10

 小包の宛名は木根塚老人だった。差出人は書かれていない。全く心当たりのない荷物である。

 そもそも、老人宛てに何かが届くこと自体が珍しかった。長男や長女が、またお節介を焼いて不要な代物でも送りつけてきたのかしらんと、彼は考えた。彼に宛てた小包が届く理由といえば、それぐらいしか思いつかなかった。

 ダイニングテーブルに小包を置き、開封しようとガムテープを剥がす。

 と、次の瞬間、何かが身体にぶつかってきた。同時に巨大なクラッカーでも持ち込んだような破裂音が、室内の空気を震わせた。

 気付けば老人は、フローリングに横倒しになっていた。もっとも、柔らかい何かに包まれているため、どこにも痛みはない。彼はセーターに顔を埋めていた。やがて、自分が何に包まれているのか、理解できた。

「離さんか」そう言って、一方的に身体を引き剥がした。焦げた臭いが鼻を突く。空気がいささか煙たくもある。テーブルに置いた小包は跡形もなかった。何が起きたのか、考えるまでもなかった。

 老人は呆然とした。自分の遭遇した出来事も去ることながら、ようやくといった態で起き上がるユイの姿が、彼の口から言葉を奪った。

「お怪我はありませんか?」アンドロは事もなげに言った。彼女の左手の指のほとんどは、あらぬ方向を向いているか、すっかり吹き飛んでいた。「すぐに後片付けを」

「まずはその手をどうにかするのが先だろう」老人は呻くように言った。

「作業に支障はありません。片手が使えれば充分です」

 ユイは箒を取って戻ってきた。

「くれぐれも」と、彼女は散らばった残骸を掃き集めながら言った。「このことは、御子息には内密になさってください」


 捨てられた手紙にせよ、小包の一件にせよ、国家の英雄として順風満帆に生きているかに見える次男が、何事かの悩みを抱えているのは間違いなかった。しかし木根塚老人は、それらのことに関して、次男を問い質す気にはなれなかった。息子ももう立派な大人であり、己の問題は己で解決すべきだ。そこに親が口を出すべきではない。彼はそう考えた。

 何も知らずに帰宅した次男は、ユイの左手に巻かれた包帯を見ると「どうしたの」と笑った。老人は口を開きかけたが、ユイの「何でもありません」という言葉がそれを阻んだ。

 その晩は、諸々の後処理が重なったため、夕飯が遅くなった。NHKニュースは終わり、老人の嫌いなバラエティーが流れていた。老人は手元の端末をタップし、チャンネルを変える。いつもならTVを消している時間である。どんな番組があるかもわからない。

 ザッピングしていると、あるチャンネルで歌番組が流れていた。ポップソングの歌手が出ているようなのではなく、クラシックのコンサートである。

 何の気はなしに、老人は端末から手を引いた。ピアノとヴァイオリンの協奏曲が食卓を満たした。演奏が終わり、拍手が起こる。続いてステージに登場したのは、天使を思わせる白い衣装に身を包んだ少年合唱団だった。

 少年たちが歌い出すのと同時に箸が転がった。老人の、ではない。向かいに座る次男が落としたのだ。

「変えてくれ……」呟くような声がした。それから、「チャンネルを変えてくれ!」

 叫ぶなり、次男は耳を塞いだ。老人は呆気に取られ、端末に手を伸ばすことすら忘れた。少年たちは歌い続ける。皆、一糸乱れず口を動かしている。

 椅子が倒れた。次男が耳を塞いだまま、居間を出て行った。

「おい……」

 逃げるような息子の背中が見えなくなってから、老人はようやく声を発した。我ながら滑稽だった。そんな彼の横を、ユイが通り抜ける。

「どこへ行く」

「ここはわたしにお任せ下さい」

「あいつに何をする気だ」

 ユイは答えず、行こうとする。老人は、包帯が巻かれた彼女の手を掴んだ。

「お前はいつも、あいつの部屋で何をしている」

 ユイは目を伏せた。その表情を見た途端、老人は立ち眩みを覚えた。いつも感じる目眩とは何かが違う気がした。老人の力が緩んだ隙に、ユイの左手はするりと抜けた。

「わたしにお任せ下さい」もう一度言って、彼女は二階へ上がっていった。

 一人取り残された老人は、目頭を揉んだ。瞼を閉じても尚、先程のユイの表情が頭から離れなかった。或いはそれは、脳裡に焼き付いたばかりの光景ではないのかもしれない。

 少年たちの合唱は、まだ続いていた。

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