ことのはじまり
「うん、久美はばっちりだ。今の感じで本番も頼む。問題は
大輔は右膝をカーペットの上につき、台本を片手にそう言った。ワイシャツの袖が、肘の上まで捲し上げられている。彼が真剣な証だ。
文句をつけられた弘毅は肩をすくめた。「素面の若者にしか見えない? だったら日本酒でも持ってきてくれ。酔っちまえば文句もないだろ?」
大輔は呆れた表情を浮かべた。台本を細く丸めて弘毅に向けた。
「馬鹿か。本番でそんなことができるか? お前は演技が上手いんだから、ちゃんとやってくれ」
「分かってるよ。だがな、猿が落ちるのは木が滑るからだ。俺も衣装に身を包めば本領を発揮できる。この服じゃあ、できることもできないな」
弘毅はそう言って、パーカーの裾をぱたぱたと閃かせた。灰色の一見普通の服だが、明らかに彼の体に合わない大きすぎるサイズだ。
大輔は項垂れ、眉間を指でつまんだ。そして、大きくため息をついた。かなり参っている様子である。
「でもね、弘毅」
そう言ったのは、久美だ。彼女は被っていた男性用のカツラを剥ぎ取った。その下から、毛先をてっぺんにまとめ上げた茶色い髪が現れた。
「弘法は筆を選ばないんだよ。どんなものを使っても自分の力を出せる。それができないんだったら、弘毅もまだまだだね」彼女は言った。
弘毅が鼻で笑った。「でもよ、久美。その弘法も筆を誤る。毛先がぼさぼさの筆を選んだら、さすがの名人も書けない。違うか?」
「だったらそれは自業自得だね」久美は即答した。
「自業自得?」
「うん。失敗したのは、滑る木を登ろうと思った猿が悪いし、ぼさぼさの筆を選んだ弘法が悪い。だから演技に身が入らないのは、衣装を用意しなかった弘毅に落ち度がある。違う?」
「あっはは。そう言われちゃあ仕方ない。そうだな、俺が悪かったよ。久美には毎度敵わないな、まったく」
「弘毅もやればできるんだから、しっかりやろうね。よし、じゃあもう一回やろっか」
久美と弘毅は、同じ場面の演技を再び行った。弘毅の演技の質は、一度目とは比べものにならないほどに上がっていた。わざと下手に行っていたのではないかと、思わされるほどだった。
十一月三十日。本番まで一ヶ月を切っている今日、久美の家で稽古を行っている。
塔弥は、大型トラックを五台は収容できそうなリビングルームで練習する三人を、ダイニングルームから眺めていた。楽しそうだったので一緒にやりたいと思ったが、彼にはやることがあった。それは、演劇に使う道具の材料を考えることだ。彼は小さな丸テーブルの上にメモ帳を広げ、頭を悩ませているところだった。
「塔弥くん」
塔弥は呼ばれ、振り向いた。
背後に立っていたのは、真由美だった。大きな皿をお腹の前に持っている。載っているのはピザだ。彼女の黒く長い髪は、今にもそれに触れそうになっている。
「ちょっとだけ手伝ってもらってもいいかな?」真由美は言った。
「分かった。何をしたらいい?」
「全員分のお皿とグラスを出してくれたら嬉しいな」
「任せてくれ」
塔弥は立ち上がり、台所へ向かった。
ダイニングの、横幅が三メートルはあろうかという大きな木のテーブルの上に、皿とグラスを並べた。中央にはピザを置いた。頭上ではシャンデリアが煌々としており、テーブル全体を暖かい色で包み込んでいる。
「飲み物は?」塔弥は聞いた。
真由美は椅子を丁寧に整理している。
「今買いに行ってくれてるよ。他にもいろいろとあったらいいかなと思って、食べ物も頼んでおいたよ」
誰に、と言いかけた塔弥だったが、それは一目瞭然だった。
「
「私も行こうとしたけど、頑なに断られちゃった」真由美は舌端を見せた。
「あいつはいつもそうだ。自分で決めたことを曲げない。意地だけはあるもんな」
真由美は動きを止めた。「それは、褒めてるの?」
「微妙なところかな。意志が強い点は羨ましいくらいだが、たまに行きすぎるところがある。悪く言えば柔軟性がない」
真由美は釈然としない表情を浮かべた。友達を悪く言われたことに、気を害したのかもしれない。
「……とまあ言ってみたけど、一人で買いに行ってくれる辺り、結局はいいやつってことだがな」塔弥はすかさず言い直した。
