苛立ちと期待と

「何でせっかく人が集まった時にこうなる? 本番までリハーサル一回は厳しすぎるだろ」

 大輔が珍しく激昂していた。南京錠で閉ざされた体育館の扉を、拳で強く叩いた。メッキが剥がれ茶色くなっていたが、力強い音が響いた。

 雨の日から二日が経ちすっかり晴天となり、寒さもやや緩和され、空調のない体育館でも芝居をしやすい絶好の環境が整っていた。メンバーも、真由美、莉央、そして助っ人の沙絵花を除く全員が揃うという、またとない機会だった。つい十五分前まで、皆芝居をする意気込みは十分だった。

 だが、肝心の稽古場である体育館が閉鎖されていた。数日前に鍵が紛失し、開かずの状態が続いているというのだ。一同はその知らせを受け、無力にもその前で肩を落とす以外なかった。

「地下室を……使うのは?」

 圭人が項垂れる大輔におそるおそる言った。丸い顔がひどくひきつり、気の弱さが浮き彫りだ。

「それじゃあ意味ない。舞台の雰囲気が出ないだろ。大体、道具も全部体育館の器具庫の中だ。リハってのは、本番に近い形でやらないとダメなんだよ」

 大輔に強く言われ、圭人は申し訳なさそうに後ろへ下がった。塔弥は彼の分厚い肩に手を置いて、なだめた。

 その時、後方で笑い声がした。振り向くと、久美と弘毅が手を叩きながら楽しそうにしていた。こんな時まで相変わらずだなと思っていると、大輔が彼らの方へ向かっていった。

「よくこんな時に笑っていられるよな、お前ら。ちょっとは危機感ないのか?」

 彼は二人の前に腕を組んで立った。

「あのな、アリババは何で呪文を唱えたと思う?」

 弘毅がズボンのポケットに手を入れながら、刃向かうような態度で言った。

「落ち込んでも開かなかったからだよ。分かるか? そこの女物のバッグみたいな形の錠も、眉尻を下げていたら開くわけじゃない。だが勝手に開けようとしたら所有者の女が眉根を寄せるから、許可なくバッグは開けられない。じゃあ、開けるにはどうするか? それが鍵だ。笑ってるから危機感がないというのは、ひねりがない。ひねらないと鍵は開かないな」

 塔弥からは大輔の後頭部しか見えないが、つま先を地面に打ちつけている様子から、苛立ちが窺えた。久美はどこか冷静な様子で、弘毅と大輔を交互に見ていた。どちらに味方しようか迷っているようにも感じられる。

「もういい、今日は諦めよう」

 大輔が声を張った。全員に向けて言っているようだ。

「大輔の言う通り」史織が言った。「もうやめだね。私は真剣にやらないと気が済まない。ここ以外ではやりたくない」

 徐に動き出したかと思うと、彼女は大輔の腕を取ってどこかへ行こうとした。しかし、大輔は引っ張られても足を動かそうとしなかった。史織は不思議そうに瞬きをした。行かないの、と尋ねるような顔だ。

 大輔が立ち止まっていたのは、自分の務めを果たすためだった。リーダーとして、何も言わずに去るわけにはいかなかったようだ。彼は直立したままこう告げた。

「十二月二十日、最初で最後のリハーサルをやる。もちろん、ここでだ。それまでに演技は完璧にしておくように」

 かなり抑制された声だった。大輔は抵抗をやめた容疑者のように史織に連れられて、砂利道を歩いていった。校舎の手前で曲がった時、彼の横顔が見えた。悔しそうに下唇を噛んでいた。

 塔弥は、大輔の怒りには自分の責任もあると思い、密かに心を痛めていた。大輔は言わなかったが、莉央との仲違いには業を煮やす思いであるに違いない。そこにこの状況が追い打ちをかけてきたのだから、彼が憤るのはもっともだと言えた。

「じゃあ、僕も行くよ……」

 圭人が周りの目を気にしながら発とうとした。もちろん、誰も止めはしない。だが視線を感じるのが嫌なのか、胴体を横に揺らしながらやや小走りで去っていった。

 四人だけが残った。どこで消えたのか、祐樹はいつの間にかいなくなっていた。

「大輔、怒ってたな」遙が言った。

「多分俺が悪い。莉央との仲を直せなかったから」

 塔弥が言うと、久美が驚いた様子で迫ってきた。

「まだ仲直りしてなかったの?」

 頷いたあと、塔弥は少し皮肉を込めて言い返した。「方法を教わったが、なぜだろう、できなかったんだよな。まあ、当たり前と言えば当たり前なんだろうが。あんなので謝ったと思った俺が馬鹿だった」

