溝の埋め方
舞が講義に出席していない――その事実は、塔弥をがっかりさせるには十分であった。
十二月八日、その日は悪天候となった。塔弥は今朝、その陰気な天候をもはねのける闘志を胸に抱いていた。その前の晩、舞にいかに真実を語らせるかという戦略を周到に練っていたので、自信は十分だったのである。
しかし、いざその時となると、あろうことかその対戦相手がいないのだ。これには呆れるしかなかった。舞は隠遁してしまったのではないかとすら思った。
「おい、聞いてるのか?」
塔弥は我に返った。反射的に顔が上がった。
正面で、
「わ、悪い。聞いてなかった」塔弥は慌てて言った。
「今日はどうした? なんかずっと上の空じゃないか」
「すまん。ちょっと疲れてるのかもしれない」
「大丈夫か? 米食って元気出せ」
塔弥は言われた通り、白米を口に入れた。ゆっくりと噛んでみるが、何の味も感じられない。おまけに、飲み込もうとしてもなかなか喉を通らなかった。
遙はご飯を口の中に掻き込むと、噛み終えないうちに味噌汁を流し込んだ。お盆の上に音を立てて茶碗を置くと、彼は立ち上がり、厨房にある回収口へ食器を持って行った。
今は昼休み。塔弥は食堂で昼食を取っていた。一緒に講義に出ていた遙に誘われたのだ。
しばらくして彼が戻ってきた。距離を置いて見ると、膝の破れたジーンズと、鮮やかな赤のハイカットスニーカーがよく目立っている。彼は童顔ともいえるその顔に、なぜか微笑を浮かべていた。席につくと、目元にかかった前髪をいじり始めた。
「何かあったのか?」
塔弥が聞くと、遙は嬉しそうに顔を近づけてきた。そして、小声でこう言った。
「あっちに、めちゃくちゃ可愛い子がいたんだよ」
塔弥はため息をついた。「またそんなことか……」
「そんなこととは失礼な。お前は彼女持ちだからいいかもしれないが、俺は必死だ。通りすがりの女子の顔を全員拝むのが日課だ」
「他にやることはないのか? たまたま通りかかった人と付き合えるなんていう低い可能性にかけるくらいなら、自分の魅力を探してそれを磨くことに時間を費やしたらどうだ?」
「それはない」
遙はきっぱりと言った。途端に眼光が鋭くなった。
「自分を磨いている暇があったら、一人でも多くの女子と知り合いになるね。そうやっていろんな人と関わっていく中で、自分が磨かれていくんだよ。女子と関われば関わるほど、俺は男としてできあがっていくのさ」
何をそんなに真剣に言うことがあるのかと呆れつつ、塔弥は白身魚を口に含んだ。
「そうだ、今日カラオケ行くんだけど、塔弥は行かないか?」
「行かない。大体お前、その調子で全然稽古に来ないじゃないか。ちょっとくらいは参加しろよ」
「大丈夫だって。本番は潜在能力でなんとでもなる」
「潜在能力?」
「そう。誰でも持ってるものだよ。でもどうやって発揮されるかは人次第。俺は間違いなく、女の子に見られてる時だな」
遙は鼻をこすりながら、周囲に目を泳がせた。誰かに見られていないか確認しているようだった。
これ以上彼に付き合うのは面倒だと思った塔弥は、まだおかずが残っていたが、食器を片付けに行った。
次の授業の開始まで、まだ三十分以上あった。塔弥は遙と別れて教室で待つことにした。
ところが、その教室へ向かっていると、遙が腕を後ろに組みながらあとをつけてきた。
「どうした? お前、ここじゃないだろ?」教室の手前まで来て塔弥は聞いた。
「だって次の授業まで暇だから」
平然と言う遙に対し、塔弥は顔をしかめた。本当は教室で静かに待ちたかった。だが、どうやらそうもいかないようだ。
「お好きにどうぞ」
ため息交じりに言い、教室に入った。
中にはすでに二人の学生が疎らに座っていて、書籍を睨みつけていた。塔弥は後ろの扉の真横にある席を選んで座り、遙がその前の椅子に、背もたれに胸をつけて跨がった。
一度物音がなくなると、異様なほどに静かな空間になった。咳払い一つですら躊躇われる状況である。
