ひとつの仮説
長話が一服し、大輔の家から家路につく。午後七時だが、辺りはすっかり暗くなっている。肩をすぼめて歩かないことには忍ぶこともままならない寒さである。手には手袋、顔にはマスク、頭にはニット帽と肌の露出を限りなく抑えて、電灯の明かりを頼りに歩を進める。
この辺りの地理にはあまり自信がない。同じような見た目の家が並ぶ上、何度曲がっても同じような道に出るので、混乱する。大輔の家から迷わずに帰ったためしはなく、もれなく今回もそうなりそうな予感だ。
やはりだ、と思ったのは、あるマンションを見た時だった。大輔の家を軸とした時に、塔弥の自宅が十二時の方向にあるとすると、そのマンションはおよそ二時の方向にあたる。見当違いの向きに進んでいたようだが、その建物が現れたということはすなわち、ここからは迷わずに帰れるということを意味していた。
塔弥がそのマンションを見知っているのは、それが真由美の住む場所だからだった。何度もここへ彼女を見送りに来たことがある。彼女の部屋が二階であり、外から見た時に右から二番目にあたるということも知っている。今、その窓から明かりが漏れていることから、彼女がいることは手に取るように分かった。
せっかくだし声を掛けてみようかなと思ったが、それはすぐに思いとどまった。真由美に避けられているかもしれないということを思い出したのだ。
なぜか突然、部屋の明かりが消えた。塔弥は思わず腕時計に目を走らせていた。七時十八分。目をこすってもう一度見ても、やはり変わらない。どう考えても就寝には早すぎる時間だ。
となると、考えられる可能性は一つだった。
彼女が出てくる――これ以外にない。
塔弥はエントランスのすぐ隣にあった電柱に身を隠した。最悪存在がばれても、マスクをしているから大丈夫だろうと思った。
間もなく扉が押し開かれたようだった。塔弥からは死角となってその様子は見えないが、それが分かったのは真由美の声が聞こえたからだった。その次には、聞き馴染みのない女の声がした。
「いえ、とんでもないです」
女はそう言った。声のみの印象だと、保険外交員といったところだろうか。上品に繕った調子だ。
「またお話をお伺いしてもいいですか?」真由美が言った。
「もちろんです。いつでもおっしゃっていただければ、ご相談にお伺いします」
「ありがとうございます。あの……少し自信が持てた気がします」
「同じようなお悩みを持たれる方が最近増えてきていますから、自分だけだと思い詰めないでくださいね。辛い時こそ、ご自身をしっかりと表現した方がいいものです。そうすれば、必ずいい結果が待っていますから」
違う、保険外交員なんかじゃない。その結論に至った時、塔弥の胸に込み上げるものがあった。
「それでは、失礼致します」
その女のものと思われるヒールが、地を打つ音を奏で始めた。それは次第に遠ざかっていく。
塔弥は電柱から少しだけ顔を覗かせた。スーツ姿の女が背を向けて歩いていくところで、真由美の姿はない。さらに顔を出して扉の辺りを見ると、もう誰もいなくなっていた。
エントランスから少し離れて、マンションを仰ぎ見た。ちょうど真由美の部屋の明かりが点灯したのを確認し、スーツの女のあとを追った。
「すみません。あの……」
そう言って、彼女の斜め前に出た。相手が歩みを止め軽い悲鳴を上げた時、自分が不審な格好していることを思い出した。
「どう……されました?」
マスクを取った塔弥を見て、彼女はある程度警戒心を解いたようだったが、体はまだ完全に彼の方を向いてはいなかった。年齢は三十台半ばくらいだろうか。
「さっき、真由美とお話されてましたよね?」なるべく柔らかい口調を心がけた。
「ああ、お知り合いの方ですか」
「いいえ。一応、それ以上の関係にある者です」
「……と、言いますと?」
「彼氏です」
女は明らかな驚きを見せた。元から大きい目をさらに大きくし、口も縦に開いた。
「そう……なんですか……。はあ……」
何がそんなに信じられないのだろうかと思いつつ、塔弥はたたみかけた。
「さっきのお話は、どういったことだったんでしょうか? 少し聞こえたのが、『悩み』という言葉だったのですが、真由美が何か悩みを?」
「そ、それはお答えできません。プライバシーに関わることですから。ご本人の許可がないと……」
「ひどい悩みなんですか?」
「ですからそれは……」
「どうしても知りたいんです。彼女が悩んでいると分かって、放っておくわけにはいかないんです。この気持ちは理解していただけるでしょう?」
