謎の

『舞、あの話は本当なのか? やっぱり信じられない』

 塔弥はスマートフォンの対話アプリを使って、メッセージを送った。どうしても気になって仕方がなかった。自宅のマンションに帰るなり、鞄も置かずに画面を操作していた。

『余計なことは考えない』

 返信はすぐに来た。すげない返答が来るのは、大方予想通りだった。塔弥はさらに詰め寄った。

『何が目的だ?』

 舞を完全に疑っているわけではなかった。しかし下手に出れば彼女に軽くあしらわれるだけだ。塔弥は果敢にも鎌を掛けにいった。

 最初の返信の早さにもかかわらず、この質問にはすぐに返信が来ることはなかった。見切りをつけた塔弥は、床に鞄を置いて風呂に湯を沸かした。ゆっくり温まっている間に返事があるだろう、と思った。

 ところが、風呂上がりに濡れた頭を拭きながら見た画面上に、返信の知らせはなかった。まさか無視されたのか、と塔弥は些か憤りを感じた。

 次の朝目覚めた時、それは確信に変わった。やはり返信がない。舞は塔弥の質問を確認して、無視したのだ。しかしもう憤りを感じはしなかった。それどころか、彼は満足していた。彼女が返信しないのは、自身がした話の目的が言えないからだ。つまり、何か裏がある。疑念が確信に変わった瞬間だった。


「真由美?」

 朝、大学で真由美を見かけて声を掛けた。一階から二階へ向かう階段の踊り場でのことだった。塔弥は、近くに行くまでそれが彼女だと気がつかなかった。理由は明白だ。腰くらいまであった彼女の髪が、肩にすら触れないほど短くなっていたからだった。短髪の彼女は、随分と幼く見えた。

「……塔弥くん。お、おはよう」

 真由美はそう言うと、なぜか早足で、逃げるように階段を上り始めた。何か嫌なものを目にしたかのような反応だった。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ」

 塔弥は声を上げた。だが振り向いたのは、階段を上り下りする他の学生ばかりで、真由美は止まろうとしない。彼女は上り切ったあと、方向を変え、三階へ通ずる階段に消えた。

 塔弥は一段飛ばしで駆け上がった。なぜ逃げられるのか、その理由はとっさには何も浮かばなかった。彼女に何かおかしなことをした覚えはない。三階で彼女を捕らえると、塔弥は問いただした。

「真由美、何で逃げる? 俺って分かってるだろ?」

 真由美は上目遣いに塔弥を見つめ、渋面をつくった。やはりどうも様子がおかしい。

「どうしたんだ? 言いたいことがあるなら言ってくれ。気になって仕方ないだろ」

「……ごめん、今急いでるの」

「嘘はやめてくれ。さっきまでゆっくり上ってたじゃないか」

 真由美は落ち着かない様子で手すりを触った。少し顔が赤らんでいるようにも見える。

「……もしかして、あれか? 急なイメチェンを披露するのが恥ずかしかったのか……?」

 まさかとは思ったが、真由美が恥ずかしそうに俯いたのを見て、図星だと分かった。何も逃げなくてもいいのに、と思いながらも、深刻な理由ではなかったことに安堵を感じた。

「すごく似合ってるから、自信を持っていいよ。みんな最初はびっくりすると思うけど、すぐに慣れるから。ほんと、似合ってる」

「あ……ありがとう」

「ところで、今日一緒に帰らないか? 稽古もないことだし」

「ええっと……今日は、ちょっとダメかも。一緒には帰れないと思う。ごめんね」

「え、あ……そうなのか……。まあ、分かった。じゃあ、また今度帰ろうな」

 頷く彼女に手を振り、塔弥は踵を返した。これから授業を受ける教室は二階にある。腕時計を確認すると、開始までの時間があと一分を切っていた。流れるように階段を駆け降りた。

 ところがその三秒後には、再び上に向かって走っていた。聞かねばならないことがあるにもかかわらず、それを忘れていたのだ。

 荒い息の音が届いたのか、廊下を歩く真由美が振り返り、眉を上げた。塔弥は窓枠にしがみつくようにして息を整え、言った。

「最近、舞と会って話をしたか?」

「え? 舞ちゃん? ううん、長らく会ってないよ」彼女は不思議そうに言った。

 その時、予鈴が鳴り響いた。廊下をのんびりと喋りながら歩いていた者たちが、焦りを見せ始めた。

「そうか、分かった。つまらないことを聞いてすまない。もう始まるから、真由美も急がないとな」

 早口で言い、今度こそ教室へ駆けた。


 さて、ますます面白くなってきたぞ。塔弥はいつしか、難解な事件に挑む探偵のような気分になっていた。真由美と舞がしばらく会っていないという事実を確認し、舞の目的がさらに分からなくなってしまったことで、彼女の企てていることを暴く意欲が刺激されたのだ。もうすでに、真由美の「自己嫌悪」や「暴走」は、舞がねつ造した話だと決めつけていた。

