疑念
次の日、塔弥は大学の地下にある一室に、稽古のために赴いていた。バイトや用事の関係で、集ったのはたったの四人だった。真っ先に莉央と仲直りをしたい塔弥だったが、その中に彼女の姿はなかった。
「表情が硬いっ。それに、全然雰囲気がなってない。いい? あんたが演じてる公爵は恋の病に陥ってるのよ。もっとため息交じりに台詞を言うとか、工夫できないの?」
「すまない」
塔弥は開始後すぐに注意を受けた。決して気を緩めていたわけではない。彼女の審査基準が高すぎるのだ。
「あんた、真剣にやってんの?」
「やってるつもり……」
「つもり? つもりでできるなら練習はいらないわ。ああ、呆れた呆れた」
史織は首の骨をぽきぽきと鳴らし、露出した肩をわざとらしく揉んだ。冬なのに肩の出た服を着ているのは、目立とうとしているからかもしれない。
「シオニさんよ」
史織の後ろから、弘毅が歩み寄ってきた。相変わらず大きなパーカーを着ている。
「その呼び方やめろ」彼女は振り向くことなく言った。
「ははは。鬼のようだから『史鬼さん』。後輩もいい愛称をつけたもんだ。相性抜群だな」
「黙れ、くそやろう」
「はっは。お前はあだ名のセンスゼロだな。ニックっていう名前のやつがいたら、そいつに手ほどきをしてもらえ」
弘毅はそう言って、手にしたペットボトルの水を飲み干した。
「うざい。稽古に集中しろ。私は塔弥に注意してんの」
「まったく、ちょっとくらい大目に見てやれよ。逐一二の足踏ませて、再三再四怒鳴るつもりか?」
「うるさい」
「おお、これはお見事」
「……何が?」
史織はあっけにとられたような顔をした。
「一、二、三、四。そして五を史織が言ってくれた」
「……何言ってんの? 意味分からない」
「ろくでもないことだ。ちびっこには分からんよ。それより、さっさと先に進もうぜ。体が冷えちまう」
弘毅は床に落ちた台本を拾って史織の腕を取り、部屋の反対の壁まで連れて行った。暴れる史織は、そのショートヘアも手伝って、幼い少年が親に逆らうかのようである。
塔弥はワイシャツの胸ポケットからボールペンを抜き取り、史織に言われたことを台本に書き残した。彼女に怒鳴られることは慣れていて、精神的に参ることも、逆らう気も生じない。字は乱暴になったが、それは立ったまま書いたからだった。
塔弥は演技をやり直した。彼の役は、久美が演じる主人公の恋の対象となる公爵だ。そしてその公爵は、また別の人物に恋をしており、その人物は真由美が演じることになっている。つまり、塔弥は真由美に恋煩いをする。これは彼にとって都合のいいことで、真由美を想う気持ちを台詞に込めるだけで、簡単に恋心を表現できるのだ。実際、その想いをより意識した二度目の演技に、史織が難癖をつけてくることはなかった。
「さあ、今度は俺たちの番だな」
弘毅は、舞台端に見立てて置いた床の紐を両足を重ねて飛び越えると、腕を大きく回した。そのあとを、史織が呆れ顔でついて行った。
塔弥は紐より手前で彼らの演技を見守る。的確なアドバイスを出すために、真剣になって見ておく必要がある。
その塔弥のそばにはもう一人、見学者がいた。彼も真剣なのか、ずれかかった眼鏡を調整し、薄目で弘毅と史織の動向をうかがっていた。
「なんていうか……久しぶりだな」
塔弥は彼に話しかけてみた。話題はほとんど考えておらず、行き当たりばったりだ。
「ああ」
彼は呟くように言ったあと、その仏頂面を塔弥に向けた。何を考えているのか、まるで分からない顔だ。
彼の名は、
「練習は順調か? 祐樹は……道化の役だったよな?」
「そうだ」
「……道化は難しいよな。感情が表現しにくいから」
「まあ、そうだな」
「……ええっと……まあ、頑張ろうな」
「ああ」
祐樹は口元だけを動かして受け答えしていた。鼻筋を見られていたのか、目が合っている感じがしなかった。何の生産性もない会話に、塔弥は話しかけない方がよかったと少し後悔した。
弘毅と史織が演技を開始した。短い場面だったが、弘毅がアドリブを入れるので長くなった。台本通りにやらないことに史織が怒るかと思ったが、そうではなかった。むしろ、彼女は彼の思いつきの言動に華麗に対応し、楽しんでいるようであった。
