さざなみ

 十二月三日、塔弥は朝から圭人けいとと共に、体育館の器具庫にいた。舞台道具の作製のためだ。

 圭人は両側面に刃のついた大きなのこぎりで、要領よく木を切断していく。ややふっくらとした両腕が、押し引きする度にぷるぷると揺れるのが見ていて面白い。

「ふう、やっと終わったよ」

 圭人は押しつぶされたように低い鼻に、茶色い汚れをつけていた。木材から出た粉がついて固まったのだろう。彼は気づき、目を寄せてその汚れを払った。

「この木は何に使うんだ?」塔弥は聞いた。

 圭人はジーパンの後ろポケットから、折り畳んだ紙を取り出し開いた。設計図だ。

「これだよ。このベンチをつくるんだ。今切ってたのは座る部分の板で、あそこの短い木と連結させて立つようにする」

 圭人は短い直方体の木を四本と、薄くて長く、表面が滑らかな木を三本、床に敷いた新聞紙の上に置いた。小さなポリ袋から大量の釘を出して床に乱暴にばらまくと、塔弥に金槌を渡した。

「ごめん。これ、設計図通りにやっておいてもらってもいいかな? 僕、授業があるから。ごめんよ。誰か手伝えそうな人を探しておくから」

「分かった。ちなみに、ベンチが終わったらどうしたらいい?」

「その設計図に書いてあることなら何でも。今はただの木でも、沙絵花さんが裁縫で作ったもので色とりどりに装飾すれば、本格的な作品に仕上がるに違いないよ」

 嬉しそうに言う圭人だったが、塔弥はあることに違和感を覚えた。

「『沙絵花さん』ってなんか気持ち悪いな。『沙絵花』でいいだろ」

 圭人は首と手を横に振った。「いやいやいや、それはないよ。みんなは知り合いかもしれないけど、僕はあの人とは赤の他人だもん」

 彼は跳び箱の上に置いていたバックパックを背負った。

「だから『沙絵花さん』って呼ぶし、今後も呼び続けるつもり」

「いいのか、それで。せっかくの仲を深めるチャンスを逃してると思うが」

「名前で仲の深さは決まらないよ。呼び捨てが仲の良いしるしだとしたら、ヤンキーはみんな仲良しさ。そして、『さん』をつけて呼ぶと仲を深められないんだとしたら、僕らは年上の人とは一生親睦を深められないね」

 それじゃあ、と言って、圭人は器具庫の扉を押して出ていった。

 扉がひとりでに閉まるのを見届けながら、面白い考えもあるものだと塔弥は思った。彼は友達を大抵名前で呼び捨てにする。それが普通だと思っていたからだ。だが中にはあだ名で呼び合う者もいるし、「さん」や「くん」をつけて呼ぶ者もいる。この違いは何なのだろうか。

