違和感

「愛する彼女の犯す罪……。お前は知った、彼女詰み……。お前の叱咤、あとの祭り……」

 ベッドに腰掛け、床に広げた手紙を眺めた。時に声を出しながら読んだ。

「阿鼻叫喚したがその日、他に共感するがごとし、さになき女、みなが……殺し」

 手紙を拾って丸めると、それをベッドとは反対の隅にあるゴミ箱目がけて放った。ふちに邪魔されて入らなかった。

 手紙はただの悪戯だと、塔弥は見切った。一応、遙の協力は得たが、別に『哀』が見つからなくても構わなかった。ただ、少し意味を暴いてやりたいという好奇心はあった。それで何度も読んだが、結局分からなかったのでたった今諦めたのだった。

 右手のデスクを見た。写真立てのみが置かれている。それが少しほこりを被っていたので、正面の窓を開けて外で払った。

 写っているのは、赤いマフラーに赤い手袋をし、手を前に組んで頬を赤らめる真由美だ。髪はまだ長い。それもそのはず、撮ったのは一年前である。だが、とりわけ特別な日であったわけではない。場所もどこでもない、ありふれた住宅街の一角だった。大学から帰っている時のものだが、どういういきさつで撮影したかは覚えていない。しかし、この何でもない日常を写した写真が、塔弥は好きだった。

 今度はスマートフォンを取り出して、写真のファイルを開いた。上部にゆっくりとスクロールしていく中で、演劇部の頃に撮った懐かしい写真が出てくる。だが、真由美と二人で撮った写真は一枚もなかった。

 考えると、彼女と二人で出かけたことがあまりない。同じ演劇部に所属し、毎日のように会えたことが原因だろう。塔弥も、おそらく真由美も、その状況に十分満足していたのだ。

 しかし、大学の卒業も間近に控えている。社会に出れば、満足に

顔を合わせることもままならないだろう。そうなった時、もっと一緒にいればよかったと後悔するに違いない。もう少し積極的に誘ってみてもいいのかな、と塔弥は思うのだった。

 そうやって真由美を意識したことで敏感になったのかは分からないが、翌日、塔弥は彼女に対して、ある違和感を覚えることとなった。

 きっかけは、大学の校舎内の廊下における真由美の行動だった。

 彼女が向かいから歩いてくるのを見かけ、塔弥はそのまま近づいていった。やがて彼女も彼に気づいたのだが、目が合った途端、くるっと向きを変えて反対方向に戻っていったのだ。それも早歩きで、逃げるようにであった。

 さらに、今度はトイレの入り口で遭遇した。彼女が用を済ませて出てきたところで、ちょうど塔弥が入ろうという時だった。塔弥が手を挙げて挨拶をしようとすると、彼女は出てきたばかりのトイレに、再び隠れるように入っていった。

 この二つの出来事に、塔弥は思案した。偶然忘れ物を思い出したのか。しかし、二回も同じことを繰り返すだろうか。一度目はまだ分かるが、二度目はトイレに戻っていった。忘れ物を取りに戻ったと考えるには、あまりに不自然すぎる。

 そう考えた末にたどり着いたのが、「避けられている」という可能性だった。もちろん、すぐに信じられるはずもなかった。そもそも避けられる理由が見当たらないのである。彼女と最後に話したのは、彼女の髪型が変わった時だ。何かあったとすればその時ということだが、思い返してもぴんとくるものがなかった。

 納得のいく答えが見つからないまま今日の授業が終わり、昇降口へ向かっていると、空き室の一つに大輔と圭人を見かけた。教室の真ん中に四つの机を四角く繋げて、その上に紙を広げていた。大輔が苦い表情で頭を掻いたのを見て、何かまずいことがあったのかと思った。

「どうしたんだ?」

 入っていくと、圭人が憔悴したように気力のない顔をした。

「設計書に間違いがあったんだ……。舞台の寸法が二メートルもずれてた。背景道具は全部作り直しだよ……」

 大輔が気づいたらしい。舞台の横幅が、実際より二メートル小さく書かれていたようだ。それに合わせて道具を作っているので、実際に配置すると、二メートル分もの隙間が生じることになる。それがかなり異様な空間となることは間違いない。