「そうだね。ほんとに」
あっさりとした返答だった。
しばらくして、大輔らが練習を終えやって来た。眉を開いた大輔の表情から、練習の内容に満足していることが窺えた。彼らは台本をテーブルの上に置き、椅子に腰掛けた。
座るなり、弘毅が塔弥を指差して満面の笑みを浮かべた。
「おい、見ろよ。塔弥のやつ、彼女にぴったりくっついてやがる。いいかみんな、あれが触れ合いってもんだ」
塔弥は体が火照ったように熱くなるのを感じた。
「やめろよ、そういうこと言うの」テーブルに手をついて声を荒げた。
「二人にアドバイスだ。手は繋いでも、電話は繋ぐな。どういうことか分かるか?」弘毅は言った。実に楽しそうである。
「さあ、分からん」塔弥は考えもせず即答した。早く話題を逸らしたかった。
「長電話になるから電話はするなってことだよ。電話代と時間の浪費になるからな。浪費するくらいなら放屁しておけ。その方が電話よりよっぽどウンが上がるぜ」
そう言って、弘毅は大きく口を開けて笑った。
彼の隣で久美が顔をしかめた。「それはちょっと汚いアドバイスだね。二人には相応しくないよ」
弘毅はぴたりと笑うのをやめた。「ほう、じゃあ久美のを聞かせてもらおうか」
「私? そんなの簡単だよ。キスはおうちでしっとり。これが私からのアドバイス」
「ほほう、それはどういう意味かな?」
「外でキスはしない方がいいよってこと。誰かが嫉妬するかもしれないでしょ。お家でシットダウンしてやれば、注意もいらないね」
弘毅は納得のいかない様子で首を傾げた。「キスってのは、下品という意味で汚いんじゃないか?」
「それはいいでしょ。弘毅の下の話とは違って、私のは上の方なんだから。上だから、上品なアドバイスだよ」
「それはどうかな。シットには、くそっていう意味もある。シットにダウンは、下に下を合わせたようなもんだ」
「そうだよ。舌に舌だから、要するにキスのこと」
「はは、なるほど。それは面白い。それじゃあ、『おうちで』っていうのは、口の外じゃあ物足りないから内まで入り込んで――」
「二人とも、もういいだろ。話が汚い」
塔弥は我慢できずに言った。
久美は申し訳なさそうに謝ったが、弘毅は全く悪びれている様子もなかった。彼は堂々と腕を組み、椅子にもたれて掛かっていた。
「まったくお前らは……」
塔弥はため息をついた。横を振り向くと、真由美が肩をすぼめて立っていた。体が少し震えているように見える。
「真由美、大丈夫か?」軽く彼女の肩をさすった。
「うん、平気。その……ちょっと動揺しただけ」
「そうか、汚い話が嫌だったんだな。あまりあの二人の話は聞かない方がいい」
塔弥は真由美を椅子に座らせ、軽く背中をなでながら様子を窺った。彼女の顔は少し赤らんでいたが、体の震えはしばらくすると治まった。
下品な話を生理的に受けつけない者もいるのだ。それなのに、よくなんの躊躇いもなくあんな話ができるものだと、塔弥は呆れた。
弘毅と久美はとても仲がいい。しかし、仲良しすぎるあまり、今のようにエスカレートしてしまうのが問題だ。周囲に害がなければいいのだが、そうはいかない。彼らの奔放な言葉に密かに傷ついてきた人を、塔弥は何人も知っていた。
その弘毅と久美は、今度はひそひそと話し始めた。会話の内容は聞こえないが、時折腹を抱えて笑うところからして、またくだらない話をしているのだろう。
「ところで塔弥」大輔がテーブルに片肘をつきながら言った。「舞台道具はどれくらい必要になりそうだ?」
「まだおおざっぱにしか分かってないが、一応要りそうなものは、メモに書き起こしてある。何か他にあったら言ってくれ」
「おう、ありがとう。雑用なのにすまないな」
大輔が軽く頭を下げた。軽い礼なのに、今の塔弥にはかなり慇懃な謝礼に感じられた。
「演技の方は順調か? さっき練習を見てたんだが、やや苦戦してそうだな」塔弥は言った。
「まずまずだ。主役の久美はいつも通り、完璧な演技を見せてくれてる」
抜群の演技力が買われ、久美は主役に抜擢されたのだった。
「弘毅は……うまいが、アドリブを入れてくるのが難だ。酔っ払いのじいさんの役だから台詞通りに演じる方が不自然だ、なんて言い出しやがった。あいつはいい気分でやってるが、周りが迷惑することを分かってない。あいつも〝きっかけ〟の重要性を、理解していないわけじゃないと思うんだが……」
大輔は椅子にもたれかかった。大きなため息をついて両手で頭を何度も叩いた。
塔弥は苦笑した。「……ご苦労様。リーダーはいろいろと大変なんだな」
「まあな。塔弥や真由美はきっちり従ってくれるから、ありがたいよ。演劇部も二人のおかげで上手くいってた部分はある」
大輔はそう言うと、視線を部屋の中に泳がせ始めた。
「ところで、沙絵花はどこ行った? さっきから見てないんだが」
「沙絵ちゃんなら、買い出しに行ってくれてるよ」
塔弥が言うより早く、真由美がそう言った。彼女は背中をなで続ける塔弥に目配せをした。もう大丈夫だよ、ということだろう。
大輔はズボンのポケットから茶色の長財布を取り出し、中身を漁り始めた。千円札を何枚か抜き取ると、それをテーブルの上に置いた。
「これ、沙絵花に渡しておいてくれ」
大輔はそう言うと、腰を重そうに上げた。
「さあ、次は久美と真由美の稽古といくか。二人とも、準備はできてるな」
真由美は頷き、久美は弘毅とまだまだ話し足りないという様子で不承不承立ち上がった。三人は台本を手に、リビングの奥へと行った。
塔弥と二人になった途端、弘毅はテーブルのそばにあるソファへうつ伏せに寝転がった。四人掛けの大きなもので、いかにも高級品と言わんばかりに黒光りしている。
「このソファ、最高。一人暮らしでこの環境はずるいよな、久美のやつ」
久美の屋敷のような大きな家に、弘毅はいつも憧れていた。
「俺も金持ちに生まれてたら……」
「生まれてたら?」
塔弥は、どうせくだらないことに金を使うんだろ、と思った。
「イッショウを買う」弘毅は言った。
「イッショウ? 人生か?」
「いいや、笑いだ。一つの笑い」
弘毅は起き上がり、今度はソファの肘に座った。
「そしてその『一笑』で一生は買える。だから金で後者を買う必要はない」
何を言っているのか理解出来なかった塔弥は、弘毅の目の前に移動し、中腰になって聞いた。
「どういう意味だ?」
「笑う門にはなんちゃら、っていうのがあるだろ。笑ってりゃ、幸運が舞い込んでくる」
「それで人生が買えるって?」
「人生じゃあない。一生が買える」
「その二つは何がどう違う?」
弘毅はソファの革を優しくこすった。「このソファには、一生はあるが人生はない。そういうこと」
要するに、人の命か否かということだろうか。塔弥は分からないままソファに腰掛けた。
「笑うってのはつぼみの開きのことも指す。開花は一生の始まり。だから、一笑で一生を買える」
「……すまん。ちょっと分からん」
「理解はいらない。感覚だ。肌で感じればいい。まあ、俺は理解してるからこの通り、ぶかぶかのパーカーで肌を覆っても大丈夫なわけだが」
弘毅はパーカーのフードを被り、手を袖の中へ隠した。ますます彼が何がしたいのか分からない塔弥だった。
「ところで、沙絵花はどうした?」弘毅は言った。
またそれか。なぜひとこと言ってから出なかったんだと、塔弥は少しうんざりした。
「買い物だよ」
「ふうん。いつ出た?」
「さあ……そういえば知らないな。軽く一時間くらい経ってるんじゃないか?」
「へえ、そりゃ大変だ。きっと迷子だな。沙絵花は脳が単細胞だから、一度来た道を帰る能があるかどうか。答えはノーだ。せいぜい知ってる方角といえば、ノースぐらい。北だけに、来た道を帰れると思ったら大間違いだ」
弘毅がそう言った、まさにその時だった。玄関の方から、よいしょ、という大きな声が聞こえてきた。
「おっと、これは見当違い。馬鹿なりに健闘したようだな」
「迎えに行ってやるか」
玄関に行くと、沙絵花が大きなビニール袋を胸の前に抱いて、必死に靴を脱ごうとしていた。行く前にツインテールだった髪は、なぜか右側だけほどかれていた。額に大粒の汗をつけ、白い息を絶え間なく吐いている様子から、一苦労あったことがうかがえる。
「ふう、ただいま。買ってきたよ」
彼女は袋を勢いよく降ろした。陶器がぶつかるような音がした。
「お疲れ。ありがとうな」
塔弥は袋を持ち上げようとした。軽く持ち上がると思ったが、抱えてみて驚いた。かなり重いのだ。優に十キロはあるだろう。これを一人で運べば、汗だくになるのも当然だと思った。
「何でこんなに重いんだ?」
塔弥は中身を確認した。茶色の瓶がたくさん入っていた。
「テキーラだよ」
沙絵花は満足げに、着ていたセーターを脱ぎ捨てた。
「何でこんなにいっぱいあるんだ?」
「一人二本飲むかなと思って。えへへ」
正真正銘の馬鹿なのかもしれない、と塔弥は思った。瓶には七百ミリリットルと書かれている。そんなものを二本も飲めば、酔っ払うどころではない。
「沙絵花、テキーラはビールやチューハイみたいに、一度にたくさん飲むものじゃない。アルコール度数がはるかに高いからな」
「え? そうなの?」
弘毅が笑った。「てきーりそう思ってたみたいだな」
「それから、真由美に食べ物も頼まれてなかったか?」
「あ……」
沙絵花は口を大きく開けた。忘れていたようだ。
「まあいい。買ってきてくれたのは感謝する。お代は大輔が立て替えてくれるから」
部屋に戻り、瓶を一本だけ開けてグラスに注いだ。真由美たちはまだ稽古中のようだ。塔弥たち三人は冷めたピザを分け、立ったまま乾杯をした。
「劇の方はいい感じ?」
沙絵花はそう言って、手を扇子代わりに顔の前ではためかせた。部屋は暖房が効いていて、今の彼女には暑すぎるのだろう。
「まずまずだって、大輔は言ってたな」塔弥は言った。
「よかった。えっと……ジュウヤ、だっけ?」
「二つ少ない。『十二夜』だ」
「ああ、そうだった。台本読ませてもらったけど、よく分からなかったなあ。戯曲って難しいよね。台詞しかないから、場面がイメージしにくいもん」
「そうだな。小説に慣れてしまったら、戯曲を読むのは難しく感じるかもしれないな。だけど、すぐに分かるようになる。慣れてしまえばむしろ、台詞のみの方が想像の自由さがある分、面白く感じてくるよ」
「そっか。ついでに聞くけど、何で『十二夜』を選んだの? あたしが知ってるシェイクスピアは『ハムレット』と『リア王』だけなんだけど、その『十二夜』っていうのは有名なの?」
「俺たちが劇をやるのはクリスマス・イブだろ? 沙絵花の知ってる二つの作品は、どっちも悲劇っていうジャンルなんだ。簡単に言うと、主人公が死ぬ」
沙絵花は、ええっ、と言って口元を手で覆った。やや過剰な反応にも見えたが、おそらく本当に驚いているのだろう。
「まあそれで、イブに人が死ぬ劇をやるのはどうかってことで、目を付けたのが喜劇だ。喜劇は分かるな? 楽しい劇のことだ。そして喜劇の中でもシェイクスピアの『十二夜』は、群を抜いて面白い」
「なるほど。イブだから楽しいことをやろうっていうことね」
「そういうこと」
塔弥は分かってもらえたことで、ほっと一息ついた。彼女への説明は、五歳児に教えるようにするのがコツだと、彼は心得ていた。
沙絵花は、人手不足を埋めてくれた大事な助っ人だ。道具作りの手伝いや衣装の作製、会場の工面、照明や音響の管理などを担当する。役者が演技に集中するには欠かせない存在である。
だが演劇に関しては、ずぶの素人だ。彼女に用語がほとんど通じず、メンバーはかなり手を焼いた。「戯曲って、オーケストラの曲のことだと思ってた」と言う始末で、弘毅はよく彼女を馬鹿にしていた。
ところが、その弘毅も舌を巻いたのが、彼女が一週間で十人全員の衣装を作り上げたことだった。要望以上の仕上がりで、隠れて見えない部分にもボタンやポケットをつけたりなど、工夫を凝らしていた。「馬鹿でもこんなことをする力がある。これが本当の馬鹿力だ」と、弘毅も珍しく評価したのだった。
彼女は、今日は遊びに来ただけだ。グラスを置くと、稽古をする真由美たちの方へ駆け寄り、大輔の隣に彼と同じように片膝をついて座った。そして、久美と真由美が台詞を言う度に小さく拍手をした。実に楽しそうだった。
「まるでカラスみたいだな」弘毅が嘲るように言った。
「カラス?」