 ふと、塔弥は思った。自分は真由美に「塔弥くん」と呼ばれている――。

 ズボンのポケットに振動を感じた。スマートフォンにメッセージが届いたようだ。

『今から莉央りおとそっちへ行くね』

 送り主は真由美だった。

 塔弥は少し緊張した。自己嫌悪、暴走――舞に言われたことは、ずっと頭から離れない。あくまで普段通りに振る舞うべきだとは思うのだが、表情はすでに強張り始めていた。

 しばらくして、扉を叩く音がした。塔弥は慌てて金槌を構え、釘を打っているふりをした。

「どうぞ」

 黒のワンピース姿の莉央と、その後ろから白のロングスカートを穿いた真由美が姿を現した。

「塔弥ぁ。久しぶりぃ。元気ぃ?」

 莉央が両手を振り、左頬にえくぼを作った。声は息を混ぜたような柔らかい響きである。髪型は長い間見ぬうちに、黒のロングから茶髪のボブになっていた。

「見たら分かるだろ。この通り、元気だ」釘を一発打った。

「心配したんだよぉ」

「は? 何で?」

「だってぇ、最愛の人と長い間いられなかったんだもん。それはそれは心配したよぉ」

「最愛の人? 誰のことだよ?」

 莉央は人差し指を塔弥にまっすぐ向けた。

 途端、真由美が目を丸く見開くのを見て、塔弥は焦った。

「違う違う。そんなわけない。真由美、これは冗談だ」金槌を振って否定する。

「冗談……」

「そう。莉央の言うことは八割無視する。教科書にあっただろ」

「なんだ、冗談か……」

 真由美は愁眉を開いた。それを見た塔弥も胸をなで下ろした。まさか真に受けるとは思ってもみなかった。

 莉央を睨んだ。彼女は悪気もなく微笑み返した。

「冗談の通じない二人は見てて楽しいねぇ」

「楽しくない」

「あはは」

 莉央は壁際に置かれた卓球台に座り、ブランコに乗るように足を前後に振った。笑顔を絶やすことはない。

 塔弥は真由美の元へ行った。見た目はいつもと変わりのない彼女だった。

「真由美、えっと……この前は一人で帰って大丈夫だったか?」

「うん」

「そ、そうか……。それならいい……」

「……どうしたの? 調子悪いの?」

「いやいや、そんなことはないさ。調子しかよくない」

 塔弥は拳を握ってみせた。

「あれ、塔弥くん、手から血が出てるよ」

「え?」

 手の甲に切り傷を負っていた。木片に触れてできたのかもしれない。

「絆創膏あったかな……」

 真由美はバッグを肩に提げたまま、その中身を漁った。化粧品が入っていると思われる小さな革のポーチを取り出した。

 真由美は中を覗いたあと、残念そうに塔弥を見つめた。期待のものはなかったようだ。

「いいよ、その気持ちだけもらっておく。ありがとう」

 塔弥は言った。気を悪くしてもらいたくはなかった。実際、気づかないほどのものだったから、絆創膏を貼らなかったところで何の問題もない。

 だが真由美は塔弥の手を取り、傷のある部分に手を被せた。寒さでそれはすっかり冷たくなっていたが、言いようもない温もりを塔弥は感じた。彼の体は、少し熱くなった。

「塔弥くんの傷は塔弥くんだけのものじゃない。私も一緒に痛むから。私も一緒に傷つくから」

 真由美がそう言って上目遣いに見てきた。

「……いや、それはいい。痛みは俺一人で感じること。真由美が苦しむ必要はない……」

 彼女の発言が二重の意味に解された。そしてその一方が、どうしても自己嫌悪と結びついてしまう。

「塔弥くんがつらいのを見てるのは、私もつらいよ。ただの傷だって塔弥くんは言うかもしれないけど、私からしたらそれはダイヤモンドの傷より重い」

「そんなに重くない。ほんと、ただの傷だから」

 塔弥はゆっくりと手を引いた。すると真由美が、まるでもう会えなくなる人の背を見つめるような切ない顔をした。

 分からなかった。この真由美の好意は、心から来るものなのか、それとも自分を卑しむ気持ちから来るものなのか。疑心暗鬼を生じるとはまさにこのことだ。彼女の親切心に、何か別の意味があるのではないかと思わざるを得なくなっている。

 心ここにあらずで作業に取りかかった。釘がまっすぐ刺さらず、何度も打ち直した。指を打ちつけそうになる度に我に返り、集中せねばと思うのだが、真由美の姿が視界の隅に入るや否やあれこれ思案してしまう。時間をかけてベンチを完成させたが、醜いほどに木材に裂け目やへこみができていた。

