心の闇

「自己嫌悪よ」

 まいが能面のような顔でそういった時、塔弥は耳を疑った。

「あら、その顔は知らないということね。まったく、二年も付き合っておいて鈍感だこと」

 長い髪をなびかせ、舞はリズムよくハイヒールの音を刻む。塔弥はなんとか遅れないようについて行く。

「どういうことだ? ちゃんと説明してくれ」

「どうもこうもないわよ。真由美は自己を嫌悪している。そういうことよ」

 そう言って、肩に提げたバッグを持ち直した。あるいは肩をすくめただけかもしれない。

「何でそんなことが分かる? 真由美が公言してるのか? それで俺だけが知らないって?」

「いいえ。知っているのは私だけ。だから誰にも言わない方がいいわよ」

「じゃあ何でお前だけ知ってる?」

 舞はこの質問には答えなかった。

「これは真由美のヤミよ。だから注意しないといけない」

「……真由美の病?」塔弥は眉をひそめた。

「その『病み』じゃないわ。私が言ってるのは、暗い『闇』の方。まあ、病んでる、と言っても強ち間違いではないかもしれないけれど」

「闇? 闇って何だよ? なあ、全然分からないって――」

 そこで舞が足を止めた。彼女は右斜め上を仰ぎ見た。その視線の先の小さな袖看板には、『ラグジュエリー』と書かれていた。夕日がそれにレトロな印象を与えていた。

「とりあえず今は忘れて。あなたはいいプレゼントを選ぶことだけを考える。いいわね」

「……分かったよ」

 塔弥は焦らされたような気分になったが、諦めて彼女に従った。

 舞は塔弥の友人だ。彼女は演劇部に知り合いが多く、公演をよく観に来てくれていた。塔弥はメンバーの紹介で、舞と仲を深めることになった。

 十二月二日。今日は真由美へのクリスマスプレゼントを選ぶために、舞が付き合ってくれた。いや、正確には彼女がそう提案してきた。

「クリスマスにプレゼントを贈らない彼氏は、彼氏失格よ。そしてあなたが選んでもろくなものにならないと思うから、私が一緒に行ってあげる」

 舞が半ば強制的に日程を決め、塔弥に選択の余地はなかった。確かに、昨年は何も贈り物を用意していなかったので、彼もその必要性を感じてはいた。しかし、まさか舞が提案してくるとは思ってもみなかった。最初は不思議に思ったが、女性の意見を取り入れるのはいいかもしれないと、次第に塔弥も乗り気になったのだった。

 二人は宝石店に入った。一メートルほどの間隔で、腰くらいの高さのショーケースがいくつも縦列し、奥にカウンターがあった。眩しすぎる明かりは、宝石の輝きを増幅させるためだろうか。真っ白な手袋をはめた若い女性店員が彼らに気づき、優雅に一礼した。

 舞は真ん中の通路から入った。塔弥は彼女に追従した。

 値段を見て、目が回りそうだった。自分が一年アルバイトをしてようやく買えるようなものばかりである。

「高い……」思わず口に出た。

 それを聞いた舞は冷笑した。「男がそんなのでどうするのよ。プライドはないの?」

「プライドはあるが、金がない。ここは場違いだ。出よう」

 塔弥の提案を、舞は無視した。「ええっと」と言いながら、別の通路にあるショーケースを背伸びをして覗き込んだ。何か目当てのものがある雰囲気だ。

「あれだわ」

 彼女は遠くを指差し、大股で移動した。塔弥はついて行った。

 綺麗なピアスだと彼は思った。米粒ほどの大きさの青い宝石が垂れたものだ。無駄な装飾がないところがいい。値段は四万円に満たない。これなら手が届く。

「これ、いいかもしれない。真由美に似合いそうだ」

「でしょ。あなた一人ではこんな店、絶対に入ってないでしょう。きっと玩具店に甘んじて、がらくたをプレゼントしてたでしょうね」

「……さすがにそれはないよ」

 舞が失笑した。「今一瞬考えたわね。まったく、情けない」

「はいはい、分かった。俺はどうせセンスのない男だ。それでいいだろ」

 手を挙げ、店員を呼んだ。女性は、ピアスを丁寧に布にくるんだあと、塔弥に渡した。

 持っているかどうか分からないくらい軽かった。風で飛んでいってしまうのではないかと、不安になるくらいだ。デザインは全く問題ないが、どの種類もこんなに軽いのだろうかと塔弥は疑問に思った。何せピアスを手にしたのはこれが初めてである。一応、他のものも確認をしたくなった。

「すみません。もう少し見てもいいですか?」

 言った次の瞬間、塔弥は目が点になった。

「いいえ。これにします」

 舞が塔弥の手中から布ごとピアスを抜き取り、勝手にカウンターへ持って行ったのだ。

 女性店員が慌てて舞のあとを追った。だが困惑した様子で、何度も塔弥の方を振り返っている。

 塔弥の手のひらには、ピアスと変わらない軽さの空気だけが乗っていた。ただ呆然と立ち尽くし、舞の行動を遠目に眺める他なかった。問答無用にもほどがある。自分に選ぶ権利はないのか、と少し腹立たしくも感じた。


「きっと真由美は喜ぶと思うわ」

 店の扉の外で、舞は得意げにそう言った。とはいっても、表情はほとんど変えない。若干見下すような姿勢をとるだけだ。

「もうちょっと見たかったのに……」

「あら、値段に圧倒されて『出よう』って言いだしたのは誰だったかしら? 大体、あなたは決断力がないんだから、どうせ他のを見たところで決められないんでしょ。だったらああするのが時間の節約にもなる。結果、全員が得をする。違う?」

 塔弥は反論したかったが、素直に頷くことにした。きっと言い返したところで論破されるだけだ。それこそ時間の無駄だ。

 二人は来た道を帰った。舞は手伝いを終えたので、もう塔弥に用はないだろう。だが塔弥は違う。彼には聞かねばならないことが残っている。

 塔弥は細い十字路の手前で立ち止まった。ここで舞と行く手を分かつ。その前に聞かねばならない。

「さっきの話だが、もう一回詳しく教えてくれ。自己嫌悪ってどういうことだ? もちろん、定義を聞いているわけじゃないぞ」

 舞は長い髪をはためかせ、素早く振り返った。端整なその顔に、およそ表情と呼べるものはない。

「真由美はきっと苦しんでいるわ。でもあなたがどうこうする話ではない」

「何でだ? 仮に真由美がそうだったとして、俺は手をこまねいていろと?」

「考えてもみなさいよ。ピーマンが嫌いな子供のこと。親が食べろと強いたり、お弁当に忍ばせたり……あれこれ手を尽くした結果、さらに嫌いになるのがオチ。つまり――」

「つまり、嫌いなものは嫌いなまま。第三者が介入すると余計悪化する、って言いたいのか?」

「分かってるじゃない」舞は軽く口角を上げた。

「お前、さっき『闇』って言ったあと、注意しろとも言ったよな? それはどういう意味だ?」

 舞の顔つきが変わった。目を細め、睨みつけるような表情になった。塔弥は一瞬たじろいだ。

「彼女は自分が嫌いなの。だから自分を卑下して、その分他人には人一倍気を配れる。でも、その気配りこそ、彼女にとっては大きな負担になってる。そしてその負担に耐えきれなくなった時……」

 舞は話すのをやめた。犬を連れて歩く白髪の老人がそばをのんびりと通過するのを、無愛想な目で追った。

「あの犬、寒そうにしてるわね。犬は喜んで庭を駆け回るんじゃなかったのかしら」

「そんなことはどうでもいい。早く続きを言ってくれ。これじゃあ俺は、餌の皿が目の前にあるのにずっと飼い主に『待て』と言われている犬のようだ」

「ふふ、変なたとえね。それなら私は今、あなたの飼い主ということになるわ」

 舞は塔弥の頭を、まるで犬を可愛がるかのようになでた。これにはさすがに腹が立った。

「いい加減にしろ」舞の手をはたいた。「話を続けてくれ。これはお前が言い出したことだろ。落とし前をちゃんとつけろ」

 舞が珍しく驚いたような顔をした。真剣さが少しは伝わったのだろうか。彼女は小さく鼻息を吐くと、こう言った。

「いいわ。教えてあげる。ただし、誰にも言わないこと。それは真由美のためであり、あなたのためでもある。いいわね?」

 塔弥は頷いた。

 舞の言い分はこうだ――真由美は自己嫌悪に陥っており、自身を卑しめ抑圧することで、精神的な安定を図っている。だが、その抑圧がかえって負担となり、彼女は苦しんでいる。今は耐えているが今後どうなるか予測がつかない。安定を失って「暴走」する可能性もある。塔弥がすべきは、真由美が自分を好きになるように仕向けることではなく、その「暴走」が起こった時にいかに対処するかを考えることである――。

 俄には信じ難かった。しかし、この前の久美の家でのことを思い出すと、そのような気もしてきた。人に気遣われるのがつらいと真由美は言った。それはつまり、低俗な自分のために労力を使ってもらうのは申し訳ない、ということの裏返しかもしれない。

 それならば助けてあげたい。彼女が苦しんでいるのに何もできないのは嫌だ。しかし舞は何もするなと言っている。苦しみの限界に達し暴れ出した時に、それを止めるだけでいいと彼女は言うのだ。  

 それでは手遅れではないのか。その上心配なのは、いつその「暴走」が起こるか分からないということだ。常に気を張って真由美と接していかねばならない。そして「暴走」が仮に起こった時、自分がその場にいるかどうかも分からない。

 塔弥は後悔した。こんなこと、知るべきではなかった。知らない方が気楽だった。真由美に直接本当かどうかを聞けるはずもない。仮に聞けたとしても、真由美が「私は自分が嫌い」など、言うはずがない。真相は永久に闇のままだ。

「これは誰にも言っちゃダメよ。もちろん、真由美にもね」 

 舞は最後に強く念押しして、薄暗くなった細道を歩き去っていった。

 しかし、なぜ舞だけがそれを知っているのだろう。塔弥はそれが疑問でならなかった。

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