「舞台で台詞を忘れたことあるか?」
しかしそんなことはお構いなしで、遙は室内に声を響かせた。
「俺は一回だけある。あれは公開処刑みたいなものだよ。観客の前で役者が死ぬんだ。俺も死んだと思った」
彼が調子よく喋るので、塔弥は手を上から下に倒す動作で声量を落とすように合図した。
「そう、まるでばたっと逝くようにね」だが遙は誤解した。
その後も一向に静かにする様子がないので、塔弥は諦めた。遙が満足するまで、顔杖をつきながら適当に相槌を打つことにした。
「それで、誰に助けられたと思う?」遙は言った。
「さあ……大輔?」
「違うよ。女神様だよ」
「ああ、久美ね」
「本番中、さりげなく耳打ちされた時はぞくぞくしたよ。台詞を思い出したけど、劇はもうどうでもよくなってさ。完全に女神様の虜になっちゃった。もう一回耳元で囁いてくれないかなあ……」
「そうか。囁いてもらえるように、せいぜい頑張ることだな」
「お前はいいよな。『十二夜』では女神様の恋人になるんだから。俺はアホな紳士で、恋とは無縁の役だ。つまらないったらないよ」
俺もこの話がつまらない、と塔弥は言ってやりたかった。
「おまけに、男装する女神様に恋をするのが真由美ちゃんだから、もうわけが分からないよ。塔弥は真由美ちゃんに、真由美ちゃんは女神様に、女神様は塔弥に恋する。こんな三角関係、どう考えてもあり得ないよな」
遙は、両手の親指と人差し指で三角形を作った。
「原因は真由美ちゃんだね。男装した人を男と思って恋するんだから。でも実際は、女が女を好きになってる。これってどうよ?」
「これっていうのは、同性愛のことを言ってるのか?」
遙は頷いた。
珍しく面白い話題だと塔弥は思い、少しだけ答える気になった。
「別に変な話じゃないさ。必ず異性を好かないとダメだっていう決まりはどこにもない。好きな人がたまたま同性なら、それでいい」
これに対して、遙が首を傾げた。異性ばかりに目をやっている彼からしたら、納得のいかない話なのかもしれない。
「じゃあ、俺が塔弥を好きだって言ったらどうする? あり得ないけど……」
「気持ちだけ、ありがたくいただいておく。別に気持ち悪いとかは思わないよ。それがその人の個性だから」
「でも――」
次の瞬間、塔弥は遙の口元に素早く手をかざしていた。先程から室内の人の数が増えているのを視界の片隅に捉えていたが、その中に莉央の姿があるのを確認したのだ。彼女は、塔弥の席の対角に当たる場所で前を向いて座っていたが、茶色のボブが印象的ですぐに分かった。
「どうしたんだ?」
遙の質問には答えず、塔弥は彼女の方へ接近した。
実は、前日に送った意味不明なメッセージに対して、返ってきたのが『?』だった。塔弥は『ごめん』と送り返したが、それ以来返信が滞っていた。そのため、これは直接会って言わねばならない、とちょうど思っていたところだったのだ。
「莉央」
塔弥は彼女の正面に出て言った。遠くから遙が近づいてきているのが目に入ったが、それにとらわれることなく莉央の目をしっかりと見た。
「……なに?」
普段より、力強い声だった。それに、彼女特有の語尾を伸ばす口調でもない。
「率直に言う。あの時はすまない。あんな風に言うつもりはなかったんだ。あとで冷静に考えたら俺が悪いって分かった。だから謝らせてくれ。ごめん」
塔弥は深く頭を下げた。話を聞く莉央の顔は決して普段の柔らかいものではなく、次に見る彼女の表情がどうなっているか不安で、しばらく頭を上げられなかった。
「へえ、そうなんだ」彼女は言った。
塔弥は声で直感した。彼女は怒っている。
頭を上げた時、そこには蔑むような目つきの莉央がいた。
「そう思うなら、何ですぐに言わなかったの? 何で今なの? 本当は何とも思ってないんでしょ」
思った通りだった。莉央は一瞬だけ鼻筋に皺を寄せ、視線を下に向けた。そのまま指をいじり始めた。