 すると、久美が首を傾げた。「おかしいな。私はあれでうまくいったのに……」

「久美と俺では、手際が違ったのかもな。俺は不器用だから逆上させた。不器用な人間のための助言も、もらえばよかったよ」

 久美を責める気持ちはなかったが、彼女が冷ややかな目をするのも頷ける言葉の荒さに自然となった。

「……私のせいだって言いたいの?」

「そうじゃない。だが少なくとも、普通に謝ってたら今頃どうなってたかは明白だと思っただけだ」

「それって、結局私を責めてるよね?」

「違う。誤解しないでくれ」

 塔弥はあくまで否定した。しかし、久美の表情は険しくなる一方だった。

 突如久美の肩口から、弘毅がモグラのように顔を出した。横に来て、久美と塔弥の肩を持った。

「何を揉めてるのか知らないが、責任を押しつけ合ってるなら、それは徒労に終わるからやめておけ。なぜなら、お前らには転ばせる嫁がいない。だから責任も移せない」

 弘毅は久美の機嫌を取ることに長けていたようだ。

 久美は失笑し、たちまち朗らかな笑顔になった。「それなら、私はまず息子を産まなきゃね」

「それか、女と結婚してもいいんだぜ」弘毅は言った。

「ええ? 冗談はよしてよ」

「冗談? さっきから俺は冗談しか言ってない。冗談が俺の正気。逆に俺が正気なことを言ったら、それは冗談だ」

「じゃあ、今からカフェに行こうよ」

「は? 何で?」

「常談で商機を掴むには、もってこいの場所だから」

「はは、いいね。やっぱりそうこなくっちゃ」

 久美は弘毅とハイタッチを交わしたあと、塔弥に向かって軽い口調でこう言った。

「ごめん。私も悪かったよ」

 塔弥は慌てて「そんなことはない」と首を振った。

 だが、それを彼女はもう見ていなかった。どこのカフェに行って何を注文するかなど、弘毅との話に夢中になっていた。

 やがて二人は、スキップをしながらその場をあとにした。足並みが全く同じだった。途中久美に電話が入ったようで、スキップをやめはしたが、見えなくなるまで二人の歩調は変わらなかった。

 気づくと、遙が同じようにスキップで去ろうとしていた。塔弥はジャンパーのフードを掴んで彼を引き戻した。一つ聞きたいことがあったのだ。

「お前、女子の知り合い多いよな?」塔弥は聞いた。

 遙は、不快さと不思議さを交えたような顔で塔弥を見た。

「……そりゃ、人よりは多いだろうな。苦労してアプローチしてきたんだから。……で、いきなりそれが何だっていうんだ?」

「知り合いの中に、『哀』っていう名前の人はいないか?」

「アイ? 愛するの『愛』?」

「違う。哀愁の『哀』だ」

 遙は大きく首を捻り、顎に手をやった。やがて彼は、ある一人の名前を口にした。

「オサダアイっていうのが、俺の経済学部にいるけど……どんな漢字かは分からない。なんせ引っ込んでて、ほとんど喋ったことないから知らないんだ」

 オサダアイ。知らない名前だった。おそらく会ったこともないだろう。だが容易に可能性を排除できないと、塔弥は思った。

「その人は、いたずらとかしそうな人だったりするか? 例えば、犯行予告みたいな手紙を書いたりとか」

「犯行予告? お前、何言ってるんだ?」

 遙が訝しむのも無理はない。塔弥も、自分が言っていることが理解できないことは十分承知している。だが、実際にそのような手紙が届いた。『哀』という人物から確かに来たのだ。

「やっぱり今のは忘れてくれ。それより、アイという名前はその人以外に知らないか?」

「『哀』っていう名前の人を探してるのか? お前、それって……」

 遙が何かを感づいたような笑みを浮かべた。『哀』という名前と犯行予告という言葉から、思い当たる節があるのか。塔弥は期待をすこぶる高めた。

 だが、当てははずれた。遙が「占いだな?」と言ったので、塔弥は呆気にとられた。

「正直に言えよ。『ラッキーパーソンは哀さん』って占いで出て、それで探してるんだろ? 恥ずかしがることじゃないよ。俺も毎日占いを確認してる。今日のラッキーアイテムは、粉ミルクだった。乳も出ないのに粉ミルクなんて、笑わせるよな。いや、乳が出ないからこそ粉ミルクなのか……?」

 遙は勘違いのまま話し続けた。面倒だったので、そういうことにしておこうと塔弥は思った。

「はは、ばれちゃあしょうがない。そうだよ、占いに教えられた。でも『哀さん』なんていう知り合い、俺にはいないからさ。まったく、困るよな」

 わざとらしさは隠せなかった。鼻がむずむずした。

 とりあえず話を合わせただけだったが、占い好きがよほどのものだったのか、遙は塔弥の運勢のために人探しを手伝ってやると言ってきた。手紙の書き手を知りたい塔弥にとって、これは悪くない展開だ。

「そのラッキーパーソンの効果はいつまでだ?」

 だがはきはきとそう言われ、そんなものがあるのかと戸惑った。怪しまれる覚悟で「あさって」と言った。

 相場から大きく外れた回答ではなかったようだ。遙は親指を立てて真っ白な歯を見せた。

「よし、任せとけ。あさってまでに『哀』っていう人を探し出す」

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