「どうするんだ? 体育館は依然、閉まってやがる。時間もほとんどないんだぞ」

 大輔が頭を抱えながら言った。圭人と塔弥にではなく、自分に言っているようだ。

「それから、沙絵花は一体どこにいるんだ? あいつの作ってくれる布の装飾やら何やらも、全部手を加えないとダメなんだよ。最近全然見かけないし、連絡もつかない」

 大輔は教室の中をせわしなく歩き回った。何度も腕時計を見ては舌打ちを繰り返した。

「そういえば、俺も沙絵花は見てないな。あいつ、音響とか照明とかも担当してるのに、練習してるのか?」大輔を目で追いながら、塔弥は言った。

「一応基礎はたたき込んであるが、直近の練習がないのは不安だ。しっかりできるかテストしないといけない」大輔の眉間にいっそう皺が寄った。

「大輔はいつから見てない?」

「久美の家に行った日があっただろ? 以来、それっきりだ」

 それは塔弥も同じだった。これは単なる偶然だろうか――?

「まあいい。沙絵花はきっとできるだろう。それより……」大輔は中央の机の紙に、叩くように手を置いた。「工具は演劇部から借りてるものだ。後輩たちが使いたいと言ってきたらそれまで。だから急いで修繕しないといけない。だが、何度も言うが、体育館が閉まってる。工具は手元にあるが、舞台道具は全部その中。さあどうする?」

 鋭い目つきで見られ、馬鹿なことは言えないと塔弥は気を引き締めた。少し口が乾燥するのを感じた。大輔がここまで威圧的になるのは初めて見るのだった。

「鍵を探すのは?」

 圭人が間の抜けた声で言った時、塔弥は思わず額に手を当てていた。そして、大輔の失望ともとれる長い息を聞いた。

「非現実的すぎるだろ。誰がどこでなくしたのか分からないのに、どうやって探すんだ?」

 呆れ顔で大輔に言われ、圭人は体を小さくすぼめた。

 塔弥は、最大の懸念は本番までに鍵が見つからないことにあると考えていた。すなわち、鍵が見つかるのを待つよりは、木材を再び買い集めて本来修繕する必要のないものもすべて最初から作り直すのが、最善手ではないかと思ったのだ。

「仕方ないか……金と時間はかかるが、それ以外なさそうだな」

 大輔も、おおよそ賛成といった風だった。

 

「ええっ、また?」

 門の向こう側で、久美が不満そうに言った。鋼でできた蜘蛛の巣のようなその門は、彼女の背丈の倍くらいの高さがある。

「すまない。みんな金欠で……」

 大輔が顔の前で手をこすりつけた。圭人もそれに倣う。

「最初の材料も全部私がお金出したんだよ。何でまた私なの?」

「頼む。もう時間がないんだ。久美の力が必要だ」大輔は力を込めて言った。

 久美の力とは、専ら財力のことを言っている。それは、目の前の巨大な門と、彼女の背後の豪邸が示すものである。だが渋る様子から、彼女はそれらに比べると米粒にも満たないような支出でも、決して「端金」と思ったりはしないようだ。

「はあ……。これで最後だからね。お金、取ってくるからちょっと待ってて」

 薄目をして、久美は夕日の差す家へと戻っていった。

「ありがとうございます」

 大輔が丁寧に一礼した。設計図のミスに気づいた時の不機嫌な表情は消え、清々しい顔だった。頭を上げたあと、彼が右手を握り込むのが見えた。これが、してやったとでもいうことの表れであれば、意外と腹黒いやつだなと塔弥は思った。