「本当にすまないと思ってる。時間が空いてしまったことは認めるが、それで謝罪の気持ちが薄れてるわけじゃない」
「じゃあ、あれは何?」
「あれ……?」
莉央が睨みつけてきた。
「ふざけてるの? 私が馬鹿だと思ってるの? あんな意味の分からないものを送りつけておいて、謝りたいなんてよく言う」
例のメッセージのことだと、塔弥は気づいた。
「あれは……何となく……」
「何となく送ったんだ、へえ。それで私を丸め込もうとしたわけね」
「違う。そういうことじゃない。そうやって言った方が、莉央にはいいって――」
「あっそう。私は普通に扱わない方がいいんだ」
「だから違うって。謝る気はあった。ただ言い方がまずかっただけで、誠意は同じだ」
「あの文章のどこに誠意があるの?」
「それは説明し難い。だからもうそれについては忘れてくれ。今ここで謝っていることがすべてだ」
「それは御免蒙る」
二人の周りに険悪な雰囲気が漂った。遙が気まずそうにその場を離れていくのが見えた。彼は忍び足で教室を出ていった。
しかしすぐに戻ってきた。おまけに、付添人を一人従えていた。大輔だ。
「あの二人、何とかしてくれよ。俺、わけ分からないんだ」
「また喧嘩してるのか?」
大輔が険しい顔つきで向かってきた。莉央の顔を一瞥し、そして塔弥に視線を向けた。
「いつまでこの状態でいるつもりだ? 本番のイブまではもう二週間。今が一番大事な時だ。喧嘩なんかしてる場合じゃない」
すると莉央が言った。「私は何も悪くない」
大輔は息を溜め込んで、そして鼻から強く吐いた。
「俺の知る限り、莉央にも非はある。どっちもどっちだ。二人とも謝れ。そして終わらせるんだ。この状態を」
「嫌だ。私が怒ってるのはあの時のことじゃない。そのあとの馬鹿にしたような言葉が気に食わないだけ」
「塔弥が何か言ったのか?」
「言ったよっ。意味不明なことをねっ」
莉央が机の脚を強く蹴った。騒がしくなっていた教室が、一瞬にして静まりかえった。
「私は遊ばれたの。分かる? この屈辱っ」
「落ち着け、莉央」大輔が言った。
「うるさいっ。もうどっか行って」
莉央は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
塔弥は焦って大輔の方を見た。彼が、謝れと言わんばかりに顎を小さく動かしたのを受けて、もう一度頭を下げた。
「莉央、もう一回謝らせてくれ。俺が――」
「どっか行かないなら私が行く」
思いがけず、莉央は立ち上がって地響きでも立てるように歩き出した。そして、その向かう先は別の席ではなく出口だった。
授業を犠牲にしてもいいということか。まったくややこしいことになったと、内心思いながら塔弥は追いかけた。
莉央が出口の前で立ち止まった。
「どいて」彼女は言った。
しかし、彼女の前方に人影は確認できない。誰に言っているのかと思って近づくと、聞き覚えのある声がした。
「どこ行くの? 授業放棄?」
史織だ。小さくて見えなかったが、扉の敷居に確かに立っていた。
莉央に強引に横を通り抜けられると、史織は怒鳴りつけた。
「もうちょっと丁寧に通りなさいよ。怪我したらどうすんの?」
「うるさい、ちび」
「はあ? 何? ふざけてんの、あんた?」
予鈴が鳴ったのはその時だった。別の教室の授業である遙は慌てて教室を飛び出し、室内の者たちは今の騒動に対して口々にざわめきながら席に着き始めた。
「悪口ばかりのぶりっ子ヤロウ。あんなのだから嫌われるんだ」史織が扉の向こうに毒づいた。
塔弥がその先に顔を覗かせに行った時には、すでに莉央の姿はなくなっていた。
廊下の窓に、雨粒が強かに打ちつけている。正面の窓に映っていたのは、流水に歪む、やるせない顔の塔弥の虚像であった。
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