アイを探せ

「――であるからして、この文章は二重の意味に解釈できるんですねえ。統語論は、これを樹形図で解決するんですよ。こうやって、品詞をまずは分解して、それから……」

 頭頂部が円形に禿げた痩せ型の教授が、ホワイトボードに解説を入れていく。だが、腕がだるくなるのか、頻繁に書く手を休ませるので遅々として進まない。開始十分で、すでに眠り始める学生も見受けられる。

 塔弥にようやく名簿が回ってきた。後方の座席にいたので、手元に届くのに随分時間がかかった。それを渇望する気持ちが時間を長く感じさせていたということも、あるかもしれない。

 名簿には約七十もの名前が連なる。そして、すでにいくつもの名前が丸で囲まれている。それが出席しているということの示しなのだ。塔弥も自分のを見つけて丸をした。だが、すぐに次の者に渡さない。上から順番に、一人一人の名を確認する作業に入った。

 一通り見終えたあと、落胆のため息が出た。そこに「哀」という名前はなかった。塔弥は右にいた者に名簿を渡した。

 授業の終わりの鐘が鳴った時、はっとした。うたた寝の状態に陥ってしまっていた。前日にあまりよく眠れなかったからだろう。目をこすりながら、出口へと続く人の流れに乗った。

 トイレで手を洗いながら寝ぼけたような自分の顔を見ていた時、右太ももに振動が伝わった。濡れた手で、スマートフォンを取り出した。遙からのメッセージだった。

『きつろうだ。午後に会おう』

 意味はいまいち理解できなかった。だがそれは、頭が働いていないからではなく、知らない単語が含まれているからで間違いなかった。

『どこで?』

 打ち返して、トイレを出た。

 遙に会うのは、午後を待つまでもなかった。次の授業まで空きのあった塔弥が、暇なので図書館に向かおうと外に出た時、人混みの中に彼を見つけたからだ。クリーム色の髪をしたやや色黒の女子と喋りながら、正面から歩いてきていた。

「だよねぇ。わかるわかる。いまどきみんなそうじゃない?」色黒の女は、ギャルのような口調だ。

「俺はしないけど、やる人はやるよね。人の意見に乗りすぎるのもどうかと思うよ」遙の声は女子との会話では少し高い。

「ネットとかやばいじゃん? 言いたい放題言ってさ。そういうやつらに限って、人前では全然大したこと言わないよね」

 遙が塔弥に気づき、大きく手を振って寄ってきた。隣にいた女子は気を遣って、小声で「またあとでね」と言って、校舎へと入っていった。

 遙がその子を見ながら「可愛いなあ」と呟く。鼻の下はこれ以上ないくらいに伸びている。

「友達か?」塔弥は聞いた。少し怠けたような声になった。

 遙は頷いたが、視線が遠くに据えられていた。すっかり目を奪われている様子だった。塔弥が彼の目の前に手をかざして上下に振ると、ようやく意識を取り戻したように目を開いた。

「さっきの連絡は何だったんだ?」今度は声を張った。

「連絡? ああ、あれのことね。実はきつろうがあった。それで塔弥に報告しないといけないと――」

「ちょっと待て。まず聞かせてくれ。きつろうって何だ?」

 遙はきょとんとした。どうやら彼の中では常識の言葉であるらしい。どうして知らない、という目で塔弥を見つめていた。

「最近の造語か? 俺、あまりそういうの詳しくないから」

「造語じゃないよ。れっきとした日本語だよ。よき知らせっていう意味で使わない?」

「よき知らせ……。それって、まさか吉報と朗報か?」

「きっぽ……?」

 二つの語が同じような状況で使われるので、知らぬ間に一緒くたにしていたようだ。遙はそのことを知らされると、口を大きく開けて手をぱんと叩いた。

「だからか。何回やっても漢字に変換されなかったのは、そういうことだったのか」

 あの一つのメッセージの裏に、そのようなもがきがあったとは。塔弥は思わず破顔した。しかし、その笑みはすぐに真剣な表情へと変わった。よき知らせと聞いた時点で、遙の人探しに進展があったのではとの推測が立ったのである。

「よき知らせっていうのは、例の件か?」声を潜めた。

 幼さの残る遙の顔に含み笑いが生じると、塔弥は遠方に見えた駐輪場へ彼を誘導した。人の多さを避けるためだ。編目の柵で仕切られたその空間には、自転車もほとんどなければ人影もない。

 塔弥はそこで再び遙に向き合った。気の逸りから、自然と体は前のめりになる。

「教えてくれ。誰だ?」

「ショウカちゃんとエミちゃん」遙は言った。

「……え? 二人もいたのか?」

「そうだよ。やっぱりカラオケは三人くらいがちょうどいいから」

「待て……一体何の話をしてる?」

「何って、いろんな女子に話しかけてるうちに、連絡先をゲットして、遊びにいく約束までできちゃったっていう話だよ。よき知らせだと思わない?」

 塔弥は開いた口がふさがらなかった。そして気づいた。遙がなぜ「哀」という名前の人を探すことに協力してきたのかを。それは紛れもなく、下心から来るものだったのだ。人探しという名目で女子に近づくというのが、そもそもの魂胆だったということである。

「それを言うために俺に連絡を……?」

「うん。こんな方法で女子と話せるなんて思いもしなかったから、どうしても伝えたくってさ」

「……で、人探しの方はダメだったと」

「そうだね。『哀』っていう名前の人は、残念ながらいなかった。

まあ、そう気を落とすなよ。今日でラッキーパーソンの効き目は切れるんだろ? じゃあ、今日を乗り切ればそれでオッケー」

 遙が無邪気に言えば言うほど失望は大きくなり、やがて大息として漏れ出た。

「分かった。協力してくれてどうもありがとう」

 皮肉を込めたつもりだったが、遙は得意げに鼻をひくひくとさせた。

 だが駐輪場を出た時、遙が思い出したように言った。「オサダのことも一応調べておいたんだ」

「オサダって、前に言ってたオサダアイっていう人のことか?」

「そう。入学の時の名簿が家にあったから確認しておいた」

 赤いスニーカーを砂利にこすりつけて歩く遙に、塔弥は心の中で謝った。下心はありながらも、きちんと塔弥のために行動してくれていたのだ。一度抱いた失望は、撤回せねばなるまい。

「それがさ……」

 遙は、オサダアイの名前の表記が「愛」であることを淡々と語った。唯一知った「アイ」であっただけに期待は高かったが、それは「哀」ではなかった。

「そうか、違ったんだな。でも調べてくれてありがとう」

 別れ際に言った。今度は皮肉ではなく真の謝意であった。昇降口から階段を上っていく彼の、流れるように整った後ろ髪を見送りつつ、あとは自分で頑張らねばと塔弥は拳を強く握り込んだ。

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