 久美がやがて戻ってきた。歩き方からも愛想の無さが伝わってくる。門の隙間から、何枚かまとまった一万円札を差し出した。

「五万円。これで足りるの」棒読みだった。

「ああ、すまない。釣りは今度返す」大輔は受け取った。

「いらないわよ。そんな端金」

 久美は乱暴に言った。やはり「端金」だったようだ。

「まったく残念なこと。次に見た時には、その紙は木材に退化してるんだから。……まあいいけど。お金は気にならないから」

 久美はどういうつもりか、最後にウインクをした。

 塔弥たち三人はその後、大輔の家に行き彼の車に乗った。親と共用しているという軽自動車だ。近くのホームセンターまでは、五分も要しなかった。

 大きな駐車場だったが、なかなか空いた場所を探せず、圭人と塔弥は先に降りた。店内には車の数ほどの人はおらず、不法駐車が多数だと塔弥は睨んだ。

 圭人が慣れた足取りで、木材の並ぶコーナーへと塔弥を導いた。

「またこれを運ぶと思うと、気が引けるなあ……」赤い字で修正した設計書を片手に、圭人は漏らした。

 体育館の器具庫にあった木材は、小屋を一軒くらいは建てられそうな量があった。きっと運ぶために何度も往復したのだろう。想像するだけで、塔弥も気分が悪くなった。

 深いケージに顔を覗かせ、圭人が選別を始めた。その辺りで拾えそうな枝のようなものから、表面が研磨され形の整ったものまで様々あるが、彼なりのこだわりがあるのか、最初の一本をいつまでも決めかねていた。

「どれもそう変わらないんじゃないのか?」塔弥はじれったくなって言った。

「ダメだよ。丈夫なのを選ばないと。あと、長さも重要」

 圭人がようやく選び出し、なぜそれがいいのかの説明を始めたその時、大輔が商品棚の陰から顔を出した。手にはスマートフォンを握っていて、急ぎ足でこちらに向かってきた。

「やられた。終わりだ」彼は悔しそうだった。

「何がだ?」塔弥は聞いた。

「工具も使えなくなった。今連絡が入ったんだ。チェーンソーものこぎりもハンマーも全部、返却する。後輩たちの邪魔をするわけにはいかないから、こればかりは仕方ない」

「ほんとに? じゃあ、どうするの?」

 圭人のその質問を待っていたかのように、大輔は指をぱちんと鳴らせた。

「それなんだが、さっき考えた。一か八かだが、これでも悪くはないと思うんだ。斬新じゃないか?」

 大輔はスマートフォンの画面を見せた。そこには、画質の悪い舞台の写真が出されていた。二人の男女が会話をしている、一見何でもない上演風景を映したものだが、塔弥は彼が何を言いたいのかがすぐに分かった。

「シェイクスピア時代の舞台を再現しようってわけか……」塔弥は呟いた。

「本来、舞台はこうあるべきだと思う」

「唐突な変更だが、ここまで俺らをまとめてくれたのは大輔だ。俺は大輔が言うなら、それに従うよ」

「そう言ってくれるのは嬉しいよ」

 大輔がそう言って画面を消すと、圭人が名残惜しそうに、ああ、と声を出した。彼はまだ大輔の思惑を理解していなかったようだ。

「圭人、その木はもういらないかもしれない」塔弥は言った。

「え? 何で?」

「シェイクスピアの頃は、道具なんてほとんど使わなかったんだ。今で言う、大道具は存在しない。だから、舞台もほぼ丸裸の状態だった。大輔は、今それをやってみないかと言っているんだ」

 大輔が再び電源を入れた。画面上の写真も、同じ試みをしたもので間違いない。舞台の奥の壁がむき出しになっていて、舞台上には何も置かれていない。

 斬新ではあるが、危険もあることは大輔も承知しているようだった。情景を役者の言動のみで表現せねばならないため、難易度は一段と上がる。

「明日、みんなの意見を聞いてみよう」

 帰りの車の中で、大輔は言った。だがその言葉とは裏腹に、彼はもう心を決めているようであった。ルームミラーに映る彼の目が、飾り気のない道路の先をしっかりと見据えていたのである。

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