「試しに座ってみてもいいかなぁ?」

 莉央が腰掛けた。彼女が体を揺すると、ベンチが床との間に音を立てながら揺れた。脚の長さは均等なはずだから、組み立て方に問題があったのだ。

「まあ、これはこれでいいよね」真由美が苦笑いで言った。

「今日は水曜日だもんねぇ。日曜大工が上手くいかなくても仕方ないよぉ」

「すまない。次は上手くやるよ」

 ベンチを隅に置き、壁に多数立て掛けられた長短様々な木の中から、一番太い丸太のようなものを選んで床に置いた。

「これはどうするの?」真由美が言った。

「これは樹木に見立てて置いておくらしい。今のままだとただの丸太だから、ここに葉っぱをつける」

「葉っぱはどこにあるの?」

 塔弥は、自分の背後にあった茶色の紙袋を見せた。塔弥の胸の高さほどあるその袋には、緑の葉がぎっしりと詰まっている。塔弥が先日買ったものだ。

「すごい。これ、拾い集めたの?」真由美が興奮気味に言った。

「違うよ。買ったんだ。季節からしてもう緑の葉なんかほとんどないだろ? それにほら、ただの葉っぱじゃないぞ」

 塔弥は袋をひっくり返して中身を落とした。

 真由美が拍手した。「わあ、蔦みたいになってるんだ」

「そうだ。これを木に巻きつければすぐに完成する」

 三人は絡まりついた緑の蔦をほどいたあと、木に何重にも巻きつけた。失敗のしようもなく、それは簡単にできあがった。立ててみると、背は低いが確かに樹木のようである。

「ふぅ。疲れたぁ」

 莉央が壁に背をつけてスマートフォンをいじり始めた。

「まだ終わってないぞ。大体、お前あまり何もしてないだろ。ほとんど俺と真由美でやってるじゃないか」

「そんなことないよぉ。私も一生懸命やった……わぁ、あの子彼氏と一周年なんだぁ。おめでとぉ。……あれぇ、カナちゃんも付き合い始めたんだぁ。みんなすごぉい」

 莉央は画面に夢中になっていた。

「おい、次やるぞ」

 塔弥は言ったが、彼女は完全に自分の世界に入り込んでいた。だがここにいる以上、手伝ってもらわないと困る。塔弥は彼女からスマホを取り上げた。

「ちょっとぉ」莉央は手をばたつかせた。

「来たなら手伝え。それができないんだったら、ここにいる必要はない。出ていってくれ」

「ちょっと休憩してただけでしょう? そんなに怒らなくてもいいじゃん」

「お前は昔もそうやって言って、結局手伝わないことばかりだったじゃないか」

「だってぇ、みんながやってくれるんだもん。やりたい人がやればいいでしょう? ほっといても勝手にできあがっていくんだから、私が出る幕はない」

「……お前、それ本気で言ってるのか?」

「奴隷にも、懸命な者と怠惰な者がいてぇ、懸命な者が先にくたばっていくんだよぉ」

 悪びれる様子もなく微笑む莉央を見て、塔弥の胸に怒りが込み上げた。

「ねぇねぇ、早く返してよぉ」

「……奴隷なんだろ。じゃあ返すかよ……」低い声で塔弥は言った。

「それは塔弥も同じでしょう? むしろ塔弥の方が働きアリみたいなものだよぉ。私は何もしない女王アリ。だから、命令には従ってくださぁい」

 塔弥は唇を噛んで感情を抑え込もうとしたが、彼女が奪われたものを取り返しに飛びついてきた瞬間、耐えられなくなった。

「ふざけるなっ。お前はもういらないっ。出ていけっ」塔弥は叫んだ。

「……いらない?」

 莉央は目を見開いて、ゆっくりと一歩ずつ引き下がった。壁にもたれると、肩を落としてぶつぶつと何かを呟き始めた。

 塔弥はすぐに冷静さを取り戻した。さすがに言いすぎたか、と思った。彼女にスマホを返したあと、肩をさすって慰めたが、彼女に今の言葉はかなり刺さったらしく、虚空を見つめたまま微動だにしなかった。

 入り口の扉が軋むような音を立てたのは、それから間もなくのことだった。

「圭人から連絡があって来た。みんなどんな感じだ?」

 茶色のコートを着た大輔が、器具庫に足を踏み入れるなり言った。だが彼は、すぐに険悪な状況を察知したようだ。

「どうした……? 何かあったのか?」

 大輔がそう言った時、杭を打たれたように動かなかった莉央が、俯き加減に歩き始めた。彼女は卓球台に置かれた鞄を持つと、何も言わずに扉へ向かった。

「莉央、待ってくれ。俺が悪かった」

 塔弥は言ったが、彼女の耳には届かなかった。体で扉を押し、隙間をくぐり抜けるように出ていってしまった。

 大輔が訝しげに塔弥の方を見た。リーダーである彼は、誰よりもメンバーの仲の悪さを嫌う。

「塔弥、何があったか説明してもらおうか」

 そう言われて塔弥が白状すると、大輔は頭を抱えた。ただでさえ十人と人数が少ない。今のことで莉央の意欲が削がれてしまっては、本番はおろか、準備すら成り立たなくなってしまう。

「もう一ヶ月もない。莉央も重要なメンバーの一人だ。何としてでも仲直りしてくれ。いいな」

「すまない……」

 塔弥は肩を落とした。

 真由美がそばに寄ってきた。塔弥の背中を優しくなで、こう言った。

「落ち込まないで。一人で背負い込む必要はないよ。塔弥くんが仲直りしたがってるって、私からも莉央に言っておくから」

「……ああ、すまない。ありがとう」

 塔弥は小さく二度頷いた。

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