弘毅はピザを皿に置き、脂ぎった親指を舐めた。「そう。言葉を操れても台詞を繰れないようでは、まるで口の生る木だ。喧しいだけ。そういうやつは、一度火がつくとたちまち燥ぎ立てる阿呆。つまり、そうやって鳴くカラスと同じだ」
塔弥にはさっぱり意味が分からなかった。しかし、どこか論理的
であるような気もした。
稽古が終わったのは、それからしばらく経った頃だった。
「少々ピッチを上げていかないとダメそうだな」
大輔は少し渋い表情でそう言った。個々の演技は問題ないが、全体の繋がりがよくないということらしい。
「大輔の言う通り。ピッチを上げていかないとな」
弘毅が賛同した。彼はグラスにテキーラを注いで久美に渡すと、「久美だけはピッチを上げていくなよ」と言った。
久美はきょとんとした。「え、何で私だけ?」
「だって、お前の役は男装が必要だ。声は低くしないと」
「ああ、なるほど」
久美は机に置かれた弘毅のグラスに、自分のを当てた。
「低音のピッチなら任せてよね。こう見えて、ピッチピチの女子大生。タルトの崇拝者だけど、アルトの声域は健在だよ」
弘毅は顎に手を当てた。「ほほう、タルトにアルト……。そしてその崇拝っていう部分には『カルト』も掛かっているのか。これは面白い」
「そう。ついでにタルトには塩もかかってる」
「あっはっは。なるほど、こりゃ一本取られたな」
「そして潮は鳴門がいいよね」
「これまたうまい」
二人は面白おかしく、顎を上げて笑った。
どこまでも変わらない二人だなと思いながらも、塔弥はどことなく寂しい気持ちを抱きつつあった。演劇が終われば彼らとも会わなくなってしまうのだろう。そうなれば、もうこの馬鹿げた会話も聞くことができないのだ。そう考えた時、彼らの言葉が、ただのくだらない冗談には聞こえなくなっていた。もっと一瞬一瞬を噛み締めて生きよと諭してくれるような、意味のある言葉に感じられた。
二人の笑い声をかき消すように、大きな音が鳴った。音源は、テーブルに伏せて置かれているスマートフォンだ。音と同時に起こる振動が、机に置かれたグラスの水面に波紋を生んでいる。
どうやら沙絵花のものだったようだ。彼女は画面を確認した。だがすぐには出ず、着信音を響かせながら部屋を出ていった。
玄関の扉が閉まる音がした。沙絵花は外に出たのだ。わざわざ寒い外へ出る必要もないだろうに、と塔弥は思った。
と、その時だった。
「おい、どうしたっ」大輔が突然大声を上げた。
塔弥は勢いよく振り返った。目に入ってきた光景に瞠目した。
真由美が床に崩れ落ちているのだ。
「何があったんだっ」
塔弥は彼女に駆け寄り、背中を優しく叩いた。床に両手をつきひどく咳き込む彼女を見て、発作か何かかと直感的に思った。だがこんな経験は初めてだ。次に何をしていいのか分からなかった。
塔弥が迷っている間に、大輔はすでに動いていた。どこからか持ってきた毛布を真由美の肩に掛けると、ゆっくりと立たせた。
「久美、ベッドはあるか?」落ち着いた様子で彼は聞いた。
「二階の私の部屋に」
「よし。真由美、歩けるか?」
「なんとか……」
大輔は真由美の腕を自分の肩に回し、ドアの方へゆっくりと歩を進めた。時折バランスを崩しながらも、彼はしっかりと真由美を支えた。部屋を出ると、廊下の途中にある階段を上っていった。
あっという間であった。塔弥は二人が消えていったドアの向こうの空間を、ただぼんやりと見つめていた。彼は終始、大輔の素早い対応を、口を開けて見守るだけだった。
不意に情けない気持ちが芽生えた。そこから一秒も経たないうちに、塔弥の足は床を蹴っていた。走って二人を追いかけた。今更手伝おうなど遅すぎる話だが、何もしないのでは面目が立たない。行くより他はなかった。
部屋を出て廊下まで来た時、ちょうど沙絵花が玄関から戻ってくるところだった。
階段の手前で彼女とすれ違った。塔弥は駆け抜け様に彼女の顔を一瞥した。塔弥のことを見もしないその目は、抜け殻のごとく虚ろなものだった。
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