「それは、十分理解できます。ですが、私にそれをお教えする権利はありません。こちらも、それは理解していただきたい」
「彼女を助けたいんです。彼女の力になれるなら何でもします。彼女が苦しんでいるのに何もできないのは……」
自分のこの発言がきっかけだった。
すべてが一つに結びつく感覚。入り組んだ謎が解ける爽快感。そして、悪夢の予感。この瞬間に一気に押し寄せた。
体が動いた。意識はある一つのものに向いていた。それが強力な磁気を発して、塔弥を引きつけているようだった。
「すいません。失礼します」
すでに走り出していた。女の反応は見ていない。おそらく呆然としているだろう。だが、どうでもいい。この突然の感覚を失わないうちに帰らねば――。
あの時の状態のまま、そこにあった。当然だ。自分以外、掃除をする者などいない。そして自分も掃除はほとんどしない。だから、そこにそれが転がっているのだ。
バッグと上着を床に投げ捨て、小さく丸まったその紙を拾った。字が失われていることはなく、伸ばせば読める。床に広げ、デスクの引き出しから下敷きを出した。それを紙に乗せて押さえつけ、軽く皺を取った。
何度も見た字だ。文章も頭に入っている。それでも改めて読む。だが、今度は何の手がかりもなく読むのではない。「あるもの」と関連させて読むのだ。その「あるもの」こそ、塔弥が電光石火のごとくひらめいたものであった。
「愛する彼女の犯す罪。お前は知った、彼女詰み。お前の叱咤、あとの祭り。臍噬む、程なく、ほろ苦く。阿鼻叫喚したがその日。他に共感するがごとし。さになき女、みなが殺し。哀」
今までにない手応えを感じた。完全に理解したわけではない。それでも、一つ一つの言葉が明らかに意味を帯び始めていた。
真由美の悩み――それが「あるもの」だ。
スーツの女が保険外交員ではないことを塔弥は悟った。では、彼女は一体何者なのか。その答えは彼女の発言にあった。彼女が確かに言った「悩み」という言葉がそれだ。そこで塔弥は思ったのだ。女は真由美の心理カウンセラーであると。
すると問題は、診療されるべき真由美の悩みが何なのかということになる。塔弥はそれが気になって、女に問い詰めた。しかし、女が口を割らずとも、塔弥は自分で口にした言葉でそれを導き出したのだった。それは彼が長らく忘れていたことだ。いや、より正確に言えば、嘘だと決めてかかっていたことで頭から抜け落ちていたことだ。
真由美の悩みとはすなわち、自己嫌悪だ。舞が突然言い放ち、塔弥を一時の不安に陥れた言葉だ。
舞は嘘をついてなどいなかった。すべてが真実だったのだ。
そうなると、彼女の予言もまた、真実になり得る可能性がある。そしてその予言とは、真由美の暴走ということになる。さらに塔弥はもう一つ、予言めいたものの存在を知っていた。それが他ならぬあの手紙ということなのだ。二つを結びつけるとこうなる。
愛する彼女の犯す罪――これは真由美の暴走のこと。
お前は知った、彼女詰み――そのことを知ってはならなかった。
お前の叱咤、あとの祭り――真由美を責めても意味はない。
臍噬む、程なく、ほろ苦く――そして近く、後悔する。
阿鼻叫喚したがその日――後悔する日。
他に共感するがごとし――同じ悩みを共有する。
さになき女、みなが殺し――この部分は分からない。「さになき」とはどういう意味か。「女」は真由美のことだろうか。「みな」とは誰のことを言っているのか。「殺し」とは何なのか。
不確定要素は残るが、おおよそ正しい推理ではないかと塔弥は思った。そして、正体不明の何かがすでに動いていることを悟った。
しかし、分かったところで何をすればいいのかが分からない。真由美を助ける必要があるのか? 暴走するのが真由美だから、気にすべきは周りへの被害か?
塔弥は台所にあったコップに水を入れ、一杯飲んだ。冷水は体に凍みた。床に投げた上着をハンガーに通し窓のふちに掛けたあと、デスクの椅子に足を組んで座った。
目の前にある写真立てを眺めていると、不安が襲った。真由美の恥ずかしそうなこの表情を、いつまた見られるだろうか。何が自分たちを裂こうとしているのだろうか。
床の手紙に目を落とした。そこに書かれた一文字を、穴が開くほど凝視した。そして、こう決心するのだった。
この『哀』という者を、何としても探さねば――。
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