 あれから二日が経っても、相変わらず舞からの返信はない。だがそれはもはや、どうでもよかった。相手が無視するなら、こっちが出向いてやればいいだけの話だ。そして直に問いただせばいい。「何がしたいんだ?」と。

 今すぐにでもそうしたかったが、それを思い立ったのは奇しくも日曜日だった。舞の自宅を知らないので、会うのであれば大学しかない。だから、大学が休みの今日は何もできない。

 塔弥は段々と、それがもどかしくなった。寝巻姿でコーヒーを淹れたが、気づけばコートを手に取りマンションを飛び出していた。舞がいるかもしれないという極微な可能性に駆られ、半ば衝動的に大学へ向かった。

 当然のように、校舎は施錠されていて入れなかった。それは図書館も然りであった。塔弥は身を落ち着ける場所もなく、凍てつくような寒さの中をただ歩き回った。試合をするには窮屈であろうグラウンドでサッカー部が練習をしている以外、敷地内に人影はほとんどなかった。もちろん、舞などいるはずもない。

 風に当たって冷静になったのかもしれない。なぜ来たのだろうと、次第に馬鹿らしくなってきた。午後からのアルバイトまで、自宅でゆっくりとしておけばよかったのだ。時間と労力の無駄だった。衝動で動くと、ろくなことがない。塔弥は観念してさっさと帰ることにした。

 正門の手前右手に、枯れ木が乱立している林がある。暖かい季節には枝も広葉をつけ木々の周辺は雑草が生い茂り、緑豊かになるのだが、今は活力を失ったように全体が茶色くなっている。そこをあくびをしながら何となく通り過ぎようとした時、中から声が聞こえた気がした。塔弥は思わず足を止め、耳を立てた。

「……あと……もしか……それ……だ」

 断片的だが、確かに話し声が聞こえる。この枯れ木の林の中で、誰かが話をしているのか。塔弥は興味本位で近づいた。

「そこ……あの……だけど……なに……」

 さっきと違う声だ。一人目は間違いなく男だったが、今の声は判別がつかなかった。男女どちらでもあり得そうな、中性的な声だった。

 塔弥は音を立てないように、コンクリートから土へと足を踏み入れた。だがそれ以上奥へ行く勇気はなかった。そばの木に寄りかかり、林の中を覗き込むように観察した。

「ははは」

 高い笑い声が聞こえたが、人物の所在は依然分からなかった。木が多すぎる。そう遠くはないはずなのに、まるで人影を捉えられない。しかし、休日にこんな所で何をしているのかはどうしても気になる。やはりもう少しだけ中へ行ってみよう、と思った。

 土の上には乾燥した枯れ葉が一面に堆積していた。勢いよく踏み込めば音が立つに違いない。塔弥はまずつま先を立て、比較的枯れ葉の少ない場所を探した。すると、目の前に一つ、そしてその数十センチ先にもう一つ、他より枯れ葉の山が浅くなっている部分があった。彼はそこに片足ずつ、丁寧に置いた。

 よく見ると、同じようなくぼみがその先にいくつもあった。そして、十五メートルほど向こうにあるやや太めの木の手前で枝分かれし、その木を囲うように円を描いていた。塔弥は、これが足跡であることに気づいた。すなわち、これを辿ればいいということだ。

「どうする?」

「分からない……どうしよう」

 接近するにつれ会話が鮮明になってきたが、どこか深刻な声色に様変わりしていた。

「心当たりは?」中性的な声の方が言った。

「いいや、全然ない」

「そう……じゃあ、もう終わりかもしれない」

「終わり……それじゃあこれでもう……」

「仕方ないよ。最悪の場合は二人で……」

「そんな……」

 やっぱり引き返そう。動きを止め、そう思った。聞いてはならない会話のような気がして、急に怖くなったのだ。そもそもこんな林の中でする会話が、知られていい話題であるはずがない。立ち聞きをしていると知られればどうなることか。ばれないうちにやめてお

こう、と思い直した。

 と、その時だった。

「塔弥、何やってるの?」

 背後から不意に声をかけられた。慌てて振り向くと久美がいた。

「おい、今の何だ」

「あっちに誰かいる?」

 気づかれた――。

「久美、行くぞっ」

「ええ?」

 久美の腕を掴んで林を抜けた。そのまま正門を出て、まっすぐ走った。後ろを確認することなく、なるべく遠くへ逃げる。久美には突然で申し訳なかったが、こうするしかなかった。

 百メートルほど走ったあと、疲れて行き着いた先は小さな駐車場だった。白いワゴンが一台だけある。ここまで追ってくるとは思わなかったが、念のためその車の側面の陰に身をかがめた。

「ちょっと、どうしたの?」久美が息を切らせながら言った。

「やばい会話を聞いた気がしたんだ。それで逃げた」

「やばい会話?」

「ああ。何か分からないけど、とにかく不吉な予感がしたんだ。ばれたらひどい目に遭うんじゃないかって」

「じゃあなんで聞こうと思ったの?」

「ただの好奇心だった。声がしたから行ってみた。それだけ」

 よく見ると、久美は長いスカートを穿いていた。それなのによく走ることができたものだ。運動能力は高いのかもしれない。

「急に走らされたからびっくりしたよ」

「ごめん。ああする以外に考えつかなかった。だが俺もびっくりしたよ。急に後ろから声をかけられたんだから……」

 塔弥はそこまで言って、ある違和感を覚えた。

「……何であそこにいたんだ?」

 今日は日曜日である。校舎も施錠されていて、訪れてもすることなどない。実際、それは塔弥が身を以て知っている。それなのになぜ久美が大学に来ていたのか、不思議に思った。

「暇だったから来てみただけ。でも何もすることがなかったから、校舎の裏庭にあるベンチでぼーっと空を眺めてたの。それで帰ろうと思った時に、あの木の中に塔弥らしき人がいたから、何してるのかなって思って近づいてみた。そしたら急に塔弥に腕を掴まれて、走らされたっていう感じ」

 ふうん、と言いながら、塔弥はまたしても違和感を抱いた。久美の言ったベンチのある裏庭には、塔弥も行った。しかしそこには誰もいなかった。仮に彼女が動いていたとしても、校舎周りを徘徊していた塔弥が遭遇しないはずがない。

「そういえば、莉央が死んだような目をして『塔弥とは絶交だ』とか言ってたけど、何かあったの?」

「え、絶交?」

 頭の中がたちまち切り替わった。すっかり彼女と仲直りすることなど忘れていたが、まさかそんなに恨まれているとは思いもしなかった。

「本当にそんなことを……?」

「うん。まあ、本気ではないと思うけど。私も一回言われたことあって、その時は物を隠されたり陰口叩かれたりしたけど、こっちが歩み寄ったら泣きながら謝ってきた。子供みたいだよね」

「何て言って歩み寄ったんだ?」

「簡単だよ。何か正しそうなことを言うだけ。あの子馬鹿だから、非論理的でも気づかない」

「それはどういう……」

「私が言ったのは確かこんな感じ。『私が間違ってると言うには何か間違ったところがあるけれど、莉央がそれを正してくれるなら私も正しいと思う。全部私のせいにはならいけど、私に責任がないとすれば莉央にも責任がなくなって、莉央は悪くないことになるはずだし、私も悪く思わない。二人が謝ったらそれで全部解決になる話だから、それは御免蒙りたい』」

 久美は言い終えたあと、失笑した。

「なんだそれ? 言ってることがめちゃくちゃじゃないか。結局久美は謝ってないし。そんなのでいいのか?」

「これくらいがちょうどいいよ」

 久美は言って、中腰に立ち上がった。敵情を偵察するように、ワゴンの車窓越しに状況を確認し、もう安全だと見せつけるように堂々と歩き出した。

「帰るのか?」塔弥は尋ねた。

「ええ、生きている限りね。帰らぬ人は死んだ人。私はまだ死ねない。やることがあるから」

 久美は振り返ることなくそのまま駐車場を出ていった。

 しばらくして、塔弥もそこを出た。まっすぐ自宅に帰り、そして真っ先にスマートフォンでメッセージを書いた。

 その文面は、簡素でいて支離滅裂だ。だがそこに、謝罪の気持ちは十分に込めた。これで解決できるならそれでいいと思った。

『莉央、俺が言ったことに御免蒙りたい』

 意味が分からないことを重々確認した上で、塔弥は送信ボタンを押した。

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