第2話 簡単すぎる御曹司
シャワーを浴びて、髪を乾かし、トレーニング中はまとめていた髪をゆるく巻いて、すっぴん風ナチュラルメイクをしっかりとほどこす。
薄いピンク色のフレンチネイル、ふわふわの白いワンピースに、ベージュのコート。
今日も完璧。どこからどう見ても、ゆるふわ系女子に擬態できたわね。
ジムの更衣室の鏡を見てほほえんでから、スマホの時計を見る。
もうすぐ午後七時、......そろそろ、ね。
私の調査によると大きな仕事も飲み会もない日の金曜、例の残念御曹司九条慎吾が七時に上がる確率は、70パーセント。
さあ、いよいよね。
目指せ!セレブ妻!
待ってなさい!御曹司!
知り合いはいなくても人がちらほらいる更衣室だから叫べないけど、気合は十分よ。
心の中でこっそり気合いを入れてから、さもそこら辺にいそうなゆるふわ系に擬態した顔で、私はジムを出た。
毎日のように通るエントランスで、九条慎吾を待ち伏せすること十分。その間知り合いに会っても隠れたり適当に言い訳しながら過ごしていると、ようやくお目当ての人物がやってきた。
「慎吾さん、おつかれさまです~。今おかえりなんですか? 偶然ですね~。私もなんです~」
身長もそこそこ高いし、よく見れば顔もキュートな部類と言えないこともないけど、三分話すと残念ぶりが露呈すると言われている残念御曹司。その仕事ぶりには似つかわしくなく、スーツと腕時計はいつも高級ブランド。
黙っていればいくらでも女はよってきそうなものなのに、それでも女が寄り付かないのもある意味才能ね。
私にはとっては、好都合でしかないけれど。残念な三男御曹司なんて、超優良物件を狙わずにいられるわけがないじゃない。
残念御曹司によそゆきの笑顔でふんわり微笑み、小さく頭を下げる。
「あ、おつかれさまです。櫛田さん」
残念御曹司九条慎吾は、人の良さそうな笑顔でニコニコ笑っている。それにつられて、ついこっちも毒気を抜かれそうになってしまいそうだけど、ここからはもう決して気は抜けない。勝負はすでに始まっているのよ。
「真由です~」
「え?」
「ま・ゆ、です」
あくまで表面上はゆるふわ女子、だけど内側から押しの強さを醸し出した笑顔をはりつけたまま、残念御曹司をじっと見つめる。
「......え、真由、さん?」
困惑していた様子だった御曹司だったけど、ついに根負けしたように苦笑いを見せた。
残念御曹司に名前を呼ばせることに成功して満足した私はよそゆきの笑顔をはりつけ、さっそく本題に入ることにする。
「慎吾さん、先日はありがとうございました。
とても楽しい時間を過ごさせて頂きました。
でも、慎吾さんとはあんまりお話できなくて残念でした。私、もっと慎吾さんとお話してみたいと思ってたんですよ~」
実は先週の金曜、受付嬢のネットワークを駆使して、九条慎吾も含めた何人かで飲み会をした。ついでに、グループで連絡先も交換済み。さらに言うと、まわりに九条慎吾狙いだとも、すでに言ってある。
狙っている相手が仕事関係の場合、周囲への対応は慎重になるべきだけど、本気の場合は別。逆に、早めに周囲へ知らせて、敵を潰すべし。
失敗した場合は職場に居ずらくなる場合もあるから諸刃の剣だけど、ここは背水の陣よ。
敵を追い込む前に、自らも追い込む。
絶対に失敗はできない。いいえ、しないわ。絶対に、セレブ妻への道を切り開くのよ。
「え? 本当ですか?」
「やだ~、嘘なんてつきませんよ~。本当です」
九条慎吾はやっぱり戸惑っているみたいだったけど、まんざらでもなさそう。
よしよし、もう一押しね。
「このあとって、何か予定とかありますか?
せっかくお会いできたんだし、よかったらお食事でもいきません?」
偶然じゃなく、おもいっきり待ち伏せしてたけど、ね。餌を待ち構える、毒蜘蛛のように罠を張り巡らせながらも、さも何も知らない純真な女のようにふんわりとほほえむ。
「......え、あ、はい、ぜひ」
はにかみながらも嬉しそうな御曹司に、心の中でガッツポーズをする。
気の早いことに、セレブ妻よっしゃあ!と叫びだしたい気持ちでいっぱいだったけど、まだ第一段階をクリアしたに過ぎない。
我慢我慢、こらえるのよ真由。
「真由さんは、今日は車でこられましたか?」
「いえ、電車です」
「そうですか。自分は車できたので、一緒にいきましょう」
「いいんですか?申し訳ないです~」
御曹司の車......。ということは、あそこにいくのね。
九条慎吾の後をついて、何度かいったことのあるビル地下の駐車場へと向かう。
九条慎吾がマイカーを地下2階に止めたということだけど、ビルで働いている社員専用のこの階は、まあ見事に高級車ばかりだった。
さすが年収1000万2000万超えがゴロゴロいるといわれているだけある。
ここの駐車場の車全部売ったら、総額いくらくらいするんでしょう。考えるだけでも、顔がにやけちゃう。
「......どうぞ?」
高級車の中のひとつ、もちろん高級車である黒い車の助手席を開けられ、いつものゆるふわスマイルを作る。
こんな高級車にごく当たり前のように手をかけるなんて、全くセレブっていうやつは、これだから......
もうっ! 最高ね!
「ありがとうございます~。これが慎吾さんの車ですか?
私、車のことはよく分からないんですけど、素敵な車ですね~。失礼します~」
高級車、失礼しま~す!
中は片付いていて、飾りなどは何も置かれていなかった。そして、さすが高級車なだけあって、座り心地もいい。
跳び跳ねたい気持ちを抑えながら、さっとシートベルトをつける。
御曹司の高級車に乗り、御曹司の運転で、御曹司が何回かきたことあるというセレブなイタリアンレストランに連れてこられ、なんだかセレブっぽいものが出てきた時にはもう笑いをこらえるのに必死だった。
九条慎吾と結婚したら、毎日のようにこんなに素晴らしいものが食べられるのね。
なんとしても九条慎吾をゲットするべく、まずは無難に職場の話題をふったあと、核心をつく話題を持ち出した。
「ところで~、慎吾さんは今彼女とかいらっしゃるんですか?」
「いません」
「え~、そうなんですか~? 意外~。慎吾さんって優しいし素敵だから、モテそうなのに~」
「そんな全然ですよ。昔からモテなくって。彼女が出来てもすぐフラれますし、はは……」
九条慎吾に彼女がいないことはすでに調査済みだけど、あえて知らなかった振りをしつつ持ち上げてあげると、九条慎吾は謙遜しつつもまんざらでもなさそうな顔をしている。
よしよし、ここまでは順調ね。
「そんなことないと思いますよ~。言い出せないだけで、慎吾さんのことを想っている女性はたくさんいると思いますよ?
あ、慎吾さんはどんな女性がタイプなんですか?」
「う~ん……、タイプというのはとくに……。三回目が合えば好きになりそうになるし、三回デートすれば結婚を考えてしまいますし……。単純なんですよね」
ええ……、さすがにそれは簡単すぎない?
人の良さそうな笑顔を浮かべている九条慎吾に思わず素でツッコミを入れそうになってしまったけど、なんとかこらえる。
ほんとに噂通りの残念御曹司ね。残念というか、お人好しというか、間抜けというか、簡単というか......。
でも、それなら私にもチャンスがあるってことよね。
「純粋なんですね。じゃあ私もあと二回デートしたら、結婚を考えてもらえるのかな。ふふ」
「え?それは、どういう......、あ、じょ、冗談ですよね。すみません、本気にしちゃって」
ちょっと揺さぶりをかけただけで、面白いくらいの慌てっぷり。
「もしかしたら本気かもしれないですよ? 私が本気だって言ったら、困ります?」
「ええ……、もう……、からかわないでくださいよ」
さっきまで見ていてこっちが恐縮してしまうくらい品よく食べていたのに、急に音を立て始めた。
このくらいで動揺してどうするよ。
本気の私の攻めはこんなものじゃないわよ?
あまりにも純粋な九条慎吾が少し可哀想になりつつも、攻撃の手を休めようとはこれっぽっちも思わなかった。
「今までの彼女さんには申し訳ないけど、慎吾さんを振るなんて相手に見る目がないんだと思いますよ。慎吾さんはこんなに優しくてかっこいいのに」
よそゆきの笑顔を浮かべながら、テーブルの下の九条慎吾の足に、わざと自分の足をぶつける。
「あ、ごめんなさい」
「いえ......」
「私だったら、そんなことしないのに」
だめ押しとばかりに上目遣いで見つめると、残念御曹司はついに固まってしまった。
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