「それより酒だ! 酒をよこせ!」
弘毅はペットボトルを持って、千鳥足でわめき立てた。これは台本にはない。
「酒ならもうありません」
史織は彼からペットボトルを奪い取って、床に投げ捨てた。
「こうやって飲んでばかりだと、ダメになってしまいますよ。奥様が昨日、そのことをおっしゃっていました」
見事な修正だと塔弥は感心した。後半の台詞は台本通りで、アドリブとの間に自然な流れが生まれている。これを瞬時に行うのは、並大抵の技量では不可能だ。他人に厳しくするだけのことはあるといったところだろうか。
演技を終えると、史織が不満を漏らした。
「アドリブ多すぎ。私じゃなきゃ、とてもじゃないけど対応しきれないわ。やるにしても一回くらいにとどめなさいよ」
弘毅は肩をすくめた。「そりゃ無理だ。アドリブは即興。一回だけ出すと意識した時点で即興とは言えない」
「もう、何なの? 一回くらい素直に人の言うこと聞けないの?」
「人の言うことは聞けるとも。人並みに耳があるからな。だが聞く耳はない。どうだこれ。耳はあるのに、耳がないんだぜ。不思議だろ?」
史織は鼻で笑った。「付き合ってらんないね」と言うと、塔弥のそばへ不機嫌にやって来た。
塔弥は評価を聞かれ、アドリブの対応を褒めておいた。すると、心なしか彼女の表情が和らいだ。単純なものだ、と彼は思った。
二人の横を、祐樹が黙って通り過ぎた。彼の出番だ。弘毅の隣に並び、無愛想な顔でこちらを向いた。
「祐樹、お前、背伸びたか?」弘毅が尋ねた。
頭頂部の位置は、二人ともほとんど変わらない。だが祐樹のほうが細身なせいか、背が高く見える。
「変わってない」
「そうか。伸びないのは仕方ない。だがそれを眼鏡のせいにはするなよ」
「……どういうことだ?」
祐樹が表情を変えた。難しい顔つきになった。
「なぜなら、お前の眼鏡にはふちがない」弘毅は言った。
「だから?」
「だから、縁もゆかりもないってことだ。それから、もし身長が減っても、これまた眼鏡のせいではない。だってよ、お前の眼鏡にはへりがないんだから」
弘毅は大口を開けて笑い、祐樹の肩を持った。
「あっそう。早くやろう。体が冷える」
だが祐樹は素っ気なく返した。
その薄い反応は、弘毅を黙らせるには十分だったようだ。冗談が空振りに終わり、虚しそうに肩を落とした。全く相性の合わない二人は、端から見ていて面白いものだった。
史織が彼らの元に加わると、塔弥は台本のページを繰った。次の場面で控えの彼は、三人以外の、ここにいない者たちの台詞を代弁して、会話を繋がねばならない。
「いいえ、どこに行っていたのか教えなさい。さもないと――」
史織が祐樹に向かって、怒鳴り散らすように台詞を始めた。
「奥様が不在の罪であなたを絞首の刑に処すでしょうね」
「それならそうしてくれ。この世できちんと首を絞められた者は、見たものを恐れる必要がなくなる」
声を張る史織に対し、祐樹がぶっきらぼうに台詞を言った。
「どうしてそう言えるの?」
「死ねば恐れるものも何も見えなくなるからだよ」
「何てまっすぐな答えだこと。今の恐れの話がどこから来た表現か教えてあげましょう」
「どこだい?」
「戦場よ。でもあなたは戦場の恐ろしさを知らない。道化として、堂々とそのことについて話すだけ」
「ふん。賢人には知恵が使える。だが愚か者に生まれたやつは、やるべきことを全力でやらねばならん」
「だけどあなたは長い間いなかったから、処刑は免れない。あるいはクビね。そうなったら、あなたにとっては処刑されたようなものじゃなくて?」
「いい処刑ってのは、悪しき結婚を免れるにはいい。そしてクビってのに関しては……」
ここで祐樹が、突然台詞を中断した。
「あれ? どうしたの? 早く言ってよ」
史織が苛立ちを見せるや否や、祐樹はズボンのポケットから携帯電話を取り出して開け、耳に当てた。
「ちょっと、すまない。……もしもし。……ああ。……いや、今はちょっと。……いいや、そんなことはない。……分かった。……ああ、それじゃあ」
祐樹は携帯を閉じた。
「あんたね、稽古の時くらい電源切っときなさいよ」
「すまない、急用だ」
