったが、聞き流すつもりでいた。
「手作りの封筒にハートのシールで封をして、肝心の名前はそこに書かず靴箱に放り込む。中を開けてもらえるとは限らないのにな」
だが弘毅がそう言った時、塔弥は立ち上がって耳を傾けていた。彼は何の脈絡もない話をしているのではない、ということに気づいたからだ。
「そのまま捨てられるかもしれない。名前を外に書いていないと、相手に誰からの手紙かを永遠に知られずに終わることになる。だから馬鹿じゃないやつは、きちんと封筒に名前を書く」
「書かないやつは……」
「馬鹿か、名前を知られる必要がないか、あるいは知られたくないかのどれかだな」
弘毅は壁に背中をつけた。そして顎に手をやると、さながら推理に没入する探偵のようであった。
その和服のシャーロック・ホームズに、友人はこう問いかけた。
「俺のこの手紙の主は、名前を知られたくないって?」
「まあ、そうだろうな」続けて鋭い眼光で、信じがたいことを言い放った。「多分、最後の『哀』ってのは名前じゃない」
それを聞いた時、塔弥は軽い目眩がした。名前でないとすればもはや手がかりはなく、送り手を探すことが途方もない作業となる。
「じゃあ、これは何を意味してるんだ?」
「さあ、そこまでは分からん。哀しいとか、そういったメッセージか何かだろう」
弘毅が手を差し出してきたので手紙を渡した。
彼はもう一度じっくりと目を通したあと、鼻で笑った。「下手な韻だな。頭と脚で踏んだつもりだろうが、腕が全く立ってない。これじゃあ、踏めたのは韻ではなく、地団駄といったところか」
「韻から何か分かるのか?」
「ああ。何かに対する反抗ということ」
「反抗?」
手招きされ、弘毅の隣へ壁にもたれて並んだ。
「知った、叱咤」
弘毅は紙面の文字に丸をつけるように指を動かしていった。塔弥は軽く頷きながらそれを見守る。
「阿鼻、他に、さに。罪、詰み、祭り。その日、ごとし、殺し。噬む、なく、苦く。それから、臍、程、ほろ」
言い終わったあと、弘毅が得意げな顔を向けた。
塔弥は首を傾げるより他はなかった。列挙されたのが韻を踏んでいる部分であることは、彼も承知している。改めて言われたところで、何もひらめくものはない。
「……で、それがどうした?」塔弥は言った。
「はあ……。せっかく順番に言ったのに分からないのか?」
「順番? 何の順番だ?」
「あいうえおだよ。あ行からわざわざ言い始めてやっただろ」
「ああ、なるほど。……で、五十音順だから何?」
「おい、もうそろそろ気づけよ。え行で韻が踏まれてないだろ」
言われてみればそうだと、塔弥は気づいた。だが、まだ弘毅が言わんとすることが分からない。そのことと「反抗」がどう結びつくのか。
弘毅は痺れを切らしたようだった。塔弥の気づきを待たず、核心に言い及んだ。だがそれは、塔弥には絶対にたどり着けない答えだった。
「江戸時代、ある風潮があった。キリスト教徒の弾圧だ。いろんな形で取り締まったらしいが、大して成果が現れなかった。そこで何をしたと思う? まあ知ってるだろうが、一人一人にキリストの絵を踏ませるという奇行に走ったわけだ。踏まないと処罰される。だからみんな踏むだろうと思った。でも、中には本当に踏まないやつも出てきた。誰かって? 世の風潮に反抗するやつらだよ」
え行で韻を踏んでいないことが「反抗」に結びつく過程を説明され、塔弥は一時的に納得感を得た。しかし、それは考えすぎではないかとも思った。そもそも、なぜ突然江戸時代の話になるのか。手紙と何の関係もないではないか。拭いきれない不満を抱えることになった。
ところが、江戸時代の話は何の脈絡もないのではなかった。それは、このあとに弘毅が言うことに関連していたのだ。そしてそれを聞いた時、塔弥は彼の着眼点の違いに身を震わせるのだった。
「ところで、江戸時代はいつ始まった?」弘毅が言った。
「え……確か、一六〇三年か?」
「これについては説が多くある。それもあるが、俺が信じるのは関ヶ原の勝利の年で、一六〇〇年」
「へえ……」
「じゃあその年、シェイクスピアは何をしてた?」
「え、何でいきなりシェイクスピア?」
「いいから。何を書いた?」
塔弥は上を向き考えた。そして次の瞬間全身が熱くなった。『十二夜』と勢いよく口にしていた。
「これも諸説あるが、まあそういうことだ。つまり俺たちがやる劇ということになる」
「つまり、この手紙は劇と関連が?」
「まあそう焦るなって。物事には順序がある。一つずつ処理しないと」
「……すまない」
「いいか、何でいきなりキリストの話を持ってきたかというのは、ここに関わってくる。それは、十二夜というのがキリストと深い関係があるから」
「十二夜とキリスト……」
「十二夜はクリスマスから十二日目の夜のことだ。その日まではクリスマス祝いが続いていたらしい。で、クリスマスと言えばキリスト。どうだ、これで絵踏と繋がっただろ?」
塔弥は言葉に詰まった。自分が表面だけしか捉えていなかったその手紙の内容を、弘毅は数分足らずでその深層まで読解してしまったのだ。
だが衝撃はこれだけにとどまらなかった。
「十二夜を裏付けるのが、手紙が届いたという日だ。つまり十二月八日だろ?」
「十二月八日……あ、そうか。ジュウニ、ヤ」
弘毅が含み笑いを浮かべた。
「届いた日自体がメッセージだったのか……」塔弥は言った。
「そういうこと。あとは、俺たちが劇をやるのはいつだということも加味しよう」
「それはクリスマス・イブだが……」
「そう。そしてその日に何かが起こるということが、この手紙に書かれてる」
「え? そんなことどこにも……」
塔弥は手紙に目を落とし、目まぐるしく視線を泳がせた。
すると弘毅が手を伸ばしてきた。彼の指は『阿鼻叫喚したがその日』という部分の上をなぞった。
「不自然な日本語だと思わないか? これは明らかに意図された言葉の羅列だ」彼は言った。
「『阿鼻叫喚した。が、その日』ということか?」
「違う。『した』の部分が重要。これは動作の完了じゃなくて、上下の方向だ。つまり『阿鼻叫喚、下がその日』となる」
「え……つまりどういう……?」
「『阿鼻』の下がその日。五十音でア・ビの下は?」
「……イ……ブ」全身に鳥肌が立つのを感じた。
「な、書いてあったろ。イブがその日だって。何が起こるのかは知らないが」
手紙を持つ塔弥の両手は小刻みに震えた。
この手紙は真由美の暴走を予言するものだというのが、これまでの塔弥の推測だった。だがそれは違うと、今分かった。起きるのはそんな偶発的なことではない。
もっと計画的な何かが、起こされようとしている――。
「それで、この手紙を塔弥はどうしたいんだ?」
「まずは書いた人を探し出そうと思った」
「なるほど。だがそれはやめておけ」
「どうして?」
「最初に言ったが、相手は名前を書いていない。仮に当てがついてお前だろと摘発しても、そいつがイエスというわけがない」
「本当に『哀』は名前じゃないのか? それがまだ信じ切れない」
「名前じゃない。大体、ここまで来てまだ気づかないのか? おおよそ誰が書いたのか」
まさか手紙の書き手まで分かってしまったのか。塔弥は目を丸くして弘毅を見た。
フレームを押し上げ眼鏡の位置を修正する彼は、この程度の推理は余裕といった雰囲気だった。彼に手紙を見せて正解だったと、塔弥はふと感じた。
だが次の弘毅の発言に、塔弥は胸を強く握りしめていた。心臓が殴打されるようだった。「あり得ない」という言葉が口をついた。
今さら弘毅を信じない自分はどこにもなかった。それでも首は拒絶するように振られていた。受け入れられない気持ちがどこかに残っていたのだ。だがそれは当然のことだった。弘毅は平然とこう言ったのである。
「これだけ俺たちの演劇に関する事柄が出てきたんだから、もはやメンバーの誰かが書いたとしか考えられないだろうが」
不吉な何かを計画する者が、仲間の中にいる。自分はおそらく何らかの恨みを持たれている。そして、イブの日にそれが晴らされることになる。考えたくもなかった。
だが何よりも辛いのは、仲間を仲間として見ることができなくなることだった。きっと疑いの目を向けることは避けられない。全員を犯人扱いせざるを得ないのだ。
塔弥は力なく言った。
「このことは、二人だけの秘密にしておいてくれ……」
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