木根塚老人の家に西部戦線の英雄が暮らしているという噂は、徐々に広がっているらしかった。郵便受けに入っていたという手紙を見て、老人はそれを実感した。差出人は遠方の知らない街の、知らない誰かだった。日に一通ずつ届いていたのが三通になり、五通になり、ついには束で投函されるようになった。封筒は質素なものから派手な色合いのものまで様々で、大勢の人間の想いが集まってきているのだということを老人に実感させた。

 賑やかになったのは郵便受けだけではない。呼び鈴を鳴らす者も増えた。大抵は色紙を抱えた〈ファン〉を名乗る人々と、名刺を手にしたマスコミの人間だった。初めは自ら応対に出ていた老人も、あまりの数にうんざりし始め、不本意ながらもユイにその役を任せるようになった。出した命令は〈とにかく追い返せ〉というものだった。

 来訪者の中で特に酷いのになると、勝手に庭まで入り込んでくる者があった。若い女のグループだった。彼女らは、そこがさも自分の土地であるかのうような顔でズカズカ歩いて来て、老人に次男の所在を訊ねてきた。あまりにそれが当たり前のような態度だったので、老人は怒りを通り越し呆然としてしまった。そして卒倒し掛けた。寸でのところで踏みとどまった彼は、次男はここにはいないと嘘を呟くことが精一杯だった。その晩からしばらくの間、あの娘たちのふざけた面を形がわからなくなるほど潰して、二度と庭へ立ち入れぬよう脚を切り落としてやればよかったと布団の中で歯噛みした。

 そんな苦労などどこ吹く風、次男は悠々と毎日を送っていた。朝は十一時に起きて、ユイに作らせた飯を食べる。食事が済めば、ソファーに寝転び酒を呑み煙草を吸いながらTVで映画を眺める。午睡の後、老人と顔を突き合わせて夕飯を食べる。夕食を作るのは、やはりユイだった。庭の一件以来、コンビニ弁当を突いていた木根塚老人であったが、目の前でユイの飯を次男が食べる様子を見ていると、心と身体が二つに割けた。やがてなし崩し的に、ユイに自分の分の食事も用意させるようになった。彼女の作る味噌汁は、やはり身体に沁みた。ただ、全面的に降伏したと思われるのも癪なので、朝食は相変わらず自分で作り続けた。

 食事の後は晩酌となる。老人が風呂に入り、早々に寝支度を整えても、次男はまだソファーで酒を舐めていた。酌をするのはユイだった。そんな二人に背を向けて、老人は自分の部屋へ引き下がる。

 布団に入っていると、二人分の足音が階段を上がっていくのが聞こえることもあった。そうなると、ただでさえ眠れなかったのが、いよいよ眠れなくなった。暗い天井を見上げながら老人は、二階の部屋の様子を思い描かずにはいられなかった。最近のアンドロは外見だけでなく〈中身〉まで精巧に作られている、というネットニュースの記事が、頭の中にチラついた。煩悶の末に朝を迎えると、ユイは元通り充電椅子に鎮座し、次男は何食わぬ様子で昼ごろ降りてきた。変哲のない日々を繰り返す中で、老人の心だけが着実に、シーツに皺が寄るように乱れていった。


「その後、次男坊は元気か?」

 更に思わしくない結果を聞かされた定期検診の後、佐藤医師の口から次男の話題が出た。木根塚老人はうんざりした気持ちを隠さなかった。

「サインなら直接本人に頼め」

「サインをくれとは言わん。だが、優しくしてやれ」

 老人は眉を顰めた。画面の向こうの友人は、煙草を吹かしながら続ける。

「家にいる時ぐらい、〈英雄〉から解放してやれと言ってるんだ。その方がお互いのためになる。今、お前の家にいるのは〈お前の息子〉か?」

「馬鹿な息子のせいで体調を崩している」

「本当にそうか? お前が毎日見てるのは〈西部戦線の英雄〉なんじゃないか?」

 老人は黙る。

「肩の力を抜けよ」と、佐藤医師が言った。「次男坊も変わったのだろうが、お前も随分と変わったんだ。もう一回、楽な気持ちで接してみろ。どれだけでかくなっても、息子は息子だ」

 最後に、近々病院へ来るよう釘を刺されて通話は終わった。老人は目頭を揉んで、腰を上げた。

 居間に次男の姿はなかった。出掛けたようである。老人は鼻をかみ、丸めたティッシュを屑籠へ放った。だが、上手く入らない。舌打ちし、ゴミを拾いに行く。改めて入れようとしたところで、屑籠に捨てられているゴミが目に付いた。

 封筒のようである。それも、一通ではない。何通分も、それこそ束になって届いたもの全てが、封も切られずそのまま捨てられているようである。

 老人は屑籠に腕を突っ込み、捨てられた封筒を一つ引き抜いた。充電椅子に座るユイが目を瞑っているのを確かめてから、念のため背を向け、音を立てぬよう注意しつつ開封した。中には便箋が一枚入っていた。綺麗に折り畳まれたそれを、多少の後ろめたさを覚えながら広げてみる。

『忘れると思うな』

 便箋の真ん中に、ただそれだけ書かれていた。角張った手書きの字はしばらくの間、老人の意識を掴んで離さなかった。後ろの充電椅子でユイが開いた目を伏せていることなど、思いもよらぬほどに。

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