「はあ?」
祐樹はすぐに荷物をまとめ始めた。
「ちょっと、何なのよ? まだ途中でしょ」
史織がわめき立てたが、彼は聞く耳を持たなかった。誰の目を見ることもなく、静かに扉の向こうに消えてしまった。何の用かを聞く暇もない、刹那の出来事であった。
「おい、史織、何やってるんだ?」
「何って、帰るのよ。見たら分かるでしょ?」
塔弥の質問に、史織は吐き捨てるように答えた。黒の革ジャケットに腕を通した彼女は、腕時計を一瞥し、大きく舌打ちをした。
まだ三十分ほどしか稽古を行っていない。このまま彼女に帰られては、大した収穫もないままお開きになってしまう。何としてでもそれは避けたい。
「待ってくれよ。まだ三人なら続行できる。俺が祐樹の台詞も読めば済むだろ?」塔弥は言った。
「そういう問題じゃない。いい? 芝居にはムードっていうのがあるの。さっきの電話はそれを潰した。そしてその張本人は、風を切るように去って行った。言いたいこと分かる? 場がしらけたってこと。そんな状態で演技に身が入ると思う?」
正論を浴びせられ、言い返せない塔弥だった。
「大体ね、祐樹の台詞もあんたが読むんだったら、それはもう、あんたの稽古以外の何物でもない。私は芝居をしに来たの。台詞を朗読しに来たんじゃない。分かった?」
「……でも」
「でも何? でも何なの?」
「いや……」
史織が目尻を逆立てて迫ってきたことで、塔弥は尻込みをした。
ふと弘毅の方を見ると、彼が諦めたように首を横に振っていた。
何を言っても無駄だ、と教えてくれているようだった。
「じゃあね。あとは頑張って。二人でできればの話だけど」
史織が出ていくのを、塔弥は呆然と見送った。弘毅は陽気にも、彼女に笑顔で手を振っていた。
「仕方ない、俺たちも帰るか」
項垂れつつ、塔弥は身支度をした。
塔弥と弘毅の役は対話の機会がない。従って、二人では練習ができないのだ。だから帰る以外なかった。
「そういえば、動かした机を片付けておかないとな。俺があとはやっておくから、弘毅は先に上がってくれ」
「おお、サンキュー。もし何かプランがあるなら、机の上に置いて帰らないように注意しろよ。空論になっちまうからな」
弘毅は去り、塔弥は部屋の隅にひとまとめになった机を、元の位置に運んだ。
そうしながら、真由美のことを考えた。今頃真由美はどうしてるだろうか。まさか暴走が起こってはいないだろうか。考える度に不安が募った。
だが、ふと思った――暴走って何だ。舞に言われて何となく納得していたが、よく考えると、自分が嫌いになって暴れ出すというのは大して論理的ではない。そもそも舞がそんなことを予言できるのも、考えればおかしな話だ。
これは彼女の作り話ではないか。次第にそう思えてきた。しかしそう結論づけると、また一つ疑問が残る。それは、ではなぜ舞がそんなことを言ってきたのか、ということだ。
真由美は自己を嫌悪している。舞は確かにそう言った。これが嘘だとしたら、それを塔弥に伝えて何のメリットがあるのか。何か秘密でも握っているのか。絶対に誰にも言うなと強く釘を刺してきたのも、それが外部に漏れてはいけないことだからか。
塔弥はある音で我に返った。足下から聞こえた。プラスチックがひび割れたような音だった。
机の脚で、何かを下敷きにしていたようだ。塔弥は、挟まった状態から無理矢理それを引っ張って、手元に寄せた。
踏んでいたのは、ペンダントだった。五百円玉くらいの大きさの丸いもので、表面は青い光沢を帯びている。そして踏みつけた衝撃で、その面を横切るように亀裂ができてしまっていた。
ペンダントは二枚貝のように開く構造になっていた。写真を挿入できるタイプのようだ。開けると、二人の男女が首から上だけ写った写真が入っていた。
おかっぱ頭で顔がふっくらと丸い、お世辞にも美人とは言えない風貌の女は、塔弥の知らない人物だった。だが、その横に写っているのは紛れもなく祐樹だ。彼は針山のように髪の毛を尖らせ、その上に眼鏡を置いていた。そして、普段は見せない満面の笑みでこちらを向いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます