理解

 大輔に頼んで、二人だけにしてもらった。

 大きなベッドのあるその部屋は、ダークトーンを基調とする落ち着いた印象のある空間だった。壁は茶色に染まり、真っ黒なカーテンは光の侵入を許すことがない。豆電球のような弱々しい明かりを放つ電灯だけが唯一、部屋全体の暗さを緩和している。

 天井に届きそうなほどの高さのある本棚には、分厚い書籍が所狭しと並んでいる。その多くは法律に関するものだ。久美が法学部であることを考えれば当然のことかもしれない。

「大丈夫か? 寒くないか?」塔弥は聞いた。

 気温は十度あるかないかといったところだ。冬の寒さである。その上、部屋は暖房が効いていない。エアコンはあるのに、リモコンがなかった。

「私は布団被ってるから平気。塔弥くんこそ、寒くない?」

「ああ、俺は大丈夫だ」

 本当はかなり寒かった。だが、自分の調子がよくないにも関わらず他人に気を遣ってくれる彼女の前で、弱音を吐くわけにはいかなかった。自分がしっかりしなければいけない。

「ごめんね……こんなことに巻き込んで。私のことはほっといて、戻ってくれていいよ」真由美は仰向けのまま、目を天井に向けて言った。

「何言ってるんだ。そんなことできるわけないだろ」

「……これは私のせいだから」

「そんなことはない。体調なんて、いつ崩れるか分からない。風邪を引くのは誰のせいでもない」

「違う。……風邪じゃないの」

「え?」

 まるで自分の体調不良の原因を知っているかのような言い方だ。どういうことかを尋ねようとしたが、真由美の目は半分ほど閉じかかっていた。まだあまり話せる状態ではないのだろうか。静かにしておくべきなのかもしれない。

「テキーラ」だが真由美は言った。か細い声だったが、話した。「私がチューハイ一口で頭痛くなるの、知ってるでしょ?」

 なるほど、そういうことか。塔弥は納得した。原因は、彼女のアルコールの弱さだ。

「気づかずに飲んだのか……」

「一口目飲んでみて美味しかったから、たくさん飲んじゃった。でもそばにある瓶を見てびっくりしたよ。それで気づいた時にはああなってた」

 真由美は咳き込んだ。その衝撃が頭に響くのか、彼女はこめかみを押さえた。

「だ、大丈夫か?」塔弥は慌てて真由美の肩を揺すった。

「……大丈夫だよ」

 真由美が小さく笑みを浮かべたので、塔弥はほっとした。

「俺が何もできなくてすまない。ああいう時に助けるのが彼氏の仕事だろうに……」

「自分を責めないで。塔弥くんは何も悪くない」

「ごめんよ。こうなったら、俺はしっかりそばについておく以外にない。ゆっくりここで寝ていような」

「うん」

 真由美は掛け布団を口元まで引き上げ、安らかに目を閉じた。

 とりあえず深刻な病気ではなかったことに、胸をなで下ろした。しかしこれが本当に重体であったとしたら、塔弥の対応は最悪だ。

これは反省すべきだと、強く心に誓った。

 寝ている真由美の顔を、覗き込むように見た。鼻はあまり高くないが、目が大きいのが塔弥は好きだった。よく見ると、まつげが長くきれいに整っているのが分かる。自然にできたものとは思えない端麗さに、つい見入ってしまった。

 すると、真由美がびっくりしたように突然目を開けた。塔弥は慌てて目を背けた。

「やっぱり」

 彼女はそう言うと、被っていた布団を引っぺがし、むくりと起き上がった。

 塔弥は混乱した。「え? 何がやっぱりなんだ?」

「ずっと寝させてもらうわけにもいかないし、今日はもう帰ろうかなと思う」

「何言ってる? 帰り道で倒れたりしたらどうする。もう少しここにいた方がいい。俺もずっとついてるから」

 真由美は塔弥を無視し、ベッドから降りようとした。

「やめておけって」彼女の肩を持って止めた。

「いいの」真由美はか弱い力で抵抗した。「お願い、行かせて」

「どうしてだ? 俺と一緒にいるのが嫌なのか?」

「そんなことない。……そんなことない」

「じゃあおとなしく寝ておいた方がいいって。な」

 塔弥は少し強い力で真由美を押し、寝かそうとした。

 だが真由美は彼の手を振り払った。「いいでしょ。私の思うようにさせて」

「よくない。体調が悪いんだろ? 寝ているのがいいって」

「本当はね。でも嫌なの」

「俺は真由美を心配して言ってるんだ。どうして分からない?」

「その気持ちは嬉しい。でもそれがつらい」

「ちょっと待て。人が心配してるのにつらいって何だよ。何でそんな風に言われないといけないんだ?」

「もうやめて。これ以上言わないで。おかしくなりそう」

「おかしくなりそうなのはこっちだ。何で分かってくれないのかが分からない。そんなに帰りたがらなくったっていいじゃないか。そんなにこのベッドが嫌か? それなら――」

「違うっ。みんなに迷惑かけてるのが嫌なのっ」

 塔弥は思わず仰け反った。真由美の怒鳴り声に、心臓を突き刺されたかのようだった。

 真由美は顔が見えないくらいにうずくまった。胸に手を当て、乱れた呼吸を整えていた。彼女がここまで取り乱すことはまずない。自分でもどう制御したらいいのか分からないといった様子だ。

 塔弥の胸は、とげに触れたように痛んだ。悪いことを言った自覚はなかったが、怒鳴られたことがあまりに辛く、心に応えた。

 彼女はしばらくして顔を上げた。長い髪を掻き分けると、硬さの残る顔がそこにはあった。怒りの感情は、そこからはもう感じられなくなっていた。

「みんなに気を遣わせたり、迷惑をかけてることがつらい」

 真由美は言った。声は随分と落ち着いたものだった。

「真由美……」

「ごめんね、大きな声出しちゃって。塔弥くんは何も悪くないのに。でもこれだけは分かって欲しい。ここに寝ていたら久美にも迷惑だし、塔弥くんにも迷惑がかかる。他のみんなもきっと私のことを心配して、時折様子を見に来てくれたり、お茶を持ってきてくれたりしてくれるに違いない。みんな優しい人たちだから」

 真由美は涙ぐんでいた。服の袖で、それを拭った。

「でも」彼女は声を震わせた。「私には、それが耐えられない。みんなが私なんかのために色々とやってくれるのが、申し訳なくて仕方がないの。だけど私はこういう性格。その優しさを、いつも断り切れない」

 人に親切にされることが申し訳ないなんて。塔弥は彼女の気遣いの甚だしさを感じた。

「だからいつも好意を受けては、申し訳なさで押しつぶされそうになってた。でも今ここで帰れば、誰にも迷惑をかけないで済む。誰にも気を遣ってもらわなくて済むの」

「……そんな風に思ってたのは知らなかった。頭ごなしに注意してしまったな。……もう言わないよ」

「分かってくれてありがとう」

 真由美は赤くなった目を閉じて、小さく口角を上げた。

「……やっぱり、行くのか?」

 真由美はその質問には答えなかった。ゆっくりベッドを出て、ふらふらと歩いた。

 彼女の意志はもう揺るがない。こうなったら塔弥にできることは一つだった。彼は大輔がしたように、彼女の歩行を助けた。真由美が鼻を啜るのを耳元で聞きながら、引きずるように足を動かしていった。

 随分早く戻ってきたことに大輔は驚いたが、真由美が帰りたがっていると言うと、すんなりと理解してくれた。

「俺が真由美を送ろう」

 車で来ていた大輔がそう言った。

 だが迷惑をかけたくない真由美は断った。一人で帰ると言った。

 大輔は強く反対したが、当然のことだ。真由美の状況を考えれば誰だって反対するだろう。しかし真由美が何度も主張するので、彼は結局折れた。

 真由美は危なっかしくふらつきながら、一人久美の家を去って行った。塔弥は心配になったが、真由美の意志を尊重できたことはよかったと安んじた。

「塔弥、何かあったのか?」大輔が首を傾げながら言った。

「大丈夫だ。とにかく、あまり心配しないであげてくれ」

「そうか……。まあ……分かった。塔弥がそう言うなら、これ以上追求はしない」

「ありがとう」

 大輔は物分かりがいいと、塔弥は感心した。

 部屋では、弘毅がソファに仰向けになって気持ちよさそうに寝ていた。塔弥は部屋中を見渡したが、彼以外の姿がないことに気づいた。

「久美と沙絵花は?」塔弥は大輔に尋ねた。

「沙絵花は、さっき急用ができたって言って帰ったぞ。久美は……トイレじゃないか?」

「ふうん、そうか……」

 そのあと、リビングルームの中央で胡座をかいて大輔と話をしていると、久美が戻ってきた。彼女は部屋に入ると、一直線にこちらへ向かってきた。どこか真剣な面持ちだった。

「塔弥、キスはおうちでしっとりだからね」

 彼女は唐突にそう言った。塔弥は反応に困った。

「ああ……」

 これ以外の言葉は口をつかなかった。

 彼女はそれだけ言って、くるりと向きを変えた。弘毅の元へ向かったと思うと、彼の額をはたいた。

「いって……。何すんだよ?」

「昼夜逆転は体に毒。昼寝はリスクになっても薬にはならないよ」

「まったく。昼寝中毒の俺が今一番夢中なことだってのに……」

 以降、久美に特に変な様子はなかったが、あの発言は何だったのだろうと、塔弥はこの日思案し続けた。

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